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清沢冽『暗黒日記』『清沢冽評論集』を読んで現今の政治状況を考える(古村治彦の酔生夢死日記)
http://www.asyura2.com/14/senkyo160/msg/466.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 1 月 31 日 03:11:16: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://suinikki.blog.jp/archives/2867020.html

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2014年01月31日

古村治彦です。


 私は最近、昭和史にも関心を持ち、それに関する本を読むようになりました。その中で、清沢冽の『暗黒日記』『清沢冽評論集』(ともに岩波文庫)を手にし、読む機会を得ました。これら2冊の本は本当に素晴らしい示唆を与えてくれました。


 清沢冽は1890年に長野県で生まれ、小学校を卒業後、内村鑑三の弟子、井口喜源治が開いていた「研成義塾」で学びました。そして、1906年に渡米し、苦学しながらタコマ・ハイスクール、ウィットウォース・カレッジで学びました。


 1918年に帰国し、中外商業新報社(現在の日本経済新聞社)、朝日新聞社に勤務した。1929年には朝日新聞を辞し、外交評論家として独立しました。その後は数多くの著作を著し、外務省の顧問なども務めました。1945年5月、肺炎をこじらせ55歳で急死してしまいました。彼の戦時中の日記は『暗黒日記』として出版されました。


 『清沢冽評論集』の編者山本義彦は、清沢冽の思想の特長を「(1)「心的態度」としての自由主義、中庸主義、(2)教育の国家統制に反対し、画一主義の排除と多元主義の擁護、(3)国際平和の実現をめざす外交論、(4)軍部の神がかり的、猪突猛進的で非科学的な戦争指導への否定、これに追従する思想家、ジャーナリストへの厳しい批判」としてまとめています。


 私は、清沢冽が1929年に発表した「甘粕と大杉の対話」に注目したいと思います。この文章を発表したことで、清沢冽は朝日新聞を追われ、外交評論家として独立しました。この文章は、獄中にいる甘粕正彦の許へ幽霊となった大杉栄が現れて対話を行うというものです。この二人のやり取りは清沢の創造の産物です。


 この対話の中で、私に最もなるほど、その通りだと思わせた一節をここで引用したいと思います。これは大杉の台詞です。


「今の俺は世界の思想を別けるに、右と左に区別しないで右と左を一緒にした極端派(エキストリーミスト)と、これに対する自由派(リベラル)とにする。そしてこの極端派の中には君ら軍人だの警官だのと一緒に生前の大杉やいわゆる戦闘的主義者とを編入する。この事実の特長は、持って生れた争闘性乃至は争闘を主とした教育の影響から、自分が闘うと同時に、他人をも闘わしたい点にある」


 私は、この「極端派(エキストリーミスト、Extremist)対自由派(リベラル、Liberal)」

という分類に触れて、自分の抱えていたもやもやをある程度晴らすことができたと感じました。私は、リベラルという言葉の定義の難しさもあって、今でもリベラルとは何かということを考えています。答えが出るかはわかりません。


 しかし、攻撃的な右と左対そうではない勢力という分け方にはある程度納得ができます。そして、右と左が極端派として一緒になり、リベラルと対峙するという構図を清沢は私に与えてくれました。


 私は、この構図は日本政治を理解する上で非常に重要だと思います。現在の状況に完全に当てはまるものではなくても、大きな示唆を与えてくれるものだと思います。


 現在の政治状況は、自民党が大きな勢力を持ち、公明党と共に与党となっています。野党側には元気がなく、共産党がある程度の活力を保っている状況です。日本維新の会やみんなの党は、安倍晋三首相が「責任野党」と呼んだように、自民党に大変強力的な姿勢を示しています。ここにリベラルな野党はいません。


これは2012年の衆議院銀選挙でリベラル政党が軒並み壊滅してしまったからです。この「リベラルの殲滅」を仕組んだのは、マイケル・グリーンであることは間違いのないところです。


 最近の選挙で安定して議席を確保し、微増させているのは共産党です。自民党に対する批判票を吸収する形で党勢を少しずつですが拡大させています。しかし、共産党が過半数を握って政権を掌握するということはないでしょう。


 ここで奇妙な「呉越同舟」「共存共栄」関係が生まれます。自民党がどんどん大きくなる。それによって、格差は拡大し、人々の生活は苦しくなります。すると、批判票が共産党に流れる。そして、自共の間には奇妙な相互依存関係ができます。自民党にしてみれば、批判票が共産党に流れることで、強力なリベラル野党の出現を防いでくれることになります。


 そして、ここで面白いことになるのですが、自共は共にリベラルの出現を阻止しようとして奇妙なランデブーを行うのです。その好例が今回の東京都知事選挙(2014年2勝ち9日投票)です。


 安倍晋三首相には国内に強力な反対勢力を持たないという状態になりました。私の考えでは、日本国内で安倍氏に少し動揺を与えられる反対勢力として、アメリカ大使館にいるキャロライン・ケネディ米駐日大使がいて、そのリベラル・カトリック人脈から、今回、細川護煕氏が突然、東京都知事選挙に出馬してきたと考えています。


 今話題の都知事選について考えてみます。舛添要一氏、田母神俊雄氏、宇都宮健児氏、細川護煕氏が有力な候補者となっています。自民党と公明党は舛添氏、日本維新の会の石原慎太郎系と自民党の一部は田母神氏、共産党は宇都宮氏、民主党は細川氏をそれぞれ支援しています。


 私は最初、宇都宮氏と細川氏が一本化してどちらかがどちらかの支援に回るくらいのことをしなければ、舛添氏が楽々と当選してしまうことになると考えていました。そうなるのなら、当選の可能性が高い細川氏が統一戦線の候補者となるべきだと考えました。しかし、細川氏も宇都宮氏も一本化の考えはないと言明されましたから、一本化がないのは残念だがしょうがないと考えました。


 宇都宮氏陣営は、細川氏の出馬に関して文書をPDFファイル形式で発表していたり、細川氏の出馬が遅かったことを捉えて「後出しじゃんけんだ」という全く持って的外れな批判をしたり、と一番当選の可能性が高い舛添氏ではなく、細川氏を攻撃してきました。


 私は、主敵は誰なのか、自民党政権に大きなショックを与えるのは、舛添氏の落選ではないのかと考え、どうして宇都宮氏陣営は舛添氏に対して同じほどの熱心さで対峙しないのかと不思議で仕方がありませんでした。


 しかし、私は清沢の「極端派と自由派」という分け方を知り、合点がいきました。この都知事選でも「自共の共存共栄のためのリベラル潰し」が行われているのです。宇都宮氏個人は当選に向けて必死で選挙活動を展開されているでしょう、粘り強さが身上の方で、それこそ命がけの活動をなさっていると思います。しかし、彼の支援者や共産党はどうでしょう。


 自分たちの商売敵になりそうなリベラルの代表である細川氏を攻撃し、自共の安定した相互依存関係をこれからも維持していこうという戦略を取っているように見えます。自民党や安倍氏の圧政が続けば続くほど、彼らにとっては安定した支持や支援を得られるということで、これは「合理的な選択(ラショナル・チョイス)」と言えるでしょう。


 自民党にしてみれば、自分たちが動かなくても、宇都宮氏陣営が細川氏陣営を攻撃し、票を奪ってくれるのですからこんなに楽なことはありません。


 二正面作戦を強いられて、細川氏は苦戦するでしょう。そして、舛添氏が当選してしまうでしょう。そうなれば、自民党の圧政はしばらく続くことになります。これは国民の利益にかなうこととはとても言えません。


 「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉があります。マルクスが『資本論』の中で使った言葉です。私はこの文章を書きながら、この言葉を思い出しました。

(終わり)  

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コメント
 
01. 2014年1月31日 05:14:01 : OWxV5NKPbQ
 
そもそも、リベラル(自由主義)とは何か、その最も本源的なところは資本主義経済の枠内での自由な利己的利益の追求である。ところが、ここで言う「自由」というものが資本主義経済では曲者で、自分は悪意がなくて自由に利己的利益の追求をやっていても、それが知らぬ間に他者の生活を脅かしている側面がある。投機取引などもそうだし、環境破壊を伴う大規模開への資本投下もそうだ。また膨大な先物信用取引で本来の実需以上に商品物価を吊り上げてしまうこともそうである。「自由」は国家格差を利用した収奪にも使われる。通貨が価値を失えば自由市場は海外からの収奪の餌食になる。

もちろん自由主義が資本主義の社会発展に貢献してきた面は往々にある。しかし、自由主義が併せ持つ裏の顔(=自由な利己的利益の追求)が悪意をもって利用されると国民の生活向上や社会発展に逆作用することをしっかり見ておく必要があるだろう。

「人を泣かせて儲けるな」

昔の経営者はそういう理念があった。ところが資本主義とは皮肉なもので、そういう経営者も競争で負けて明日の労働予備軍になる。グローバル化は「人を泣かせて儲けるな」という経営に反して突き進んでいく。しかも、競争に勝てば利潤は増えるのだが、それでも「利潤率の傾向的低下」からは逃れられない。イノベーションでそれを打ち破れるという反証も結局のところ金融詐欺紛いの可能性が高い。「自由」の行き着いつく先が、一握りの富豪が謳歌し、残りの貧者にとっては「不自由」である気がしてならない。


02. 2014年1月31日 08:14:03 : OWxV5NKPbQ
本文中、戦時体制に突き進んだ原因が左右のイデオロギーにあったという捉え方は表面的でしかない。戦争へと進む根幹は、左右のイデオロギーではなく、利己的利益の追求の果ての衝突である。国内での利己的利益追求に飽き足らず、国境を隔てた際限ない収奪を行なう上で衝突した結果が戦争である。左右のイデオロギーはそれを遂行するための道具でしかない。利己的利益の追求という「偽の自由」は戦前も戦後も貫徹しており、そのために、国民にとっての自由=真の自由が制限され続ける構図も変わらない。

昨今において、リベラル=自由主義勢力がなぜ停滞したのかは、リベラリズム(自由主義)自身が併せ持つ問題と真剣に向き合ってこなかったが故であり、それは、リベラリズムの中から居直る連中(古典回帰のネオリベラル)が現れてきたことからも見てとれる。


03. 2014年1月31日 09:19:54 : OWxV5NKPbQ
 
リベラル選好の人は、中庸主義の罠についても、しっかり認識しておく必要があるだろう。そもそも中庸というのは本質を隠した装いであり、支配者側に適合した儒家の教えである。これは中庸主義が、儒家思想が繁栄した中国の戦国時代当時、中庸に寄れば激動期の混乱に巻き込まれない生き方として、これが=君子がとるべき天の道(絶対的な価値基準)とされたことから始まる。

この一方で儒家は「小人は中庸に反す」と二項対比させており、これを客観的にみれば、積極的に問題解決に邁進しないほうがよく、対立する一方の側=変革を望まない現状維持者に組すべしという本質が「中庸」には内在されていることがわかる。

よく政権擁護新聞とリベラル紙が対比されるが、リベラル紙の本質はまさに中庸の装いであり、読者は巧みに誘導され、いつも最後に裏切られてしまう。消費増税反対といっていたリベラル紙が賛成になってしまうなどはその典型例である。また、沖縄米軍基地移設の問題で「最低でも県外」と言っていたリベラル党派がいつのまにか、「県内移設」へと主張を反転させてしまったことも「中庸主義の罠」のいい例である。


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