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『ネトウヨ化する日本 暴走する共感とネット時代の「新中間大衆」』村上裕一・著/KADOKAWA/中経出版
大雪に見舞われた都知事選投票日。投票率は過去3番目に低い46.1%だった。猪瀬前都知事の辞職で降って湧いた感のある選挙。いまいち政策議論が盛り上がらなかったのが低投票率の理由ではないだろうか。本書は、ネット技術革新が人々の政治的行動にどのような影響を与えたかについて書かれた社会評論。アニメなどのサブカルチャーに関する言及も多い。ある種の批評に慣れている人以外には読み辛い本かもしれないが、怪作だ。
エキサイトレビュー 2014年2月14日 11時00分 (2014年2月15日 22時57分 更新)
ライター情報:HK(吉岡命・遠藤譲)
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20140214/E1392318134378.html
2014年東京都知事選は、おおかたの予想どおり舛添要一の大勝に終わった。
いまいち盛り上がりに欠けた感のある選挙ではあったが、投票の結果を受けて、ひとりの候補者が注目を浴びている。
産經新聞から「これはもう善戦どころではない」と評された田母神俊雄だ。(2月12日朝刊「産經抄」)
約61万票(全体の約12%)を獲得した元航空幕僚長の特筆すべき点は、なんといっても若い世代からの支持である。
朝日新聞の出口調査によると、20代では得票率約24%で第2位。また30代でも約17%で第3位となり元首相細川護煕を上回った。
票を伸ばした理由のひとつに、ネットを中心として愛国的あるいは右翼的な発言をする人々の支持を集めたことが想像される。
「ネット右翼」や「ネット保守」などと呼ばれる彼ら。私は昨年「反韓デモ」を取材したが、過激な言動とは裏腹に、その実態は職業右翼らとはかけ離れた「普通の人々」であった。
しかし取材を通しても、彼らの心情は私には分からなかった。
『ネトウヨ化する日本 暴走する共感とネット時代の「新中間大衆」』は、ネット社会のなかで現代日本人の精神がいかに変容したかを論じる社会評論である。
著者の村上裕一は84年生まれの若手批評家。「東浩紀のゼロアカ道場」出身者であり、サブカルチャーやネットカルチャーに詳しい。
著者が用いる「ネトウヨ」という語は、ネット右翼の略称というだけではない。本書を読むと、それはインターネットのひとつの傾向、現象のことを指していると考えられる。
以下、それを便宜上「ネトウヨ現象」と記すことにする。
ネトウヨ現象とインターネットとの関係を分析する序章から4章の前半。
ここでは、2ちゃんねるとニコニコ動画が大きくとりあげられる。また、支持政党を持たない浮動票の存在と、ネトウヨ現象への潜在的参加者層を重ね合わせて「フロート」という概念が導入される。
フロートとはネット時代で新たに生まれた大衆のことである。
彼らは真偽を見定めてネットの情報を受け入れるのではない。「臨場感」を匿名の他者と共有することを重要視する。ネトウヨ現象は、情報の検証が困難な環境が生み出す混乱の一つのバリエーションであると著者は言う。
そもそも、ネットに関わらず、情報の真偽を確かめることは簡単ではない。
たとえば「オバケを見た」というような単なる錯覚であっても、自分で直接体験したものには真実味がある。
極端に言えば、伝聞形式の情報でも、あたかも自分が体験したかのような感覚、つまり「臨場感」があるかないかで、情報の真偽を決定しているのである。
言うまでもなく、インターネットにおける動画技術の進歩は、情報の臨場感の向上に一役かった。
マスメディアが自主規制で報じない過激な動画もある。当然、そこには政治的なものも存在する。
ニコニコ動画に関して言えば、それらは「政治タグ」が付けられ、ネットワークを形成している。著者曰く「ニコニコ動画の政治タグでは、ほとんど全てが保守的ないしは右翼的主張にあふれています」。
政治系の動画はしばしば「敵」を設定する。
「敵」は不正を行っているという前提があるから、それを攻撃する側には「正義」が宿る。
動画のなかの人々は、視聴者と変わらない格好をした一般人ばかり。それはまさに等身大の「正義」だ。
次第に、反感を持った視聴者は離れ、共感した視聴者のみが継続して動画に集まるようになる。結果、共感的なコメントばかりが画面を被う。
こうして、ネトウヨ現象へと向かう空気が醸成されるである。
このように、ネット技術の発展と受容する人々の分析を行う本書。だが、読み進むに連れて議論は難解になっていく。
「反・反日デモ」などを定期的に行う「行動する保守」の代表格である在特会と、ネトウヨ現象の精神的起源について言及する4章後半。
在特会の勢力拡大については、安田浩一の『ネットと愛国』などを引用しながら解説している。
1930年代に「伝統回帰」を掲げた文学思想である日本浪漫派。著者はそこにネトウヨ現象との類異性を見出して論じる。ここで読者は、近現代の思想についてかなりの事前知識を要求されることになる。
最終的に現代のサブカルチャーのなかから、ネット普及時代に現れる新たな想像力の可能性を模索する5章。
『AIR』『CLANNAD』などの美少女ゲーム、『涼宮ハルヒの憂鬱』『けいおん!』『魔法少女まどか☆マギカ』などのアニメ作品がとりあげられる。また、愛好家たちにより共同生産的に発展したニコニコ動画発の『カゲロウデイズ』および『カゲロウプロジェクト』も扱われている。
これらのコンテンツに精通していないと、読み解くのは容易ではない。
もっとも、序章から「セカイ系決断主義」のような専門用語が登場するので、本書を精読したいと思ったら巻末の参考文献にある図書を読むしかないだろう。少なくとも、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』は必読である。
著者は、メディアを通じて情報をいかに受け取るかということを話題にしている点において、誠実な態度を貫いている。
好奇心、あるいは使命感に突き動かされたようなジャーナリズムではない。
実際、私が著者に確認をとったところ、在特会のメンバーなどには直接取材をしておらず、既存の取材物を利用してそれを読み、執筆を行ったとのこと。また、在特会に対する認識は基本的に動画を中心としている。
取材対象と直に触れ合うことで、かえって見えにくくなるものがあることを私は知っている。
著者が挑戦しているのは、他者によって書かれたもの、表現されたものをいかにして読み解くか、ということである。
用意された社会を、受け入れるか否かではなく、精査し解釈すること。情報を真偽で判断する二元論的価値観は、しばしば本質的なものを見落としてしまう。
政治は私たちに決断を要求するが、本当は「逡巡」こそが必要なのではないか、と著者は述べている。
私は本書のいたるところに「逡巡」を感じた。
それは、サブカルチャーから政治的に開かれた議論を紡いでいく上での、技術的な難しさではない。
むしろ、現在20代から30代の世代が、社会に届くかたちで政治的な意思を示すことの難しさと似ている。
ネトウヨ現象よりも、フロートという概念に著者はこだわっているように思われる。そしてさらに言えばこの本は、フロートの一員たる一人の青年の戦い、そのものである。
本書の「おわりに」で著者は「筆者自身がネトウヨ的情報に親しんできたという自覚がある」と告白している。
「本書で取り上げられた情報の多くは、歴史的に振り返られたものと言うよりも、筆者が同時代的に体験してきたものだ。もし論の展開に曖昧さや飛躍が感じられたとすれば、そのような思い入れが入ってしまったせいである。ゆえに本書は、本質的な意味で他人ごとではなく、私の問題を扱っている。本書は、社会を観察しつつ、私の中のネトウヨを暴き出すために書かれている」
80年代生まれの私は、著者と同世代である。そして、本書でとりあげられるニコニコ動画の主な利用者も20代から30代である。
誤解をおそれずに言おう。
『ネトウヨ化する日本』は闘病記だ。それは彼の、私の物語である。
(HK 吉岡命・遠藤譲)
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