http://www.asyura2.com/14/senkyo159/msg/444.html
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もし日本人が中国で「毛沢東は数千万人の人民を虐殺した悪魔だ!中国共産党は一党独裁を放棄せよ!」とキャンペーンを張ったらどうなるだろう?
すぐに拘束されて銃殺になりかねない。
そう考えると、外国人が日本国内でデモや抗議の政治活動を行う異常さが理解できると思います。
国籍不明の活動家=中国・北朝鮮のスパイ。
日本中国友好協会から
http://www.jcfa-net.gr.jp/tokyo/sensouten/about.html
「平和のための戦争展」とは?
「平和のための戦争展実行委員会」は、毎年8月15日の前後に、戦争と平和についての展示会「平和のための戦争展」を東京都内で開いてきました。1980(昭和55)年の、25団体と各界6氏の実行委員会による第1回展から続いています。
その当時は、戦争を知らない世代が総人口の半分以上となって戦争体験の風化が問題となる一方、軍国主義の復活と言える出来事が続きました。1978年には、在日米軍「思いやり予算」が合意され、「日米安保防衛協力のための指針」(「旧ガイドライン」)が閣議了承されました。1980年には、一部政治家・財界・右翼などによる「第2次教科書攻撃」(日本史教科書の検定を強め、「侵略」を「進出」と書き直させるなど)も開始されたのです。
戦争体験を次の世代へ伝えようとする人々は、出版や展示会方式の活動に取り組みました。この頃から、全国で空襲展・『アンネの日記』展・沖縄「ひめゆりの乙女たち」展・原爆展などが開かれました。「平和のための戦争展」もそうしたものの一つで、東京の他に大阪・京都・和歌山・埼玉など、それぞれの実行委員会が独自に運営しています。実行委員会は、ボランティアとカンパで運営されています。
●実行委員会
実行委員会は、「平和のための戦争展」の目的に賛同する個人および団体で構成しています。私たちは、会議を通じて役割分担や予算・決算、年間スケジュール、展示の内容など「平和のための戦争展」に関するすべてを決めています。
●ボランティア
ここでは全体会議をさします。学生から戦争体験者までの幅広い世代が、対等に意見を交わしています。会議のあとは一杯入った交流で再度盛り上がります。 その年の企画内容が決まると、戦前=第1コーナー、戦後=第2コーナー、現在=第3コーナー、特別展示などの区分ごとに分かれて、展示を具体化する会議を開きます。資料収集や展示物作成の行動単位です。
展示は写真パネルが中心で、その主題や構成は毎年の実行委員会の中で充分議論して決めていきます。大まかには、次のようになっています。
●第1コーナー=侵略戦争の実態。
●第2コーナー=不十分だった戦争責任追及や戦後補償。
●第3コーナー=憲法や安保の問題に触れて平和について問いかけます。
●特別展示=独立して取り上げる重要なテーマがある場合に設けています。
●高校生の視点で考えるコーナー。
その他に、戦前の物品の展示、戦争体験者の証言、ビデオ上映のコーナーがあります。
※写真:正面パネル 右:物品の展示(共に1992年8月撮影)
●主な歩み
※第1〜5回展は、「平和のための戦争資料展」(「資料展」)と呼んでいました。
・第1回展(1980年)
東京・お茶の水の「主婦の友会館」にて、8月9〜15日の10日を除く6日間開かれました。新聞を通じて遺品類の提供をよびかけ、会場には数多くの戦時中の資料が並びました。ガダルカナル島に野ざらしにされていた遺骨に参観者が線香を手向けたため、空調を通じてビル全体に線香の匂いが回り、大あわてするハプニングもありました。5000を越える入場者を数えました。
当時の日本の平和運動は、原爆や空襲などの被害や基地問題が中心でしたが、私たちの「戦争展」は、中国侵略や朝鮮植民地支配などの日本の加害責任をより大きく取り上げました。回を重ねるごとに、侵略戦争の実態と本質を系統的に伝え、平和を守る尊さを知ることの大切さが深められました。
・第2〜10回展(1981〜1989年)
第2回展から、会場が東京・渋谷の「山手教会」になりました。大きな看板を立てたのですが、派手な渋谷の街では目立たないので、スピーカーを持ち出して呼びかけました。また、ふすまのすいとんを「美味しいものじゃなかった」という年輩の実行委員と、うどん粉のすいとんを試食して「うまい」という若い実行委員の間で熱い議論がありました。
第3回展は、森村誠一氏の『悪魔の飽食』がベストセラーとなる中で、七三一部隊関係の資料を展示し、総入場者数1万人の大成功となりました。山手教会の好意で、この時は日曜日も開催できました。会場BGMとして、ジョン=レノンの「イマジン」「ウーマン」を流しました。
この間は、戦争の加害の体験者が中心となり、戦争にたいする痛恨の想いをこめて取り組んだ展示でした。一方で、参観した若者へ参加を呼びかけ、第6回展では現代コーナーを若者が担当するようになりました。
・第11回展(1990年)〜
10年間続けた区切りとして、もう止めようとの意見もありました。しかし、戦争体験(教訓)を風化させてはならず、次の世代に継承しなくてはならないと、原点の考えに立ち返りました。会場アンケートに答えてくれた若者に呼びかけ、実行委員のメンバーを増やしました。名付けて「知りたい世代がつくる戦争展」。
その第11回展では、シンガポールから、日本軍によって虐殺された人々の遺品を展示する事ができました。入場者数6100余人でした。 第18回展では、「高校生のコーナー」が新設されました。また、東京都の後援が得られました。
●1年間の活動の流れ
・1〜3月:今年の展示会の輪郭を作ります。
実行委員会(全体会議):今年のテーマについて各自の問題意識を出し合い、自由に討論します(月1回程度)。
・4〜5月:内容を深めると同時に、実務的作業が始まります。
実行委員会(全体会議):討論をまとめてメインテーマを確認します(月2回程度)。ポスター・チラシの図案も決めます。メインテーマにそった学習会を月1回程度(7月まで)開き、実行委員会の共通認識とし、問題意識を深めます。
コーナー会議:おもに戦前、戦後と現在、特別展示など3〜4程度のグループ(コーナー)に分かれて、開かれます。自分たちの担当する内容を学習と討論で深め、展示に使う資料・写真を収集します。遺品や模型展示の企画も進めます。
集中発送作業:賛同および募金のお願いを、チラシ・ポスターも同封して郵送する作業を、1週間程度行います。送り先は、前年の参観者・学校関係・平和団体などで6000通余りです。
・6月:戦争展の成否をにぎる最も重要な期間です。
コーナー会議:1枚1枚のパネル内容を絵コンテにまとめ、写真も決めて全体会議に提案します(月2回程度)。内容の正確さや版権のチェックも重要です。
実行委員会(全体会議):コーナーごとの展示計画を発表し合い、各コーナーの内容がメインテーマに沿って一貫したものになっているか、分かりやすいものになっているかチェックします(月2回程度)。厳しい討論になります。
・7月:展示を目に見える形にする具体的な作業です。
コーナーごとの準備:パネルの制作に集中し、月2回程度会議を開いて、進行状況を確認・検討します。パンフレットの原稿も作ります。企画内容がいよいよ形になってくる、ワクワクする作業です。
・8月:8月15日前後の、5日間程度の展示会を開きます。
搬入:開催日の前日に、丸一日かけて会場準備を行います。力仕事のほか、大工仕事、飾り付けなどもあります
開催中:会場にて、次のような役割分担があります。
会場係=会場の案内、遺品の管理、募金とアンケートの呼びかけなど。
説明係=展示を作成した人を中心に、参観者に説明し、質問に答えます。
その他に、入場者にパンフレットを渡す係、ビデオを上映する係、街頭で宣伝する係があります。
搬出:最終日の夕方に行います。終了後、打ち上げを行います。
9月〜:総括をします。
参観者からのアンケートを集計し、各コーナーで反省会を開き、まとめの実行委員会を開きます。次年度にむけた学習会を開きます。
【参考資料】
「日中友好新聞」バックナンバー
実行委員会ニュース「イマジン」バックナンバー(不定期発行)
「’93平和のための大阪の戦争展パンフレット」(第13号、平和のための大阪の戦争展実行委員会、1993年)
<参考リンク>
■ふくしま平和のための戦争展と平和講演会(日本中国友好協会) 国籍不明の反日左翼の国際ネットワークの恐怖
http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/475.html
■【痛快!テキサス親父】安倍首相の靖国参拝「米国は何も言うべきではなかった」 (1/3ページ)
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140114/dms1401141130001-n1.htm
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