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「ゴーストライター」が話題になっている。
想像をかきたてる言葉だ。
どうして、創作の場に「ゴースト」が出現するのだろうか。
人間が何かを書く(ないしは「創作する」)という行為は、本来なら、ほかの誰かが肩代わりできる作業ではない、と、私たちは考えている。
少なくとも、建前ではそういうことになっている。
「文は人なり」
と、ことわざにもある通り、文章(をはじめとする、楽曲や絵画や彫刻作品のような「制作物」)は、それを創造した人間の本質を、あますところなく表現する、いわば、作者の分身だからだ。
でなくても、「創作」という物語の中では、作者と作品は、水と魚のように不即不離な小宇宙を経て、最終的には不可分一体なアマルガム(合成物)を結晶することになっていて、それゆえにこそ、「芸術」と呼ばれる商品の主たる購買層は、もっぱら、創造性の魔法(あるいは「天才」という超越者)を奉ずる人々によって占められているのだ。
しかしながら、実際には、人は自分の本心とかけ離れた文章を書くことができる。
というよりも、自己の人格と解離した文章を紡ぎ出すに足る技巧的基盤を備えた書き手を、われわれは、プロのライターと呼んでいるわけで、かように、文は、制作の現場においては、必ずしも人そのものではない。
どうしてこんな話をしているのかというと、この度の代作事件の顛末を叱る有識者の声を聞いていて、ちょっと皮肉を言いたい気持ちになったからだ。
たしかに、作曲家チームのやり方は、だまし討ちに近いものだった。
その意味では、作曲家をはじめ、ウソをついていた人々は報いを受けるべきなのだろう。
ただ、CDを出荷停止にしたり、音源を配信停止にするのは、罰や責任を求める先としてスジが違うと思う。
以前にも、大麻を吸引した音楽家のアルバムが販売停止に追い込まれたことがあった。
あの業界の人たちは、いつも、何かが起こる度に、同じあやまちを繰り返している。
「作者が汚れたことで作品が汚れた。だから販売を自粛する」
という設定でコンテンツを扱うことは、結果として自分たちの首を絞めることになる。
どういうことなのかというと、「作者の不祥事を作品の罪として断罪する」思考の先には、当然「作品が純粋であるためには、作者が倫理的であらねばならない」という結論が待っているわけで、このあり得ない(というよりも反・芸術的な)桎梏は、むしろ、制作の現場に欺瞞や虚偽をはびこらせる原因となるに違いないからだ。
無論、「現代のベートーベン」だとか「全聾の天才作曲家」であるとかいった惹句を留保無く振り回していた人々の言葉の軽さや脇の甘さを指摘することは容易だし、その惹句にまんまと引っかかった人々の世間知らずを嗤うこともできない相談ではない。
じっさい、商売はそんなふうに展開され、カモの群れはネギ畑をまるごと背負って大量に飛来していた。
とはいえ、音楽を聴こうという時に、いったいどこの誰が、理知と懐疑の耳を以て音の連なりに対峙しているというのだ?
そもそも、誰かの作品に惚れ込むということは、「その誰かについて勘違いすること」を含んでいる。
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さらに言うなら、作品であれ作者であれ、対象を愛するということはダマされること(あるいはダマされてもかまわないと決意すること)の一部なのであって、その反作用として、自分の感受性に触れるものを「冷徹」に評価している人間(評論家とか)は、作品を楽しむことができなくなるものなのだ。
そう思えば、誇張や勘違いや思い込みや思わせぶりをすべてひっくるめて、「それが音楽を聴くということの実相なのだ」とでも言うほかにどうしようもないではないか。
私が今回の事件から(というよりも、今回の事件への世間の反応から)感じたのは、「壇」(文壇、歌壇、論壇、画壇、楽壇、劇壇などなど)に連なる人々の間に共有されている「作品は人なり」という信仰の強力さだ。
おそらく、牢固として不変なその信念が、「壇」を構成する理由になっているのだろう。
提案だが、今後、「壇」については「ムラ」と読み替えたうえで理解した方が、いろいろと話が進みやすくなると思う。少なくとも、「壇」の外側にいる人間はそうすべきだ。
壇の上に並んでいるメンバーについては、人形だと考えるのが妥当だろう。
五人囃子の笛太鼓。
赤いお顔の右大臣。
まるで文壇の景色そのままではないか。
というわけで、本題に入る。
「いままでのは前置きかよ」
と驚かれている読者もおられるはずだが、さよう、ここまでのお話は前置きでしたごめんなさい。
これから書く話の前段として、「ゴースト」の話がうまい導入になると考えて書き始めたものが、つい長くなってしまったカタチだ。
今回、私が取り上げたかったのは、NHKの新しい経営委員がこの数日の間にいくつかの問題発言をもたらした件についてだ。
私の抱いている感じでは、この人たちもまた、ある意味で「ゴースト」なのだ。
以下、説明する。
ゴーストには2つのタイプがある。
ひとつは、一般によく言われているケースで、今回の作曲家の事件でも典型的に観察されていたものだ。
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定義すれば、「表向きはAという人物の名前をアナウンスしつつ、実際にはBなる別の人間が作品を代作する例」で、このケースでは、BをAのゴーストと呼ぶ。
ゴーストライターであるBは、自分の存在を世間から隠蔽して、作品の制作に専念する。
一方、看板役を受け持つAは、「作者」の外貌を担い、スポークスマンとしてファンを誘引する。
この分業は、Aが多忙な有名人であり、Bが一定の制作能力を備えていながら世に出る機会を持っていないケースで有効に機能する。
世間向けには、Aの名声とオーラ(ならびにコネクションと販路)を看板として掲げておいた方が商業的に有利だ。
他方、作品制作の場面では、多忙であったり無能力であったりする有名人のAよりは、無名で貧しいBの方が有能だったりする。というのも、創作という地味で根気の要る作業は、そもそも有名人や二枚目には向かない泥んこ仕事だからだ。
そんなわけで、AとBは、ちょっと前に流行った言葉で言うところの「Win-Win」の関係を形成するに至る。
AはBの才能を利用し、BはAの知名度を利用する。両者に損は無い。
バランスが崩れない限り、この関係は、簡単には破綻しない。
もちろん、才能と知名度が同じ一人の人間の上にふたつながら備わっていれば一番ハッピーなわけだが、世界はそんなに都合よくできてはいない。
才能を持って生まれた人間が、その才能にふさわしい名声と地位を得るケースが無いわけではないが、そういう場合、彼は、往々にしてモチベーションを失う。なんとなれば、創作者を苦しい創作の作業に駆り立てる動機は、結局のところ地位や名声への渇望だからだ。
地位だの名声だののような俗っぽいスペックに無頓着な創作者もいる。が、その種の俗っぽい欲望と無縁であることは、商業芸術の作者としては、弱いと申し上げなければならない。「才能は欲望である」と言い張るつもりはないが、とにかく、「天才」みたいなお話は、不愉快なので私は信じないことにしている。
「ゴースト」のもうひとつの類型は、作曲家の事件の場合とは逆の現れ方をする。A、Bという二人の人物にあてはめて説明すると次のような展開になる。
「Aなる人物の真意を忖度して、表現役BがAの内心を、自分の(つまりBの)言葉として語る」
こういう例は、世間にあふれている。
「N山課長って、要するにM島部長の傀儡みたいなもんだからなあ」
「っていうか、腹話術の人形じゃね?」
「代弁者というのか大便器というのかスポークスマンというのか拡声器というのか、どっちにしても、ホースの片方が部長の脳味噌につながってる以上、あの人の口から部長の声以外の声が出てくる道理はないわな」
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あるタイプの組織では、人間の発言は、置かれた立場と等価になる。
自由な発言が許されないわけだ。
あるいは、自分をその地位に付けた上司の意図を先読みして振る舞う。
この種の組織では、人間の思想は、ある立場なり、自分に接続されている指揮系統なりの意向そのものと区別がつかない。
「当社は関知しません」
「だから、会社の見解じゃなくて、あんたがどう思っているのかを尋ねてるんだよ」
「当社は関知しません」
「……ったく。完治不能だな」
この場合のゴーストは、文字通り、コピー元のボスの生霊みたいに、自らがボスと仰ぐ人物そっくりの言辞を繰り返す。
で、私の観察するところでは、先週来続いている、NHKの新しい経営委員による一連の踏み外した発言は、ほぼそのまま、2番めのタイプの「ゴースト」の発言に聞こえるのである。
経緯を振り返ってみる。
まず、先週の当欄でも触れた、NHK新会長の言葉がある。
これらの就任会見で展開された言説が、背景というのか、前提になっている。
であるから、会長の言葉を受けて、発言は連鎖する。
まず、新たに選任された4人の経営員のうちの一人である百田尚樹氏が、東京都知事選の応援演説で、
「南京大虐殺はなかった」
との自説を展開した。
「1938年に 蒋介石が日本が南京大虐殺をしたとやたら宣伝したが、世界の国は無視した。
なぜか。そんなことはなかったからです」
「極東軍事裁判で亡霊のごとく南京大虐殺が出て来たのはアメリカ軍が自分たちの罪を相殺するため」
同じ演説の中で、百田氏は、他の候補について、
「中国・韓国の顔色を見ながら政治をする人は不必要。彼らは売国奴」
と言い、自分が応援する以外の候補を
「人間のクズみたいなやつ」
と表現している。
公共放送の運営にかかわる経営委員が、特定の候補の応援に立つこと自体極めて異例だが、演説の内容そのもの驚くべき内容だと思う。
続いて、長谷川三千子委員が右翼団体幹部を礼賛する追悼文を公表していたことが判明する。
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追悼文の中で、長谷川氏は、朝日新聞社内で拳銃自殺をした野村秋介氏が、自らの死を天皇陛下に供した点を指摘した後、以下のように書いている。
《−−略−−「すめらみこと いやさか」と彼が三回唱えたとき、彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神(あきつみかみ)であられる天皇陛下であつた。そしてそのとき、たとへその一瞬のことではあれ、わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられたのである。−−略−−(仮名遣いは原文のまま)》
これまた、驚天動地の文章であると申し上げなければならない。
個々の発言について、ここで詳しく論じることはしない。
読者が、それぞれ、ソースに当たって、じっくり読みなおしてみてほしい。
それぞれの経営委員の言説の内容もさることながら、私がうすら寒い感慨を抱くのは、一連の彼らの「不規則発言」が、とても「個別」に、「思いつき」で、「不規則」に発言しているとは思えない点だ。
籾井勝人会長が、あそこまで踏み込んだ発言をしたのは、後ろ盾として自分の背後に安倍首相が立っていることを、明言されているかいないかは別として、強く意識していたからだと思う。
だからこそ、彼は、メディアに集中砲火を浴びても、国会で質問攻めに遭っても動じなかった。あのように堂々とふるまうことが安倍首相の意にかなう所作であることをよく承知していたのではないか。
そして、安倍さんは、籾井会長の発言をまったく問題視しなかった。
百田氏の選挙演説については
「聞いていないから答えようがない」
と突っぱね、長谷川氏の追悼文に関しても
「読んでいないので答えようがない」
として、回答を拒否している。
菅官房長官も、「個人の意見」として、擁護する姿勢をくずしていない。
つまり、会長のケツモチは、国権の最高権力者および時の政府与党だったわけで、彼が心細い思いをする気遣いははじめから皆無だったということではないか。
百田尚樹氏ならびに長谷川三千子氏の場合も同様だ。
彼らがあれだけ思い切ったことを言えるのは、自分が求められている(と思われる)「線」に沿って発言している限り、何を言っても大丈夫である旨を自覚しているからだ。
彼らは、「自分と同じ思想を抱いている会長が赴任したこと」「そのまた背後に国権の最高権力者が控えていること」を、十分に意識している。
だから、マスコミのメディアスクラムに遭っても、むしろヒロイズムを刺激されるぐらいなものなのだと思う。
あと5年もすると、この国は幽霊だらけになっているかもしれない。
せめて足のあるうちに、なるべく遠くに逃げ出したいものだ。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20140206/259390/?n_cid=nbpnbo_rank_n
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