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折れるな尚樹氏・・・中国外務省、百田尚樹氏の南京大虐殺の真実をついた発言を批判
http://www.asyura2.com/14/senkyo160/msg/839.html
投稿者 怪傑 日時 2014 年 2 月 06 日 19:15:13: QV2XFHL13RGcs
 

折れるな尚樹氏・・・中国外務省、百田尚樹氏の南京大虐殺の真実をついた発言を批判
http://www.sky.hi-ho.ne.jp/kaiketuashura/oreruna-naokishi.htm

Newsソース 2014/02/06  ロイター
中国、百田尚樹氏の南京大虐殺めぐる発言を批判
[北京 6日 ロイター] - 中国外務省は5日夜、NHK経営委員を務める作家の百田尚樹氏が「南京大虐殺はなかった」と発言したことを批判する声明を発表した。

中国外務省は「南京大虐殺は日本軍が中国を侵略していた時に起きた残忍な犯罪で、反論できない証拠がある。国際社会では既に結論が出ている」と反発。「一握りの日本人はこの事実を覆い隠し歴史を歪めようとしている」と批判した。

その上で「こうした行為は、歴史を逆戻りさせようとする日本の一部指導者の姿勢と同じもので、国際社会はこのことを警戒すべきだ」と発表した。
1+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
リンク元の写真は中国の「南京大虐殺記念館」に中国の保安隊によって虐殺された「通州事件」の被害者の写真を歪曲・流用して、南京事件の被害者にしたてあげた写真です。
中国が20万人〜30万人虐殺したとする人数や、これらの捏造した写真をみても、南京大虐殺の欺瞞性が浮かび上がってきます。(写真と記述はtearfaceより借用)
                           

                過激写真あり閲覧注意
 

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コメント
 
01. 2014年2月06日 19:35:27 : D5gqEFhwoc
死者を盛りすぎというならわかるが、さすがになかっただのでっち上げは
無理があるだろう。
南京で数万の死者は何が原因かと言うことになってしまう。

02. 2014年2月06日 19:54:45 : fJzbrfG5B2

発言の内容が正しいとか正しくないとかは兎も角、立場と場所を考えれば、発言は不適当であろう。

たかがNHKの委員になった程度で舞上がったか・・・・・


03. 2014年2月06日 19:56:48 : Wi486rOn6Y
ほんと ネトウヨとかわらんよな

04. 2014年2月06日 20:36:56 : l9XktIYAWE
 真実とも事実とも、縁もゆかりも無い処で飯を食っている小説家もどきが、出しゃばるんじゃない・・・分を知らないとは。こういうやつの事、日本人の美徳を持っていない輩です。

05. 2014年2月06日 20:46:03 : l9XktIYAWE
 ニーチェ曰く、「嘘や間違いが問題となるとすれば、中世と言う時代は、存在しえなかった」。

 百田直樹と言う人間にとっては、「嘘」も「間違い」も、まるで関心の外なのだろう、自分の妄想(観念)にとって、都合の良い事だけを何処かからつまんで、事実を確かめもせず、妄想だけを膨らましている。

 中世とは、「ヒステリー女が聖人となり、妄想男が預言者となる時代」、およそ、こんな男を喜ぶ「ネトウヨ」と言うのは、とても、現代人の「知性」が有るとは思えない・・中世の「猿の脳みそ」。


06. 2014年2月06日 21:20:41 : 081W00R5wg
30万人大虐殺はなかったにせよ小虐殺はあったろう。

偕行社の「お詫び」に見る南京大虐殺
http://blogs.yahoo.co.jp/huniusami/18916493.html

階行社の南京事件史問題(虐殺肯定)で保守の論調が割れたこと(大虐殺否定派の論調が今のネトウヨの否定論の基になっているのが興味深い。)も含めてここで解説しており、なかなか面白いサイトです。↓

南京事件 −− 虐殺否定論の動向
http://www.jca.apc.org/nmnankin/news6-12.html


07. 2014年2月06日 22:12:34 : GMNqFLVG1g
誰か保健所に通報して百田を精神病院に措置入院させろよ。
それとも構成労働大臣も安倍総理と同じで
「大森勝久評論集」で記述されたとおりの
「反日左翼」でネオロシアのスパイで確信犯罪者に間違いないな。
落合信彦先生を初代日本国大統領に選出するしかないのか、マジで。


08. 2014年2月06日 22:36:04 : SnMyVYRNJg
>>1
 数万なんて捏造以外にないだろ。ボケたこというな

>>2
 浮いてるのは、お前の脳みそだろ

>>3
 おいお前、ここはお前のようなネトウヨがくるとこじゃないからな。覚えておけ

>>4
 あんた、日本人の美徳が何かも知らない輩がいうことばじゃないな

>>5
 おい、お前のいうことなんか聞きたい奴は、ここの反百田の連中以外だれもおら
 んぞ

>>6
 お前には隔離病棟が必要なようだ。


09. 2014年2月06日 23:00:20 : 081W00R5wg
>>08
なにひとりでイキってんだw
おまえの指摘、全部おまえに当てはまるんだがw

10. 2014年2月06日 23:03:34 : esmsVHFkrM

日本の右翼保守ネトウヨは恥ずかしい。

南京虐殺を勝手に30万人の殺戮と定義して、30万人死んでいなければ南京虐殺そのものがなかったと主張する。

たとえ30万人殺戮されていなかったとしても、29万人だろうが、20万人だろうが、10万人だろうが、5万人だろうが、1万人だろうが、たとえ5千人だとしても、立派な虐殺だ。現に右翼保守ネトウヨが大好きな秦郁彦ですら4万人の殺戮を認めている。

これでも南京虐殺を否定するなんて、歴史的事実に目を閉ざして自分勝手な妄想に耽っているだけだ。だから、右翼保守ネトウヨは自慰史観だと言われるんだ。

そりゃ、現実社会において、極道だったり、ニートだったり、三流大学教員であったりといろいろ大変なのはわかるが、いい加減にその自分の傷ついた自我の補償を無謬の「美しい日本」の日本人という優越感に求める虚しさを自覚したらどうか。そんな自分勝手な妄想で自分を慰めるのはやめてほしい。

自慰史観、お前の満足日本の迷惑だ。

少しは恥を知れよ、右翼保守ネトウヨ。


11. 2014年2月06日 23:08:33 : SnMyVYRNJg
>>9
 よくレスを読んだのだけは褒めてやるが、お前が言ってることは釣りレスに反応
 したお前自身のことだよ・・・お前のオツムで理解できるか??

12. 2014年2月06日 23:26:33 : SnMyVYRNJg
>>10
 南京城での中国の民間人に化けた便衣兵の掃討戦での戦闘行為中の殺害は、ただの
 殺害で虐殺とは言わないからな、老いぼれた秦郁彦もそのへんが区別できていない
 のだろう。便衣兵は軍服を脱いで軍に属してない状態で虜扱いもされない連中だっ
 たから、例え虐殺まがいのことが起きても日本軍には責任はないようだ。

13. 2014年2月06日 23:26:54 : 081W00R5wg
二、南京事件をめぐる論争について
(一)保守派内部の亀裂
(1)偕行社の方向転換
それから南京事件をめぐる最近の論争ですけど、まず重要なのは、 ここでも先ほどの天皇制をめぐるのと同様で保守派の中に亀裂が入っています。 これはご存知のように大分前ですけど、偕行社、 陸軍の正規将校の親睦団体である偕行社が方向転換をした。 最初の『証言による南京戦史』という連載ものでは、 日本軍はシロであるということを論証しようとして、 関係者から資料の提供や証言を求めたところ、捕虜の虐殺、 捕虜を殺せという命令を受けたとか、 そういう類の証言や記録がたくさんでてきちゃったんですね。 そこで総括の号で、加登川幸太郎さんという、戦後軍事評論家として有名になった、 旧軍人出身の人ですけど、編集者としてまとめをやって、 「中国人民に対しては非常に惨いことであった、 詫びるしかない」というまとめをするんですね。 加登川さんはその後でも書いてましたけど、彼は陸軍大学校の学生だったころに、 南京である種の不法行為があったということを自分は聞いていたと、 だから自分は最初から日本軍はシロであったという判断は持っていない、 クロであったという判断をもっていた、と言っているんです。 そのような形で、詫びたということをめぐって、 偕行社の中で加登川批判が吹き出るんですけど、 ともかくそういうことをやって『南京戦史』という本を1988年に刊行するんですね。 その中で捕虜等16、000人の殺害があったということを認めるわけです。 捕虜や投降兵の殺害があったことは認めるわけです。

http://www.jca.apc.org/nmnankin/news6-12.html



14. 2014年2月06日 23:30:10 : 081W00R5wg

>>13から続き。長いが御容赦願う。

(2)国際法の無視による虐殺の否定
これらは国際法の歪曲ですが、もうひとつは国際法の無視です。 これは何度言ってもこの主張を無視するんですけど、彼らが言うのは便衣兵ですね。 資料8を見てください。小林よしのりさんのマンガ。 「便衣兵 − つまりゲリラである」、 「軍服を着ていない、民間人との区別がつかない兵である」、 「国際法ではゲリラは殺して良い」、「ゲリラは掟破りの卑怯な手段だからである」。 いい加減にしてほしいんですけど、ちょっと一言説明しておきますと、 ゲリラ、民兵、義勇兵というのは国際法の中では主流ではなかったんですね。 それはある意味では国際法っていうのは、当時の大国の意志を反映してますから、 植民地を持っている大国の利害を反映しているわけです。 植民地大国に対する反乱というのはゲリラという形をとって現れるわけですよね。 だからゲリラにはなるべく正規軍と同じ国際法上の資格を与えたくないというのが、 先進国というか植民地保有大国の側の理屈なわけですね。 ですから、国際法上ゲリラにとってはかなり不利なんです。 さっきのハーグ陸戦法規は、1907年に調印ですけれど、 ゲリラにとっては不利な条項という面があるんです。 もう一度見なおしてください。 4つの条件を満たしてのみ、民兵や義勇兵には交戦資格が与えられる。 だから捕虜になった場合でも、人道的に処遇されるということです。 まあ第一項はいいですよね、責任者がいる。 ところが、第二項の遠方より認識しうべき固着の特殊徽章を有すること。 たとえば都市ゲリラの場合、民衆にまぎれて、市民に紛れて行動するわけですよね、 私はゲリラですってワッペンをつけて回るバカはいないわけで、 これはゲリラの活動を規制する面があるんですね。当時の国際法自体がです。 国際法は目安として重要なんですけれども、 国際法自体が歴史性というものをもっていて、 特に戦前の国際法はゲリラという形をとって現れるような、 民族的抵抗を抑え込む役割を果たしていた。 その歴史性ということを考えにいれないといけません。 しかしそれを押さえた上でもやはり当時の国際法からみても 無理な主張を彼らはしています。

便衣兵というのは1932年、昭和7年の第一次上海事変の時に登場してくるんですね。 これは便衣という一般人の服ですね、これを中国の学生や労働者が着て、 正規兵も少しいたようですけど、民間人の服を着て、上海で一種の都市ゲリラをやる。 単独で行動して拳銃で狙撃したり手榴弾を投げる、これを便衣兵というんですね。 そういう民間人の服を着てゲリラ的な行動をする戦闘者、これが便衣兵です。 これは当時の国際法の解釈では、現行犯でですね、 手榴弾を投げてきたり、拳銃で狙撃してきたときは、 現行犯で正当防衛で反撃できますけど、 処刑するにはこれもやっぱり国際法上は軍事裁判の手続きが必要なんですね。 小林よしのりは国際法上は殺してもよいと書いていますけれど、 これは全くの間違いで、軍事裁判の手続きを経て、初めて処刑ができるわけです。 それはそうなんで、民間人の服を着て、武器ももってないのに、 お前は目つきが悪いからゲリラだろうとか、 まあ南京ではそういうことで殺しちゃったんですけど、 そういうことをやると大変なことになるわけですね。 事実、第一次上海事変の時には、日本の外務省の電文の中に残ってますけど、 かなり誤認というか、間違って一般人を殺してしまった。 日本人の居留民が自警団みたいのを作って、自分たちで検問をやって、 通行人を処刑しちゃう、殺害しちゃうんです。 外国人まで間違えて殺害した例があって、 これは日本の出先の外交官が本省に報告してますけど、 かなり間違えて一般人を殺してしまったのです。 そういうこともあるから、当時の国際法の解釈でも、間違えて良民を、 冤罪の良民を殺してしまう場合もあるから、 必ず軍事裁判の手続きを経ないと処刑できないんだというのは、 当時の日本軍の常識でもあった訳ですね。 ところが、南京でやったことは、まず厳密にいって、便衣兵という戦闘者はいません。 多少散発的な抵抗はあったと思いますけど、『南京戦史』をみても、 先ほどの『証言による南京戦史』を読み返してみたんですけど、 難民区の掃討に当たったのは第9師団の第7連隊という連隊で、 その上の旅団長の副官の談話が載ってましたけど、城内に入って難民区に入っても、 ほとんど抵抗はなかったということをいってるんですね。 だから中国軍の便衣兵による抵抗はなかった。 『南京戦史』も、予期に反して抵抗はきわめて微弱であった、と書いてます。 いわゆる便衣兵の抵抗はなかったんですね。 実際にいたのは戦意を失って軍服を捨て、武器を捨て、 難民の中に紛れこんでいた中国兵がいただけです。 それは厳密な意味で便衣兵ではありません、それを殺してしまった。 仮に便衣兵がいたとしても、 さっきから繰り返しいっているように軍律会議にかけなければ処刑できないんですから、 それをすっ飛ばして、目つきが怪しいとか、この辺に軍帽の跡があるとか、 第7連隊の場合でみると青年壮年男子はすべて連行せよって書いていますから、 末端では若い男は皆連行して殺したんだと思いますけど、実際は、 怪しげなそういう基準で皆殺しにしたのです。 これは国際法上の大問題です。

(3)敗残兵の殲滅の正当化
それから敗残兵の問題がある、南京事件の場合は東中野氏の虐殺40数人説、 藤岡氏の0人説から始まって、上は34万人まで巾があるわけですけれども、 巾がでてくる理由はひとつは国際法の解釈によって、 虐殺の定義が動いているってことなんですけど、 もうひとつは敗残兵の位置付けなんですね、これが難しい。 たとえば戦意を失って城内外にうずくまっているような中国兵がいます。 それを日本兵が襲い掛かっていって殺しちゃう。 一番典型的な例は揚子江の上を小船や急造のいかだに掴まって、 中国の市民や軍民が逃げていくわけですね、 それを海軍の11戦隊の砲艦が揚子江を遡って行って、 砲艦の上から機銃や小銃で射殺するということをやったわけです。 これを彼らは戦闘行動だって言うわけですね。 僕は『天皇の軍隊と南京事件』という本の中で、これは正規の戦闘行動ではないと、 少なくとも降伏するように勧告して、 少なくとも捕虜として収容する努力をした後でなければ、 戦闘の帰趨はついている段階ですから、あまりに非人道的で、 戦闘行為とは呼べないって書いたんです。 けれども、藤岡信勝氏が批判をして、逃げる敵を殺すのは当然である。 それを殺さなかったら、再び戦列に復帰して、歯向かってくるかもしれないんだから、 逃げる敵を殺すのは当然であるっていう議論をしているんですね。 ここで議論が分かれるんですね。 僕の主張は問題はそう簡単ではないと、 前の『現代歴史学と戦争責任』のなかでも書きました。 というのは、これもまた日本側に跳ね返ってくるんですけどね、 ダンピールの悲劇というのがあります。 アメリカ側ではビスマルク海海戦っていってますけど、1943年2月ですね、 ニューギニア戦線が危うくなって、そこで増援計画で、 8隻の輸送船に乗って増援部隊が送り込まれます。 それに対してアメリカの空軍とオーストラリアの空軍が反復攻撃を加えて、 8隻の輸送船が全部沈没しちゃう。 これは天皇もショックを受けるほどの大敗北だったんですけど、 このころは日本軍の兵隊も悲惨で救命胴衣が皆にはないんですね。 竹を切って繋いだのをライフジャケットにしているようなありさまで、 かなり日本兵も悲惨なんですけど、 沈没した輸送船から逃れた日本兵が数十人単位で固まって海峡を漂流するわけです。 それをアメリカやオーストラリアの空軍機が反復銃撃を加えて、 機銃掃射で殺してしまう。 それからアメリカの魚雷艇が探索に当たって、漂流する日本兵を見つけて殺す。 ジョン・ダワーというアメリカの歴史家は『人種偏見』という本の中で この事件のことを取り上げていますが、 アメリカはちょっと日本と違うなあと思うのは、こういう事件が新聞に報道されて、 ちゃんと議論されてるんですね。 非人道的だっていう人は少数派なんですけど、 非人道的だっていう人の声も紹介されるんですね。 そこがちょっと日本と違うところですけれど。 ともあれ、アメリカでもこれは正当だっていう人の方がかなり多い。 しかし、ダワー氏はその事件を取り上げて、 こういう行為の背後には人種的偏見があるという形で、 アメリカの戦争犯罪としてこの事件を取り上げているんですね。 朝日新聞の報道でも出ましたけど、 戦後のオーストラリアではこの事件に関係した空軍のパイロットだと思いますけれども、 200人ほどの漂流している日本兵を銃撃して全部殺した事件があって、 そのパイロットを戦犯として処罰しろという要求が出てきて、 大論争になったことがあるんですね。 そういうことがあります。 ここでいいたいのは、 アメリカやオーストラリアの良心的知識人たちが自国の戦争犯罪の問題を、 自国の日本軍に対する戦争犯罪の問題を正面から取り上げて論議しているときに、 藤岡信勝氏や小室直樹さんや渡部昇一さんたちは その戦争犯罪を肯定するような助け船を実際は出しているわけですね。 自虐史観とか言いながらですね、 アメリカや連合軍の戦争犯罪を追及できないような戦争観が 一番自虐的なんではないかと僕は思います。 結局そういうことで、自国の戦争犯罪にきちんと対処できない限り、 他国の戦争犯罪にだってきちんと対処できないんですね。 そういうことだと思います。

http://www.jca.apc.org/nmnankin/news6-12.html


15. 2014年2月06日 23:41:53 : esmsVHFkrM

南京虐殺はもちろんあった。これをなかったと主張する日本人がいると言うことは信じがたい。

事実について話そう。

南京虐殺については、発生と同時に南京の日本領事館から外務省に報告が送られ、それら報告は陸軍省、海軍省へ送付されている。

当時外務省東亜局長であった石射猪太郎は、戦後1947年東京裁判において、弁護側証人(弁護側である)として以下の証言をしている。

「(1937年)12月13日頃、わが軍が南京に入場する、そのあとをおってわが南京総領事代理(福井敦氏)も上海から南京に復帰した。同総領事代理から本省への最初の現地報告はわが軍のアトロシテーズ(残虐行為)に関するものであった。この電信報告は遅滞なく東亜局から陸軍省軍務局長宛に送付された。当時、外務大臣はこの報告に驚きかつ心配して、私に対し早く何とかせねばならぬとお話があったので、私は電信写はすでに陸軍省に送付されていること、陸海外三省事務当局連絡会議の席上、私から軍当局に警告すべきことを大臣にお答えした。
その直後、連絡会議が私の事務室で行われ(中略)、その席上、私は陸軍軍務局第一課長にたいし右アトロシテーズ問題を提起し、いやしくも聖戦と称し皇軍と称する戦争においてこれは余りにもヒドイ、早速厳重処置することを切実に申し入れた。同課長もまったく同感で、右申し入れを受け入れた。
その後いくばくもなくして在南京総領事代理から書面報告が本省へ到着した。それは南京在住の第三国人で組織された国際安全委員会が作成した我軍アトロシテーズの詳報であって、英文でタイプされてあり、それをわが南京総領事館で受付け、本省に輸送してきたものである。私は逐一これに目を通し、その概要を直ちに大臣に報告した。そして大臣の意を受けて、私は次の連絡会議の席上、陸軍軍務局第一課長にその報告を提示し、重ねて厳重措置方要望したが、軍はもはやすでに現地軍に云ってやったとの話であった」。(桐富雄『日中戦争 南京大虐殺事件資料集 第1巻』青木書店 1985年)

このうち、「軍はもはやすでに現地軍に云ってやった」とは、参謀総長閑院宮載仁親王から中支那方面軍に1938年1月4日付けで下達された訓示を、中支那方面軍参謀長塚田攻少将から各部隊に向けて下達した「軍紀風紀に関する通牒」があり、それは以下の通りである。

「軍紀風紀において忌まわしき事態の発生近時ようやく繁を見、これを信ぜざらんと欲するもなお疑わざるべからざるものあり、惟うに一人の失態は全隊の真価を左右し一隊の過誤もついに全軍の聖業を傷つくるに至らん。(中略)軍紀を厳正にし戦友相戒めてよく越軌粗暴を防ぎ、各人みずから矯めて全軍放縦を戒むべし」。(『続・現代史資料(6)軍事警察』)

さらに、当時陸軍軍事課長であった田中新一大佐は、詳細な『支那事変記録』を記していて、その中で、1938年1月12日の陸軍省局長会報において、中国戦線から帰国した陸軍省人事局長阿南惟幾少将(鈴木終戦内閣の陸相、敗戦時自決)が中支那方面軍の軍紀について次のように報告したと述べている。

「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪たえず、現に厳重に取り締まりに努力しあるも部下の掌握不十分、未教育補充兵等に問題なお絶えず」。(『支那事変記録 其の四』防衛研究所図書館蔵)

また、当時陸軍省兵務局防諜班長であった宇都宮直賢少佐はその回想録において、陸軍中央の南京虐殺対応について以下の通り記している。

「南京の暴行残虐事件についても私は帰京後に聞いた。(中略)私は参謀本部の本間(雅晴)第二部長、渡(左近)支那課長、米(アメリカ)班の西(義章)班長以下に会ってこれらの事件の対策について諮問におよばずながら応えいろいろ進言した。
米班長で大本営参謀の西中佐(31期陸大同期)が実地調査のため直ちに南京へ急行することとなり、広田大佐と協同して事件の究明と解決に努力した。次いで杉山陸相の要請で、本間第二部長も急遽南京に向かい事情調査を実施することとなった。
南京の暴行虐殺事件のニュースについては、日本側はこれを発表することを禁止したが、全世界に知れわたって轟々たる非難の的となったことはまことに遺憾千万だった」。(『黄河・揚子江・珠江 − 中国勤務の思い出』 非売品 1980年)

ここにある本間雅晴参謀本部第二部長の現地調査結果を受けて、陸軍中央は松井石根中支那方面軍司令官の不作為による南京虐殺発生を確認、松井を処分する方針となったが、それはあくまでも内部処分の形(直接その責任を問わない)をとり、1938年2月14日松井を中支那方面軍司令官から解任して日本に召還した。

このようなことなかれ主義的処分には陸軍中央内部にも不満が残り、田中隆吉は1939年に1月に兵務局兵務課長となって以後、南京虐殺に関する憲兵隊の調査報告書の提供も受けて、松井石根ら中支那方面軍幹部を軍法会議にかけて裁くように提案したが、参謀総長らに拒否されたという。(『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』大月書店 1994年)

一方松井も、南京虐殺が国際的な非難をあびて自分の更迭につながるであろうことは認識していたと見えて、1938年2月7日に行われた慰霊祭(1973年12月18日の第一回とは別の2回目)で全部隊長を集めて行った訓示においてみずからの悲憤の心中を吐露している。それを目撃した上海派遣軍参謀課長飯沼守少将はその日記に以下の通り松井の言葉を記している。

「南京入場の時は誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭(1973年12月18日の第一回)またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それはこの50日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するにいたりたればなり、何をもってこの英霊に見えんや」。(「飯沼守日記」『南京戦史資料集』偕行社 1989年)

さらに、この南京虐殺は南京に総司令部を置いた中支那派遣軍歴代幹部の間では一大不祥事として語り伝えられていたようで、昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁親王はその自伝において次のように述べている。

「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして1年間在勤しました。その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました」。(『古代オリエント史と私』学生社 1984年)

以上、南京虐殺発生直後から政府、陸軍中央には報告が行われ、その存在は認識され、将官を派遣した現地調査が行われ、それに基づいて軍紀粛清の訓示が発出され、責任者である松井石根中支那方面軍司令官の更迭が行われ、松井自身はそれを悔い、南京虐殺自体はその後の陸軍幹部の間で語り継がれたことが事実として確認される。

当時の日本政府および陸軍中央が「ある」ものとして調査、認識、対処、処分を行っていたものを、今になって「なかった」と強弁するのは、いったいいかなる精神によるものであろうか。歴史的事実を正しく客観的に認識できない知的障害があるのか。自己の主張に都合の悪い事実は知らない、無視する、という道義的退廃があるのか。

これを自慰史観と呼ぶ所以である。

右翼保守には猛省を求めたい。



16. 2014年2月07日 01:01:47 : vuQpagMXxI
15さんへ

よくこれだけ調べられたということには敬服致します.
しかし,東京裁判は論外としても,各報告内容には具体的な記述がなく,
これでは戦時中なら不良兵隊が為した戦時犯罪と軍の命令による軍事行為の区別が
できないように思えます.

「現地報告はわが軍のアトロシテーズ」というところなど,
日本官僚の報告としては違和感を覚えます.むしろ,アメリカか蒋介石勢力の
使嗾があったのではないかと思えます.atrocities こんな言葉を総領事が
普通報告書に使いますか.

他にも記述が有りますが,伝聞か,それに類するものが多く,一見事実のように
思えますが,立証という観点から見ますと根拠は薄弱ではないでしょうか.

私は「南京虐殺」に関する書籍を何冊か読んでいますが,
ここに示された主張は,客観性や具体性の面でいささか受け入れ難く
思います.


17. 2014年2月07日 01:47:16 : SnMyVYRNJg
>>15
 南京大虐殺があったとされる同年の7月に通州事件の虐殺が、8月には第二次上海
 事件が起こりまたもや日本人民間人や軍属の虐殺事件が連続して起きていたので、
 軍部によるその仕返しの意味でも南京城攻防戦で日本軍による虐殺行為が起きても
 不思議ではない当時の状況だった。
 戦後、敗北者となった日本の南京戦の当事者は、その責任をとらされて東京裁判や
 マニラ軍事法廷(裁判官は全員マッカーサーの部下)などの復讐裁判が横行しても
 仕方ないといえばそうだろう。
 しかし、中国の虐殺人数を膨大に捏造した主張には自虐史観に陥らず、そのまま受
 け入れてはならず毅然と反論すべきはすべきだろう。

 


18. 2014年2月07日 01:50:19 : 4me1HbLCZM
不良兵士がやったではとうらないよ。。
大陸侵略から終戦まで幾多の残虐行為があったのは否定出来ない。
日本は原爆やルメイの無差別爆撃で被害者意識が強いが、大陸では加害者だから。
その部分を戦後歴史修正したい連中が、日本軍を美化したい思いあまってか、不良兵士という言葉を使いことを矮小化したがる。
いつまで経っても再スタート出来ない訳だ。
そのうち世界から孤立して潰されてしまうよ。
戦争に突入させた狂人たちが書類もほとんど焼いて証拠隠滅しているのは責任から逃げる為意外はない。
その上、甘い汁を吸うことに余念がない恥知らずの狂人に今度は徹底的に日本を潰されてしまう。キチガイに甘い汁か。

19. 2014年2月07日 05:41:07 : esmsVHFkrM

>>16さま、

>>15ですが、

あなたは何か根本的な思い違いをされておられるようです。

わたしは>>15のみによって南京虐殺を証明しているわけではありません。南京虐殺については、発生当時からドイツ人等の南京在留外国人等の報告、外国メディアの報道、中国被害者側の証言等々の幾多の証拠証言が存在します。南京虐殺が歴史的事実であることは既にこれらによって明々白々であり、実際世界各国においてその存在を疑う人間はいません。

ところがここ日本においては、その当事者の系統を踏む右翼保守が、戦前天皇制ファシズム官僚政府および軍が敗戦時に一切の文書を徹底的に焼却して証拠隠滅を行ったことをを利用して、日本側に対応する証拠が存在しないから上に述べた中国被害者や第三国外国人等の証拠証言は一切虚偽捏造だと主張し南京虐殺の存在を否定しています。まさに証拠隠滅を行った犯人がそれを唯一の根拠に犯行を否定しているのです。

わたしは日本人としてこのような右翼保守の卑怯な主張と態度を許し難く思います。これでは日本と日本人全体がそのような卑怯者と思われてしまいます。

そこでそんな右翼保守に猛省を促すために、その主張の唯一の拠り所である日本側証拠の不在について敗戦時の徹底的な隠滅を免れた文書をもって補いました。

そうです。敗戦時の徹底的な証拠隠滅にもかかわらず、生き延びた日本側の証拠は存在するのです。悪いことはできません。

上記の中国被害者や第三国外国人等の証拠証言にこれら日本側の証拠を合わせればいくら右翼保守でももはや南京虐殺の存在を否定することはできないでしょう。

それがわたしの>>15です。

以上、あなたの根本的な思い違いを正しておきます。

自慰史観はいい加減にしてもらいたいと思います。


20. 2014年2月07日 07:11:25 : q7Hj9kwYxw
嘘を言って非難する相手(共産中国)に、おっしゃる通りです、という日本人のマインドはやはり自虐的かつ被洗脳的なものを感じざるを得ない。
東京裁判史観をそのまま受け継いでいる日本人は戦勝国、GHQの日本人戦争犯罪人洗脳プログラム、洗脳教育に染め上げられ、日本人のidentityを失った魂の脱け殻のいつように感じる。
嘘の非難には事実をもって反論する(しなくてはならない)のが独立した精神のまともな行動だろう。

南京虐殺は否定出来ない事実に基づくなら、認めましょう。
しかし20万人の人口の南京で30万人日本軍が殺した。。、。
それはないでしょう!
2万人くらいはあった? まあそこまでなかったとまでは言いきれませんが、30万人殺した、ついでに20万人の慰安婦を拉致したとか、まあ彼らの数字の誇大発言癖は許容しないとやってられないのか知れませんがから。
南京虐殺はなかったとまでは言いません。なんせ生まれてなかったからね。
南京虐殺は(ちょっとだけ)逢った。としときましょう。何せ否定する世代ではないから。まあせいぜい2万人ですか?
旧植民地支配者が大東亜戦争の終了後、再び亜細亜の植民地に舞い戻り、大日本帝国が手助けしようとした亜細亜諸国の植民地支配者からの独立、奴あつがい隷支配からの独立にそれぞれ何十万人が欧米の宗主国軍に殺害されたものでしょうか。
日本人は真実は大事にしますが、嘘は忌み嫌います。
まあ、これも武士道精神の一つと言って善いでしょう。
嘘つきは信用しません。まあ昔なら切って棄てていたところでしょう。

だから嘘は許さないのが日本人なのです。もちろん自分にたいしても嘘は言いません。嘘つきは泥棒の始まりと教えられて来ましたから。
他の国ではそんな常識は通うじないのでしょうね。 このスレにも日本人じゃないような投稿も多いですね。
捏造南京虐殺映画ーアメリカ製作
THE FAKE OF NangKING

httた南京捏造映画を作って、反日感情を作り出すのか。
THE FAKE OF NNKING
http://www.youtube.com/watch?v=4LbVeadjSbo

た南京捏造映画を作って、反日感情を作り出すのか。
THE FAKE OF NNKING
http://www.youtube.com/watch?v=4LbVeadjSbo
日本が人間の肉を食べる習慣があっただと!?
あるワケないだろう、清潔潔癖な日本人が食べるわけがない。
人間の肉を食べるのは中國人だ。ふざけやがって。

http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/584.html
日本が人間の肉を食べる習慣があっただと!?
ある?ワケ
http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/584.htmlp://www.youtube.com/watch?v=4LbVeadjS

http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/584.html
http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/584.htmlp


21. 2014年2月07日 08:00:40 : esmsVHFkrM

>>19ですが、

文中日本側の将兵による証言を忘れていました。

偕行社による南京虐殺否定のための証言募集が南京虐殺体験の証言が相次ぎ返って南京虐殺存在証明に終わった経緯は>>13さまが紹介された通りです。

>>20さまが正直という日本人の徳について論じていますが、私の理解では、日本人の正直とはまず何より自分自身についてのことであったはずです。他人をどうこう言う前に自らの行いを正す徳であったはずです。

犯人が犯行を否定することへの怒りから出て来た被害者側が言う数字の適否を論ずる前に、そんな事態を生じさせた自らの行いとしての南京虐殺否定を反省し態度を改めることこそが日本人の正直という徳でしょう。

わたしが、南京虐殺はなかったなどという自慰史観を日本人として厳しく批判する所以です。

日本人としてあくまでも正直でありたいものです。



22. 2014年2月07日 12:05:12 : aHFznFyPMc
>>20さまが正直という日本人の徳について論じていますが、私の理解では、日本人の正直とはまず何より自分自身についてのことであったはずです。他人をどうこう言う前に自らの行いを正す徳であったはずです。>>

← その>>20ですが、生まれてもいなかった世代に「自らの行いを正せ」とは
どう言う事ですか?

>>犯人が犯行を否定することへの怒りから出て来た被害者側が言う数字の適否を論ずる前に、そんな事態を生じさせた自らの行いとしての南京虐殺否定を反省し態度を改めることこそが日本人の正直という徳でしょう。<<
 
← よく読めば、やってもいない世代も反省し態度を改めろ、とこう言ってるわけですね。
 あなた中国人でしょ? 戦争に関わっていない世代の日本人にはなんの責任もありませんよ。日本人に罪悪感を植え付けたい意図しか感じられませんね。

 中国人のはわからないのかも知れないが、誇張したウソを言うとすべてが嘘だと見なされる。誇張された嘘を認める日本人などいないのですよ。

 正直に認めろ? それはないでしょう。

 

 

わたしが、南京虐殺はなかったなどという自慰史観を日本人として厳しく批判する所以です。

日本人としてあくまでも正直でありたいものです。


23. 2014年2月07日 12:23:28 : bdTB0ecBXw
↑何を言っているのかさっぱりわかりませんね。
esmsVHFkrM さんもこれじゃ答えようがないなw

24. 2014年2月07日 12:36:48 : aHFznFyPMc
<<わたしが、南京虐殺はなかったなどという自慰史観を日本人として厳しく批判する所以です。

日本人としてあくまでも正直でありたいものです。<<

↑esmsVHFkrM さんの引用を消し忘れたものです。

どっちにしても中国人にはわからんでしょう。


25. 2014年2月07日 13:04:00 : bdTB0ecBXw
>どっちにしても中国人にはわからんでしょう。

そういう物言いじゃ話にならんと言っているのさ。
まあ、あくまでも虐殺はなかったと思いたいんだろうから思い込んでいればいいだけだわな。


26. 2014年2月07日 13:25:40 : aHFznFyPMc

何様のつもりだ、。

人食い人種の仲間か。


27. 2014年2月07日 13:29:17 : esmsVHFkrM

>>21のesmsVHFkrMですが、

>>22に対しては特に反論する必要を認めません。

そのまま、わたしの>>21と右翼保守ネトウヨを代表する方の>>22を比べて読んでいただけばいいんじゃないでしょうか。

正直と言う日本人の徳が今の日本人にもあるとするならばそれがどちらに現れているかは一目瞭然でしょう。

わたしも戦後生まれの日本人ですから、南京虐殺については直接間接を問わず一切手を染めているわけではありません。

しかし、わたしは日本人として生まれ日本の文化と歴史によって自己形成した人間です。したがって、日本の文化と歴史は良い意味でも悪い意味でも私と言う人間存在の密接不可分な一部です。

したがってわたしは、当然のことながら、あるがままの、過去の過ちや失敗を含めたそのままの日本を愛します。日本の歴史はあるがままが日本人の苦闘の跡として尊いのであって、過去の過ちや失敗を糊塗したり歴史を修正したりする必要を認めません。

また、日本が過去に行ったことに対して良きものも悪しきものも今を生きる日本人としてその責任を引き受ける覚悟があります。わたしが生まれる以前のこととは言え日本が過去に犯した南京虐殺という戦争犯罪の責任を今を生きる日本人として引き受ける覚悟があります。

それはわたしが、日本の過去の文化や歴史を、良きものも悪しきものも一切合財をそのまま引き受け引き継ぐ日本人だからです。

わたしには、そんな風に考えられることこそが日本人として生まれたことの徳であり恵みであるように感じられます。

これからも日本人として正直に生きていきたいと思います。


28. 2014年2月07日 13:49:49 : 4me1HbLCZM
>>23

キミのオツムじゃ100万年経っても永久にわからんから。
醜いコメでおお恥を晒して恥ずかしくないか。
おまえの好きそうな安倍が一度目の首相の時な、安倍が主導し、日中からそれぞれ専門の歴史家と学者が数十人で長期にわたり南京事件の検証をした。
様々な角度から資料を徹底的に検証した結果、被害者の数値には幅はあれ虐殺がないと結論する研究者は1人もいなかった。

つまりその規模の見解はちがっても、虐殺が無かったと言う馬鹿には、被害者側からすれば納得出来る話ではない。。

国際的に証明も認知もはっきりしている。
NHKなんとかか何か知らんが百田というバカはどうしようもないということだ。


あんまりバカコメ晒すなよ。


29. 2014年2月07日 14:04:13 : Fc6nx5Ah79
>>23>>25だけど>>28の人、レス番間違えていませんかね。
ちなみに>>13>>14は俺のコメントです。
余計なお世話かもしれませんが。

30. 2014年2月07日 14:15:25 : esmsVHFkrM

>>29さま、

>>28は、あなたが相手にしていたネトウヨに対するものであることは明らかです。コメ番号の言及ミスで>>23ではなく>>22宛てでしょう。

私のような読者はちゃんと読み取りますからご心配なく。

>>13>>14は勉強になりました。ありがとうございます。


31. 2014年2月07日 14:18:23 : 0VjicbU2B6
>>06で紹介されている吉田裕によるまとめがとにかくわかりやすかった(感謝)。

「南京事件−−虐殺否定論の動向」(吉田裕 1999年)
http://www.jca.apc.org/nmnankin/news6-12.html

そのおかげで、2年前のスレを読み返したら前よりも論点がよく理解できた。

「河村市長大虐殺なし発言に中国反発…次なる宣伝工作に失笑(ZAKZAK)30万人が嘘と知られ必死 文革の死者数で遊んでろ笑」(木卯正一 2012年2月28日)
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/118.html

どうでもいいことだが、吉田裕は1999年当時の「新しい歴史教科書を作る会」の動向を紹介している。
それがどこかで聞いた話とよく似ていてわらってしまった。

[以下引用]
新しい歴史教科書を作る会も去年、大月隆寛という若い民俗学者が事務局長を事実上解任されているんですね、だから内部でいろいろごたごたがある。それから恐らく教科書を作る段階で分裂する可能性が出てくると思います。というのは、前に『新編日本史』っていうのがありましたね。あの時も結局最後に揉めるんですね。教科書の検定というのは角を全部取っちゃいますから、いい角も悪い角も、いい角というのは変な言い方ですが、いろんな意味で角を取っちゃいます。だから、あまりにも右の方につんつんした角も取られちゃうんですね。結局、『新編日本史』のときも検定を受け入れるか、受け入れないで玉砕するか、不本意だけれども受け入れて少しでもいい教科書を現場に提供しようって考えるか、理不尽な検定は反対して玉砕でいくべきだって考えるか、相当中で議論したようです。今度もどういうふうにまとめるのか、検定に対してどう対応するのか、この会も一枚岩というわけにはおそらく行かないだろうと思います。


32. 2014年2月07日 14:33:15 : 4me1HbLCZM
>>29さま。
28です。30さまのおっしゃるとうりです。
失礼しました。

33. 2014年2月07日 15:09:01 : aHFznFyPMc
28<< 29<< へ

君たち何言ってんだかさっぱりわからんな。

通州だとか、重慶などの中国人が虐殺した写真を、南京虐殺記念館で使うな
と言っているのだよ。
目をくり抜かれ、払われた犠牲者の写真は日本人の女子供の死体の写真で
日本の新聞社が日本国内で報道したものだ。
 日本軍は軍律が厳しく略奪も陵辱も厳しく処罰された。南京でやったという軍人
こそ処罰されるべきだった。
 軍律違反をやったなら裁かれるべきだった。その事実を知らない軍人が数多くA、B、C級戦犯として身代わりに処刑されたわけだ。

 20番>>でわたしは南京虐殺がなかったとは一言も言っていない。
 はっきり言えばどうでもいい。風化を無理に止めようとする連中が喜んで蒸し返し非難しているだけの話だ。いつまでカツアゲのネタにしようと言うのか。
 南京はあったことが嬉しい人間が多いようだが、いわゆる左翼共産主義とファシスト中国、GHQの東京裁判史観に染め上げられた日本人こそ自虐、自慰史観の持ち主だな。
 それにしても汚い言葉使いだが、なにが嬉しいのか
ね。

 虐殺は中国文化、食人も中国文化、アタマに血が昇るのも中国、韓国の火病。
自分がやったことを被害者の仕業にするのも中国文化。

悪かったと1000年思い続けるのが”良心的”日本人か。

孫子の代まで、罪悪感を植え付けることが日本人の良心かよ。



34. 2014年2月07日 15:41:34 : jgcG4mpPSM
いや、だからNHKの新会長が立場をわきまえず蒸し返さなきゃいいだけだって話さねw
寝た子を起こすからめんどくさいことになる。
それに罪悪感を背負いたくないなら別に背負う必要はない。
そんなのはあくまで個人的なもんだしね。
君らネトウヨはとにかくなんでもかんでもまっすぐすぎるんだよ。
まあ、先の大戦からひとつだけ教訓を読み取るとしたらこれだけだな。

2度と下手を打つようなことをするな

支払う対価は高い。しかも支払い方を誤ると請求書はずっとついてまわり、たんびにめんどくさいイイワケを考えにゃならなくなる。
いいかげん覚えろや。



35. 2014年2月07日 15:48:08 : 4me1HbLCZM
>>33

わからんわからんはいいから。

だったらコメントしなくていいからボクチャン。
テーマは、百田というバカの無知だろう。

その無知を持ち上げる、そのまた無知が感情的な無知を言う。
ごまかしは利かないのを無益なごまかしに必死になる。
「あったかないかはどうでもいい」とは、、トホホくん。
百田というバカはないというバカだから恥極まりということ。


36. 2014年2月07日 16:14:20 : Fs820IFiwU
NHKへ籾井や百田や長谷川のような極右を送り込んだ日本のタカ派政権の期待に沿う「日本軍国主義と国家主義体制」擁護の発言が彼らから次々と出てきてタカ派も超満足でしょう。やはり日本が「軍国主義と国家主義体制」への回帰と「戦争準備体制構築」を急ぐためには読売や産経新聞系のメデイアだけでなく、どうしてもNHKに協力させる必要を感じての布石でしょう。タカ派にとり笑いの止まらない成り行きです。

37. 2014年2月07日 16:17:34 : yZQdgZg1DH
>>33
虐殺は中国文化、食人も中国文化、アタマに血が昇るのも中国、韓国の火病。
自分がやったことを被害者の仕業にするのも中国文化。

数百万歩譲って、いくら部分的に正しいことを述べているとしても、↑こんなレイシスト丸出しの発言ができる人間のいうことなど、何の説得力もないわ。

生きてて恥ずかしくないか?


38. 2014年2月07日 16:37:25 : MGrXuvFwt2
南京大虐殺か小虐殺かは知らないけど、もう大昔の第二次世界大戦(当時の日本の
立場で言えば大東亜戦争)中の犯罪をやったやらないで議論してる暇があったら、
今現在中国国内で行われているウイグル族やチベット族の虐殺をどうしたら止められるか国際社会は考えてほしいね。

39. 2014年2月07日 16:47:52 : aHFznFyPMc
まあ、あんたがた、中国共産党の手先か工作人か、犬NHKの朝鮮系幹部か、
中国人も犬HKに浸透しているかどうかは知らなかったが。

阿部が、犬HKから三国人デイレクターを駆逐したのが気にいらん反日どもだろう。
ここ数年9時のニュースもひどく偏向していたよな。

必死に安倍の犬HK人事を叩いているが、クソマスゴミも日本には不要だな。
本田勝一に旭日赤日にCIAゴミ売、朝鮮毎日、フジ。
ウソ売りマスゴミも海の藻屑寸前だ。

あんたがたサヨクが自慢な訳? ファシスト中国、日本共産党の日本侵略歴史認識がドグマの信仰宗教、オウム真理教みたいなものだな。
左翼は反米なんだがな。ひょっとしてあんたがた左翼を騙る似非日本人かね。

 わたしはネトウヨと言われてずっこけるんだがね。
 犬HKの大東亜戦争報道は中国共産党、進駐軍史観と同じだな。
わたしは安倍の内政はまったく支持しないが、歴史認識でつっぱっているところは
評価するわ。南京大虐殺はなかったと言ってやれ。(大虐殺はなかったってみんな言ってるんじゃねーのか? ケッケッケ)

南京虐殺捏造映像を暴く。


http://www.youtube.com/watch?v=aR0gTIn9JXc


40. 2014年2月07日 17:18:27 : aHFznFyPMc
<<37番さん、食人文化は中国の伝統なんですよ。毛沢東のやった文化大革命で吊し上げにあった大学の学者や医者、地主、ブルジョアは紅衛兵や住民に食われてます。曹操の時代から中国には食人文化がありました。
法輪功などの信者の臓器を売買しているのもそういう文化からです。
人を食べる、殺すなど何とも思っていません。
 日本軍が中国兵の人肉入りギョウザを食べた、など中国人がやったことを
当然日本人もやると思って捏造したことで、日本人にはウソがバレバレです。
虐殺死体写真の川っ淵の写真も重慶での写真でエキストラにやらせたとも
蒋介石の中国国民党軍と中国共産党赤軍との最初の戦闘での中国人死者の戦闘と
言われます。共産党軍が大量に殺戮したそうですが、毛沢東がこれは日本軍がやったことにしよう、と言った事は有名です。

本当のことを言うのはレイシストではありません。

韓国の慰安婦像の捏造、南京(大)虐殺の捏造宣伝。
これこそがレイシストの日本人に対するヘイトスピーチです。
したがって、レイシスト日本人が日本人に対してヘイトスピーチを行うこと自体が
世界の7不思議なのです。

http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/584.html

生きてて恥ずかしいのはこういう人種でしょうね。


41. 2014年2月07日 17:26:12 : 4me1HbLCZM
>>38

南京で恥を晒しているのは百田というバカだから。
おまえがほざくのは百田だろ。

>>39
おまえらのような一部の無知アホウが先の大戦で国を地獄に突き落としたが、今度はすべてを失うぞ。

視野の狭いファナテックな国賊が日本を滅ぼしかけた。
その後に国賊どもは責任転嫁に邁進し総括を放棄しながら国賊の金儲けを恥知らずにも実行する。

国賊はおまえらのような無知蒙昧をいつでも利用する。
戦前戦中に洗脳してキチガイの暗殺の嵐を巻き起こしたようにな。

そいつら国賊は甘い汁、国は310万の垂れ死に。
おまえら見ていると、国賊の雛ごを見ているようで情けなくなるわ。。



42. 2014年2月07日 17:51:48 : 2ROoR7uCKc

  毛沢東は自国民を7000万人餓死させた ← 「誰も書かなかったマオ(毛)」より


43. 2014年2月07日 18:10:50 : aHFznFyPMc
↑ 中国共産党は早くコケたほうがいいな。中国人民のためだろ。

こう見えてもわたしは中国の人民を心配している。
民主化が絶対必要だ。 ファシストどもにこれ以上搾取されるなよ。

毒食、毒空気、お前ら死ぬぞ。共産党幹部は不正に蓄財した資産を海外に持ち出し、ハリウッドには愛人村ができている。ビバリーヒルズの豪邸だ。

ウイグル、チベットを盗み、住民を虐殺している。ベトナム、フィリピン、
インド、その他南シナ海の諸国は中国共産党の侵略覇権軍国主義にうんざりしている。あんたがたの軍事費は膨らめば膨らむほど、あんたがたの貧困化を進め、寿命も縮まるわけだよ。

 まず反日ウソ教育の虚偽の正体を知ることだ。ネットで情報交換を自由にすることだ。日本国は通信衛星を使って、中国の携帯端末、PCで日本国の自由放送と日本国民のネット情報を入手できるよう手配すべきだな。

ここにい似非左翼日本人は中国ファシスト共産党軍が尖閣やオキナワに侵略しても歓迎し白はたをあげて、中国共産党の手先になりたがっているような連中
だが、尖閣を侵攻されたら戦うしか道は無くなるのだよ。

だからそうならないよう頑張ってね、阿修羅の中国国民のみなさん。



44. 2014年2月07日 19:17:59 : 4me1HbLCZM
>>43

妄想独言ご苦労

脳神経の破損によるジャーゴンと思われる。
ヴェルニッケ部の広範囲破損である可能性が強い。

リハビリによる改善は難しいが健闘を期待する。
といっても本人は左脳側頭部分の著しい破損が懸念される以上、馬の耳に念仏であろう。

保護者各位殿


45. beobachter 2014年2月07日 21:09:03 : ljsB2yiZ5RqJU : TNPyUeJHvo
高校の体育の教員が南京で捕虜100人以上にガソリンをかけて焼き殺したのに、中国(もちろん蒋介石軍)は重労働刑半年で放免してくれ、今こうしてここにいると語った。彼が南京に入ったのは、陥落後1か月以上経てからだったはず。同じ永津部隊にいた主計の岳父殿は3名の刺殺を命ぜられ、拒否できなかったと愚妻に語った。
上野の美校出の従軍画家として前年の「大虐殺」を目撃した美術教師は、文芸春秋が鈴木某の「幻」説を載せたとき、えらい剣幕で「私が見たのが幻だったといのか」「穴という穴にたばこの吸い殻を刺した女の死体を転がして」「車がよけられないので護衛の兵隊さんはタイヤに踏みつぶされた死体の汁を浴びながら進んだんだ」というような話を次々に展開した。まあ、全体を見られた人物はいないのだが、これらの局部的な数値からでも、虐殺事件の規模と期間が推定できるだろう。
市内で婦女子30万人はあり得ないだろうが、兵隊は胆力をつけるために最低一人の
中国人の刺殺を義務付けられていたこと、南京戦に20万人が出兵していたことが
わかっている以上、その下限は自明ではなかろうか?

46. 2014年2月07日 22:09:34 : j4qtW6M40Y
まあグロな話しが好きな支那系が多いようだから通州の証言を紹介して置こうか、
ながくなるからそのつもりで。。
支那人だいぶエキサイトしてきたようだからな、、。
発火何秒前だ?

徳島の保守から
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1


通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)   日本人皆殺しの地獄絵・其の一
政治blog「徳島の保守」 7月30日日担当 吉川


通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)

日本人皆殺しの地獄絵・其の一


1937年(昭和12年)7月29日。73年前の昨日、北京の西の通州において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。

大東亜戦争の一つのきっかけになったとも言われる通州事件です。

通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生により、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。さらに支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみの心もなく、その屍体までもいたぶっているのです。

かけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状であったそうです。支那人は南京で日本軍が大虐殺を行い、妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き殺すなど、悪逆非道の限りをつくしたとデッチあげて日本を非難していますが、通州事件を見ますと、日本軍が行った行為と言っているのは、つまり、支那人自身が行ったことに他ならないことが解ります。

通州事件は、殆どの日本人から忘れ去られようとしていますが、日本人居留民の無情な殺され方を、そして支那人の持つ残虐性を私達日本人は決して忘れてはいけません。

通州における惨劇は、多くの人が証言していますが、実際の体験者であるSさんの話を、拙ブログで採り上げ、一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思っています。大変長い話ですので、何回かに分けて掲載させて頂きます。


-----------

Sさんの体験談

私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。それで仕方ありません。私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。それは昭和九年の初め頃だったのです。Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。だから買う人にとってはとても便利なんです。Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。そして安重根という人の話を語りました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

(次回につづく)

※通州事件の惨劇 −日本人皆殺しの地獄絵−は、財団法人慧燈財団、前理事長であられた、調 寛雅(しらべ かんが)氏著作『天皇さまが泣いてござった』より、氏のご子息様のご許可を頂き、引用掲載させて頂いております。

※参考書籍、「天皇さまが泣いてござった」では、証言者であるSさんのお名前が掲載されていますが、当ブログではイニシャル表記とさせていただきました。


47. 2014年2月07日 22:15:54 : j4qtW6M40Y
通州その2

Sさんの体験談

(続き)

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人

だけになりました。日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。私はあまり心配だからあるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。私はTさんには悪かったけれど、紙一杯に委しくこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。そして最後に用心して下さいということを書いておきました。この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。でも何も変わったことはありません。これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。その当時のよく言われた言葉に「日本時は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。私はびっくりしました。それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。しかし日本に帰るべくT山河にほんの状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。でもTさんはそれを許しません。それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。このときはとても悲しかったのです。それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。このことが大変悲しかったのです。私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」と言うのです。そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。そして「危ない」「危ない」と申すのです。それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。だからといって逃げ出すわけにもまいりません。そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。それが七月になると「日本人皆殺し」「日本時は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。支那人達が大騒ぎをしているのです。何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。私はびっくりしました。そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。この頃でした。上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。突然私はTさんに烈しく起こされました。大変なことが起こったようだ。早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。町には一杯人が出ておりました。そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。でもまだ辺りは薄暗いのです。何がどうなっているやらさっぱりわかりません。只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。私はTさんと一緒に逃げながら「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。そして「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」と私を抱きしめるのです。それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。それは日本人の血といか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

(次回に続く)


48. 2014年2月07日 22:20:47 : j4qtW6M40Y
通州の惨劇の詳細
なにが南京だ、ふざけるな

Sさんの体験談

(続き)

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。何か生臭い匂いがするのです。血の匂いです。人間の血の匂いがして来るのです。しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。沢山の支那人が道路の傍らに立っております。そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。その娘さんを引き出して来たのは学生でした。そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。体はぶるぶると震えておりました。その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。支那でも七月と言えば夏です。暑いです。薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。そして下着を取ってしまいました。娘さんは「助けてー」と叫びました。

と、そのときです。一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。何かグシャッというような音が聞こえたように思います。頭が割られたのです。でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。服が破けます。肌が出ます。血が流れます。そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。血がパーッと飛び散ります。その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。又腹を突きます。胸を突きます。何回も何回も突き刺すのです。沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。暴虐無惨と申しましょうか。あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

この娘さんは既に全裸になされております。そして恐怖のために動くことが出来ないのです。その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。そして陵辱をはじめようとするのです。支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。どうしても陵辱がうまく行かないのです。すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。目をしっかりつぶっておりました。するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。私は思わずびっくりして目を開きました。するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。見てはいけない。見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。それから剣で首を切り落としたのです。その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

私は立っていることが出来ない程疲れていました。そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。この残虐行為をじっと見つめていたのです。腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。そしてその首はないのです。何とも異様な光景です。想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。私はハッと自分にかえりました。すると何か私の胃が急に痛み出しました。吐き気を催したのです。道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。しかし支那人のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。だから黙って通してくれたと思います。

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。とても人間のすることではありません。悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。そしてそれだけではなかったのです。学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。そして勿論裸足にしております。その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。でも倒れることは出来ません。外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。私は思わずTさんにしがみつきました。Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。そして私の耳元でそっと囁くのです。「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。


49. 2014年2月07日 22:23:54 : j4qtW6M40Y
さあ、ますますひどい

らないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。これも又異様のこととしか言いようがありません。こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。この沢山の人の中には男もいます。女もいます。私もその支那人達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。二人とも真っ青な顔色でした。一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。どうしてやることも出来ないのです。言葉すらかけてやることが出来ないのです。二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。いやその一部からは出血さえしております。髪はバラバラに乱れているのです。とてもまともには見られないような可哀想な姿です。その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。そしてそこにバッタリ倒れたのです。すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。私もTさんもどうすることも出来ないのです。もうこんなところにはいたくない。家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。沢山の日本人が殺されています。いやまだ殺され続けているのです。あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。耳を覆ってみても聞こえるのです。又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。お婆さんは仰向けに倒れました。学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。誰も見ていません。私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。そして「くやしい」と申すのです。「かたきをとって」とも言うのです。私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました「いちぞう、いちぞう」と人の名を呼びます。きっと息子さんかお孫さんに違いありません。私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。そして息が止まったのです。私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。何とその女の人はお腹が大きいのです。七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。この女の人は何もしゃべれないのです。恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。これで事態が一変しました。若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。するとどうでしょう。この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。日本の男の人はぐったりなって横たわりました。それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。


50. 2014年2月07日 22:29:59 : j4qtW6M40Y
月30日より、2ヶ月に渡り連載させて頂きました、通州事件の惨劇(Sさんの体験談) 日本人皆殺しの地獄絵 ですが、今回にて最終となります。話中にて繰り広げられる支那兵らによる悪逆非道ぶりも更に凄惨さを増します。直近に起きた、尖閣諸島の不当な領有宣言としか取れない支那政府のやり方を見ていると、現在の支那政府も通州で日本人を大量虐殺した当時と根本的には変わらないと、改めて認識しました。

63年前に起きた通州での凄惨極まりない事件が、時と場所を変えてこの日本国内で起きないと誰が言いきれるでしょう。

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Sさんの体験談

(続き)

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。私はあんな残酷な光景は見たことはありません。これはもう人間の行為ではありません。悪魔の行為です。悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。目玉を抉り取ると今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。私はTさんにすがりついたままです。何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。そしてそれだけではありません。別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。フラフラと立ち上がりました。そして一生懸命逃げようとしたのです。見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。妊婦はバッタリ倒れたのです。すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。私は何をするのだろうかと思いました。そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。赤い血がパーッと飛び散りました。私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。「日本人が処刑されるぞー」と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんが支那人であったということです。そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人です。私の心は通じておりません。そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。引き金に手をかけたらそれが最期です。何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。バタバタと日本の人が倒れて行きます。機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。五十数名の日本人は皆倒れているのです。その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。保安隊の兵隊達は日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。これは一体どういうことでしょう。私には全然わかりません。只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

その近水槽の近くに池がありました。その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。そして首を前の方に突き出させたのです。そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。そして見たくはなかったけど池を見ました。真っ赤な池です。その池に蓮の花が一輪咲いていました。その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

(終わり)


51. 2014年2月07日 22:36:43 : j4qtW6M40Y
↑ まあこの時の日本人の犠牲者の写真が日本軍による南京虐殺事件の証拠として記念館に使われいるわけだ。

なにが謝罪しろだ。国賊と支那竹


52. 2014年2月07日 22:45:23 : 4me1HbLCZM
ゴミパズルで喜ぶ真正Vaka登場


53. 2014年2月07日 22:58:34 : xmL8qpt0kw
通州はお前のような狂人がやったことがよくわかる。

54. 2014年2月07日 23:17:30 : AroUqZ3Iz2
なんか必死の人が長文を連投していますが、通州事件についてはウィキよりこちらのサイトがより詳しく検証していますので閲覧くださいましね。

通州事件への視点
http://deepgreenpigment.myartsonline.com/tsu.html

尚、ネトウヨ関係の方々にとっては面白くない検証だと思います。予め。


55. 2014年2月08日 05:08:51 : xmL8qpt0kw
なにが検証だ。
当事者の証言、事実関係など何もない。共産党と日教組の言い分か?
中国人の殺し方を証言している日本人の目撃者の記録を紹介した。
中国フアシスト共産党かぶれの日本人も知らない史実だ。
必死で投稿、ネトウヨ、あんたの知性はその程度なのがバレバレ。
お里が知れるぜ。

56. 2014年2月08日 05:37:13 : esmsVHFkrM

>>54さまがご紹介のサイトは通州事件について客観的に諸研究をまとめたもので非常に勉強になりました。

特に通州事件を行ったのが冀東政府という日本の傀儡地方政府の軍隊であったことは、右翼保守ネトウヨがこの事件を「南京虐殺の正当化」の材料に使う際に常に隠される(そもそも知らないのかもしれませんが)事実なのでコメとして挙げておきたいと思います。

そう言っても、右翼保守ネトウヨは、例によってそれは左翼の嘘だと主張するでしょうから、そうでない証拠として右翼保守ネトウヨが大好きなあの泰郁彦の文章を以下に引用しておきます。

「 この種の残虐事件で、今もよく引き合いに出されるのが、盧溝橋事件から3週間後に北京近郊の通州で起きた邦人虐殺事件である。 死者120数人と数も多く、その惨状を見聞きして敵愾心を高めた京都第十六師団の兵士が、華中に転戦して南京で報復したという説すらある。 当時の日本の新聞も大々的に宣伝したものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、いわば飼犬に手を噛まれたようなもの。 さすがの日本軍も、殷汝耕政府主席の費任は問えなかった( 戦後、漢奸として処刑 )。」( 『 諸君! 』 1989年11月号 P216 )

したがって、これは今の感覚で言えば、日本に駐留して日本侵略を進めるアメリカの傀儡である地方自民党政府の武装部隊が(ナチスにならって突撃隊としましょうか)隙をついて反乱しその地方の米軍部隊を殲滅した上で在留米民間人を殺戮した事件となります。

これを米国から東京虐殺の正当化の口実に使われたら右翼保守ネトウヨはなんと言うでしょうか。

それは傀儡地方自民党政府の武装部隊が行ったことでアメリカにとっては自業自得だ、でしょうか。それとも、これは祖国侵略を進める外国に対する日本人の民族独立をかけた自衛で寝返った自民党は偉いでしようか。ぜひ聞いてみたいと思います。

なお、わたしは他のまともな方々同様、通州事件があったのだから南京虐殺はチャラだ、ないしは、南京虐殺があったのだから通州事件はチャラだなどという暴論にはまったく反対で、個々の事件はそれぞれ別個に問題にされ和解されるべきだと考えます。

ちなみに通州事件については、当時の日本政府と冀東政府の間で事件処理と和解が成立しています。

何事も事実に基づいて考えたいものです。


57. 2014年2月08日 05:48:47 : RPPySjuaX6
戦争とは愚かで残虐なものだ。
戦争では多くの犠牲者がでる。それはどこの国でも過去同じ事が行われていた。それが戦争だ。その結果、憎しみをあおれば、次の諍いになる。過去の過ちを繰り返さない、叡智を持つ努力をしなければならない。

58. 2014年2月08日 06:10:36 : xmL8qpt0kw
http://www.youtube.com/watch?v=4LbVeadjSbo

なにが和解だ。
中国人の殺人文化を紹介しているのだが、なにを世迷い事を言っているのか。通州許えーす、南京許さない。とこうね、いい歳してご苦労なことだ。

ちなみにわたしネトウヨではありませんがね。
あなた方は2チャンネル以下ですね。

日教組?
戦前は戦争を煽り、戦後はコミンテルンとGHQの日本人洗脳教育布教教育。
軍部、マスゴミの以上の大罪を犯し、犯しつづけている。かかか
近代史の真実ひとつ教えられない教育者などこの国には不要でしょ。
反日ファシスト中国共産党かぶれ教育者は偽善者たるな!

なんだかネトウヨ風になりましたか。似非左翼無知性知識人の喜ぶネトウヨからの
メッセージでした。


59. 2014年2月08日 06:23:12 : xmL8qpt0kw
↑ 失礼これは勿論56番サマへの投稿でした。

似非善人気取りには××が走りますね。
戦前の日本は悪人。繰り返しません、ぼくは善人になります、ですか!?

歴史の事実を検証しないと善人気取りが悪人に成りかねませんよ。


60. 2014年2月08日 06:56:03 : xmL8qpt0kw
引用動画記録違いましたね。
このあたりかな。
http://www.youtube.com/watch?v=4LbVeadjSbo

?h↑tp://www.youtube.com/watch?v=AAJhJnYH7yU
↑ 当時の日本の公式記録も中国共産党のプロパガンダよりは
歴史資料になるでしょう。

極めつけでしょう。
大東亜戦争の歴史評価
トインビーくらいご存じでしょう、ファシスト中国共産党かぶれさん達。
あんたがた左翼でもなんでもない。似非左翼ですね。
知識人でもなんでもない。無知な似非知識人に過ぎません。
近代史勉強しました?
自分のアタマで歴史認識考えました?


。、http://www.youtube.com/watch?v=AAJhJnYH7yU


61. 2014年2月08日 07:08:40 : esmsVHFkrM

>>56ですが、>>57さまに同感します。

戦争は人間を鬼に変えます。

日本人があの愚かなアジア太平洋戦争の惨禍の後に民族の教訓として得た「もうせんそうはいやた、二度と戦争はやらない」という決意は、単に被害者としてひどい目にあったからではなく加害者としてひどいことをしてしまったことへの悔悟があったはずです。日本列島に平和に慎ましく暮らす穏やかで優しい民族が戦争によってどのような鬼に変えられてしまったのか、その痛切な体験がどのような戦争であれ戦争は二度とやらないとの日本人の決意となりました。この日本人の悔悟と決意が平和憲法とその戦争放棄に込められています。

その平和憲法と戦争放棄が今阿部自民党と右翼保守ネトウヨによって脅かされています。阿部自民党と右翼保守ネトウヨは、あの日本人の痛切な戦争体験と戦争放棄の決意に抗って日本を戦争のできる国に戻しふたたび中国と戦争をしようとしています。

この日本を戦争のできる国に戻そうとする勢力と南京虐殺を否定しようとする勢力が重なるのは興味深い事実です。右翼保守ネトウヨは、南京虐殺を否定することによって戦争が人間を鬼に変えるという事実とだから戦争はもう嫌だという日本人の痛切な戦争体験ともう二度と戦争はやらないという決意を否定しようとしているのです。

戦争は人間を鬼に変えます。

日本人は二度と鬼になりません。

右翼保守ネトウヨの攻撃から平和憲法と戦争放棄を守り抜かなければなりません。


62. 2014年2月08日 07:24:35 : xmL8qpt0kw

日本人なら日本に誇りを持て!
日本に何ら恥ずべきことはない。

動画紹介うまいかないので
世界の賢人の大東亜戦争の日本国に対する評価、歴史認識を。
日本の似非左翼知識人の脳内空間が如何に貧困か、特に教育者、報道関係者、ネトウヨ!と叫び思考停止している皆さんにお送りしますが、洗脳は溶けないでしょうがね


先の大戦について肯定的に語ることがタブーのような空気に包まれている日本に於いては、日本人自身のそういった発言はすぐに色眼鏡で見られ、レッテル張りされてしまいます 。そこで外国人の意見を集めてみました。

H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)
「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」

アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)
第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた 短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人 が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。(1965年十月二十八日、英紙「オブザーバー」)

英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。なぜな ら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西 洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。(昭和43年三月二十二日「毎日新聞」)

ククリックド・プラモード (タイ国元首相 )
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英 と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示して くれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )

バ・モウ (ビルマ元首相 独立宣言より)
約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像 し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。・・・ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはそ の生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を 受け遂には斃れたり。・・ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大 の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」(一問に百答 日下公人 PHP研究所)

ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)
日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本 には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れてい た。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

ハミルトン・フィッシュ(政治家「悲劇的欺瞞」(TragicDeception1983))
ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的 を達成させた。

ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)
大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続け ている。

日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領 期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返 せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略) さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南 アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房 、256〜7ページ)

ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)
すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというよう な思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したので ある。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政 教社、147,151頁)

ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)
日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。(中略) インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独 立戦争を戦う際の基盤となった。日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。

ラグ・クリシュナン(インド、大統領)
インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。驚きもしたが、この快挙によって東 洋人でもやれるという気持ちが起きた。(昭和44年「日本経済新聞」)

ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)
要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3〜2 0年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた 。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわ かるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実 の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけには ゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)

グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)
このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は 日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ 東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関 長に対する挨拶)

ジャワハルラル・ネルー(インド、独立後の初代インド首相)
チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった・ ・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。(貝塚茂樹編『民族解放の星』講談 社、253〜4頁)

アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦 争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運 動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに 、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのであ る。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)

ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)

我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、 日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は 決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ること ができた。

ガザリー・シャフェー(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)
日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あ の大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。 大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」

さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押され ぬアジアの経済大国ではありませんか。『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、 アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、ア ジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定する ことは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル)


朴 鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳 、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)
「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に 断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」

「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組 んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待 つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東 亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても 強調しすぎることはない。」

「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。 戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝った のであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死 者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」

朱 耀翰 {韓国 元国会議員 ゴーマニズム宣言第六巻p232}
「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの 国だ?黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか?しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二 千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」

ニミッツ元帥(アメリカ 太平洋艦隊司令長官)
この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!

スリム中将(イギリス第十四軍司令官)
たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろ う。(「敗北から勝利へ」)

かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何な る陸軍も知らない。(同書)

蒋介石
ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む

ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)
これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてし まったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。(『神風』)

引用・参考文献 『「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編、展転社』
おまけ・終戦直後の新聞記事より

「国体を護持し得るか否かは、片々たる敵の保証(ポツダム宣言)にかかるのではなく、実に日本国民の魂の持ち方如何にかかる。特攻魂に端的に現れた七生報国の烈々たる気魄 は、我々がこれを祖先よりうけついだものであるが、これは永劫に子孫に伝えねばならぬ。日本国民が果たしていつの日に再生し得るかは、一に日本国民の魂がこの試によってい かに鍛えられるかによってきまるのである」

アジアの自尊心を守った日本
ある収容所でのお話を参照。(日本人経験談より)
イギリス人は糞をしてる最中に黄色人種が入ってきても平気。
落としたタバコを拾わすのにも、言葉を使わず、アゴで拾えの合図。
女性が全裸で部屋に居る時に、黄色人種が入ってきても平気。
(白人男性が入ってきたら大騒ぎ)
つまり、黄色人種は猿だったのです。

インドより東の国では、白人は何をしても許されると言う考えがあった。
東洋人に対する白人の対応は自然な物だったのです。
絶対的な差別主義。
東洋人は、人では無かった。

この絶対差別主義の世界を塗り替えたのが日本だった。
今でも、ビルマの建国記念日には、日本の「軍艦マーチ」「日本陸軍の歩兵の歌」が流れる。

フィリピンの独立記念のポスターにも、日本軍のポスターが貼られる。
インドのオールドデリー市街のチャンドラ・ボース公園に立つインド独立義勇軍(INA)と日本軍人の像がある。

アジア人の自尊心を守ったのは、日本だった。

インド、オールドデリー市街のチャンドラ・ボース公園に立つインド独立義勇軍(INA)と日本軍人の像
日の丸に注目。インドネシアの独立広場と独立戦争の作戦参謀、古閑政義氏

1995年にフィリピン、マニラ市内に張られたフィリピン共和国独立記念日のポスター
悪の枢軸と、欧米以外では日本は有色人種を解放したヒーローと学校で教育している。
アラブや、アフリカを旅すると、なぜ日本はアラブや、アフリカを解放してくれなかったのだ?
と、真顔で説教される。
が、日本の発展によって、有色人種差別は無くなった。
単一民族国家で世界最大の大国が日本である。
有色人種が愚かならば、EU諸国が日本より遙かに小国なのは説明がつかない。
そして、有色人種差別は無くなった。
もし日本がなければ朝鮮人は現在も奴隷であろう。
いや、有色人種は今でも奴隷だろう。

欧米で有色人種差別は無くなったが、日本人以外への有色人種差別はまだ根深い。。。。

たとえば、下記の写真や、ノーベル賞の授賞式を見ればいい。。。

日本以外の有色人種が、伝統的な民族衣装を着ることを許されるだろうか?
いや、許されない。

ビルマ独立の功績で日本陸軍工作機関のメンバーが授与されたビルマ最高の賞「オンサン(ビルマ独立運動闘士)の旗勲章」

日本はアジア解放の英雄として、アジア各国で勲章をもらっている。

パラオの日本軍

>>NAVERにて・・

パラオのKB-Bridge

【 KBブリッジ(パラオ)解説】
韓国の建築会社が製作したが1996年9月に崩壊しパラオを大混乱に陥れた。水道管とコロール島の半分に供給するための電線が通っていたため国民生活は危機に陥り,ナカム ラ大統領は国家非常事態宣言を発する事態となった。その後日本の無償援助でKBブリッジの再建が行われた。

■建物崩壊
パラオKBブリッジ@韓国製 半年で崩壊

親日国の紹介(Flahは必見)
http://shobon123.hp.infoseek.co.jp/depot/shinnichi.htm


★フィリピンのアローヨの言葉⇒「韓国が羨ましがられる理由 “日本が隣にある”」

★フィリピン⇒「私達を奴隷にしていたイギリスを日本が追い出し、独立を約束して、教育と産業を与えてくれました。その後、アメリカに占領されましたが、アメリカは一方的 に物を売るだけでした。」

★フィリピン⇒「私達は日本統治の長かった韓国や台湾の経済成長をうらやましく思います。」
★タイ⇒「日本はアジアの母です。子供を産むために母は体を壊しましたが、子供はきちんと成長しています。」「私達は韓国のような恩知らずではありません。」

★韓国はASEANに嫌われています。ASEAN10は全て強い親日派です。日本はWW2の前も後も、日本国内の成長を犠牲にして韓国に教育と産業を与えました。それを当 然の権利と思わせるため韓国政府は色々と言論統制をしていると、ASEANは思っています。

あるアジアの少年がこんな発言をしているサイトを見つけました。
◎ 是非とも見ていただきたいFLASHです。 ◎

今から十五年ほど前、アジア各国の軍部代表がマニラに集ったときのことだ。例によって韓国軍の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本民族と現在の日本企業を罵倒する演説を 打った。列席のアジアの親日家たちは「韓国代表の演説は痛烈無残で聞くに耐えなかった。だが列席の日本の自衛官はひと言も発しなかった。」

そこで、列席していたインドネシアのアリ・ムルトブ准将は韓国の軍人に向かって次のように日本を擁護した。彼はASEAN結成の仕掛け人である。

「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著 国際企画より


63. 2014年2月08日 07:55:44 : PnXMkTsYJo
構うのもウンザリなんですが61番の模範文は戦争の非情さとその残虐性におののいた生徒の模範解答でしょうが、正直言って憐れみしか感じません。
ネトウヨだって戦争しようなんて言ってないでしょう。朝鮮長州神社靖国参拝安倍づら積極的平和主義と言っている。(笑い)

何故洗脳された生徒が量産されるか。

トルコ人から教わった「世界の常識」
上野 重喜 (放送ディレクター)
致知  2009年2月号

  十数年前、NHKを退職し、関連の別法人で働いていた私に、JICA(国際協力事業団)から仕事の話が舞い込みました。
  トルコの人□教育促進プロジェクトに手を貸してほしいというのです。
  当時、トルコは人口増に対処するため、家族計画を推進しており、保健省傘下で、テレビ番組の制作やIT技術を通して母子保健・家族計画の普及に協力するのが仕事でした。
  トルコは世界でも指折りの親日的な国として知られています。
  ロシアと緊張関係にあったトルコは、日露戦争での日本の勝利を共に喜び、また、先の敗戦から見事な復興を遂げた日本への畏敬の念も多大です。
  私が訪れた時も、国民の多くが日本に尊敬と憧れの気持ちを抱き、その発展に学ぼうと懸命でした。そういう国民性も手伝って、私たちのプロジェクトはおかげさまで順調に進展し、一定の成果を収めることができました。
  現地では多くの知識階級の人々とも知り合いになりました。
  その一人に日本の歴史や文化に関心が深い30代の医者がいて、彼の話に大変感じ入るものがありました。
  彼は、かつてオスマン帝国として広大な領土を支配し栄えた自国の歴史に誇りを持っていました。オスマン帝国の歴史は13世紀末から20世紀まで600年以上続きます。これだけの長きにわたり他民族を支配するためには一つの鉄則があったのだと私に教えてくれました。
  その鉄則とは、50年先を見越し、教育によって被支配国の伝統や文化を骨抜きにし、自分たちの思いどおりの国に変えてしまう、というものです。
  すでに教育を終えた人間を変えることは不可能だ、幼少年期からの教育で人間の本質が決まるのだから、自分たちの思いどおりの教育をした国民が育つには、50年かかるというのです。
  被支配国の文化や伝統を根こそぎ変える占領政策が実るのは、半世紀後だというわけです。
  彼の話は次に日本に及びました。戦後、アメリカが日本を占領下に置いた時、やはり50年先をみて、アメリカの思いどおりの日本に変えようとしたに違いない、というのです。つまり戦後50年以降に敗戦のツケは回ってくるというわけです。
  そして、日本を訪れたことのある彼は、その時の見聞をもとに次のように話しました。
  「日本は私が予想した以上にアメリカナイズされています。日本古来の武士道精神をすっかり失っているようにも思えました。我々がいま一番案じているのは、戦後のアメリカの教育を受けて育った日本の指導者たちが、これからどのような日本をつくっていくかです、まさにいまが分岐点。このことは世界の一大関心事でもあるんです」
  アメリカの占領政策によって日本が大きく変わっていく様子を体験した私ですが、高度成長のうねりの中で、そのことを深く意識することなく生きてきました。それだけに彼の発言は新鮮で、日本人が気づかなかった点を指摘された思いでした。
  日本のこれからに強い危惧を抱いた私は、帰国時に、トルコの留学生に医者から聞いた話をした上で「あなたはどう思いますか」と質問してみました。すると、「それは常識です。我々留学生仲間は皆そのように話しています。日本の勝負はこれからですよ」という返事が返ってきました。ごく普通の留学生から出たこの言葉に、私は改めて愕然としました。
  日本が戦後50年を迎えたのは1995年、私がトルコに赴任した年です。バブルが崩壊したとはいえ、日本はまだ隆盛を誇っていた時でした、しかしその後、景気の低迷や人心の荒廃など国力は著しく低下し、いまもなお先行き不透明な状態が続いています。
  改めて振り返ると、日本人が親から子へと受け継いできた伝統的価値観や美徳、古典の素養といったものが、この50年間ですっかり失われてしまった感は否めません。
  トルコ人の考え方は、やはり正鵠を射たものなのだろうか。それを思うと複雑な心境です。
  そういえば、トルコに赴任して間もなくの頃、現地人から「武士道とはどういうものですか」と聞かれ、返答に困ったことがありました。同国では柔道や空手が盛んで、彼らにしてみたら日本人が武士道について語るのは当然という感覚だったに違いありません。顧みると私自身、小学校4年生の時に終戦を迎え、武道は禁止され、日本の伝統を否定することを教えられてきた一人だったのです。
  子ども心に戦時の苦しさ、悲惨さを知る私は、日本が再び国粋主義の道を歩むことには反対です。しかし、自分たちの大切な文化や価値観をなおざりにしたまま欧米崇拝の道を歩んできた日本人は、武士道に象徴される伝統的精神に目覚めなくては国の将来は危ういという思いは強くなるばかりです。
  トルコの医師の話のように、教育によって国民が骨抜きにされたとしたら、それを取り戻すのもまた教育です。
  いま日本各地で幼児や小学生に『論語』の素読や『百人一首』の朗誦などをさせる動きもあります。これは反動的なことでなく、失った良き伝統を取り戻す試みです。
  身心一如と申しますが幼少時から身体を鍛える、仕事によって自然と触れ合う教育も大切です。日本人の特質、勤勉と礼儀正しさ、失われた伝統をいまこそ取り戻したいものです。

● ミニ解説 ●
  戦後、占領国アメリカを通じて世界支配層がこの国に対して行なってきたことは、まさにこの文中に出て来るトルコ人が指摘している通りです。そして、その結果が今日の疲弊し、劣化したこの国の国民であり、社会ということになります。
  かつて世界中から絶賛されたこの国の美徳は根絶やしにされ、ひとくちに言えば「“お金さま”が一番大切という拝金主義」「自分さえよければ他人や世の中はどうなろうと知ったことではないという自己中心主義」の風潮が根づいてしまったのです。
  また、親や子供を大切に思う国民性も、個人主義教育の中で見事に奪い去られたのでした。いまでは、親殺し、子殺しさえ珍しいことではありません。
  しかも、このようにひたひたと迫りくるこの国の凋落を気にも留めず、多くの国民は毎日テレビのクイズ番組や料理番組、お笑い番組に興じているといった有り様です。目も当てられないほどノーテンキな国民となり果てています。
  このようなこの国の凋落を早くから予測し、警鐘を鳴らしている著書は数多くありますが、私が最もお勧めしたいのが『混迷日本にとどめを刺せ』(ヤコブ・モルガン・著/第一企画出版)です。 今日の日本の支配構造を鋭く分析した好著ですので、著者は名前を伏せてしか著すことができなかったものと思われます。(ヤコブ・モルガンはペンネームです。複数の人物による共著かとも思われます)
  この本は今から10年以上も前に書かれたものですが、今日の状況に照らして見ますと、その分析の正しさがわかります。残念ながら、既に絶版となっていて、手に入れて読んでいただくことができません。当サイトにダイジェスト版をアップしておりますので、ぜひ目を通していただきたいと思います。日本人必読の文献と言ってもよいでしょう。(トップページ右下の「天使」のアイコンから入れます)
  また、このように頽廃する前の古き良き日本の姿を外国人の目でとらえた『逝きし世の面影』(渡辺京二・著/葦書房)も、ぜひ読んでいただきたい好著です。こちらもダイジェストにしてアップしていますので目を通していただきたいと思います。

 ● 『混迷日本にとどめを刺せ』(ヤコブ・モルガン・著/第一企画出版)
 ● 『逝きし世の面影』(渡辺京二・著/葦書房)
(なわ・ふみひと)  


64. 2014年2月08日 10:02:40 : DNxFUgbEEU
>>63
ボクチャン、なにあさってみたいなこと言っているの。
意味不明のバカコメくん(失笑)

チマタではネトウヨ〜バカウヨと君たち〜呼ばれているようだけど、ウヨとかサヨというカテゴライズは今日では時代錯誤だろう。

よってバカウヨ、ネトウヨとは呼ばず「バカ巻き」としよう。

バカコメを連発するのは、頭の悪い百田と同類だが、まあこの類の癖としては「妄想と自慰」が見られる。

目頭を吊り上げて世界中から滑稽かつ嫌悪感甚だしいマスターベーションを続ける。

祖国の恥だから君たちバカ巻きが信望する百田その他と尖閣で釣りでもしながらバカ巻き帝国の旗でも立ててよろしくやってくれたまえ。


65. 2014年2月08日 10:16:11 : aHFznFyPMc
↑ はい、人食い殺人中国人

工作 ご苦労さん 


66. 2014年2月08日 10:25:29 : c9U8mO2QiY

    >>62氏と>>63氏へ

    自分にとって都合のよい他人の意見や、文章だけをコピーして反論した気にならずに、>>19氏の一連のコメントのように自分の頭で考えた意見を述べてくれ。

    何が何でも日本は「無謬」でなければと思い込んでるようで、「自慰史観」といわれても当然だな。



67. 2014年2月08日 10:46:16 : aHFznFyPMc
、なにがなんでも日本が悪いというのが

「自慰史観」だろう。


 何も聞こえない、何も読めない、なにも考えられない。
 日本原罪史観で自慰かね。


68. 2014年2月08日 11:02:30 : DNxFUgbEEU
>>67
おまえらが拝み狂う自称先生の独りよがりを「自慰史観」というのだよ。

バカ巻きくん


69. 2014年2月08日 11:47:24 : aHFznFyPMc
68蕃くん

大分アタマ弱そうだが、日本人かね?
ここは2チャンネル以下の人間が来るところではないんよ。

わかる?


70. 2014年2月08日 11:58:00 : Q9wRwTSbk8
ネウヨ様
頼むから、働いて
消費税以外の税金納めてくれ。

晋三


71. 2014年2月08日 12:30:31 : aHFznFyPMc
なんだ、ここは中華餓鬼、キムチ餓鬼のたまり場だったか。

尖閣、竹島は日本の領土だ!

毛沢東主義反対!ウイグル、チベット侵略は許さないぞ。

覇権主義、侵略膨張中國共産党打倒!

嘘つき盗人朴クネはアホだ。

さあお前ら言ってみろ!


72. 2014年2月08日 13:07:32 : DNxFUgbEEU
バカ巻きはバカ巻き以外を中国、韓国人にしてオナルよなあ。

あんまりオナルと猿並みのなんとかが折れるぞバカ巻き

バカ巻きの「折れるな百田」より「折れるなバカ巻き」にしろよバカ巻き(失笑)


73. 2014年2月08日 13:46:57 : DNxFUgbEEU
>>69

バカ巻きくん

日本を慈しみ、バカ巻きを憐れむ日本人だが、なにかねバカ巻きくん。

バカ巻きの脳内感染じゃ、君たちバカ巻き以外は全て中韓にしたはるがね(大笑い)

バカ巻きも大変だね


74. 2014年2月08日 13:58:43 : K45yES1azA
日本の中華春巻きか(笑い)

尖閣は中国のものです、と言い兼ねないな。


75. 2014年2月08日 14:07:01 : DNxFUgbEEU
>>74
おまえがな国賊バカ巻きくん

76. 2014年2月08日 18:10:31 : VGslJhINdw
ネトウヨと紅衛兵は似ている
更に加えればネトウヨという宗教かもしれない

77. 2014年2月08日 20:55:53 : K45yES1azA
しかし、南京虐殺などなかったと言われたら
なんでそこまで舞い上がるのかね。
宗教の教義を冒すようなものなんだろうね。

シナの人間ならまだわかるが、
自虐洗脳済み日本人にはメッカかアウシュヴィッツなのかね。南京は聖地なのか。ちゃんと巡礼して南京の壁をいとおしく撫でてやったんだろうなあ。

わたしは通州を悼むし、満州引き揚げ日本人が朝鮮人などに20万人!?凌辱虐殺されたことを悼むがね。まあ、結局戦争を悼むことになる。
満州引き揚げ日本人の悲劇,.少女ヨウコの手記.ご希望なら紹介しようか?


78. 2014年2月08日 21:40:06 : dEju45RpwQ
広島、長崎そして東京大空襲 民間人が数十万殺された。
殺され方が違うだけとも言っていいのか。

79. 2014年2月08日 22:02:54 : esmsVHFkrM

というわけで、南京虐殺はなかったなどと主張する馬鹿はもう一人もいなくなったわけだ。

このスレは大変良かったんじゃないか。

自慰史観の右翼保守ネトウヨのみなさんにはいい勉強になったことだろう。

めでたし、めでたし。



80. 2014年2月08日 22:57:18 : 1Z5qkDhGrg
ケツロンがまったくマチガッテいるようだな、南京が中国共産党の聖地だったとはな。しかもあそこには中国共産党軍などいなかったのだがな。

81. 2014年2月09日 05:06:18 : 1Z5qkDhGrg
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/nankingmj.htm

「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています。
 日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。
 南京戦の最中、南京市内にいた民間人は全員、南京市内に設けられた「安全区」に集まっていました。日本軍はそこを攻撃しなかったので、安全区の民間人らは誰一人死にませんでした。
 日本軍による南京占領が間近に迫ると、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、武器を隠し持ち市街戦を準備する者、また安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせる反日工作の者たちもいました。
 日本軍は彼らを見つけ出すと、彼らのうち特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面もあります。
 しかし日本軍は、一方で、市民や捕虜に対し多くの人道的援助活動を行なっています。その結果、日本軍占領下で飢えのために死ぬ南京市民は一人もいなかったのです。また日本軍の活動に感激して、そののち汪兆銘の親日政府軍に入った中国人捕虜たちも多くいました。
 南京において非道行為を行なったのは、むしろ中国兵たちでした。軍服を脱ぎ捨てて民間人の中にまぎれこんだ中国兵たちは、裸でまぎれこむわけにはいきませんから、民間人の服を奪うために民間人を殺しました。そうしたことをエスピーというアメリカ副領事その他の人々が目撃しています。虐殺を行なったのは日本軍ではなく、中国兵たちだったのです。
以下はその詳細です。


82. 2014年2月09日 05:13:35 : 1Z5qkDhGrg
にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。ですから、南京から逃げ出そうものなら、彼らに撃ち殺されるかもしれません。
 実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。ダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。
 「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P571 青木書店)
 つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。
 そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。
 そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。

83. 2014年2月09日 05:21:05 : 1Z5qkDhGrg
し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。
 「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。
 また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。
 「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号 阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ)
 また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。
 また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです。

市民・捕虜と日本兵の交流・温情

 南京を占領した日本兵たちの、市民や捕虜に対する態度は実際はどのようなものだったのでしょうか。以下は彼らの証言です。

「敵の大軍は、わが軍のために完全に撃破されました。見れば、幾十となく敵の死体がころがっております。中にはまだ虫の息でうねっておる者さえおります。これを見られた隊長が、『苦しいか、今、薬をやるぞ』と何かやられますと、一兵士は目を開けて、『水、水』と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、『謝、謝』(シェーシェー)と伏し拝みました。……今までにわが中隊では幾十人となく、敵


84. 2014年2月09日 05:31:35 : 1Z5qkDhGrg
 また梶村 止(かじむら・いたる)少尉は、南京戦に参加したのち、南京から上海方面に移動しました。1938(昭和13)年1月15日の彼の日記によると、上海付近に駐屯していたとき、近くの村人が中国兵に襲われ、梶村少尉の隊に救いを求めてきました。しかし村人に案内され、梶村少尉一行30余名が現場に急行したときは、敵の40〜50名が逃走したあとでした。梶村少尉はこう記しています。「自国の兵隊の悪事を、自国民の敵軍に報告。討伐を願うという矛盾が、とりもなおさず支那軍隊がいかなるものであるか、この一時にて判断できる」。また梶村少尉らが村を立ち去るとき、村人らは「非常に名残を惜しんでくれた」と書いています。(同p.188)

 アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。

 南京のアメリカ領事館の副領事ジェームズ・エスピーが行なった報告にも、南京陥落時の中国兵の行動について書かれています。「中国兵自身も略奪と無縁ではなかった。……日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われた。気も狂わんばかりになった中国兵が、軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」(エスピー報告)

 福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者は、南京に入ったのち、安全区にいる中国人夫妻にインタビューを行ない、記事にしました。以下はその抜粋です。
「記者 日本軍がやって来たとき、君たちはどこに何をしていたか。
 黄  私たち夫婦は、国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った難民区にいました。……中央軍の支那兵が銃創を持って夜となく昼となく代わる代わるやって来て難民を検察し、食糧や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも巻き上げていきました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました


85. 2014年2月09日 05:37:14 : 1Z5qkDhGrg

 いったいどれほどの中国兵が安全区内に隠れ、こうした反日攪乱行為を繰り返していたのでしょうか。ニューヨークタイムズ1937年12月17日付には、こう報道されています。

 「昨日、南京の日本軍司令部(が発表したところによると、今もなお)…市内には、軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられている」(南京事件資料集・アメリカ関係資料編p.415 青木書店)

 つまり、この時点でなお非常に多数の中国兵が、民間人の服を着て隠れていると考えられていました。全員でないとしても彼らの多くは、安全区内で「掠奪、脅迫、強姦」にたずさわり、それを日本兵がやったようにし、反日攪乱行為を続けていたのです。小林よしのり氏もベストセラー『戦争論』の中で、「南京の安全区に二万人の国民党ゲリラが入り込み、日本兵に化けて略奪・強盗・強姦・放火を繰り返し、これをすべて日本軍のしわざに見せかけていた」と書いています。
 また、大阪朝日新聞1938年2月17日付はこう報道しています。

 「皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る 【同盟南京二月十六日発】
 皇軍の南京入城以来、わが将兵が種々の暴行を行なつているとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わっているので、在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところ、このほど漸くその根源を突き止めることが出来た。
 右は、皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いていた憎むべき支那人一味であるが、憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。
 この不逞(ふてい)極まる支那人は、かつて京城(現在の韓国ソウル)において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で、皇軍入城後日本人を装ひ、わが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、…三ヶ所を根城に、皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し、強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数で、襲はれた無辜(むこ)の支那人らは、いずれも一味を日本人と信じきつていたため、発覚が遅れたものであるが、憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである」


86. 2014年2月09日 05:41:48 : 1Z5qkDhGrg

ジョン・ラーベのリポート

 この南京国際委員会の長は、ドイツ人のジョン・ラーベという人でした。
 彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
 「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
 と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
 またラーベは、同じ日に、
 「日本兵たちは、市内をめぐり、10〜20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
 と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
 「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
 この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
 また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。
 ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。
 実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
 このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。
 松井大将の元・私設秘書だった田中正明氏は、このラーベが書いた報告書や日記には数多くの矛盾点があると批判し、こう述べています。

 「12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した。…しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える』。全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。…
 ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。…
 金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。…ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?…
 ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする」(講談社刊『南京の真実』は真実ではない!)


87. 2014年2月09日 05:47:19 : 1Z5qkDhGrg
になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。
 このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。実際、マッカラムの1938年1月8日の日記にこんな記述があります。マッカラムは、ある中国人避難民が、
「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」
 と言うのを聞いた、と書いているのです。安全区にいた避難民たちの中には、そこで起きていた強姦や、略奪、その他の事件の多くは、じつは中国兵らによる反日撹乱行為であることを知っている者たちもいたわけです。
 しかし、詳しい検証もせず、うわさをそのまま信じ込んでいたのが、委員会のメンバーたちでした。彼らはそのために、南京には「日本兵の暴行があふれている」と思い込んでいたのです。これについて竹本忠雄、大原康男・両教授も、こう書いています。
 「安全区に設けられた19カ所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり4000名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴォートリン女史が務めたほかは、すべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。難民収容所の責任者たちが主張した『日本軍兵士の犯罪』を額面通り受け取ることは、きわめて危険だと言えよう」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
 両教授はこうも書いています。
 「そもそも当時の南京には、女性は安全区にしかいなかった。そして日本軍司令部は、安全区に集中している外国権益を保護し、安全区委員会メンバーとの無用の摩擦を避けるため、また、多数の中国軍兵士が潜伏していて危険であるとの判断から、日本軍兵士に対し安全区への立ち入りを禁止した上、要所に見張りまで立てた。このため日本兵は勝手に安全区には入れなかったし、危険を侵してまで入ろうとする兵士もいなかった」(同)
 先に見たように、南京で起こった強姦事件のうち7件は、実際に日本兵が犯したものであり、犯人は処罰されています。また他に、日本軍が調査していたものも数件あり、計10件程度ありました。あるいは、知られていないものも含めるとすれば、多くて数十件程度の日本兵による犯罪があったと考えられるでしょう。
 しかし他の大部分は、隠れていた中国兵らによる犯行だったと言ってよいのです。また委員会メンバーの記述には、憶測、誇張、デマ、誤解等も少なからず含まれていました。

88. 2014年2月09日 05:51:53 : 1Z5qkDhGrg
!?マギー・フィルムの真相

 日本軍による南京占領の期間中、その光景をアメリカ聖公会の牧師ジョン・マギーは、8ミリフィルムに残していました。そのフィルムは、のちに日本の残虐性を表すものとして、虐殺肯定派の間でよく使われました。
 しかし、実際にその映画を見ても、明らかに虐殺されたとわかる死体は一つも映っていません。字幕は「日本軍の暴行」等とつけられているものの、日本兵が捕虜を処刑しているシーンも、何千もの死体シーンもなく、映っているのは、ほとんどが生きている人々ばかりです。
 またマギーは東京裁判で、「あちこちで殺人が行なわれていた」と証言したものの、「あなた自身が目撃したものはありますか」と聞かれて、「一つだけあります」と答えました。しかし、それは日本兵が、民間人に化けた中国兵の掃討作戦をしているとき、不審な中国人をみて身元を尋ねると急に逃げ出したので、撃ったというものでした。これは合法的なものです。彼は非合法の殺人を一件も見ていません。つまりマギーは、30万人虐殺も、4万〜5万人虐殺も見ていないのです。
 またマギー自身が目撃したものとして、ほかに強姦事件が一つ、盗みが一つありました。あとはみな伝聞でした。この「強姦事件」というのも、日本兵がある中国人男性の妻のもとへやって来たのを目撃したというものですが、マギー自身は強姦現場を見たわけではありません。その日本兵は、その中国人妻かその夫に不審な点を見出し、問いただそうとやって来たのかもしれません。また「盗み」というのも、ある日本兵が中国人の家からアイスボックスを持って出るのを目撃したというものです。このようにマギー自身は南京陥落の前も後も市内にずっといたのに、「日本兵による大規模な残虐行為」は一つも目撃していないのです。
 もっとも、マギーが記した「南京市内で起きたむごたらしい一家惨殺事件」は有名です。彼のフィルムにも、その事件でかろうじて生き残ったという少女の姿が映っています。ところが、この惨殺事件には大きな矛盾点があります。事件は次のようなものでした。

「12月13日、約30人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は、馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏を撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。
 夏夫人は、1歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の76歳と74歳になる両親と、16歳と14歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。
 妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が二、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の7〜8歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、4歳と2歳になる馬氏の二人の子どもであった。
 年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負った8歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった4歳の妹と14日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。…兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった」

 この恐ろしい事件について、マギーは、この「30人の兵士」は日本兵であったと考えていたようです。しかし結論からいうと、この兵士たちは、日本兵ではありません。
 なぜなら、まず、マギーはこの話を「(生き残った)8歳の子から部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した」と書いています。つまり、これは伝聞であるだけでなく、さらに他者の話をも合わせて「修正」された話です。
 さらに、東中野教授によれば、12月8日以降、南京市民は中国軍によって全員「安全区」内に強制的に集められていました。ところがこの一家は、安全区の外側にいました。マギーは事件の日付を12月13日と書いていますが、この日は日本軍の安全区外への砲撃が強く、日本軍が市内に入ってくる日ですから、その日に安全区外にいることは最も危険なことです。にもかかわらず彼らが安全区外にいた、ということは、この事件は実際には12月13日に起きた事件ではないと考えられ、本当は12月8日以前あるいは13日以前に、中国兵たちによって起こされた事件と考えられるわけです。
 さらに、「膣に瓶を押し込む」「膣に杖を押し込む」などといった殺し方は、まさに中国式です。中国には昔から、そういうむごたらしい殺し方をする風習がありました。日本兵はそんな殺し方はしません。このように、どうみてもこれは中国兵たちの犯行なのです。


89. 2014年2月09日 05:58:39 : 1Z5qkDhGrg
マイナー・ベイツの虚偽報告

 マイナー・ベイツは、南京国際委員会においてリーダー的存在となっていました。彼は、東京裁判における主要な証言者です。「日本の残虐」を世界に広めた中心的人物といっていいでしょう。ベイツは、戦後の東京裁判で、
 「日本軍侵入後、何日ものあいた私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました」
 と証言しています。ところが、これらは真っ赤なウソでした。
 なぜなら、「東京日日新聞」の若梅、村上両特派員は、占領2日後の12月15日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れ、インタビューを行なっています。その時ベイツ教授は、上機嫌で2人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しています(東京日日新聞 昭和12(1937)年12月26日)
 さらにそのとき両特派員は、「家の近所の路で射殺された民間人の屍体がゴロゴロしている」というような光景は見ていません。12月13日に南京城内に入った第6師団の歩兵第13および47連隊の日本兵たちも、
 「(南京城内では)敵兵はもとより住民の姿さえほとんど見なかった」
 と証言しています。同じ日、南京城内に入った都新聞の小池秋羊記者も、
 「城内はどの家も空き家で、物音一つしませんでした。犬、ネコの姿一つ見受けられず……」
 と証言しているのです(南京事件p.144)。誰も、「路にゴロゴロ横たわった民間人の屍体」など見ていません。
 一方、南京の安全区に逃げ込んだ中国兵を掃討する作戦を担当した第7連隊の兵士たちも、連隊に発せられた命令は、「市民を殺すな。皇軍の名を汚してはならない」であったと証言しています。彼らは、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と述べています。
 またベイツと同様、南京安全区内で日々を過ごした同盟通信の特派員・前田雄二氏も、ベイツの言ったような虐殺死体の存在を否定して、こう述べています。
 「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
 こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」(内外ニュース社発行「世界と日本」 59・4・5、413号)
 ベイツは、南京で虐殺があったと証言したものの、実際に虐殺死体を自分の目で見たわけではありません。彼の報告はすべて伝聞体です。南京国際委員会が提出したあの「被害届」においても、殺人の事例の「証言者」の欄にベイツの名はありません。アメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められたときにも、ベイツはその証明ができませんでした。

ベイツによるすりかえ

 マイナー・ベイツはまた、
 「埋葬死体の証拠からみると、4万人近くの非武装の者が、南京城の内外で殺された。そのうち約30%は兵士になったことのない者たちだった」
 と書きました。ベイツがいった「埋葬死体の証拠」とは、「紅卍会」による埋葬をさしています。日本軍は、ほとんどの戦死者の埋葬作業を、中国人の団体「紅卍会」にまかせました。彼らが埋葬した数は、約4万人に及びました。
 ベイツは、「4万人近くの非武装の者が・・・・殺された」と書いていますが、彼ら埋葬された死者は、実際には武装した中国兵の戦死者たちであって、決して「非武装」の者たちではありません。中国兵の多くは逃げる際、軍服を脱ぎ去って逃走しました。彼らは死んだとき軍服を着ておらず、その死んだ姿は民間人とかわりありません。ベイツは、実際は武装した中国兵の死者を「非武装の者」と書き、あたかも民間人の大量虐殺があったかのように、すりかえているのです。
 またベイツは、そのうち30%は純粋な民間人だった、と述べましたが、竹本忠雄、大原康男・両教授によれば、紅卍会による埋葬死体のリストを調べると、「女性と子供の比率はわずかに計0.3%」でした。しかもこれは日本軍による南京戦のときだけでなく、翌年の1938年7〜8月の埋葬死体も含んでのことですので、もし南京戦の死者だけに限れば、女性・子供の比率は0.3%以下になります。
 もし日本軍が民間人を虐殺したのなら、埋葬死体の中にはおびただしい女性や子供も含まれていたはずです。しかし女性や子供がほとんど含まれていなかった事実は、日本軍による民間人虐殺はなかったことを示しているのです。
 また、先にエスピーが述べたように、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人を殺して服を奪い、民間人の中にまぎれこみました。埋葬死体4万人の中には、そうした民間人の大人男性の死体も数千体以上含まれていたでしょう。彼ら民間人を殺したのは、日本軍ではなく、中国軍なのです。「0.3%の女性・子どもたち」に関してさえ、その多くを殺したのは中国兵たちだった可能性が高くあります。
 しかしベイツはそうした中国兵たちの悪行には何一つふれず、すべてを日本軍のせいに見せかけ、日本軍の悪行を声高に世界に発信しました。
 さて、日本軍による南京占領から5日後、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに、「南京の街路は、女子供を含む民間人の死体で満ちていた」という記事が載りました。これは一体どういうわけでしょう。これはティルマン・ダーディン記者の記事ですが、やはりダーディン自身が見た事柄ではありません。なぜなら、彼はこれを「南京の外国人は……目撃した」という伝聞体で書いているからです。
 じつは、これはダーディンが12月15日に南京を去るとき、ベイツから聞いた話でした。ベイツは1938年4月12日の自身の手紙の中で、12月15日に南京を去るダーディンはじめ欧米の特派員らに、南京の状況を書いたリポートを渡したと書いています。つまり情報の発信源はベイツでした。
 また1938年、ティンパリー編著の『戦争とは何か』という本が出版されました。この中で「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴え、その後の日米戦争の一因となった本です。しかしティンパリーは上海にいた人で、南京にはいませんでした。じつは、その情報はベイツからもたらされたものでした。そう、ティンパリー自身が本の中に書いています。つまりこれもまた、ベイツが発信源でした。
 ベイツはこのようにして、「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
 ベイツは、じつは蒋介石率いる中国国民党の顧問でした。国民党の戦略は何だったか。それは、たとえ虚偽を用いてでも「中国の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に訴え、アメリカを味方につけて日中戦争に巻き込み、アメリカが日本を叩きつぶしてくれるようにすることでした。そのため、ベイツはこの国民党の戦略に沿って、日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのです。
 国民党の戦略について、アメリカのジャーナリストで、中国国民党宣伝部の顧問であったセオドア・ホワイトは、こう書いています。
 「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」(『歴史の探究』p.76)


90. 2014年2月09日 06:02:42 : 1Z5qkDhGrg
スマイス調査が証明する「日本軍による民間人死者は少なかった」

 最後に、南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月〜1938年3月』)をみてみましょう。これは南京城内とその周辺地域における人的・物的被害を調べたものであり、加害者が日本軍か中国軍なのかを特定していないものの、被害の実態を知るうえで貴重な資料です。
 調査方法は、市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したものです。大雑把な調査ではありましたが、南京における唯一の学術的調査といっていいものです。これは「南京大虐殺」を肯定するものでしょうか。否定するものでしょうか。
 このスマイス調査によれば、南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。また、これは「犯人」を特定せず、被害だけの数字であり、その中には、じつは日本軍による死者よりも、中国軍による死者のほうが多数含まれているのです。
 というのは、ダーディン記者の記事にもあったように、中国軍は、南京城外の農村地区のほとんどを焼き払いました。そこでは、多くの中国人が死んだのです。また、安全区の中国人が証言していたように、中国軍は働ける男をみれば拉致して兵士にするか、労役に使いました。またエスピーの報告にもあったように、中国兵は軍服を脱ぎ捨てて民間人に化ける際、服を奪うために民間人を撃ち殺すことも多かったのです。このようにスマイス調査が示す民間人死者のうち、その大多数は中国軍による死者と言ってよいのです。
 すなわちスマイス調査は、日本軍による民間人の死者はわずかであった、ということを証明していると言ってよいでしょ


91. 2014年2月09日 06:51:37 : OWdgx2BhYY
自分の目で見たか?見てのコメントントならよし。
そうでなければ自分でしらべよ、歴史的文献、世界中から集めよ。
祖でなければ ”とある国家のプロパガンダ”
馬鹿は寝てろや!

92. 2014年2月09日 08:26:10 : c9U8mO2QiY

    >>81: 1Z5qkDhGrg氏へ

    自分にとって都合のよい他人の意見や文章を持ち出して、あたかも自分が体験したかのようなことを言ったり、自分にとって都合のよい他人の意見や文章を適当に解説して誤魔化さずに、>>19氏の一連のコメントのように自分の頭で考えた意見を述べてくれ。

    他人の言葉を借りねば何もいえないのは、情け無いことだよ。



93. 2014年2月09日 10:33:59 : JWdZfF1FyQ
まだあったかないかで揉めてるのかw
ないと言ってるやつは反論の手口がいつも同じだからわかりやすい。
あったことをあったけれど便衣兵や中国による予めの殺戮を日本のせいにするための策略と言い換えたり。
まあ、あったんだからあったと認めるしかないわな。

94. 2014年2月09日 11:04:36 : OaC4FtsfPc
なに上から目線で言っているんだ。字も読めないジジイが偉そうに言 うなと言っているのだ。
俺の意見だと? 南京虐殺は中国、アメリカ、欧米,耶蘇の捏造だと言っているだろ、、。、、
日本語も読めない情報無知が自分の言い分でも言ってみろ。
南京は無知な左翼の聖地です、だろ。

コミンテルンの陰謀はまだ続いて煎るんだよ。マヌケ。

日本共産党が引き継ぎ、アメリカの日本人洗脳プログラムに中国,朝鮮ともに共同謀議を行っているのが現況だ。

上に紹介したものは南京事件を実証し捏造を裏付けるものを紹介した、、
勝手に意見をわたしが入れる訳がないだろう。
日本軍南京虐殺説は謀略と風評によるものだ。朴クネの嘘つき外交と同じだ。
わかったか、ジジイ。
しかし,最近の似非左翼は上から目線で,知性は低いことあfきれるばかりだ。

最後kに、ハルノートはルーズベルト政権内のコミンテルン共産主義者によって
作成されたことも無知な似非左翼は知らんだろう。

百田、もっとやれ! 他のやつらもっとやれ!

嘘つきヒト食い残虐殺人鬼の嘘を暴け,日本人!

ジジイわかったか!?俺の意見が! キチガイ似非左翼どもはネトウヨ以下の知能だ。世界の恥だ


95. 2014年2月09日 11:08:37 : OaC4FtsfPc
93番。
典型的中国工作人カキコ。
日本人じゃない、

96. 2014年2月09日 11:26:55 : OaC4FtsfPc
93番の追加
あったんだから認めるしかない?!
それがぬすっと中国人の言い分んsんだよ。
理屈などない。
帰れよ、殺人大陸に

97. 2014年2月09日 11:56:03 : esmsVHFkrM

>>81、1Z5qkDhGrg殿、

あれあれ、南京虐殺がなかったなんて主張する馬鹿がまだいたか。

>>81から>>90まで長文をすべて読ませてもらったが、これはみんなネットの右翼保守系サイトに書かれた反証なるもののコピペだな。やれやれ、まだこんな馬鹿げた議論を反証だと信じ込めるものだとその無知蒙昧ぶりの呆れるやら感心するやら楽しませてもらった。

君たちの「反証」なるシロモノは、常に以下のトリックというかペテンから成る。

1. 第三者である外国人証言の「それは見ていない」部分を切り出して第三者外国人もなかったと証言していると主張する。

2. 大事な部分(例えば便衣兵が多数いた)は第三者外国メディアの記事を引用するにしてもそれは日本側発表の報道で、結局は日本側の主張にすぎない。

3. 被害者、第三者外国、日本側兵士の南京虐殺証言については、すべて長い年月を経ての証言に不可避の曖昧さや記憶違い等の些細な誤りを捉えて、だから証言の全体が嘘で証人そのものが嘘つきだと主張する。

このようなトリックがまったくナンセンスなのは誰の目にも明らかだ。しかし日本の右翼保守ネトウヨは、その持ち前の無知蒙昧からそれでもそんなトリックを主張し続けて恥じない。

だからわたしは>>16>>19を書いた。日本側の一次資料によって南京虐殺は発生当時から日本政府と軍中枢にその存在と深刻さが認識されその対処に苦慮されその後も皇族の耳に入るほどの不祥事として語り継がれていたことを論証した。

当時の日本政府と軍があるとしていた南京虐殺が、戦後生まれの右翼保守ネトウヨにないとされることなどあり得ない。日本側の当事者があったとしていたものがなくなるはずがない。これは何者も否定できない当然の道理だ。

まだ足りないとでも言うのなら、駄目押しに、陸軍士官の親睦団体である階行社が行った南京虐殺否定のための会員ならびに兵士からの否定証言募集が南京虐殺存在の確認に終わった顛末をここに書こう。まさか陸軍士官の調査結果とその総括である「南京戦史」までもはさすがの右翼保守ネトウヨでも否定できまい。

「南京戦史」は「階行」(階行社の親睦雑誌)紙上に連載された畝本正巳編「証言による南京戦史」を元にしている。畝本正巳は陸士第46期、戦後防衛大学校教授だ。

畝本は、「東京裁判という報復的政治的裁判を発端として、一部日本人の告発記・研究発表により『二十万〜三十万虐殺』『野蛮・非人間的な日本軍の蛮行』という誤った南京大虐殺説が定着しつつある」現状に危機感を持ってこの「証言による南京戦史」連載を開始したとして、南京攻略戦に参加した将校からの証言を募集した(『階行」1983年11月号)。

ところが、始まってみるとそのような意図とは反対に「虐殺をやった」「見た」という証言や記録がかなり出てきてしまい、連載終了後の編集部加登川幸太郎執筆責任による「その総括的考察」において以下のように認めざるを得なかった。

加登川の総括は、中支方面軍司令部の下克上的な指導も含めて、捕虜の処理の適正を欠いた根本の責任は軍上層部にあるが、しかし、前線部隊にも軍紀・風紀の乱れがあり、椋奪・暴行などの不法行為が多発した事実を認め、その傍証としてそれらの非行を戒るために出された異例な陸軍参謀総長閑院宮載仁親王の軍紀・風紀引き締めの訓示とそれをうけて中支方面軍参謀長塚田少将からだされた「軍紀風紀に関する件」と題した依命通牒(私の>>16参照)を紹介した。また、「南京事件はその当時、すでに軍によって大きな問題として扱われていたようである」と指摘して、その傍証として、西義章中佐、本間雅晴参謀本部第二部長を南京に現地調査に派遣して(私の>>16参照)その事実を確認した上で上記参謀総長訓示を出したことを挙げている。さらに「長嘆息のほかはない」として「こうした事情は当時は、もちろん、世人の目にも耳にも伏せられていた。それを今日、この戦史の結びとすることにはまことに残念であるが、すでに公にされた資料に基づく真実であって如何ともしがたい」と述べている。(『階行」1985年3月号)

この階行社南京戦史編集委員会からは、『南京戦史』(階行社1989年)、『南京戦史資料集』(階行社1989年)、『南京戦史資料集II』が出ている。『南京戦史資料集』と『南京戦史資料集II』には『南京戦史」を執筆するために収集した資料およびその後収集された資料(防衛庁(当時)防衛研究所に所蔵されていたものを中心に)が収録されている。すなわち、松井石根中支方面軍司令官以下、参謀、師団長さらに下士官、兵にいたるまでの陣中日誌や、軍中央、中支方面軍、上海派遣軍、第10軍の作戦命令や、軍、師団、各部隊の通牒、訓示、作戦経過概要、戦時旬報、戦闘詳報、陣中日記など、戦争終結直後の焼却を免れた多くの記録文書である。

南京戦に関連して、日本軍の公式記録と司令官・参謀・師団長クラスの日記がこれほどまとまって資料集に収録されたのは画期的で、これによって、南京事件を上海から南京への進撃と攻略そして占領といった具体的な歴史展開に即して分析することが可能となった。各部隊の戦闘詳報、陣中日誌、指揮官の陣中日記には、各部隊が処断・処分(即ち殺害)した捕虜や投降兵、敗残兵の数が記録されていて殺害者数を推定する基本資料となっている。ただし、これらは南京戦参加全部隊の約三分の一の分に過ぎず、残りの三分の二は戦争終結時に焼却隠滅されたらしく、依然行方不明だ。

君がまだ「南京虐殺」が捏造だと言うのなら、存在する資料を、階行社の「南京戦史」とその資料を含めて、すべて否定してみせてもらいたい。自分たちの主張に都合のいいものだけでなく、すべての資料と証言をが偽りで捏造であると証明してみせなければそれは南京虐殺がなかったことの証明にはなり得ない。

そんなことできならもう嘘ばかり言うな。

やったことをほとぼりが冷めたからと言って「やってない」と言い張るのは卑怯だ。わたしは、そして、日本人はそんな卑怯者じゃない。

日本の名誉を汚すのはもう許さない。

以上だ。



98. 2014年2月09日 13:08:30 : JWdZfF1FyQ
あったものはあった。
それに尽きる。
>>97さん、お疲れさんですw
IDは変わっていますが>>13です。
>>13で紹介した吉田裕氏の講演を記録したサイトからのコピペです。
といってもネトウヨたちは「あー聞こえないあー見たくない」状態だろうでしょうけどねw

2)奥宮正武『私の見た南京事件』
それから奥宮正武、『私の見た南京事件』。 これが97年にPHP研究所から出ています。 奥宮さんというのは有名な海軍出身の軍事評論家、パイロットです。 日中戦争中に南京の内外でかなり海軍機が撃墜されているんですね、 その墜ちた飛行機に乗っていた日本兵の遺体を捜索する活動にあたっていて、 南京陥落直後に南京に入って、城内を車でずーっと回った経験があるんですね。 それで虐殺の現場を目撃してるんです。それを非常に率直に書いています。 それと彼は、虐殺数は大体5万人ぐらいではないかとして、秦郁彦説を採っています。 なおかつ、この本の面白いところは、 先ほどの藤岡信勝の自由主義史観を罵倒してるんですね。 そういう人がいるから日中の友好ができないんだ、ということを非常に強く、 これにはちょっとびっくりしました。 保守派の軍人で、 どちらかというと太平洋戦争肯定論で対米開戦止む無し論に近い人なんですけれど、 その人からこういう意見が出てくるんだなあということで、 ちょっと意外な気がしたんですけれど、 ともかく彼は自由主義史観のような言説は日中友好にマイナスであることを 非常に強く言って、藤岡信勝氏を名指しで批判しています。

(3)福田和也「南京大虐殺をどう読むか」
こういう論文が出ました。若手の自称右翼の福田和也ですね。 今、保守系論壇の売れっ子ですけど、 彼が『諸君』の97年の12月号に「南京大虐殺をどう読むか」という論文を書いて、 この中で大体5万人くらいの虐殺はあった、ということをいいます。 これに小林よしのりなんかは頭に来るわけですけど、 福田和也のいっていることは結構おもしろくて、 自由主義史観や新しい歴史教科書を作る会の人たちは日本軍はシロであったと、 そのことだけを論証しようとしている。 じゃあクロだったらどうなんだ、クロだったらあなたがたは自分の国を愛せないのか、 ということをいうんですね。 これはちょっと面白い言い方で、間違いを犯した国であったとしても、 自分は愛国者だから愛するんであって、 シロだったということを論証する必要はないんだと、これは大分論争になりました。

(4)中村粲「『南京事件』の論議は常識に帰れ」
それから、中村粲という正真正銘の大東亜戦争肯定論者ですけど、 彼は『正論』の99年の5月号に 「『南京事件』の論議は常識に帰れ」っていう論文を書いています。 面白いんですが、あの藤岡信勝批判なんですね。 藤岡信勝氏は、彼は書いたものがないもんですから、講演なんかの記録を読むと、 ついに南京大虐殺0説に移行したようなんですね。 それをめぐって中村さんと論争になって、 中村さんの場合は「南京事件の光と影」というんですね。 光の部分もあったが影もあった。 光というのは日本軍の入城によって治安が回復した、これを光だと、 これもかなり強引な主張ですけど、それは仮に認めてあげるとして、 影の部分は投降兵とか捕虜の虐殺、市民の虐殺、 そういうものがあったということは否定できないと、そういうことをいっています。 彼は参戦者だった兵隊からある程度聴き取りをしているようで、それもあるようで、 影の部分まで否定するのはおかしいということをいって、常識に帰れといって、 藤岡信勝氏を批判しているんですね。 藤岡信勝氏は太平洋戦争肯定論はとらないし、 左翼の東京裁判批判もとらないというころから出発して、 中村粲批判もしていたんですが、 その中村さんから今度は常識に帰れっていわれるようになったんで、 これはもうほとんどお終いじゃないでしょうか。

http://www.jca.apc.org/nmnankin/news6-12.html


99. 2014年2月09日 13:20:19 : OaC4FtsfPc
やってもいないことをやったと言って俺は卑怯じゃないとは実に卑怯な言い分hだ。自分の卑怯さを棚にあげるな。、
あんたたがやったなら出るところに出て証言しろ!
それが出来ないなら偉そうに言うな、ジジイ!

処刑は処刑であって虐殺とは言わない。階行者の証言軍人こそ出頭し、処分なり、謝罪させるべきだったな。
あんたはそれをしなかったのかl卑怯者。それとも匿名成り済まし軍人の証言か!?戦後のたもその仲間ならやってもいない日本人に向かってやったなどと言うな!
あんたが?あやまりなさい。
戦後の日本人は謝る筋合いはない。時間的認知障害ジジイが偉そうに言ってるんじゃねーよ、
お前らのお陰で戦後の日本人がどれだけ迷惑していると思っているのか!
あんたが虚勢を張る中国共産党の人間じゃないなら、名を名乗って、南京城で切腹して来いよ。ジジイ


100. 2014年2月09日 13:32:25 : OaC4FtsfPc

まあ証言は限りなくある。
南京虐殺はあったという党是、社是、信仰も人間には日本侵略史観のシナリオに沿っているのだから、オウム信者に何を言ってもムダだ。
あんたがた愚かさを後世に伝えるのみだ。

何度も同じコピペを繰り返しすな! 洗脳作業やるなよ、反日ども。
::::
 一方、南京の安全区に逃げ込んだ中国兵を掃討する作戦を担当した第7連隊の兵士たちも、連隊に発せられた命令は、「市民を殺すな。皇軍の名を汚してはならない」であったと証言しています。彼らは、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と述べています。
 またベイツと同様、南京安全区内で日々を過ごした同盟通信の特派員・前田雄二氏も、ベイツの言ったような虐殺死体の存在を否定して、こう述べています。
 「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
 こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」(内外ニュース社発行「世界と日本」 59・4・5、413号)
 ベイツは、南京で虐殺があったと証言したものの、実際に虐殺死体を自分の目で見たわけではありません。彼の報告はすべて伝聞体です。南京国際委員会が提出したあの「被害届」においても、殺人の事例の「証言者」の欄にベイツの名はありません。アメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められたときにも、ベイツはその証明ができませんで


101. 2014年2月09日 14:08:32 : esmsVHFkrM

>>99をご覧ください。これが日本の右翼保守ネトウヨです。

事実をもって南京虐殺否定論が論破されると必ずこのような罵詈雑言に走ります。まるで「お前の母さん出べそ」と言いたてることで口げんかに勝とうとする小学生のようです(今日日の小学生はもっと大人ですが)。

右翼保守ネトウヨの南京虐殺否定論なるものはこのていどのシロモノです。わたしが>>97で指摘したトリック以外のなにものでもないのです。トリックが破綻すれば「お前の母さん出べそ」を言いたてるばかりです。もともと事実に基づいた議論でもなければ事実を受け入れようという姿勢などはなからありません。

右翼保守ネトウヨの主張は事実の検討以前にはなから決まっています。日本は無謬の「美しい日本」である、だから南京虐殺はない、です。後は南京虐殺はなかったと主張するためのトリックを組み上げるばかりです。そのためには被害者や第三者外国人や日本側将兵の証言もみんな嘘だ、嘘つきだです。冷厳な事実などはなから無視して妄想の中で中国人を欧米各国人をそして正直で勇気あるまともな日本人に対して憎悪をかけたてるばかりです。

これこそが右翼保守ネトウヨの自慰史観です。現実から逃避して自分の好きなように日本を美化してやまない、ひとりよがりの妄想です。

彼らがなぜこんな愚かな自慰史観に走るのかと言えば、それは彼ら右翼保守ネトウヨがあるがままの過去の過ちや失敗を含めたそのままの日本を愛することができないからです。それが極道であろうが、ニートであろうが、なんであろうが、現実の人生においても傷つけられた自尊心は、自分が唯一誇りを持てる無謬の「美しい日本」の日本人でなければ癒すことができないからです。

まさに、「愛国心はならず者の拠りどころ」なのです。

わたしたちは、こんな「ならず者の愛国心」に反対します。右翼保守ネトウヨの自慰史観を厳しく批判します。

まともな日本人はあるがままの過去の過ちや失敗を含めたそのままの日本を愛さずにいられません。日本を愛するのに日本を無謬であると主張する必要がありません。

これがほんとうに愛国心です。これがまともな日本人の心です。

南京虐殺はあった。あったものはあった。

そう言い切れる知恵と勇気こそがまともな日本人の誇りであり愛国心です。

みなさんには右翼保守ネトウヨの典型である>>99さんのコメをよくご覧になってお考えいただきたいと思います。


102. 2014年2月09日 14:21:20 : OaC4FtsfPc
97番のジイ さん。
階行社への匿名投稿ってこのことか?80年も前のことだ

当時の事実が明らかにされるにつれ、歴史の評価は変わる。
歴痔はあんたがたファシスト中国共産党と無知な似非左翼日本人の常識に反し事実
を持って修正されることが正しい。日本軍の資料焼却は当然の処置だろうが、GHQ
の言論統制下、焚書坑儒のあとでは占領国と日本の共産化を狙う日本共産党や朝日の
歴史認識が歴史認識を塗り潰しって来た。
日本は悪逆非道な軍隊で朝鮮も満州も東南アジアを侵略した悪の国家で、その戦争犯罪を真摯に反省し、例えば尖閣や沖縄に中国共産党軍が進攻して来ても無抵抗で戦わず降伏しろとこういう刷り込みがなされている。
そのような時代背景の歴史認識を教義とする左翼反日カルトの存在はまったく容認しない。
わたdしは9条を変更する必要も安倍の内政も支持しないが、お前ら反日ファシスト中国共産党カルトはNSCや特定機密保護法、反国家活動、テロ防止法、スパイ防止法の適用で内務省特高公安警察が内偵チェックを開始していることを願っているぜ。お笑いだな。


103. 2014年2月09日 14:47:48 : OaC4FtsfPc

今日から真正保守右翼にされvはいましたねえ。
嘘で塗り固めた自主独立精神を失った人間は国民と言える存在ではないゾンビに過ぎない。何が出べそだ。アタマいかれてるな。
善人ぶる者を偽善者、嘘つきと言うなのだよ。
また気がついたが、南京についての議論のいわゆるネトウヨに対する誹謗はまさに自分のやっていることだ。
これも中国朝鮮の手口だ。
南京虐殺は中国人がやったことだなやはり。
戦時だから、すべて清廉潔白というわけにはいかないだろう。
部下を置き去りにして、逃げないように鎖で繋がれた中国兵、敗走する
背中を討伐撃中国隊に撃たれた死体、捕虜の戦時処刑はあっただろう。
銃殺は虐殺ではない。
中国軍に捕まった日本兵隊は通州のように虐殺された。生きて虜囚の辱しめは
中国軍捕虜が受けたものではない。
4年2月09日 05:21:05 : 1Z5qkDhGrg
し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。
 「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。
 また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。
 「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号 阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ)
 また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。
 また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです

104. 2014年2月09日 15:24:34 : CZFBDofBwg
東中野修道・・・wブーメランだなあ。

105. 2014年2月09日 15:52:53 : esmsVHFkrM

>>102さま、

>>97ですが、

「階行社への匿名投稿ってこのことか? 80年も前のことだ」とのご質問(?)ですが、違います。>>97をどう読めばそんな質問が出てくるのでしょうか?

これは、あなたが日本語をちゃんと読めないということでしょうか? それともあなたの「都合」に合わせた「決めつけ」でしょうか?

階行社が戦後南京虐殺否定のための証言募集を呼びかけたのが「階行」1983年11月号で、その結果南京虐殺の存在を確認し悔悟の念を表明したのが「階行」1985年3月号です。これに関連して階行社南京戦史編集委員会からは、『南京戦史』(階行社1989年)、『南京戦史資料集』(階行社1989年)、『南京戦史資料集II』が出ています。

わずか30年前でまだ南京攻略戦参加将兵が数多く生存していた頃の話です。

あなたが嘘だと執拗にコピペされているのはこの陸軍士官の親睦団体である階行社が集めた証言とはまったく関係がありませんが、なにをされているのでしょうか。

まったく馬鹿馬鹿しいコメですが、南京虐殺の証言をわざと誤解したふりをして都合のいいものにすり替えてそれを部分的に否定してみせてだから証言はすべて嘘だ捏造だと主張する典型的な右翼保守ネトウヨのトリックですので、その証拠としてその姑息ぶりを晒しておきます。

以降あなたの「お前の母さん出べそ」には付き合いません。勝手にお続け下さい。

あなたは恥を知るべきです。



106. 2014年2月09日 20:08:25 : OaC4FtsfPc
なんでわたしがかあちゃんのへそを言い出したなどとすりかえるのですかね。
あなたがそうだとは言わないが階行社是の内紛をみているうちに思い当たる2chの
書きこあったので出しておきます。■■中国工作員が日本の掲示板に紛れ込んで世論操作をやっている■■

2ちゃんねる「速報headline」スレなどで反日書き込みをするのは「サヨク」だと思い込んでいる人がいる。
実は少なからぬ部分は中国工作員によるものだ。
中国は日本のネット掲示板にまで紛れ込み、監視・投稿による世論操作・アクセス妨害・回路遮断・パソコン覗き見・
(Yahoo・newsコメント欄では)点数操作・ID乗っ取りまでやる。

中国に不都合な投稿をした者に対しては、パソコン覗き見をして知り得た情報を掲示板に書き、投稿者を牽制して黙らせる。
掲示板にURLを貼り付けてうまい言葉で誘う。クリックすればパソコンを壊される。特定の相手だけを確実に狙う技術を持つ。
メールを送りつけて来る。ファイルを開けばパソコンが壊される。無言電話もして来る。本にもそう書いてあった。
私も実際にパソコンを壊されたから間違いない。

長年観察すると色々と見えてくる。例えば:
Yahoo・newsコメント欄で『ご覧になろうとしているページは現在表示できません』という表示を出されて
投稿拒否された人は、Yahooを恨むが、それは誤解。非重複内容なら5回まで投稿できるはず。
中国工作員は相手を特定して上記表示を出す。投稿を削除する技術もある。
Yahoo掲示板では08年チベット騒乱、10年尖閣漁船衝突事件の時には、無関係な話題(「弁護士赤羽宏」)を自動連続投稿して、
他の投稿を撹乱してしまった。

チベット支援の書き込みをしたら、「日本には中国スパイが多数いる」「殺す」とまで脅された人もいる。
「チベット緊急集会」(東京)で、複数の被害者がさまざまな手口を証言していた。
日本の言論自由を妨害する卑怯な行為であり、こんな狡猾な政権は信用できない。政権に余裕がなく、必死な証拠だ。

★河村名古屋市長を励まそう。ttp://koe.city.nagoya.jp/koe_top.html
★沖縄も油断していると中国に侵略される7


107. 2014年2月09日 21:43:49 : PnUiipse96
大体ねえ、それなりに長年生自国民一億人殺し手野無知無自国民く知無知無知知無知無知無知無知ると、ウソ藻わかる市、嘘つきもわかる(≧∇≦)b
80年前が何を指すかくらい劣等生以外二は分かるだろう二。

こうのそれにしても村山も河野も無知窮まりない。ところで案の定
上の書き込みで使用下端末旗接続不能状態手巣ねー。やってますよファシスト中国カルト共産党。
こんな殺人食人種、それに洗脳されたゾンビ、おぞましいねー。
しまこく
ファシスト共産党中国旗戦後一億人殺しているからねー。


108. 2014年2月09日 22:04:39 : PnUiipse96
大体ねえ、それなりに長年生きているウソとわかるし、嘘つきもわかる(≧∇≦)b
80年前が何を指すかくらい劣等生以外二二は分かるだろう二。

それにしても村山も河野も無知窮まりない。ところで案の定
上の書き込みで使用下端末旗接続不能状態手巣ねー。やってますよファシスト中国カルト共産党。
こんな殺人食人種、それに洗脳されたゾンビ、おぞましいねー。
しまこく
ファシスト共産党中国旗戦後一億人殺しているからねー。


109. 2014年2月09日 23:29:16 : Fgnc9TNfAY
ネトウヨくん、もう痛すぎる長文投稿はやめなさい。
キモいから顔文字もやめなさい。以上です。

110. 2014年2月10日 12:44:54 : aHFznFyPMc
さあ、これからが本番かな。人食い中華、ファシスト殺人共産党どもとその
同調者ども。日本を共産主義国にしたいだと!?
 中国は単なるファシスト人民弾圧国家にすぎないんだよ。
毛沢東も尖閣は日本の領土と認めている。

中国は人食い人種であるという話は拡散してくれ給え。
http://www.youtube.com/watch?v=f0AUfo49VBs

また南京資料映像なるものはすべて中国共産党の捏造宣伝映画だ。
こんな連中に南京虐殺などあったと言ってやる必要はない。
あった。と言えばヤクザはいつまでをそれをネタにカツアゲに来るだけだ。
こんなやつらにはお前らのいうような虐殺事件ではない、やったのは中国の兵隊どもだと言っておけばいい。
 無かった、と言ったら人食い土人どもが蜂の巣をつついたように寄ってたかって
攻撃に来るっておかしいと思わないか、バカ左翼被洗脳日本人。
 こいつらは殆どファシスト中国共産党のネット工作員なんだよ。

満州・支那事変をはじめとする日本の中国進出
は中国のプロパガンダによって日本軍を侵略、略奪、虐殺の代名詞として
すり替えられ、今なお非難され続けていますが、全く逆です。

支那事変での中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、強姦し、
また大量殺害したのに対して、日本軍は中国軍が破壊と略奪したあとに
行って彼らを救済していきました。

中国の軍隊というものは、古来から略奪と虐殺を行なう武装集団です。
共産軍も国民党軍も、基本的にはルンペンの寄せ集めたような集団に
すぎなかった。彼らが軍隊に入ったのは、占領地域で略奪、強姦が好き
放題出来るためです。そうしないと司令官が殺されてしまうからです。

支那事変における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が
撤退という形で進みました。ですからたまの激戦地を除けば、日本軍の
攻撃で亡くなった死者はそれほど多くありません。

むしろ中国兵の死者の多くは中国人が中国人を殺したものでした。中国
の軍隊というものは、兵士たちの後ろに「督戦隊」がいて、逃げる兵士が
いると、その兵士を撃ち殺したのです。

黄文雄氏によれば、「日中戦争時の死傷者は、日本軍の攻撃によって亡く
なった中国兵よりも、督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくら
いだ」と言っています。

中国軍が通った地は略奪や強姦だけでなく、日本軍の進路を遅らせるため
に道路や橋、灌漑施設、その他の施設を次々に破壊していきました。それに
よって中国経済は破壊され、農業も工業も致命的な被害を受けました。

1938年「国共合作」により共産軍と組んで日本を攻撃した蒋介石の軍隊は
日本軍の進撃の道をはばもうと,黄河の堤防を爆破しました。そのために
4千の村が水没し、水死者100万人、その他の被害者600万人という
大惨事となりました。

その惨状を見た当時のアメリカ人記者は、「道端には凍死者と餓死者が
あふれ、飢えた人々は死体の肉を食べていた」と報じています。

堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行っただけでなく、被災した
民衆の救助と、防疫作業を行いました。日本軍は中国軍から虫けらのよう
に扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。

中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝しま
したが、この自作自演は外国人記者に見破られています。

日本軍は中国住民の救済、治安維持、戦災復興などにとりくんだので、それ
まで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に
歓迎しました。統率が取れ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というも
のを、彼らは生まれて初めて見たからです。

中国人民の本当の敵は、日本軍でなく、中国軍だったのです。もともとソ連
やアメリカの謀略によって中国内戦に引きずり込まれただけで、断じて
中国を自分の領土とするために侵略したのではありません。

日本は中国の領土保全を掲げ、誰からも侵略されない、中国人による中国人
のための国家の誕生を目指したのです。中国人民軍の本当の敵は、日本軍
ではなく、中国軍だったのです。

蒋介石の国民党軍も毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは中国人民の
ことでなく、権力奪取のみでした。

「中国の5000年の歴史は「人殺し文化」です。唐の黄巣の乱、明の李自成
や帳献忠の物語でも読めば、中国の人殺しの文化様式を理解できる。中国式
は残忍だ、頭に穴を開け、目をえぐり,鼻や耳をそぎ,皮をはぐ」と
黄文雄氏は言っています。

また黄文雄氏は「南京大虐殺の記念館には、日本兵が人間の肝を食っている
模型が展示されているが、人食いも中国の食文化としてのカニバリズム嗜好
であり、日本軍の兵士が実際に行ったことではない。明の李時珍の「本草綱
目」に薬用効果があるとして載せられている。

ほかにも銃剣で嬰児を串刺しにしたりする日本軍の描写は、いずれも中国の
戦争話によく出てくるもので、晋書の「呂隆」「呂光伝」や明史の「帳献忠
伝」あたりをコピーしたものだろう。日本軍の虐殺の記述は、事実に基づい
たものでなく、中国歴代の王朝が交代するときに行われた虐殺の歴史から
焼き直したり、引き移したりしたものばかりなのである」と黄文雄氏は
言っています。

ユン・チアンの著書「マオ、誰も知らなかった毛沢東」には次のような恐ろ
しい場面が記述されています。

「ある若いイギリス女性は、北京の中心部で行われた集会を目撃した。約
200人が街路を引き回されたあと頭を打ち抜かれて処刑され、脳みそが
見物人のところまで飛び散った。死体を積んだトラックが血をしたたらせ
ながら街路を往来していた」
「27年に渡った毛沢東の支配下において、殺戮された数は総計で2700万人
に達すると思われる」(ユン・チアン)

およそ、今までの中国人を、もっともひどく痛めつけたのは、外国人では
なく、同じ中国人である。いつも中国人を裏切るのは、他でもなく、同じ
中国人自身である。中国人を地獄まで陥れるのは外国人でなく、やはり
中国人である。(黄文雄氏)

我々日本人は隣に住んでいる中国人がいかに残忍で残酷で、また大嘘つき
で自分たちの罪を平気で他人に擦りつける民族であること、そして
日本人の理解をはるかに超えた野獣人であることを 肝に銘じなければ
ならない。

109番のおっさん!もうちょっとそれらしいカキコしたらどうだ、中国兵。
あったものは
、あっただと!? アホ


111. 2014年2月10日 16:02:30 : aHFznFyPMc
中国ファシスト共産党いかぶれのバカ左翼と工作員さん。

あんたがたの宗教である中国共産党の殺人の歴史を見つめろ。
北朝鮮と変わらない。

動画40分くらいあるが、こんな国に謝罪の必要もない。
http://www.youtube.com/watch?v=p6qCezxiHPM

九評共産党。全部みてから感想を言ってみろ。バカ左翼おっさん。

>>
109. 2014年2月09日 23:29:16 : Fgnc9TNfAY
ネトウヨくん、もう痛すぎる長文投稿はやめなさい。
キモいから顔文字もやめなさい。以上です。<<

老醜をさらすな。あちこちで性懲りもなく、虐殺はあった!虐殺はあった!と
騒ぎやがって。
 反省しろ、反省しろ。は江沢民のおはこだったな。あんたはその弟子か。
万歳、マオかね。 


112. 2014年2月10日 16:23:54 : aHFznFyPMc
南京入城
した日本軍人の証言。

どこで虐殺があったのかねえ、おっさん。

http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


113. 2014年2月11日 06:18:43 : ui2wPfTmG2
http://www.asyura2.com/14/kokusai8/msg/106.html
いい指摘だ。
今後日本は中韓と、日本の無知なバカ左翼の反日虚偽宣伝に対して事実をもって
下らない歴史認識をひっくり返す活動を行っていかなくてはならない。、
民間人による偽人肉入りギョーザキムチの歴史偽造の修正とこいつらの嘘つき盗っと詐欺師の正体を暴いてやるのは日本国民の義務だ。
日本は過去に何ら恥ずべきことはない。あったものはあったなどという屁理屈を放置しないぞ

114. 2014年2月11日 21:02:11 : esmsVHFkrM

なんかネットの右翼デマ宣伝を長々コピペしているが、

それで結局>>15>>19>>97で示された日本側1次資料による南京虐殺論証には反論できないわけだ。

>>97のように陸軍士官親睦団体階行社だって南京虐殺の存在を認めているぞ。

やった当事者があったと認めているものを戦後生まれのニートがなかったと主張するとはこれいかに。

そういう否定論と称する中国人憎悪コメを書けば書くほど、なるほどこういう類の人たちが南京虐殺をやったんだなあと、納得するばかりだ。

馬鹿じゃないのか。

恥を知れよ、右翼保守ネトウヨ。



115. 2014年2月12日 16:22:54 : aHFznFyPMc
また中國人のお出ましかよ。出入り禁止だ。
殺人中国共産党国家は言う資格なし。

南京どころでないだろ。あんたら。


116. 2014年2月12日 18:13:41 : esmsVHFkrM

やれやれ、またまた敵わない相手は「中国人」呼ばわりかよ。懲りないなあ。

それじゃ「日本人」は君みたいなニートネトウヨばかりになってしまうじゃないか。日本を動かしているのは「中国人」か「在日」か「韓国人」か「朝鮮人」で「日本人」は親に養ってもらっているニートばかりだってかあ。馬鹿言ってんじゃないよ。君たちが半人前の日本人のクズなんだよ。

相手を「中国人」だと決めつけるしかなくなった時点で大人の議論は負けだよ。それじゃ小学生の口げんかで、君が言っていることは「お前の母さん出べそ」だよ。

ニートは2chへ帰るんだな。ここでは君みたいな馬鹿は通用しないんだよ。

今度阿修羅で見つけたらまたボコボコにしてやるから覚えておけよ、ニートのにいちゃん。

いい加減に更生しろよ。親が泣いているぞ。



117. 2014年2月13日 18:15:45 : aHFznFyPMc
ろくでもない中国人だなあ。

ボコボコにするだと!?

大人のすることか! おっさん。

共産党の正体でも見ときな。
あんたの祖国はとんでもないことになっとるぞ。

http://www.youtube.com/watch?v=dEQq5IiZzoI


118. 2014年2月13日 19:57:15 : esmsVHFkrM

なんか悔し紛れに中国の心配ばかりしている「たいへんに中国思いのにいちゃん」が一人いるが、南京虐殺はなかったなどと主張きるやつはもう一人もいない。

いいスレだったな。

これでニートネトウヨは思い知ったことだろう。

ちゃんと働けよ。親を泣かすんじゃないぞ。


119. 2014年2月14日 12:38:35 : aHFznFyPMc
中華春巻きのおっさん、あんたの泣いて喜ぶスレが、中華のウソやホロコーストの

議論で賑わっているぜ。

ボコボコにされてるぜ、無知なバカ左翼と中国工作人が。

http://www.asyura2.com/13/warb12/msg/419.html


120. 2014年2月14日 16:09:06 : esmsVHFkrM

>>119

そのスレ読ませてもらったがボコボコにされてるのは君たちネトウヨの自慰史観じゃないか。

例によってネットの右翼デマのコピペばかりで論証は皆無、それでそのコピペの嘘も即破綻かあ。君らはどのスレでも論破されまくりだな。

連戦連敗かあ、哀れなもんだな。

そんなスレ出して右翼保守ネトウヨの自慰史観が勝ったなんて、君たち得意の大本営発表かあ。どこまで戦前ファシズム体制が好きなんだよ。大笑いだぞ。

そんな馬鹿やってないで働けよ。頭悪くても仕事はあるぞ。

親が泣いてるぞ。


121. 2014年2月15日 12:12:40 : aHFznFyPMc
中国ファシスト共産党崩壊、万歳!

日本は台湾と合邦しよう!

侵略殺人餓鬼中国は間もなく崩壊だー!


122. 2014年2月16日 12:09:50 : f9WdyZuW9Q
●よくもまあ湧きに湧く、正に「バイオアザード」シリーズ顔負けの、使い捨てネトウヨゾンビどもの襲来そのものだ!

●戦争の実戦体験はおろか、その言語に絶する惨禍すら全く知らぬヤツらが、ウヨク外道どもの、日本軍国主義無謬洗脳に操られて喜ぶ、テメー自身のその醜悪なゾンビ面を一度カガミで見てみろ!!

●お前らのブログ荒らしの喚きは、「侵略戦争(先の大戦)」と云う、とてつもなく大きなヘドロ沼から、「こんなキレイな石を見つけた、こんな見事な宝石があった、だからこれは、本当はヘドロ沼じゃなくてキレイな水源池なのだ!」

いかにお前らゾンビどもが、狂いほざこうが、侵略戦争の本質には、些かの変わりはないんだよ!!

●「歴史認識」とは常に、被害+加害(犯罪)の両側面から成り立ち、両者は云わば車の両輪であり、不可分の表裏一体だ!!

●そもそも「歴史認識」とはウヨク外道どもの、気に入るための存在でも何でもない!勝手な勘違いするな!!
ウヨク外道どもがいかに気に入ろうが、入るまいが、これが普遍的原則だ!!

●「戦争敗因を衝く、軍閥専横の実相」 中公文庫 田中隆吉著
*田中隆吉(元陸軍少将、羅南要塞司令官、関東軍参謀、陸軍省兵務局長等、歴任)

いわゆる「国家のために戦う」=巨悪犯罪隠蔽用詐術!
<アジア太平洋戦争下に於ける、陸海軍上層部、及び軍地高級将校らの腐敗と、暴状行為多数の実相を、余すところ無く暴露した、貴重な内部告発書!!>

●「大東亜政略指導大綱」第二要領、(其ノ他ノ占領地域ノ方策ヲ左ノ通リ定ム)
                              <1943/5/29>
「マライ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土と決定シ、重要資源ノ供給源トシテ、極力之ガ開発並ビニ民心ノ把握ニ努ム」

●いわゆる「御前会議」での、賀屋興典(A級戦犯)の説明要旨  <1942/12/1>
「尚南方作戦地域は・・・・・・・・(中略)相当長期間、現地一般住民の生活顧慮スルコトノ暇等、殆ドナシ云々」

●英領「シンガポール」占領後、直ちに「昭南島」と称する和名に改変!                                <1942/12/17>



123. 2014年2月20日 06:05:07 : FGrmYmjGNQ
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1065.html

別に戦争は勧めない。戦後日本はただの一度も戦争に参加していないし、戦争で他国人一人として殺していない。
若い優秀な日本人の命を失った。もちろん世界の人間の命とともに。
それを悼むのは当然だ。靖国がすべてでもないが。あれは長州朝鮮神社かも知れないからだ。


124. 2014年2月20日 06:45:29 : 6xz7z9PALI
なぜ日本は若い人材を生かさない?なんのための政治か!?
若者の使い捨て労働者化が政治の目標かよ。
そういう意味では阿倍さんも国粋主義者ではないな。
外国人労働者を入れるんだってね。
カミカゼの若者の世界の若者の印象。批判も肯定も是とする。
中国さん、日本攻撃の際は覚悟してね。

■ ゼロに乗ったヒーローたち。それが彼らだ。 ギリシャ
 
■ この若い戦士たちに、敬意を表します。 スペイン
  
■ もし死と生を選べたのであれば、彼らは生きることを選んだと思うけど……。
  死ぬ覚悟ができてる人間なんていないよ。 イタリア

■ 俺はカミカゼという作戦自体は好きになれない。
  だけど、国を守る為にあれだけの数のパイロットが志願したことに敬意を持ってる。
  他の国で、国と個の間でこれだけの信頼関係を築けるか? オランダ

■ あの英雄たちに、永遠に残る栄誉を与えて欲しい! ロシア

■ 彼らは国を守るために命を落としたんだ。
  母国で暮らす人々を守るために、命を落としたんだよ。
  本物の男じゃないか! ベトナムから敬意を! ベトナム(仏在住)

■ どうして普通の考えを持った人たちが、彼らを賛美するのか分からない……。
  兵士の命を無駄にした作戦だったし、戦闘における、歴史的な過ちだろ。 アメリカ
    
■ 本物の戦士だな。自分達のためじゃなく、名誉と国の為に命を賭けたんだ!
  偉大な国に敬意を表する!
  まずは強力なサムライたちを生んだかと思えば、
  次はカミカゼのような男たちを生み出したのだから。 中国


■ 日本人はインド人の友人だ。
  欧米の一人舞台に割って入り、アジア人でも勝てるということを見せつけた。
  英国から自由を勝ち取るために戦ったチャンドラ・ボースを支援してくれたのも彼らだ。
  インドはこれからも永遠に、日本の友人だよ。 インド


■ 俺からすると、彼らは常軌を逸していたと思うけど。 フィンランド  


■ 自殺行為、というよりも、犠牲精神だよね……。
  そもそも彼らは、死にたいだなんて一度も思っていなかったはずだから。 フィリピン


■ 日本の人たちは絶対に、この若いパイロットたちを誇りに思ってるだろうね。 イタリア


■ 彼らは本物の英雄だと俺は思う。 アメリカ 


■ カミカゼは本当に酷い作戦だ……。あまりにも馬鹿げた作戦だった。 ポーランド


■ なんという名誉ある死なんだろうか……。
  ああっ、彼らを賞賛せずにいられないよ俺は……。 ドイツ


■ ブラジルだとカミカゼは、名誉と愛国心の真の姿だって認識されてるよ。 ブラジル


■ ドイツ人の俺としては、日本以上の同盟国はいなかった……。
  正しいとか間違っていたとかは俺には分からん。
  だけど彼らは、自分が信じるものの為に命をかけて戦ったんだ!!!
  日本の英雄たちに敬意を表します……。 ドイツ

 
■ あの人達は、自分の国と誇りのために命を落としたんだよな……。 オランダ  


■ 日本の兵士たちより勇敢な戦士はいなかったように思う。
  どうか安らかに。日本に沢山の愛を送ります。 アメリカ


■ 不思議なことに、現代の普通の人達よりも、
  死に向かおうとしている彼らのほうが、生き生きしてるように見える。 ノルウェー 


■ 写真の若い兵士たちは命を落とした…………それもいたずらに。 ベルギー

 ■ そんなことはない。確かに彼らは戦争に敗けた。
     だけど今や日本は、世界有数の工業/技術大国じゃないか。 イギリス

■ どうして自爆行為をした彼らがここまで敬意を持たれてるんだ?
  自爆テロをするイスラム教徒は憎まれてるのに。 アイスランド

 ■ 彼らは祖国を守るために命を落としたんだ。
     日本人は自分の国をとても誇りに思っていて、
     臆病者としても生きるよりも、死を選ぶ人たちなんだよ。
     自分達の宗教のために罪のない市民を殺めるのとは違う。 イギリス 

   ■ 戦争をしてたんだもん。一般市民は標的にしてないでしょ……。 ブラジル

■ 勇敢ではあった……けど報われることがないものだった。
  多くのパイロットが命を落としたし、結果が変わることもなかったんだから。
  しかも彼らには選択肢もあまりなかったわけで。
  国のために命を捧げる。……残ったものは、兵士の死だけじゃないか。 コロンビア
■ 俺はカミカゼのパイロットたちを賞賛するよ。
  彼らは国のために、名誉をかけ命を捧げた勇敢な戦士たちだ。
  そんなことが出来るのは、日本人だけだと思ってる。 セルビア    
■ この英雄たちが忘れられることは、絶対にないだろうね。 トルコ

■ 日本人の戦いっぷりには心からの称賛を送りたい。
  だけど若い命を粗末にするカミカゼみたいな作戦はちょっと、ねえ? スウェーデン

■ 国、そして最愛の人たちを守るために、誇り高く命を落とした、
  日本のカミカゼのパイロット達を尊敬してる……。
  捕虜になるよりも、誇りを持って死ぬことを選んだんだ……。BANZAI マレーシア

■ 勇敢なんかじゃない。馬鹿げてる!
  優秀なパイロットは、戦闘機10機以上に値するんだぞ! ウクライナ

■ この人達は勇敢に決まってる……。
  彼らは愛する母国、家族、天皇のために戦い、命を落としたんだから……。 タイ

■ どこの国の人間であっても、祖国の為に命を落とした人は尊敬されるべき。
  俺は彼らの勇気、信念、国への忠誠心を尊敬する。
  現代の多くの人間は、そういうものを持ってないもんね。 ベトナム

■ 偉大な兵士たちだな。
  彼らのような気高い犠牲心は、お金なんかじゃ買うことが出来ない。 アメリカ

■ 国のために命を捧げた日本のパイロットたち。
  彼らに心から感銘を受けました……。 サウジアラビア

■ カミカゼのパイロット達は、大空のサムライだね……。 フィリピン

■ この動画を観ると、いつも鳥肌が立つ。
  国を守るために命を捧げた勇敢な日本人たちには、敬意しかない。 アメリカ


125. 2014年2月20日 15:16:20 : f9WdyZuW9Q
●極右の百田はもとより、先の大戦の実戦体験はおろか、その言語に絶する惨禍の何一つ知らぬ、ただ机上の空論やら受け売りの、お前らネトウヨゾンビどもが、どれ程テメーらに都合のいい語句ばかり集めた、歪曲、改ざんであげつらいほざこうが、無謀極まる侵略戦争の本質を、当の張本人どもが、本音でぼやいているんだよ!!

●「勝算やら戦争終結への何ら展望も当てもなく、一体なぜヤミクモに戦争へと突入していったのかと言えば、国の将来の目的なんか考えるも何も、すでにその場の雰囲気が、何が何でも先ず目先の対米英開戦ありきで、もう異論はおろか、疑問さえ差し挿む余地など全くなかったからだ!」   
                 <いわゆる「海軍反省会(自称、懺悔録)>

●「こんなことなら、何も米英とあれほどの大戦争をする必要は全くなかった!」
                 
                 <A級戦犯、東條英機 於巣鴨プリズン>

●「活かされなかった極秘情報」'11/8/6 NHKスペシアル

ある特殊任務を負った爆撃部隊(原爆投下任務)が、広島へと迫っている事実を察知した日本軍諜報部隊が、その上層部へ報告しながら、上層部は現地に通報しなかったがために、広島市民が逃げ遅れ、原爆投下で多大な犠牲を生じさせたこと!


●お前らネトウヨゾンビどもが、この期に及んでもなお、その信奉擁護に狂奔して止まぬ、絶大な権力を握り、この国を敗戦亡国の破綻地獄へと陥れた、軍国主義の元凶である、軍閥指導部一味のこれこそ本音の化けの皮だ!!

●これ程の無定見、無能、無為無策の輩が、あれ程の大戦争を引き起こして内外に膨大な犠牲と破壊をもたらし、ナチス崩壊以降も、唯一天皇制の保全のための口実で、ほぼ全世界を相手にズルズル、全く孤立無援、狂気の絶望的戦争を当ても無く続けさせ、限無く犠牲を拡大させる一方、世界最悪のいわゆる自称「大本営発表」のウソ八百で、疲弊した国民を最期まで徹底洗脳で騙し続け、終いには「本土決戦」やら「一億玉砕」と狂いほざき、原爆に竹ヤリで立ち向かわせようとした、これこそ狂気の軍閥指導部(東條英機らA級戦犯一味を含む)どもの正体だ!!

真の実態すら知らぬネトウヨゾンビども、よくよく肝に銘じておけ!!


126. 2014年2月25日 12:16:51 : aHFznFyPMc
反日NHKの宣伝放送をありがたがる洗脳教育完成の典型的愚民の憎き軍国主義日本人
(日本人かどうかも怪しいが)のカキコ。

原爆が広島に落ちたのも日本軍部が悪い。GHQ洗脳作戦の典型なんだよ。

南京捏造、朝鮮戦争当時の売春婦ばあさんが日本に賠償要求。


知らないヤツって朝鮮戦争は朝鮮は日本と戦争したと思ってるらしい。

オバマ政権内部にも、日本は戦争して朝鮮を占領したと思っているヤツがいる
らしい。チョーセン、シナの捏造歴史教育の成果なんだろう、これも。


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