http://www.asyura2.com/14/senkyo160/msg/743.html
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「特定秘密保護法、首相「私が監視」本気でいってるなら馬鹿というよりはJCO臨界事故に近い:伊東 乾氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/13314.html
2014/2/5 晴耕雨読
https://twitter.com/itokenstein
本気でいってるなら馬鹿というよりはJCO臨界事故に近いhttp://t.co/fFq5YXL0Kg
特定秘密保護法、首相「私が監視」 行政の行き過ぎを監視する第三者機関の絶対的な中立性が求められる。
独立分離が大前提、これがごっちゃになって臨界事故も発生。
本当に頭悪いのだろうか?
NHKの新会長と特定秘密「私が監視」という総理大臣と、共通する「任に値わず」と懸念する特徴は、本来一人で兼務してはならないけじめなど、優秀な子なら高校生でも判る憲政の大原則から×がつく内容を正規の記録に残る答弁で口走ってしまう所かもしれない。
司法と立法が兼務したら三権未分立の独裁三権分立など、権限を分散する考え方が徹底していないと、バランスの取れた安全な組織運営(国家を含む)は危うい。
大岡越前とか遠山金四郎といった町奉行は捜査(行政)も裁判(司法)も行い、かつお触れを出す(立法)も兼務する三権未分化の前近代的ガバナンスの例だが、それと同レベルの日本の現状
チェック&バランスとは権力機構を分散し、執行者の独善を制度的に独立した抑制均衡機関が防止するシステム。
執行者は決して自らの瑕疵を認める事はない。
制度的にそれが出来ないのが日本の病。
政府の暴走チェックは政府外、会長以下NHKの暴走チェックは経営委員会、そのチェックは国会といった具合
例えば私が「(東京)大学のガバナンスは崩壊状態」と書くと、何か悪口をついているように誤解されるかもしれないが、そうではない。
新書にも書いた事だが、チェックアンドバランスの機構が存在していない事実を指摘しているだけの事だ。
例えば教授会や執行部の暴走を正しく抑える制度が存在していない日本の学術が今後発展するためには責任関係にメリハリがつきそれに対するチェック&バランスがきちんと機能するのが重要と思う。
日本の大学は今後学長の権限をより大きくする方向に舵取りしようとしている。
それは悪い事ではないと思うと同時に、北朝鮮ではないけれどを暴走を予防し問責する機関も必要
チェックアンドバランスが制度的に確立していない所には、殆ど必ず「無謬神話」が生まれてくる。
一度決めた事は絶対に正しく、それにかかわった人は決してルーズフェイスしないという組織の自己防衛的な集団無責任の体制。
R.Samuelsが3.11で太平洋戦争以降進化していないといった日本体質
なぜ私が日本の大学で、責任関係を明確化した上で学部長学長の権限集中が良いと思うかというと、典型的な悪平等が蔓延しているからだ。
大学で権力を握りたい人は選挙を制さねばならず、そのためには事実上八方に等しく良い顔をしなければならない。
結果突出した施策などは実行出来ず水で薄めた形になる
大学教授は概してみなプライドは高く、また男の嫉妬は女のそれより粘着質だ^^;
学長副学長などの立場で特定領域研究などだけに予算や人員の重点化があると「なぜあそこだけ?」といった反対意見が必ず出てくる。
実際にはサイエンスだって企業同様メリハリをつけないと伸びないが民主的な集中が困難
いま大学の例を挙げたのは私自身大学の中でチェックアンドバランスの機構が成立していない例を日常的に目の当たりにするので血の通った例として挙げている。
特定秘密の指定権を持つ人がいれば、それをチェックするのは権利を持つ人以外でなければ客観的な判断は不可能、必ず無謬神話を上塗りするだけに罪を憎んで人を憎まず、で行きたいと思っていますが、残念ながら日本ではしばしば、責任=権限を有するものが、おのれを制御するチェック機構(例えば憲法はその代表)をしばしば軽んじる傾向があります。
少し前の作家の都知事などは典型的。
憲法の安易な改変も己を律するケジメをだらしなくしかねない
国会に呼ばれたNHKの会長と経営委員長、立場が必ずしも国民有権者・受信料支払い者に明らかでないように思った。
会長は「編集権」などを持つ番組の制作・発信の主体つまり行政の長に当たるものと考えよう。
経営委員会はそれをチェックしバランスを取る。
公共放送の独立性など放送法遵守のチェックもNHK会長には職務上、一定以上の権限が集中している。
当然ながらそのチェックは本来は重要だ。
それが実質的に機能していない、というような事があれば、権力分散と抑制均衡の機構によって自己無謬性の暴走を未然に防止しなければならない。
内閣総理大臣にもチェック&バランスのシステムが随所に存在
NHK会長が放送法を理解しない言動を繰り返すなら、経営委員会は人事を検討せねばならない。
内閣総理大臣が己をチェックする第三者規制を理解せず「私が監視」などと口走れば国会筆頭にチェック、必要なら不信任案も提出の要がある。
ちなみに東大学長にはチェックバランス機構も不信任の装置も不在だ
権力を有するものが、己の無謬性を主張し暴虐(例えば自分で立法し、そのルールで自分で裁判し、政的などを亡き者とし、自分勝手な行政を振り回す=いまの北朝鮮のような手のつけられない状態)を働けば末期的でしょう。
でも裁判所とか大学は、しばしばこの病に陥るリスク。
チェック機構が曖昧だから。
刑法の團藤先生は、常々、裁判官(という言葉で示していたのは最高裁判事ですが)がおのれの無謬性に錯覚を抱いてはいけない、自己の可謬性に対して謙虚でなければならないとおっしゃっていた。
彼の死刑廃止の議論は煎じ詰めれば「裁判官も間違いを犯す。でも死刑は取り返しがつかないから」という骨子
現実には裁判官もミスを犯すと團藤先生はおっしゃる。
でも日本の司法制度では、裁判所は己のミスを認めたがらないし、判事は自分が有する「自由な心証」を錯覚する傾向がある。
それは容易に暴虐に通じかねないもので、あくまで自ら戒めねばならないと團藤教授は繰り返し強調される。
それが不足している
同じことを行政やNHKに敷衍してみよう。
NHK会長もミスを犯す。
独立したチェック機構が必要でNHKは謙虚でなければならない。
内閣総理大臣はおかしな秘密を指定しかねない。
そのチェックを内閣総理大臣自身がしていたら話にならない。
大学もしばしばミスを犯す。
現在チェックの機構は存在しない
ここでいう「人はミスを犯す」は野狐禅式ではなくカール・ポパーの可謬性の議論を下敷きに丁寧な推敲が加えられたものだ。
さらにその背景にはナチスドイツをはじめとする20世紀前半に人類が犯してきた過ちへの徹底した反省がある(日本国憲法にも通低している)。
そういう品位で己のミスを反省すべき人間個人、あるいは人間集団は(1933年ドイツであれ、2014年の日本の放送協会や大学、行政であれ)常に誤謬を犯す可能性に開かれている(K.ポパー)。
その事実に対して謙虚に胸襟を開き、ミスの指摘に対しては自己無謬の姿勢におごり高ぶるのではなく非は非是は是の従容たる姿勢が品位と思う
冷静で高い信頼性を有する論拠に基づいて、落ち着いた声で語ることの大切さを思う、私はそれに徹したい。
社会では、根拠を欠き、冷静さが不足した性急さをもって、大きな声でわめきたてるほうが、趨勢が強く見える表面的な傾向がある。
圧殺も珍しい現象ではないが、人間として恥ずべき所業と考える。
声高にアジテーションされ、理由を明示せず大声で繰り返されるスローガンは、大体疑ってかかって間違いがない。
仮に小さな声であれ、確かな根拠に基づく正確な議論は筋が通る。
またそうであれば大きな声で叫ぶ必要も本来はない。
衆愚制を危惧するのは、この声高な既成事実捏造で判断を過つのが恐ろしいヘイトスピーチその他の貧しい発言・行動を目にするのを残念に思う。
大半のそうした頭に血の上ったアジテーションは、クリアな論理を欠き、クリーンな根拠を持たない。
そういうものを糊塗しても、本当に人間を長期的に益する、風通しのよい青空の広がった環境は得られないだろう。
私はそれを大切に思う
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