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2014年02月14日
安倍晋三にせよ、百田尚樹にせよ、長谷川三千代にせよ、在特会の連中にせよ、敗者の自虐史観をキープする忍耐の限界が来たような言動、その心情が判らないほど野暮な筆者ではない。韓国の異様な政治ロビー活動は目に余るし、“糞くらえ”と云う気分になるのは、誰しもである。中国の経済・軍事の抬頭と“愛国無罪”の価値判断にしても、あまりいい気になるなよ、と鬱陶しささえ感じるのも同様である。
ただ、筆者のように“鎖国準拠の日本”が理想だと考える立場の人間を除き、国際社会の中で経済的成長や繁栄を望むのであれば、厳然たる事実である「戦後世界の枠組み」に親和的な対応をしなければならないのは合理的思考の結論でもある。現時点では、「国際連合」と云うものは、第二次世界大戦の、主たる戦勝国が安保常任理事国の地位を独占し、常に拒否権と云う伝家の宝刀を有しているのだ。残念ながら、これが「戦後世界の枠組み」だと云う不愉快な事実は黙認せざるを得ない。この事実に目をつぶり、自虐な謝罪姿勢をキープすることに疲れ果て、“やってられない”と感情を爆発させても、何一つ得るものはないだろう。筆者とて、怒りを爆発させたいのは山々だが、得るものがなさ過ぎる。
自由市場の原理と金融資本主義が世界経済の主流だとするなら、国家と云う枠組みは、その輪郭を不鮮明なものにせざるを得なくなる。物理的国境の線引きは「人・モノ・金」を国内循環だけで動かすことになり、極めて不利な非合理な経済体制にならざるを得ない。国家を超えて「人・モノ・金」がダイナミックに動くことで、経済成長を生み出し、豊かな世界を作るのが正しいことだと思い込んで、グローバル経済は動いている。このグローバル経済は、国境を無視して動き回るベクトルを持っているので、国家と利益が常に一致するとは限らなくなっている。
国家よりも企業資本、グローバル企業が優越な地位を獲得する傾向は、先進国において顕著で、この流れは当分続きそうだ。ただ、企業は本質的に貢献すべき目標は利益の追求であって、国や国民に利益の再配分をする機能は備えていない。その為、これら企業は、所属する国家や国民が潤うかどうか、寸借する意思は本質的に持っていない。精々、納めた税金の範囲で、国家が考えてくれ、と云うものである。つまり、アベノミクスでいうところの、トリクルダウン現象は、納める税金分だけの義務ですよ、と言っている。しかし、このトリクルダウン効果は、途上国や資源国家の低賃金など生産コストを劇的に削減できる競争の中に注ぎ込まれる資金に化けることが多く、20世紀のような、企業の社員や労働者に回される配分は僅かにならざるを得ない。
このような企業が国家を凌駕する現象を是正しようと云う動きが、幾つかの国家が集合してブロック化することで、国家の力を温存しようとする動きに繋がる。その典型がユーロ圏であり、今まさに交渉たけなわのTPPなのである。しかし、これとても、苦肉の策であり、弥縫策と言っても構わない領域の話だ。ただ、苦肉の選択であっても、世界のグローバルの流れから抜け出し、独自の国家づくりに向かうには、欧米的価値観の転換をしない限り、その流れに身を任せ、なるようにしかならないと思考停止するしか選択はない。無論、「国際連合」と云う戦勝国の枠内で生きるという事でもある。
ところが、このような戦後の枠組み「国際連合」に則って拡大した、いわゆるグローバル経済は、上述のように国家と云う枠組みを企業が超えることを意味しているので、どうしても、この流れとは相いれない「国家の存在」と云う観念を明確なものにしたい欲求が生まれる。これが、現在わが国や中国、韓国で起きているナショナリズムの動きである。この論理的な矛盾現象は、物理的国境線のある国家の“政”を担う人々(政治家・官僚)」にとって、避けて通れない自己矛盾現象なのである。卑近な例を見てもわかる通り、思考の原点である「価値観」の問題をさて置いて、選挙で重視することは「介護・福祉、景気・雇用…」といった具合の要求に対し、「そう、その通り。だから、私に一票を」不可能な公約を背に、有権者に訴え、権力を握るのである。
21世紀の日本の政治家は、この自己矛盾(国家と企業益)の狭間で、嘘八百を語り、直面する企業からの具体的圧力に対応しながら、国民の要望には、「いずれ、いずれ恩恵は日本廿浦浦に届きます!」とアナウンスすることになる。安倍晋三にせよ、誰にせよ、そのような自らの願望(約束風)を国民に語る羽目になる。しかし、彼らの多くは、その願望(約束風)が実現できるとは思わないので、国民の視線をあらぬ方向に導きたい衝動に駆られる。これがナショナリズムと云う“空気”である。
このような整合性のない思考が、今の日本と云う国である。どういう皮肉の神がいたのかわからないが、その自己矛盾を起こしている国に、自己矛盾に気づくこともない安倍晋三と云う政治家に政権を任せた状態が、今の日本だ。アベノミクスの最大のテーマ、「第三の矢・規制改革」は言葉だけが、勇ましく先行してるが、官僚らの権益は守られるどころか、より強化されて具体化されていくに違いない。現存する既得権は温存して、新たなシステムを重ねるという事は、官僚らの天下り先を3重4重にするだけである。本気で規制改革に手をつける気のない霞が関は、悉く法案を骨抜きにするのは当然だ。
以上のように、戦後体制そのものが、戦勝国の論理で構成されている以上、敗戦国と指摘されている国々は、その間隙を縫う回り道で対抗するしかないのである。歴史認識などと云うものは、そもそも極めて個別の情緒によるところが多いもので、正解などないと考えるのが妥当だ。正解のない設問に、口角泡を飛ばしても、答えは出てこない。俗に言われる「小田原評定」になるのは自明である。黒田如水の織田か、毛利かの選択に似ている。しかし、官兵衛の時代の単純さでない21世紀の評定は容易なものではない。
同じ敗戦国であっても、ドイツの評定は、政治哲学が優越する。そもそも哲学も宗教も存在しないわが国の場合、寄る辺となる大黒柱となる思想が不在なのだから、小田原評定にならざるを得ない。ドイツは、現在の世界が戦勝国の論理で進んでいることを百も承知で、戦略を得ている。力を表立てず、自国の目先の不利にも動ぜず、実力を溜め込むのである。おそらく、そもそもドイツに、哲学が国民間にも根付き、精神的強さも宗教に裏付けされている土壌が存在する。その上、国家を二分管理されていたのだから、敗戦国と云う実感もひとしおだったに違いない。
ところが、わが国は歴史の皮肉にも、東西冷戦の対立構図と朝鮮戦争により、急激な復興をとげ、その勢いのままに高度経済成長路線のレールに乗っかるこことが出来た。このような現象は、わが国が自主的に導いた路線ではなく、天から舞い降りてきたものなのである。つまり、心からの自省をする間もなく、日本と云う国は経済大国にまっしぐらに進んでいった。経済が閉塞してきている現在でも、その名残でどうにか生き延びている、と言っていいだろう。戦争の反省も、衝撃と云う感情の赴くままだけの、個人的自省の範囲にとどまった。
しかし、戦後の世界の枠組みが、戦勝国優越の論理で構築されているにも関わらず、ソ連(ロシア)、中国などは経済的不遇時代が続いた。準戦勝国である韓国も、軍事的に米国の庇護にありながら、不遇が続いた。彼らの側の感情と理屈を想像するに、戦勝国の我々が貧乏で、敗戦国の日本が豊かなのだ!と云う疑問は、彼らの反日言動と云う形で具現化されていったと考えることが出来る。国それぞれに、歴史認識なんて変わるものだし、まして個人レベルでは百人百様なものになる。それを誹謗中傷しあっても、何にもならない。
逆に言うなら、そのような解のない問題でいがみ合っても、無意味だし、議論が徒労に終わることは判っている。歴史認識で、外交政策の選択にまで波及させたり、軍事的次元まで影響を及ぼすなど、ただの愚かである。戦後の戦勝国優越の世界的枠組みと云う事実認識と、歴史的僥倖による経済発展の恩恵を、どのように自分たちの問題として捉え、進むべき道を模索するのが、本来の国家の役目だし、国民の賢さでもある。その思考の端緒が「価値観のチェンジ」であることは、論理的に考えれば当然なのだ。感情のフックに拘泥して、誤った道に迷い込むほど日本人は愚かなのだろう。損な行動をとっても、得になる道があると云うのに…である。その損に思える選択が、世界からリスペクトを得られるのも判っているのに…。
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