03. 2014年1月21日 18:53:36
: whWin9e6Lo
安倍首相の歴史挑発に、松陰の影がちらつく(1) 2014年01月20日18時05分 [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] ・http://japanese.joins.com/photo/898/1/108898.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jplarticlelpicture 写真拡大 「松陰神社」入口の看板。吉田松陰と弟子である前原一誠の顔の絵。その前に立つ筆者パク・ポギュン論説委員。 日本の安倍晋三首相は、歴史を再構成している。侵略と膨張の記憶を脚色している。その野心は執拗だ。彼の歴史認識は、出身地域と絡み合っている。彼は山口県の出身だ。山口は日本列島の本州の南端にある。山口は旧長州藩だ。明治維新は日本の近代史だ。反転と曲折のドラマだった。そのドラマの主な演出・供給地が長州だ。 その真ん中に花火のように散った29年の人生がある。吉田松陰(1830〜59)。松陰は、明治維新の理論と情熱を生み出した。人物を大挙して供給した。征韓論をつくった。この部分において松陰は拒否の対象だ。 安倍首相は松陰の崇拝者だ。安倍氏が揺らす旗は国粋主義の再現だ。復古の右傾化の旗は単純な突出ではない。その確信と信念の土台は何か。松陰と山口に答がある。 先月、私は山口に行った。山口の歴史の心臓は萩市。長州藩の都の地であった。山口県の南端の下関から列車で向かった。安倍首相の地方区(衆議院7選)が下関と長門市だ(山口4区)。JRの地方列車を乗り継いだ。車窓の外には韓国の東海(トンヘ、日本名・日本海)が見えた。 約2時間50分後、東萩駅に降り立った。人口5万人余り。小さな田舎の街だ。列車で一緒になった50代の事業家の日本人は断定した。彼は「松陰先生の萩の話が、日本の近代史」といった。萩の観光パンフレットは「維新の先覚者、吉田松陰」を紹介している。私の初めての追跡対象だ。 松下村塾。松陰の私説の学堂だ。ここは松陰を賛える複合空間だ。歴史館、記念館(宝物殿)、「松陰神社」でできている。境内の入口には大きな石碑がある。「明治維新胎動之地」と刻まれている。明治維新100周年の記念物だ。文字は当時の佐藤栄作首相の手書きだ。佐藤氏の故郷も山口だ。 「胎動之地」は松下村塾を意味する。明治維新(1868年)は日本の自負心だ。日本は植民地に転落しなかった。近代化に成功した。田舎の寺子屋は小さくて質素だ。木造平屋だ。国家の史跡だ。石碑(天皇陛下行幸啓)がある。1994年、明仁天皇の訪問記念碑だ。 「胎動之地」という称賛の表示だ。見栄えのしない寺子屋に、その用語がついた理由は明快だった。「講義室」は畳8枚の半分の大きさ(4.5坪)。松陰の肖像画、顔の銅像が置かれている。別の壁には顔写真が3列にわたりかかっている。松陰と12人の門下生たちだ。 一番上には久坂玄瑞、高衫晋作。代表する弟子だ。右側には木戸孝允、前原一誠。木戸は明治維新の3傑中の1人だ。三傑は最高功臣だ。次の列は伊藤博文、山縣有朋だ。明治時代の文武の中心人物だ。2人とも首相を歴任した。その横には3人の大臣(逓信・内務・司法)が続く。伊藤博文は韓国強占の象徴だ。山縣は長州軍閥の総帥だ。彼は韓国侵略の軍事力と人材を稼動させた。 写真を見回すと、驚きと奇異さが重なる。明治維新の主役たちであふれている。日本近代史の大物たちだ。 松陰の私塾運営は1年2カ月。監獄の講義まで合わせれば3年ほど(26〜29歳)だ。門下生(92人)の中には大学設立者、鉄道、船舶技術の先駆者もいる。安倍首相は「松陰先生は3年間の教育で有能な人材をたくさん輩出した。小さな松下村塾が明治維新の胎動の地になった」とした(2006年議会発言)。 こんなことが可能だろうか。好奇心と疑問がつきまとう。田舎の寺小屋の1カ所で、一度に、短い期間に、20台後半の師匠によって。松陰の卓越したドラマだ。 松陰時代は徳川幕府の末期だ。1853年、フェリー提督の米国艦隊が現れた。江戸近海への黒船の衝撃は日本を揺さぶった。内憂外患に包まれた。天皇と将軍の間で、幕府の将軍と藩の大名の間で、藩と藩の間で、対外開放と閉鎖の間で。国論が分かれ、人が分かれた。尊王攘夷(幕府打倒により天皇を敬って外勢をはね除ける)の旗じるしは強まった。侍の刀が乱舞した。血が血を呼んだ。大乱の時代であった。 明治維新の主導地域は長州と薩摩だ。薩摩は九州の南の鹿児島県だ。日本の藩たちは新しい武器と新しい文物を受け入れた。競って人材を育てた。その姿は、朝鮮の衛正斥邪とは違った。朝鮮は、偽善的談論、人物貧困、閉鎖、文弱(文武の文にだけ熱中して、精神的にも身体的にも弱くなっている状態)のドロ沼に苦しんでいた。 ・http://japanese.joins.com/article/815/180815.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|main|inside_left 安倍首相の歴史挑発に、松陰の影がちらつく(2) 2014年01月20日18時06分 [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] ・http://japanese.joins.com/photo/899/1/108899.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jplarticlelpicture 写真拡大 吉田松陰のろう人形。江戸幕府の監獄に閉じ込められた時だ。山口県萩市の「吉田松陰歴史館」の展示物。彼の遺言は、幕府打倒の理論と決議を注入していた。 松陰は萩の下級侍の出身だ。秀才だった。11歳の時に長州の藩主(毛利敬親)の前で兵学をスピーチした。彼は当代の学者を探して学ぶ。彼は脱藩した。藩の境界を越えるのは重罪だ。彼は米国密航を試みた(24歳)。失敗して自首した。監獄に閉じ込められた(14カ月)。彼は600冊の本を読んだ。練磨の時期であった。彼は萩の監獄で『孟子』を講義した。出獄後、私塾を開いた(28歳、1857年11月)。そして松下村塾が誕生した。 松下村塾は破格だった。侍優先の階級社会の時期だ。出身を問わなかった。門下生の身分は多様だった。それは既存秩序に対する挑戦だった。門下生の身分上昇の意志で動いた。その時代の国民的力量の発掘と拡大であった。伊藤博文は身分の低い侍(足軽)だった。 境内の「至誠館」に松陰の文字が並んでいる。孟子の教え(至誠而不動者未之也)がかかっている。「知性をつくせば、成し遂げられないことはない」。松陰の「知性」は、安倍首相の座右の銘だ。松陰は動機づけを重視した。「能力には差がある。だが誰にでも長所があって、長所がのびれば大成できる」。 松陰は長州の急進的な尊王論を発展させる。「一君万民論」として前面に出した。「国は君(天皇)が支配し、民は君のもとで平等だ」。「天皇中心の国」に改造しようということだ。彼の幕府打倒論は、単純な権力闘争ではない。彼の死後、その理論は国粋主義と一緒になって悪性進化する。 1858年、幕府は米国と修好通商条約を結ぶ。不平等条約だった。尊王攘夷派は反発した。松陰は怒る。大事件を謀議する。彼は謀逆にかかわる。再び投獄される(1858年12月)。江戸幕府に連行されていく。彼は暗殺の陰謀を告白する。5カ月後に処刑された(1859年10月、29歳)。安政の大獄だ。 彼の遺書は、「留魂録」として残っている。「体が武蔵野原で腐っても、世の中に残る大和魂」。大和魂は日本帝国の死の美学だ。太平洋戦争で絶望的な突撃の時に叫んだスローガンだ。 留魂録は決起の言葉だ。悲壮美の強烈な注入だ。弟子を激動させた。松陰は「草莽崛起(そうもうくっき)」と叫んだ。草莽は田舎に隠れて生きる、取るに足らない者を意味する。松陰は「取るに足りない民衆たちよ、いっせいに立ち上がれ」と言ったのだ。 彼の悲願は、熱血の動力として広がっていった。彼の一番弟子だった4人のうちの3人は刺客にあったり割腹をした。もう1人は幕府との戦闘で決定打を飛ばした。幕府264年の支配が終わった(明治維新)。彼が死んで9年後のことだ。歴史小説家の古川薫は『留魂録の世界』を書いた。その本は、安倍首相の愛読書として知られている。 李泰鎮(イ・テジン)ソウル大学名誉教授は韓日近代史の専門家だ。彼は松陰学堂の大量人物の輩出の理由をこう見ている。「開かれた教育の力だ。長州の藩主は、徳川幕府に追いやられた。その怨恨に、貧しい下級武士の身分上昇の意志、使命感の集団的共有などが集まったと見られる」。 松陰は神話となる。日本の近代史で松陰の地位と存在感は圧倒的だ。世宗(セジョン)大学の保坂祐二教授(日本地域学)は「松陰が構築した長州藩の思想的土台が明治体制の根本を作った。それが1945年敗戦時まで国の枠組みとして動いた」と評価した。 安倍首相は昨年8月、松陰神社に行った。参拝後、彼は「衆議院に立候補の意を固めた時も参拝した。(今後も)正しい判断をすることを誓う」とした。李泰鎮教授は「松陰は右傾化国粋主義の元祖だ。安倍首相の松陰神社参拝は、靖国参拝よりも意味深い」とした。保坂教授は「安倍首相は、松陰の世界に忠実だ」とした。彼の歴史挑発に松陰の影がちらつく。松陰の世界は安倍歴史観に結ばれていった。 2014年、安倍首相は「強い日本を取り戻すこと、新しい国づくり」を提示した(新年の辞)。その国政アジェンダは平和憲法体制の改編だ。安倍氏の確約は松陰の「草莽崛起」を思い出させる。 私は「吉田松陰歴史館」に入った。ろう人形で松陰のドラマがつくられていた。彼の生涯は、緊迫するように展開する。最後の展示物に目がとまる。「山口県出身の総理大臣」だ。 片方に伊藤博文と山縣有明がいる。反対側のろう人形は5人。桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作。桂、寺内、田中の3人は長州軍閥の核心だ。松陰門下の影響圏にある。松陰の影響力は戦慄的だ。安倍首相まで合わせて山口出身の首相は8人(うち4人の故郷が萩)だ。日本の47都道府県の中で最も多い。歴代の日本首相は57人(96代)だ。観光案内書は「日本の歴史の大きな足跡を残した宰相」と紹介した。 私はぎくりとした。彼らは韓国と悪縁で結ばれている。太平洋戦争後の首相は岸・佐藤の2人だ。2人は実の兄弟だ。佐藤首相時代に韓日新時代(1965年国交正常化)を切り開いた。松陰の歴史館に、岸の文字がかかっている。松陰が詠んだ詩だ。その文字は松陰の碑石(東送之碑、萩往還公園)に刻まれている。安倍首相は岸の外孫だ。岸の政治は安倍首相のロールモデルだ。岸の文字、佐藤の維新記念文字、安倍首相の松陰神社への参拝。松陰の影は長くて濃厚だ。 山口出身の大物との悪縁は韓国の侵奪だ。伊藤博文(初代朝鮮統監)と山縣はその元祖的存在だ。韓日強制併合の時(1910年)、首相は桂、寺内は初代朝鮮総督(3代統監)だ。彼らは明治時代、元勳に選ばれる。私たちの亡国史の元兇だ。 ・http://japanese.joins.com/article/816/180816.html?servcode=A00§code=A10 |