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安部晋三(Shinzo Abe)や右翼的な考え
を持った人々に対しては、一般の人は何だか近
寄りがたい、どういうわけかちょっと怖いという印象
を受ける。国を愛するということについては、誰も
異議を唱えることはできない。それにもかかわらず
、どういう訳か、そのような人々から身を引いてしま
うのである。何故なのだろうか。
安部晋三始め右翼的な考えの人々の愛国心
なるものは、実はもっと卑近な日常的な個人的な
、そして傷ついた道徳心を慰撫するための道具に
すぎないのではないだろうか。日常生活において、
どうも俺は道徳的に人間的にいまひとつだなあ、と
感じている。日常、ちょっとしたことで倫理的に失
敗したと感じる。その挫折感が集積して、俺は人
間として失格なのではないだろうかという懸念にな
る。このような不安・懸念を慰謝するために、国の
ために華々しく散っていった人々のイメージを思い
浮かべる。俺もあのように美しくも儚くも死ぬことが
できたら、この上なく幸せなことだろう。そして、癒さ
れたような気がすることだろう。しかも、普段は俺の
ことを軽蔑しているやつらが、俺を英雄として扱い
、英霊として祭ってくれるではないか。
このような国粋主義・愛国心は、どこか近寄りが
たいのである。表立って異を唱えることはできない
が、できるならばこのような人々とはお近づきになり
たくない。それは、個による躓き・傷つきを全体的
なもの、普遍的なもの、集合的なものによって慰
謝しようとしているからである。そこが、何となく恐い
印象を与えるのである。全体的なもの、普遍的な
もの、集合的なものを、ユング心理学の集合的
無意識(普遍的無意識)に対応させて考えてい
ただいても構わない。個人的な側面の足場固め
をしっかりしないまま、いきなり普遍へ、集合へ、全
体へと飛び跳ねてしまっているところが恐ろしい印
象を与えてしまうのである。さて、こんなことで個人
としての傷つきや挫折感が真に治癒されるのであ
ろうか。そんなことだから、小林よしのりに「安倍首
相の靖国参拝は英霊を侮辱した」と批判される
のではないだろうか
o.jp/article?a=20140131-
00000019-pseven-soci
NEWS ポストセブン 1月31日(金))。河合
隼雄(Hayao Kawai)を見るがいい。自分
個人の問題さえ解決できないくせに(不道徳な2
度のウソツキ退職や高校の教え子に嫌われてい
たことや日本臨床心理学会での非人間的な出
来事など)、「心のノート」で偉そうに愛国心だの
公徳心だのと訓戒をたれていたではないか。だから
、胡散臭い、いかがわしい臭いをぷんぷんと放って
いたのだ。まず、自分自身の問題から何とかせよ
。
「心のノート」の後継版の「私たちの道徳」の執
筆者たちも、Hayao Kawaiと同様に偽善者
である。日本の子ども全員に配布される道徳の
教科書を執筆されたほど大変なことを行われたの
で、執筆者の皆さんの道徳性なるものを確認させ
てほしいと問いかけても返事もしない。国民が質
問しても、無視しやがるのである。実に不誠実で
不道徳である。このような国民を見下した、馬鹿
にした者たちに道徳の教科書を執筆させるとは何
事か。このような輩は、まず自分自身の個人的な
問題を解決してから、道徳教育を論ずべきなので
ある。自己の道徳的問題・精神的問題を解決し
た上で、道徳教育を論ずるのでなければ、子ども
たちにとっては有害なもの以外のなにものでもない
。
Hayao Kawaiを見れば、Jungianはい
かに恐ろしいものであるかということが分かるであろ
う。「個性化」(individualization)の
過程において、まず影の元型を自我が取り込んで
しまうのである。最初から道徳的な問題を放棄し
てしまっている。そうすると、Kawaiのような不道
徳な犯罪者でも個性化の最終的なゴールに辿り
着くことになり、恐ろしい冷酷で非人間的な人物
が誕生することになる。日本臨床心理学会で自
らの、子どもに対して行った心理検査の非人間
性を批判されると、かんかんに怒って学会を飛び
出して心理臨床学会という変な名称の学会を設
立する。Kawaiには、人間の暖かい血が通って
いるのだろうか。Kawaiの心は、機械かコンピュ
ータの心ではないのか。Kawaiを見ていると、人
間ではない化け物を見ているような気がする。
Kawaiファンの村上春樹も同じである。これがユ
ング心理学の「個性化」なるものの成れの果てな
のである。集合的無意識などという、ありもしない
幻を追い求めていたら、どんなすさまじいことになる
か、ということを実証している。ユング心理学は、
心の全体主義である。Kawaiを見れば分かるよ
うに、Jungian Psychologyがどんなに
恐ろしいものか、ということである。個ではなく全体
で癒す、これは実に安易なやり方なのである。個
に徹することがどんなに苦しいか、その苦しみを避
けようとするものである。
ユンギアン(Jungiaのn)の世界は、ミツバチ
の世界である。一匹一匹が(ひとりひとりが)個性
を失っている(実際のミツバチには、個性があるか
もしれないが)。みんな、ありもしない集合的無意
識を実在するものと誤信しているからである。村
上春樹の馬鹿が、心と心がつががっている、と言う
とき、それは自らの心が消失したことを意味するの
だ。
個人としての足場固めをしっかりとした上での国
粋主義や愛国主義は、押しも押されぬ本物だと
思う。とにかく心の問題や精神の問題は、演繹的
な技法に頼るのではなく、帰納的技法に拠るので
ないといけない。個人としての解決を等閑にしたま
ま、いきなり全体へと飛び跳ねてしまうと、どのよう
なことが起きるのか。他を傷つけることになってしま
うのである。信念をもって他を侵す。自分たちこそ
が絶対的な真理の体現者なのだ、という信念を
掲げて他を侵すものほど恐ろしいものはない。
精神の全体主義の難点と罪は、個を蔑ろにす
る点にある。個を生きることが、どんなに惨めでみ
すぼらしいものであっても、とにかくわれわれは個に
徹する以外に道はない。そして逆説的かもしれな
いが、個に徹することこそが真の普遍に至る唯一
の道なのである。
道徳は、あくまでも個の人格を通して伝えらるべ
きものであって、さあ、これから道徳を教えてやるぞ
と大見得を切って一斉授業で教えるものではない
。道徳も精神の問題であり、心の問題であろうか
ら、このような一斉授業は、まさに演繹的な技法
に頼ろうとするものである。このような教育を受けた
人が国民の大半を占めると、全体主義国家へと
ひた走ることになるかもしれない。
道徳を教科化して授業で教えるという安易なや
り方をしてはいけない。道徳の時間に、「いじめは
ひきょうな行為だと規範意識を教え」(衆議院予
算委員会でのShinzo Abeの発言)ても効
果があるだろうか。不道徳で冷酷で非人間的な
河合隼雄が作成した「心のノート」の後継版をモ
デルにして、「日本人のアイデンティティーを確立す
ることも大事だ」(衆議院予算委員会での
Shinzo Abeの発言)と言うのか。何を考えて
いるのだ。これは、国費の無駄遣いではなく、国
費の悪用だ。親の教育する力がなくなっている。
地域社会や親類縁者も子どもを教え諭す力が
ない。子どもは家に閉じこもって、コンピュータを使
ったゲームに夢中になっている。こうなったら万事
休すである。それならば、教員の質を向上させる
ことに金をつぎ込み力を入れたほうがよい。国語や
社会などの授業中に教材に関連して話すエピソ
ードや四方山話に教育的効果を期待できるかも
しれない。そのような教員を採用するようにするべ
きである。また無断欠席や遅刻をした生徒に対す
る対応次第で、生徒に対する教育的効果がずい
ぶんと違ってくる。教員の質の向上に金をかければ
よいわけである。さらに、考える力を育てよ。そのた
めには、国語科の教員に有能な人材を配置する
ように努めるべきである。
官庁は、会計検査院が恐いに決まっている。「
心のノート」を慌てて名称変更した「私たちの道
徳」を配布するな。いくら名前を変えても、あの不
道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄の作成した
「心のノート」の後継版であることに変わりはない。
国費の無駄遣いどころか、国費の悪用である。「
私たちの道徳」を配布するようなことがあれば、会
計検査院が黙って見ていないだろう。
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