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靖国神社
国内問題として首相の靖国参拝を考える
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140119-00031744/
2014年1月19日 12時19分 江川 紹子 | ジャーナリスト
靖国神社に行ってきた。
安倍首相の靖国参拝について改めて考えてみたい、と思ったからだ。
昨年末の参拝には、中国や韓国が激しく反発。米政府が「失望」を表明したほか、欧米のメディアも厳しく批判した。こうした海外の反応を受けて、国内でも外交や経済への影響を懸念する論評がある一方、逆に不当な干渉だと声高に反発する人たちもいる。
海外の視線に対して敏感であることは大切だろう。だが、靖国問題というと、外交的な側面ばかりが強調されすぎるような気がする。本当は、それ以上に、日本人自身が日本のこととして、この問題をもっと考える必要があるのではないか。そんな思いで靖国神社を訪ね、同神社の意義や価値観を示す遊就館の展示を見直した。
■祀られるのは天皇のために戦った軍人軍属
この神社の歴史は、幕末から明治維新にかけて功績のあった志士らを祀った東京招魂社に始まる。明治天皇の命で、1879(明治12)年に靖国神社と改名。以後、日中戦争・太平洋戦争に至る軍人・軍属らの戦没者の霊を祀っている。
祀られるのは、基本的に天皇のために戦って亡くなった人々。なので、幕末の志士である吉田松陰や坂本龍馬は祀られているが、維新に多大な功績があったものの西南の役の指導者となった西郷隆盛は祀られていない。それどころか、遊就館には西郷の似顔絵が描かれた指名手配書が展示されている。他方、西南の役での熊本城籠城の戦いは、高く評価されている。
■昭和10年代の価値観が今も
遊就館には、同神社の歴史観に則って様々な資料が展示されている。それは、日本が対外的に行った戦いはすべて正当である、という全肯定の精神に貫かれ、日中戦争は「支那事変」、太平洋戦争は「大東亜戦争」と戦時中の名称で呼ばれる。
靖国神社の価値観は、この遊就館で上映されている映画を見ると分かりやすい。次のようなことが語られている。
日本は満州に「五族協和の王道楽土」を築こうとし、軍事行動を慎んでいたのに、中国の「過激な排日運動」や「テロ」「不当な攻撃」のために、やむなく「支那事変」に至った。そして、「日本民族の息の根を止めようとするアメリカ」に対する「自存自衛の戦い」としての「大東亜戦争」があった。この日本の戦いは、白人たちの植民地支配を受けていた「アジアの国々に勇気と希望を与えた」…。
昭和の初めから戦時中にかけての政府・軍部の宣伝そのものだ。靖国神社では、先の大戦は今なお聖戦扱い。まるで時間が止まったように、戦前の価値観が支配している。
太平洋戦争においては、日本兵の多くが餓死・病死した。その数は死者の6割に上る、との指摘もある。だが、そうした武勇にそぐわない事実や戦争指導者の責任は、ここでは一切無視されている。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓のために、捕虜になって生還することができず、民間人まで「自決」せざるを得なかった理不尽さも記されない。戦争指導者に対して批判的な考えを記した学徒兵の手記なども、示されない。
映画では、「黒船以来の総決算の時が来た」との書き出しで始まる、高村光太郎の詩「鮮明な冬」が紹介されている。そこには日米開戦の時の高揚した気持ちと当時の一国民としての使命感が高らかにうたわれている。高村は、その後も勇ましい戦争賛美、戦意高揚の詩をいくつも書いた。しかし、遊就館の映画は、その後の高村については一切触れない。
高村光太郎「暗愚小伝」より
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彼は終戦後、己の責任と真摯に向かい合いながら、岩手の山小屋で独居生活を送った。そして、戦前戦中の「おのれの暗愚」を見つめた「暗愚小伝」を書いた。それには全く目を向けずに、「暗愚」の時代の作品だけが高らかに取り上げられ、今なお戦争賛美に使われていることは、泉下の高村の本意ではあるまい。
■国民を戦争に動員するシステムの頂点にあった靖国神社
遊就館の展示は、すべてこうした価値観の下にある。展示物を見ている限り、軍隊の上官はすべて部下思いであり、責任感に溢れ、一人ひとりの兵士は皆、国のために喜んで命を投げ出したかのようである。中国においても、「厳正な軍紀、不法行為の絶無」が示達され、民間人の殺害など一切なかったかのようである。
過去の失敗や過ちから学ぶ視点は、まるでない。あるのは、国に命を捧げることへの称賛。しかも、国のために命がけで何かを成し遂げるというより、ただただ命を捨てる尊さが称えられている。
この点でも、靖国神社の時間は、昭和20年8月以前の段階で止まっているようだ。
国のために死ねば、靖国神社に祀られ、現人神である天皇陛下が参拝して下さる。それが日本国民として最高の名誉であり、喜びであるーー戦時中の国民に叩き込まれていた、この精神構造の頂上に、靖国神社は存在した。
少女時代に戦争を体験した作家の故上坂冬子さんは、『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)で、こう書いている。
〈死がこれほどまでに単純化されるのが、戦時体制なのだ。国家の為に命を捨てることに、まったく無抵抗にならなければ戦争などできるものではない。その意味で当時の日本は見事といえる体制を組んでいた。その頂点にあったのが、良くも悪くも靖国神社であ(った)〉
上坂さんは、A級戦犯の合祀や首相の靖国参拝に肯定的な論者だった。その方にして、同神社が国民を戦争に動員するシステムの頂点に位置したことは認めている。
■感動を戦争肯定に導いて教化する
そのような仕組みが分かっていても、遊就館での展示物を見ていると、いつの間にか心が引き込まれる。絶対国防圏と言われた南洋での戦いに敗れ、自決した司令官が最後に打った「我、身を以て太平洋の防波堤たらん」との決別電。家族に対する愛情と国のために命を投げ出す覚悟を綴った兵士たちの手紙。そして、壁に貼られた九千枚以上の顔写真…。
国のために己を犠牲にするひたむきな心情に感動し、国を思う悲壮感には思わず居住まいを正さずにはいられない。その思いを否定したり押さえ込む必要はない、と思う。多くの犠牲に対して、私も自然と頭を垂れ、哀悼の思いを捧げた。
遊就館に入るとすぐに零戦の展示がある
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ただ、そのような思いを、戦争やそれを招いた国策、戦争指導者への肯定に導いていこうとするところに、この神社の危うさがある。
戦後日本の体制づくりの土台には、戦争への反省があった。そのうえに、日本の復興があり、その後の発展があった。この土台を、靖国神社の価値観はそっくり否定してみせる。
反省する必要はない。あの戦いは間違っていなかった。国のために命を投げ出すことこそ尊いのだーーこのような価値観を、感動や感銘と共に心に注ぎ込み、人々の教化に努める。こうした機能を今なお維持している靖国神社は、慰霊のためだけの施設とは言えないだろう。
■価値観の共鳴
それでも、遺族や個人が戦没者を偲んで参拝するのは、まったく自由である。しかし、日本政府のトップにいる首相が、同神社の価値観を全く否定せずに参拝したことは、国民にとってどういう意味を持つのかは、よく考えるべきだ。
「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍首相の歴史観は、村山談話よりも、靖国神社の価値観と、共鳴し合っているように見える。また、安倍首相は憲法改正に意欲を示すが、自民党の「改憲草案」では、憲法の基本的な理念である「個人尊重」が消され、「国民の権利」より「公益及び公の秩序」が優越する。個より全体、個人より国が優先される考え方は、これもまた、国のために命を捧げることを称揚する靖国神社の精神と整合する。
それでも安倍首相は、対外的な批判を気にしてか、参拝の目的の1つとして「二度と戦争の惨禍で人々が苦しむことがない時代をつくるとの誓いの決意をお伝えするため」と述べた。
ところが自民党は、今年の運動方針案の中で、「靖国神社の参拝を受け継ぐ」と決めた際、従来の文章から「不戦の誓いと平和国家の理念を貫くことを決意」の一節を削除した。代わりに「日本の歴史、伝統、文化を尊重」を挿入。だが、我が国の長い歴史や伝統を考えれば、明治以降の歴史しか持たない靖国神社が「日本の歴史、伝統、文化」を体現しているとは言い難い。それでも敢えて、靖国神社の価値観を「日本の歴史、伝統、文化」にしようというのだろうか。
これには、自民党関係者からも不安の声が聞こえてくる。同党の衆院議員だった早川忠孝弁護士は、自身のブログで「不戦の誓いをしないで、靖国参拝で何を祈ろうというのか」「靖国参拝から不戦の誓いを外してしまえば、うっかりすると必勝祈願になってしまいかねない」と書いている。
■「快感」の虜にならないために
さらに早川氏は、こうした重要な決定が、党内で十分に議論されずに決まってしまう今の自民党について、こう述べている。
〈自民党には真正保守の人やリベラル色の強い人など色々な人がいて、全体としてバランスのとれた穏健保守の政党だったはずなのに、段々リベラル色の強い国会議員の発言力が低下して、勇ましいラッパを吹く真正保守の人たちの声が大きくなっている、という証左だと思う。実に危うい〉
危うい、と私も思う。とりわけ、このような状況に対して大きな批判が起こらず、むしろ喝采を送り批判者を罵る人たちが少なくない今の社会の空気が、実に危うい。
上坂さんは、先の本の中でこうも書いている。
〈国中が一丸となって突撃していた時代の一種の危険をはらんだ快感が、戦争という二文字の裏側にある〉
「勇ましいラッパ」を吹き鳴らすのも、それに喝采の声で応えるのにも、「快感」がありそうだ。この「快感」の先に何があるのだろうか……。
靖国神社の後、私は千鳥ヶ淵戦没者墓苑に向かった。ここには、身元が分からなかったり、引き取り手がない戦没者の遺骨が納められている。その数、35万8253柱(昨年12年26日現在)。ふるさとに戻ることができなかった軍人・軍属たちだ。さらに、海外での戦没者約240万人のうちの半数近くにあたる113万人の遺骨が、未だ日本に帰ることができないでいる、という。ちなみに、現在の新潟県の総人口は237万余人、宮崎県が113万余人。海外戦没者と未帰還者の多さに、あらためて愕然とする。
こうした多くの犠牲があったことを忘れまい。そして、「快感」の誘惑には、精一杯抗いたい。勇ましいラッパに心を躍らせるのではなく、正確な知識と情報を得て冷静に考える努力をしたい。理性が本当に大切な時代になった、と思う。
(1月17日付熊本日日新聞に掲載された拙稿に大幅加筆しました)
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