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小泉純一郎元首相(左)は大雪に見舞われた8日の選挙戦最終日も街頭演説に立ち、細川護煕氏とともに聴衆に手を振った =東京都新宿区(小野淳一撮影)(写真:産経新聞)
「小泉神話」崩壊のワケは?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140215-00000547-san-pol
産経新聞 2月15日(土)12時50分配信
9日投開票の東京都知事選は、元厚生労働相の舛添要一氏が210万票を集め、次点の元日弁連会長、宇都宮健児氏の倍を超える得票数で幕を閉じた。舛添氏の優勢は事前の情勢調査などで判明していたため、隠れた焦点は「脱原発候補」の宇都宮氏と元首相の細川護煕氏の得票数の合計が舛添氏を上回るかどうかだったが、舛添氏の得票数は両氏の合計をも上回った。小泉純一郎元首相とのコンビで臨んだ細川氏が、共産党などが推薦する宇都宮氏に「2着争い」でも敗れたことは衝撃的で、「小泉神話」の終焉(しゅうえん)をうかがわせた。
「残念な結果ですが、細川さんの奮闘に敬意を表します。これからも『原発ゼロ』の国造り目指して微力ですが努力を続けてまいります。御支援賜わりました皆様に心より厚く御礼申し上げます」
細川氏は9日夜、自らの落選が決まった際の記者会見で、小泉氏の自筆のコメントを紹介した。
当の細川氏は敗戦の理由として(1)出馬への逡巡(しゅんじゅん)に伴う準備不足(2)脱原発を争点とさせまいとする力が働いたこと−を挙げた上で、「街頭での熱気と結果との落差の大きさに改めて努力不足を痛感する」と語った。
だが、「脱原発を争点とさせまいとする力が働いた」というのは、被害妄想に近いのではないか。東京都は日本最大の電力の消費地ではあっても、都内に原発は存在しない。東京都は平成25年9月時点で東京電力の4番目の大株主ではあっても、持ち株比率は1・2%に過ぎない。産経新聞社が実施した出口調査でも、「原発・エネルギー問題」を最大の争点とする回答は2割強で、3位にとどまった。
そもそも、「脱原発」の争点設定に無理があることは、細川氏自身も気づいていたはずだ。細川氏は告示日の第一声で、演説の8割を「脱原発」に費やしたものの、街頭演説での脱原発論の比重を徐々に落としていった。2月2日には約2割にとどまったという。
小泉氏は「選挙期間中に応援に入るのは2、3回程度だろう」(自民党関係者)という当初の予測を裏切り、連日、細川氏の横に立って脱原発論を熱弁した。だが、両氏がメディアを席巻することもなく、「小泉劇場」は不発に終わった。
選挙が告示され選挙期間に突入すれば、メディアは各候補者を平等に報じるのが原則だ。「泡まつ候補」という例外はあるが、主要な立候補者の演説内容は、原稿の行数まできっちりそろえるのがセオリーとされる。国民的な人気が高い小泉氏がどんなに応援演説に立っても、新聞紙面やテレビ画面に登場するのは細川氏になってしまうわけだ。
細川氏が、小泉氏とのツーショットで出馬表明をした1月14日以降、知事選が告示される同23日までの間、両者が表だった動きをほとんど見せなかったことも、流れを引きつけられなかった一因だとみられる。小泉氏が、選挙期間が始まる告示日までの間に積極的にテレビ出演などをこなしてメディア露出を続ければ、違う展開はあったのかもしれない。
ある政府関係者は「細川氏は、小泉氏と2人で一緒に記者会見したときがピークだった。情勢調査の数値を見ても追い上げがなく、舛添氏との差は開いたので、都知事選自体に関心がなくなった」と語る。
細川氏は選挙戦で、手勢が少ない織田信長が大軍率いる今川義元を強襲した戦国時代の「桶狭間の合戦」を引き合いに出して、逆転を期す姿勢を強調した。今川義元が討ち取られたのは油断が原因だともされるが、高をくくっていたのは細川氏の方だった。
細川氏が街頭演説した会場は、「小泉効果」によって、どこでも黒山のような人だかりができ、集客力では他候補を圧倒。当の小泉氏は2月1日のツイッターで「今日の渋谷と新宿の街頭演説の人の多さと反応のよさにはびっくりした」とつぶやいた。だが、東急田園都市線とも接続するJR渋谷駅の利用者には神奈川県民も多い。JR新宿駅の利用者には神奈川県民や埼玉県民も少なからずおり、聴衆全員が都内在住の有権者ではない。しかも、細川氏が街頭演説をしたのは1日2〜3カ所。舛添氏の陣営から「やる気があるのか」と疑われたほどだった。
これに対し、舛添氏は1日十数カ所をこまめに回った。場所は都内のスーパーや百貨店、区民センターや神社周辺などが中心だ。1回あたりの聴衆は少なくても、対象は確実に有権者だ。自民、公明両党の組織的な支援も受けて、「地上戦」を制した。
ツイッターのフォロワー数を15日午前時点で比較すると、細川氏はわずか約3万人にとどまった。「客寄せパンダ」となるはずの小泉氏も約10万人だ。元航空幕僚長・田母神俊雄氏(約20万人)や舛添氏(約15万人)と比べて、はるかに少ない。フォロワーは都内在住の有権者に限られず、得票数の参考指標とはならないが、インターネットユーザーの関心が細川−小泉コンビにあまり注がれていなかったとはいえるだろう。
9日の投開票日に、神奈川県横須賀市内で小泉元首相と食事を共にした息子の進次郎復興政務官は、小泉氏の様子について「元気だった。『これからも原発ゼロで頑張る』と言っていた」と語った。小泉氏は今後も、講演などで脱原発を訴えていくとみられる。
だが、原発は春から夏にかけて再稼働が始まりそうな情勢だ。原発が再稼働した場合には、「原発ゼロ」という訴えの実現性がなくなる。その時に、小泉氏は「原発再稼働を取り消せ。ゼロにしろ」と訴え続けるのか、脱原発の運動自体をやめるのか。岐路に立たされるまでの時間はそう長くはない。(小田博士)
◇
“鳴り物入り”で出馬の細川元首相、なぜ伸びなかったのか 「脱原発」も具体策なし
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140215-00000539-san-pol
産経新聞 2月15日(土)11時27分配信
2月9日投開票された東京都知事選には、国民的人気を誇った元首相、小泉純一郎氏の支援で「原発即ゼロ」を旗印にした細川護煕氏が出馬、政治史上初の元首相の知事選挑戦に関心が集まった。だが「元首相連合」は約95万票で3位。当選した元厚生労働相の舛添要一氏(約211万票)の半分未満で、政治経験のない元日弁連会長の宇都宮健児氏(約98万票)にすら届かなかった。なぜ、元最高権力者は惨敗したのか。選挙戦現場から、改めて捉えてみたい。
■「原発以外は誰がやっても変わりない」
2月4日午後、JR蒲田駅前。強い風雨の中、細川氏は小泉氏の応援演説なしに1人で看板政策「原発即ゼロ」を訴えていた。
演説を聞いた60代女性は「細川氏に入れよう。原発ゼロは大事」とうなずく。ただ、こうも付け加えた。
「でも、具体策がちょっとないね…」
「どんな素晴らしいプランでも、誰が、何を、どういう方法で、どれだけのコストをかけ、いつまでにやるのか示す必要がある」。細川氏はこう語ったが、原発即ゼロ実現策の具体化は「専門家によるエネルギー戦略会議で」「首都大学東京で」と繰り返し、自然再生エネルギー比率の目標など大きな方向性も示さなかった。“同志”の小泉氏は「1人で代案を出せ、という方が無責任。代案は出さない」と言い放った。
有権者の関心は雇用や福祉に集中したが、細川氏は「原発の話は命に関わる」と強調するあまり、「荒っぽいが」と前置きしつつ、こう言い切ることもあった。「原発以外は誰がやっても変わりない。お金で解決できる」
脱原発を願うからこそ具体的処方箋を期待し、また身近な都政課題への手立ても求める有権者と、その複雑な期待の機微に気づかぬ細川氏。その溝は、最後まで埋まらなかった。
■街頭演説の大半は「午後からスタート」
陣営が自信を持っていたのは街頭での聴衆の数だ。
「動員していないのに7000人集まった」「きょうは1万人」。陣営幹部は街頭の熱気を強調した。確かに、聴衆の数は他候補を圧倒したかもしれない。
都知事選は「日本最大の小選挙区」とも言われる。島から山まで、62区市町村に散らばる約1080万人の有権者に、くまなく訴えを伝えなければならない。
だが、細川氏は渋谷駅前をはじめ、大きな駅前や繁華街ばかりを演説場所に選んだ。他候補が「殿様選挙だ」と皮肉ったように、大半の日は午後の始動で、午前中の演説は17日間で3回のみ。他候補が1日に10回以上こなす日もある中、終盤でも最大5回、総計で約50回にとどまり、23区も回りきれなかった。舛添氏は23区と多摩地域20市以上で、計130回を超えた。
「周辺の無関心な人にも届く工夫をしなければ」。宇都宮氏は、前回選の反省から今選挙戦でこう語っていた。群集の輪の外側から静かに耳を傾けるような、支持者以外の有権者を説得するには、細川氏の説明は丁寧さに欠けたといえる。
■浮世離れした「殿」の戦略 選対事務局長も交代
細川陣営の戦略には当初から、どこか“浮世離れ”した感覚があった。
「殿、出番です!」。細川氏が出馬の意向を小泉氏と示した翌日の1月15日。真っ黒な背景に細川、小泉両氏の写真とキャッチコピーだけをあしらったホームページが登場した。アドレスは「tokyo−tonosama.com」。開設を知らない関係者は報道機関に「偽物」と返答し、ドクター・中松氏は自身のホームページを「直参旗本、出番です!」と更新するなど、“いじられ”対象となる始末だった。
公示後に「殿、本番です!」に変える構想もあったとか。選対幹部は「アクセス数は上がった。成功」と語るが、“話題を集めただけ”ともいえる。
なぜなら肝心の政策掲載が、正式出馬会見の22日夜まで遅れたからだ。別の幹部は「発表を急ぐ必要はない」とし、細川氏は討論会を「めちゃくちゃな議論になる」などと拒否。有権者に何のメッセージもないまま1週間、「殿様」だけがさらされ続けた。満を持して出された政策も冒頭のように、多くの有権者を満足させたとは言い難かった。
ちぐはぐぶりは告示後も続き、選対スタッフは人ごとのように「警備が厳しく、なかなか有権者と握手できない」と愚痴る。「出遅れた候補」の必死さは感じられなかった。事務所には、空いた椅子も目立った。
空気が変わったのは1月28日。この日、選挙事務所を訪れた細川氏の妻、佳代子氏はこう口を開いた。
「新しい方と古い仲間、いろいろありましたが、一致団結し、きょうが選挙戦の出発です」
出馬表明を準備した「新しい方」の馬渡龍治・元自民党衆院議員が選対事務局長を解かれ、日本新党立ち上げから細川氏を支えた側近、金成洋治氏が後任に据えられたのだった。
海江田万里代表自身がポスター貼りなどの下請けを宣言した“組織的勝手連”の民主党への態度も二転三転した。都議らは当初「23区は間に合っている」と多摩地区だけ貼り出しを求められたが告示直前、23区にも要請が。それでも「団体支援お断り」の建前で事務所出入りが禁じられ、29日に細川氏が「出入りしていただければ」とようやく“許可”。元都議が連絡役に入るなどし始めた。
■豪華な応援弁士も“もったいない”扱いに
それでも、統率がとれたわけではなかった。
1月31日。細川氏は国会前での毎週金曜日の脱原発デモに現れた。主張と共感を伝える好機。だが、マイクなしで叫んだのみで、小泉氏と数分で退去した。話題化はされず、マイクで脱原発への思いを語っていた宇都宮氏との差が、引き立つばかりとなってしまった。
「もったいない。勝手連と、取り巻きとの間に溝があった」と語るのは民主都議。スピーカー音量が小さいとの指摘にすら、素早い反応がなかったという。「基本すらできていないのでは」とため息をついた。
応援弁士の処遇も“もったいない”ものだった。
菅原文太さん、瀬戸内寂聴さん、澤地久枝さん、湯川れい子さん、桜井勝延・福島県南相馬市長ら、そうそうたる面々がマイクを握ったが、細川氏とは別の選挙カー。本人は小泉氏と2人か、単身での演説にこだわった。理由は「おふたりの好み」(選対幹部)。だが劣勢が続き、2月に入って菅原さんらとも始めた。
名前と顔写真だけのポスターを「原発ゼロでオリンピックを」との文言入りへと貼り替えだしたのは、投票日直前の5日だった。
■「脱原発」候補一本化問題もしこり
舛添氏当確報道から約40分後の9日午後8時40分すぎ。細川氏は準備していたかのように紙を読み、敗戦の弁を語った。敗因は「脱原発が争点としてなかなか取り上げられなかった」。だが産経新聞の世論調査でも、脱原発など国政課題の争点化を「納得できる」としていた人は計6割超に上る。当日の複数の主要紙の見出しも「原発争点」とあり、細川氏の弁は“有権者が取り上げてくれなかった”とも聞こえた。
そもそも今回は「東京都」という一自治体の首長を決める選挙。出口調査で原発・エネルギー問題に関心を示した人でも、投票先は細川、宇都宮、舛添各氏などに分かれていた。
にも関わらず、細川氏が自身と宇都宮氏の票を「脱原発票」と規定したことで、ネット上などでは逆に、それ以外が「原発推進票」とみなされる事態も生んだ。当初は宇都宮氏支持だった識者らが“勝てる反原発候補”として、「細川氏一本化、宇都宮氏辞退」を求めた経緯も、双方の支持者間にしこりを残した。
9日夜、小泉氏は「『原発ゼロ』の国造り目指して努力を続ける」とのコメントを出した。が、ツイッターは「閉じさせていただきます」と止まったまま。細川氏のツイッターも14日現在、「選挙が終わった時から、今回一緒に立ちあがっていただいた志を同じくする方々と広く連携し、脱原発の活動をこれからも次の世代につなげていく」との敗戦の弁を紹介した10日のつぶやきが最後だ。
出馬決意にあたり「勝ち負けではない」と語ったという細川氏。その「大敗」が残したものは、大きい。
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