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【IWJブログ】安倍総理が閣議での解釈改憲を国会で明言 〜「裏口」からの解釈改憲を元「法の番人」が痛烈批判
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/126105
2/21 22:30 IWJ Independent Web Journal
卑劣漢は常に不意をつく。
雪害で苦しむ地域では今、空き巣が横行しているという。「火事場泥棒」ならぬ「雪害泥棒」である。許しがたい話である。
だが、この国の中心では、五輪と豪雪に国民の注目がひきつけられている合い間に、そんな「こそ泥」がちっぽけにみえるような、壮大な「窃盗」が行われようとしている。
憲法の、その中心部の「解釈」が盗まれようとしているのである。
「閣議決定して案が決まったら、国会で議論いただく」――。
安倍総理は2月20日の午前10時、衆院予算委員会で、民主党の岡田克也議員の質問に答えて、集団的自衛権の行使を容認するため、閣議決定で憲法の解釈を変更すると明言した。憲法解釈を一内閣の閣議で変えてしまうというのだ。憲法改正の手続きを踏まえずに、事実上、憲法改正(改悪)してしまおうという「暴挙」である。
「(憲法解釈の)最高責任者は私だ」と安倍総理が2月12日に予算委員会で発言したことについて、岡田氏はこの日、「傲慢な印象を与えたと思うが、一人で憲法解釈を変更できると考えているのか」と質問した。
安倍総理は、「私は『たった1人で決めて良い』とは、今まで言ったことはないわけです。国民の理解も大切です」と釈明しつつも、「閣議決定で初めて完全に確定する。その後、国会で議論いただくことになる」との手順を示した。国会での議論を回避し、閣議決定して既成事実化してしまおうというのである。さらに、解釈改憲に合わせて自衛隊法の改正にも着手するとも明言した。
(2月20日、衆院予算委員会 国会中継アーカイブ http://bit.ly/1gl35AW )
記事目次
「解釈改憲は極めて不当」
憲法 9条1項は日本国憲法特有ではない。
日本に許された「武力行使」の条件とは
集団的自衛権の誕生秘話
戦争は常に「集団的自衛権」の名のもとに行われる
「保持」しているのに「行使」できないことに矛盾はない
集団的自衛権が行使できる憲法9条に意味はない
元「法の番人」が語る、これまでの憲法9条の議論とその意味
■「解釈改憲は極めて不当」
奇しくもこの日の午後、参議院議員会館では、安倍政権の暴走に懸念を抱く超党派の国会議員らが、元内閣法制局長官・阪田雅裕氏を行使に招いて、「第一回 集団的自衛権を考える超党派の議員と市民の勉強会」を開催した。
「解釈改憲による『集団的自衛権』の行使の本質は、最悪の場合、国民が戦うということです。そんな重要なことを、一内閣が解釈を変更するだけで決定できるのであれば、法治国家の根幹に関わる問題です」
講師として基調講演を行った阪田氏は、午前中に行われた安倍総理の国会答弁を耳にしていたのかもしれない。冷静ではあるが、いつにも増して踏み込んだ口調でそう訴えた。
内閣法制局とは、閣議に付される法律案や政令案などを、審査し、意見し、修正を加えることで内閣を補佐する機関だ。「法の番人」とも呼ばれており、法案が憲法に違反していないかどうかなども厳格にチェックする。集団的自衛権についても、日本は「保持」してはいるが、憲法上、「行使」はできない、という解釈を貫いてきた。
かつて、その内閣法制局のトップを務めたのが阪田氏である。阪田氏はこの日の勉強会で、開口一番、「私は平和主義がとても大事だとか、憲法9条が貴重だとか、そういうことを申し上げるつもりはありません」と断りを入れた。
「時代は変わっているし、もしかすると、一部の方がおっしゃっているように、憲法9条が時代遅れなのかもしれないとも思います。もしそうであれば、是非、(正当な手続きにのっとって)憲法を改正していただきたい。解釈で国の形を変えるのは極めて不当です」
■憲法 9条1項は日本国憲法特有ではない。
憲法9条の条文を引用する。
第二章 戦争の放棄
第9条
1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
そもそも憲法9条とは、どのような性格を持つ条項なのか。阪田氏の話は、基本中の基本から始まった。
「9条1項は国際紛争の解決のための武力行使を禁じていますが、日本国憲法特有ではありません」と阪田氏は解説する。
「世界でも、10ヶ国以上の憲法の中に、9条1項のようなことは書いてあります。さらに、160ヶ国近くの国の憲法で『我が国は平和主義でやっていく』と書かれています。国際社会は基本的に平和を目指しているんです」
特異なのは9条の2項であって、これに類した条文は、少なくとも先進国の世界にない、と阪田氏はいう。
「(9条2項では)戦力を保持せず、交戦権を認めないと書かれています。『戦力をもたない』というのが『肝』です。これまで政府は、戦力、実力組織を持たないというのに、なぜ自衛隊の存在が許されるのか、というところで苦労してきました。しかし、戦力ではないからこそ、外国で戦争をすることができないのだ、と申し上げ続けているんです。
憲法は9条だけでできているわけではない。例えば13条では国民の『幸福追求権』を保障していますし、前文では『平和的生存権』を保障しています。それは、国が守らなければいけない。外国の軍隊が襲ってきたとき、どうするのか。国は指を加えてみているのか。憲法はそういうことを求めているのか。しっかりと国民の命、身体、財産を守らなければ、国としての務めを果たしていることになりません。
だから国民を護るための必要最小限度の実力、組織を持つことは『戦力を持つことではない』ということを申し上げてきたのです」
憲法9条を掲げる日本でも、外国軍による日本への侵略といった、「急迫不正の侵害」があれば、「個別的自衛権」を発動し、対応できるというのがこれまでの憲法解釈である。自衛のためには、それで事は足りるはずである。日本という国を守るには、個別的自衛権で十分であり、集団的自衛権は不要なのである。
■日本に許された「武力行使」の条件とは
軍隊ではないからこそ、自衛隊が実力行使に至る場面というのは厳密に限られている。
阪田氏が指摘したように、自衛隊による武力行使は、「外国軍隊による日本への攻撃」が大前提となっている。しかし、その場合でさえ、すぐに実力行使できるわけではなく、「他に適当な手段がない場合」に限られる。
「現に、我が国の考え方では、竹島は不法占拠されているが、それでも武力行使しないのは、他に手段があると考えているからでしょう。他の手段とは、外交交渉や国際司法裁判所など、実力以外のもので解決をするということです」
つまり、自衛隊が実力行使を開始する要件は、「日本への武力攻撃の発生」と、「そうした脅威を排除するために適当な手段がない場合」の2つである。
そして、その実力行使は「最小限」にとどまる必要がある。外国がたまたま攻めてきたことに乗じて、逆に外国を攻め、占領する、などということはできないというのが政府の憲法解釈だ。国民の安全が確保されれば、すぐに武力行使をやめなければならない。阪田氏によれば、これらが日本に許された「武力行使」の条件だ。
「自衛隊は日本国民を守るための『最小限』の実力組織であること。そして武力行使に及ぶ場面でも、武力行使は『最小限』にとどまること。この2つの最小限を多少緩和すれば、集団的自衛権を行使できるのではないか、という議論がある。しかし、いくら緩めてもなかなかそうはならない」
そう阪田氏は釘を指し、この「必要最低限」という言葉を頭に置いておいて欲しい、と語った。
■集団的自衛権の誕生秘話
国際法上、戦争は基本的に「違法」だと考えられており、許されているのは、自国が外国からの侵略を実力で排除する、「個別的自衛権」である。では、「集団的自衛権」とは何か。
第一次大戦後に結ばれた不戦条約(1928年署名、1929年発効)によって戦争が「違法化」されながらも第二次世界大戦が起こってしまった反省から、「国連憲章体制」が整備され、国際的に違法な侵略行為には、国連加盟国が一致協力して制裁する取り決めがなされた。
「集団的自衛権の行使」は、国連憲章51 条で定められている。「集団的自衛権は、個別的自衛権と違って、国連憲章ができるまで誰も知らなかった概念」と阪田氏は説明する。
なぜ、こういうフレーズが入ったのか。これは当時、南米諸国が米国の覇権に対抗するため「地域同盟条約」を結んでいたが、国連憲章は、「地域同盟条約」に基づく防衛行動、軍事行動は、安保理の許可なしには発動できないと定めていた。これに南米諸国が反発し、国連憲章の締結が危うくなったという経緯があった。この軋轢を解決するため、ある種の「妥協の産物」として「集団的自衛権」という概念が定められたのだという。
■戦争は常に「集団的自衛権」の名のもとに行われる
ここまでの話を整理すると、現在、国際法上、許される武力行使は、「自国の防衛」を別にすれば、「集団的自衛権しかない」ということになる。
それ以外の例外は、「集団安全保障措置」だけだという。これは、国連安全保障理事会が決議した、湾岸戦争のような「制裁戦争」のことである。91年、イラクによるクウェート侵攻は、当時、世界の平和に対して脅威を与えるものと国連で決議された。その上で、国連軍の代わりに多国籍軍が編成され、制裁戦争に及んだ。この「集団安全保障措置」を除くと、集団的自衛権の行使以外で、各国の軍隊が武力行使することは、一切、許されていない。
阪田氏はこうした背景を説明し、「これは米国軍、イギリス軍、ロシア軍、中国軍、すべて一緒です。国際法に違反する軍事行動はとれない。国際法でできる戦争は集団的自衛権の行使しかないんです。なのに、仮に戦力ではない日本の自衛隊が、集団的自衛権を行使できるとすれば、自衛隊はもう戦力そのものではありませんか」と述べ、自衛隊の集団的自衛権の行使には欺瞞があると述べた。
■「保持」しているのに「行使」できないことに矛盾はない
「集団的自衛権を保持しているのに行使できないのはおかしい」という議論もある。しかし、それは「国際法上許されている」というだけで、「国際法上できることを国家が全部やらなければいけない」というわけではない。国際法上できることをどこまでやるのかを決めるのは主権者である国民であって、その国の法律である。
「例えばオーストリアは、憲法で、外国と軍事同盟を結ぶことを許していません。軍事同盟は、どの主権国家にも許されていて、日本にも日米安保があるが、オーストリアは『永世中立』を謳い、憲法で軍事同盟を禁じています。
核だってそうです。今はIAEA(国際原子力機関)などがあるからそうはいかないけど、かつて国際法上、核の軍事利用が禁止されていたわけではありません。国家として核兵器を持つことは可能であったが、我が国は原子力基本法を作り、核は平和利用しかしない、と国民の意志で決めたんです」
このように、国際法上許されていることを、国家が必ずしもやらなければいけないわけではない。この点を阪田氏は繰り返し強調した。
■集団的自衛権が行使できる憲法9条に意味はない
「私は、『憲法9条の解釈を変えて、集団的自衛権を行使できるようにしよう』という意見は、大変不当であると申し上げたい」
阪田氏は、集団的自衛権が行使できるようになれば、少なくとも憲法9条は意味がなくなる、と危機感を示す。
「憲法98条2項で、『国際法は守れ』と書いてあります。国際法で今、許されている戦争は『集団的自衛権の行使』しかありませんから、米国のベトナム戦争も、ソ連のチェコ侵攻も、外国に行って戦争するときには『集団的自衛権の行使だ』と言って、戦争してきました。そう言わない限り戦争できない、武力の行使ができない仕組みになっているからです。
つまり、憲法98条第2項によって国際法を守るのであれば、例え憲法9条があってもなくても、集団的自衛権を超える戦争はできないんです。
では、憲法9条には何が書いてあるのかということになります。憲法9条のもとで集団的自衛権の行使ができることになれば、憲法9条がなくなるということです。つまり憲法の第2章が丸削りになってしまう。
憲法は三つの基本原理があります。『国民主権』、『基本的人権の尊重』、『平和主義』。その平和主義が世界標準だというのであれば、ここまで仰々しく掲げますか? 憲法9条をどう読めば、『集団的自衛権の行使』ができて、普通の国と同じ実力組織を持つことができるというふうに読むことができるんでしょうか」
■元「法の番人」が語る、これまでの憲法9条の議論とその意味
「『時代は変わったんだから』、『安全保障環境が厳しくなったから』。それはそうかもしれません。でも、それは我が国の政策はどうあるべきかという議論をすべきであって、『憲法9条をどう読むか』の問題ではないんです」
最後に阪田氏は「憲法9条」がこれまでどのような議論をされてきたかを振り返り、時の政権によって、勝手な解釈改憲がなされれば、取り返しのつかない事態を迎えると警鐘を鳴らす。
「憲法9条の議論は、ずっと積み重ねられてきました。『自衛隊は合憲だ』、『他国の軍とは違う』、あの場合はどうだ、この場合はどうだ、という重箱の隅をつつくような議論をしてきました。ある意味では風雪に耐えて、検証を重ね、磨き上げられた解釈です。これまでの間、論理に破綻をきたすことなく――破綻をきたしているというという人もいますが――私たちの立場としては、整合的に、一貫して、とらえてきました。
それが、実は全部違っていたというのであれば、いつでも前に言ったことは否定できることになりますよね。『あれは違っていたんだ』と。
私が何よりも言いたいのは、これは、『国の形が大きく変わる』ということです。いい悪いは別として、自衛隊が海外で戦争するとすれば、イラク戦争のときのように、自衛隊員に戦死者が出ないという保証はまったくありません。自衛隊の銃砲で外国の将兵を傷つけることも起こりうる。国民全体として大きな覚悟がいる話だと思います。
ですから、覚悟の程を示してもらうことも重要でしょう。憲法の改正は幸いにして国民投票が必要です。でも政府が解釈でやるのであれば、国民の出番もありません。これでは覚悟の示しようもありません。
解釈改憲による『集団的自衛権』の行使の本質は、最悪の場合、国民が戦うということです。そんな重要なことを、一内閣が解釈を変更するだけで決定できるのであれば、法治国家の根幹に関わる問題です。改憲賛成、反対という立場を超え、立憲主義、法治国家を護るという観点から声を上げていただきたいと思います」
冒頭の繰り返しになるが、安倍総理には、「こそ泥」のようなマネはやめてもらいたいと、声を大にして言いたいと思う。
憲法の改正が必要だというなら、国民的な議論にかけるべきである。個別的自衛権の発動で国は守れるというのに、なぜ、解釈改憲してまで集団的自衛権の行使が必要なのか、正面から国民に説明し、説得を試みるべきだ。国民の大方の合意が得られるような合理的な説明ができれば、正当な手続きにのっとり、憲法の改正にすすめばいい。
近隣諸国との間の外交的緊張を自ら高めて、あたかも「集団的自衛権の行使容認」がなければ、国を自衛できないかのごとき「空気」を醸成し、裏口から憲法の「解釈」を盗みとり、中身をすりかえるような「愚挙」は断じて慎むべきである。 (取材:原佑介 文責:岩上安身)
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