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「農業は「金儲け」のためにあるのではない、「生き延びる」ためにある。農政について:内田樹の研究室」(晴耕雨読) 
http://www.asyura2.com/14/senkyo159/msg/327.html
投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 1 月 12 日 00:16:00: igsppGRN/E9PQ
 

「農業は「金儲け」のためにあるのではない、「生き延びる」ためにある。農政について:内田樹の研究室」
http://sun.ap.teacup.com/souun/13105.html
2014/1/12 晴耕雨読


内田樹の研究室http://blog.tatsuru.com/

農政についてから転載します。
http://blog.tatsuru.com/2013/12/30_1249.php

JAの雑誌に農政について書いた。

これもふつうの方はあまり手に取る機会のない媒体なので、ここに採録しておく。

食糧安保とグローバルビジネス現在の日本の状況をおおづかみに表現すれば、「過経済化」という言葉で形容することができる。

すべての政策や制度の適否が「収益」や「効率」や「費用対効果」という経済用語で論じられている事態のことである。

経済を語るための語彙を経済以外の事象、例えば政治や教育や医療のありかたについて用いるのは、用語の「過剰適用」である。

むろん、ある領域の術語やロジックがそれを適用すべきでない分野にまで過剰適用されることは、歴史的には珍しいことではない。

過去には宗教の用語がそれを適用すべきではない分野(例えば外交や軍事)に適用されたことがあった(十字軍がそうだ)。

政治の用語がそれを適用すべきではない分野(例えば文学)に適用されたことがあった(プロレタリア文学論というのがそうだ)。

人間はそういうことをすぐにしてしまう。

それは人間の本性であるから防ぎようがない。

私たちにできるのはせいぜい「あまりやりすぎないように」とたしなめるくらいのことでだけある。

「神を顕彰するための建築を建てよう」というのは宗教の過剰適用ではあるが、まずは常識的な企てである。

「神を顕彰するために、異教徒を皆殺しにしよう」というのは常識の範囲を逸脱している。

どちらも過剰適用であることに変わりはないのだが、一方は常識の範囲で、他方は常識の範囲外である。

どこに常識と非常識を隔てる線があるのか、いかなる原理に基づいて適否を判断しているのか。

そういうことを強面で詰め寄られても、私に確たる答えの用意があるわけではない。

常識と非常識の間にデジタルな境界線は存在しない。

にもかかわらず、私は神殿の建築には反対しないが、異教徒の殲滅には反対する。

これを「五十歩百歩」と切り捨てることは私にはできない。

この五十歩と百歩の間に、人間が超えてはならない、超えることのできない隔絶があるからである。

私はそう感じる。

そして、その隔絶を感知するセンサーが「常識」と呼ばれているのだと思う。

私たちはこの隔絶を感じ取る皮膚感覚を備えている。

その話を聞いて「鳥肌が立つ」ようなら、それは非常識な話なのだ。

今日本社会で起きている「過経済化」趨勢はすでに常識の範囲を大きく逸脱している。

それは見ている私の鳥肌が立つからわかる。

そういう場合には「もういい加減にしたらどうか」と声を上げることにしている。

すでに経済はそれが踏み込むべきではない領域に土足で踏み込んでいる。

大阪の市長は「地方自治体も民間企業のように経営されなければならない」と主張してメディアと市民から喝采を浴びた。

だが、よく考えて欲しい。

行政の仕事は金儲けではない。

集めた税金を使うことである。

もし採算不芳部門を「民間ではありえない」という理由で廃絶するなら、学校もゴミ処理も消防も警察も民営化するしかない。

防災や治安を必要とする市民は金を払ってそれらのサービスを商品として購入すればいい(アメリカにはそういう自治体がもう存在している)。

そういう仕組みにすれば行政はみごとにスリム化するだろう。

でも、それは金のない市民は行政サービスにもう与ることができないという意味である。

学校教育も経済が踏み込んではならない分野である。

だが、「教育コンテンツは商品であり、教員はサービスの売り手であり、子供や保護者は消費者である、だから、消費者に選好される商品展開ができない学校は市場から淘汰されて当然だ」と考える人たちが教育についての言説を独占して久しい。

彼らにとって学校は教育商品が売り買いされる市場以外の何ものでもない。

学校教育の目的は「集団の次世代を担うことのできる若い同胞の成熟を支援すること」であるという常識を日本人はもうだいぶ前に捨ててしまった。

医療もそうである。

金になるから医者になる、金になるから病院を経営する、金になるから薬品を開発する。

そういうことを平然と言い放つ人たちがいる。

傷ついた人、病んだ人を癒やすことは共同体の義務であり、そのための癒しの専門職を集団成員のうちの誰かが分担しなければならないという常識はここでももう忘れ去られつつある。

農業も「過経済化」に吹き荒らされている。

最初に確認しておきたいが、食糧自給と食文化の維持は「生き延びるための人類の知恵」であって経済とは原理的に無関係である。

農業が経済と無関係だというと驚く人がいるだろう。

これは驚く方がおかしい。

農業は「金儲け」のためにあるのではない、「生き延びる」ためにある。

今の農政をめぐる議論を見ていると、誰もがもう農業の本質について考えるのを止めてしまったようなので、その話をしたい。

人類史を遡ればわかるが、人類が農業生産を始めたのは、「限りある資源を競合的に奪い合う事態を回避するためにはどうすればいいのか」という問いへの一つの解としてであった。

農業はなによりもまず食資源の確保のために開発されたのである。

食糧を集団的に確保し、生き延びること。

それが農業生産のアルファでありオメガであり、自余のことはすべて副次的なものに過ぎない。

食糧を、他者と競合的な奪い合いをせずに、安定的に供給できるために最も有効な方法は何か?人類の始祖たちはそこから発想した。

最初に思いついた答えはまず食資源をできるだけ「散らす」ということだった。

小麦を主食とする集団、イモを主食とする集団、トウモロコシを主食とする集団、バナナを主食とする集団・・・食資源が重複しなければ、それだけ飢餓のリスクは減る。

他人から見ると「食糧」のカテゴリーに入らないものを食べることは食資源の確保にとって死活的に重要なことである。

自分たちが食べるものが他集団の人々からは「ジャンク」にしか見えないようであれば、食物の確保はそれだけ容易になる。

お互いに相手の食べ物を見て「よくあんなものが食える」と吐き気を催すようであれば、食糧の奪い合いは起こらない。

他者の欲望を喚起しないこと、これが食資源確保のための第一原則である。

食資源確保のための次の工夫は「食えないものを食えるようにすること」であった。

不可食物を可食的なものに変換すること。

水にさらす、火で焼く、お湯で煮る、煙で燻す・・・さまざまな方法を人間は開発した。

それでも同じような生態系のうちに居住していれば食資源はいやでも重複する。

その場合には競合を回避するために、人々は「固有の調理法」というものを作り出した。

調理はもともとは「不可食物の可食化」のための化学的操作として発達した。

だから、「できるだけ手間を掛けずに可食化する」ことがめざされたわけであるが、人々はすぐにできるだけ手間を掛ける方が調理法としてはすぐれているということに気づいた。

「ジャンク化」と同じアイディアである。

特殊な道具を用いて、特殊な製法で行わない限り、可食化できない植物(例えば、とちの実)は、その技術を持たない集団からみれば「ただのゴミ」である。

「ただのゴミ」には誰も手を出さない。

主食の調味料に特殊な発酵物を用いる食習慣も同じ理由で説明できる。

発酵物とはまさに「それを食用にしない集団から見れば腐敗物にしか見えない」もののことだからである。

食文化が多様であるのは、グルメ雑誌のライターたちが信じているように「世界中の美食」に対する欲望を駆動するためではない。

まったく逆である。

他集団の人からは「よくあんなものが食える(気持ち悪くてゲロ吐きそう)」と思われるようなものを食べることで他者の欲望を鎮め、食糧を安定的に確保するために食文化は多様化したのである。

農業について考えるとき、私たちはつねに「何のために先人たちはこのような農作物を選択し、このような耕作形態を採用したのか」という原点の問いに戻る必要がある。

原点において、農業生産の目的はただひとつしかない。

それは食資源の確保である。

それだけである。

そして、人類の経験が教えてくれたのは、食資源の確保のためにもっとも有効な手立ては「手元に潤沢にある(そのままでは食べられない)自然物」を可食化する調理技術を発達させることと、「他集団の人間が食べないもの」を食べること、この二つであった。

現在の日本の農政はこの原点から隔たること遠い。

TPPが目指すのは「手元にない食資源」を商品として購入すること、食文化を均質化することだからである。

世界中の70億人が同じものを、同じ調理法で食べる。

そういう食のかたちを実現することが自由貿易論者の理想である。

そうすれば市場需要の多い商品作物だけを、生産コストが安い地域で大量生産して、莫大な収益を上げることができる。

原理的には、世界中の人がそれぞれ違う主食を食べ、調理法を異にし、他文化圏から輸出されてくる食物を「こんなもの食えるか」と吐き出すというありようが食の安全保障(つまり70億人の延命)という点からは最適解なのだが、グローバル経済はそれを許さない。

「全員が同じ食物を競合的に欲望する」というありようがコストを最小化し、利益を最大化するための最適解だからである。

例えば、世界中の人間が米を食うようになれば、最低の生産コストで米を生産できるアグリビジネスは、競合相手を蹴散らして、世界市場を独占できるし、独占したあとは価格をいくらでも自由にコントロールできる。

自前の食文化を失い、「市場で商品として売られているものしか食えない」という規格的な食生活にまず人類全体を追い込んでおいて、それからその商品の供給をコントロールする。

人々が希少な単一食資源を奪い合い、「食物を手に入れるためには金に糸目をつけない」という世界こそ、アグリビジネスにとっては理想的な市場のかたちなのである。

だから、グローバル経済はその必然として、世界中の食生活の標準化と、固有の食文化の廃絶という方向に向かう。

これを「非人間的だ」とか「反文明的だ」批判しても始まらない。

ビジネスというのはそういうものなのだからしかたがない。

アグリビジネスは目先の金に用事があるだけで、人類の存続には特別な関心がないのである。

私が農業について言っていることはたいへんシンプルである。

それは、人間たちは「金儲け」よりもまず「生き延びること」を優先的に配慮しなければならないということである。

生き物として当たり前のことである。

その「生き物として当たり前のこと」を声を大にして言わないといけないほど、私たちの社会の過経済化は進行しているのである。

これまで人類史のほぼ全時期において、食糧生産は金儲けのためではなく、食資源を確保するために行われてきた。

でも、今は違う。

人々はこんなふうに考えている。

食糧の確保のことは考えなくてもいい(金を出せばいつでも市場で買えるのだから)。

それよりも、どういうふうに食糧を作れば金になるのかをまず考えよう。

だから、「食糧を作っても金にならないのなら、もう作らない」というのが正しい経営判断になる。

だが、これは国内市場には未来永劫、安定的に食糧が備給され続けるという予測に基づいた議論である。

こんな気楽な議論ができる国が世界にいくつあるか、自由貿易論者たちは数えたことがあるのだろうか。

21世紀の今なお世界では8億人が飢餓状態にある。

「費用対効果が悪いから」という理由で食糧自給を放棄し、製造業や金融業に特化して、それで稼いだ金で安い農作物を中国や南米から買えばいいというようなことを考えられる人は「自分の食べるもの」の供給が停止するという事態をたぶん一度も想像したことがない。

日本の国債が紙くずになったときも、円が暴落したときも、戦争が起きてシーレーンが航行不能になったときも、原発がまた事故を起こして海外の艦船が日本に寄港することを拒否したときも、食糧はもう海外からは供給されない。

数週間から数ヶ月で日本人は飢え始める。

それがどのような凄惨な光景をもたらすか、自由貿易論者たちは想像したことがあるのだろうか。

たぶんないだろう。

彼らにとって食糧は自動車やコンピュータと同じような商品の一種に過ぎない。

そういうものならたとえ輸入が止っても、それはむしろ在庫を高値で売り抜けるチャンスである。

でも、食糧はそうではない。

供給量があるラインを割った瞬間に、それは商品であることを止めて、人々がそれなしでは生きてゆけない「糧」というものに変容する。

たいせつなことなので、もう一度書く。

食糧は供給量があるラインより上にあるときは商品としてふるまうが、ある供給量を切ったときから商品ではなくなる。

そういう特殊なありようをする。

だから、食糧は何があっても安定的に供給できる手立てを講じておかなければならないのである。

食糧を、他の商品と同じように、収益や効率や費用対効果といった用語で語ることは不適切であり、それに気づかずビジネスの用語で農業を語る風儀を私は「過経済化」と呼んでいるのである。

同胞が飢えても、それで金儲けができるなら大歓迎だと思うことをグローバルビジネスマンに向かって「止めろ」とは言わない(言っても無駄だ)。

でも、お願いだから「日本の農業はかくあらねばならぬ」というようなことを言うのだけは止めて欲しい。

他は何をしてもいいから、農業と医療と教育についてだけは何も言わないで欲しい。


 

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コメント
 
01. 2014年1月12日 00:23:14 : 2D6PkBxKqI
おまい、日本人の損得だけしか考えていないだろ

世界には食うや食わずの人間が50億人もいるんだ

日本人が犠牲になって50億人が安い値段で食料を買える様にするのが正しい

友愛の精神だな


02. 2014年1月12日 00:32:08 : pEJb7rR53o

ま、内田の言うことは正論だな

01氏の言うことは俺にはちょっと、意味がよく把握できないのだが、敢えて言わせてもらえば、今、世界で50億人がまともに喰えていないとしたら、その理由も、同じグローバリゼーション的な考え方が根本原因だ。

今後の日本にもそれが適用されるかどうかの瀬戸際だということ。


03. 2014年1月12日 00:41:56 : 2D6PkBxKqI
みんなで乞食するのが友愛の精神だよ

人間みな兄弟、世界中の民族が平等でないといけないからね


04. 2014年1月12日 01:18:15 : 0EopofEgjc
まるで農業従事者は利潤を追い求めてはいけないって言ってるみたいだなw
いい加減にしろ、バカw
農業従事者以外は利潤を追い求めてもいいのか?

執筆者が自ら言ってるように、利潤よりも国民の食糧の確保を優先して行うのは「農政」、つまり農水省の役目だ。
大体考えてみろ。
人口が減少し、高齢者が多くなると、国内需要の中の年金受給者の割合は増加する。
それなのに支給する年金額を、国の施策の未熟さから「致し方ないので年金額を減らす」などと言えば(さらに今後増える見込みがないなどと言えば)、年金受給者は減額された年金でこの先暮らしていかなければならず、さらに今後もっと減額されかねないとすれば、日本国内の需要が減少していくのは当たり前だ。

官僚は部署の垣根を取っ払って、この問題を真剣に考えろ。
答えを見いだせない役立たずはさっさと官僚を辞めてしまえ。
解決策は真剣に考えればきっと見つかるはずだ。
バカどもが。


05. 2014年1月12日 02:25:46 : 5FsLBTI07A
こいつ いつものABだろ?
ヘンな絡み方からして

06. 2014年1月12日 06:40:28 : OTanUZvACQ
阿修羅に登場する「学者系」のみなさんの総数は数えるほどしかいませんが、中でも重宝されているのが、内田樹さん、あと非学者系では、田中宇さんではないでしょうか。

内田さん、その引用元の晴耕雨読、田中さんに共通する一つの視線ベクトルが、「地球温暖化否定論」です。

「温室効果ガスによる地球温暖化の否定論」というのは、陰謀論に直結する方向性を持っている一方、ある意味でとてもおもしろく有意な、人間性の「サインボード・ポスター・能書き」でもあります。

というのは、温室効果や温室効果ガスによる温暖化自体は、今は高校の地学あたりでもそこそこ教えられる常識(地学は高校では選択科目でしょうかね)ですが、その捉え方の方法というのは実は、多面的な事実を「深くではなくとも、広く正確に把握し」、全体性を一つの地球温暖化というベクトルに「まとめ上げる」学問的視線を前提にしているのですね。帰納と演繹をフルに使います。

「地球温暖化」というのは、「大した知力はなくても、そういう正しい学的態度」を身につけた人間にはたやすく得られる知です。
裏を返せば、私は「温室効果ガスによる地球温暖化を否定する」というのは、「私は学的に正しい態度を取りませんので・・・」というお笑いネームタグを首からぶら下げているのに等しいわけですね。

こういうお笑い「学者未満系」の方々には、他にも槌田敦、武田邦彦、小出裕章など、阿修羅好みの方が多いです。
要するに、阿修羅陰謀論とそのベクトル方向が一致するわけですね。


・・・まあ、一度は、そういう面から内田樹さんの言を解剖してみるのも一興ではないでしょうか。


07. 2014年1月12日 18:29:59 : qF4T1YwunA
■中村桂子さんの言葉と農業のこと、そして細川護煕元首相の都知事選出馬。

東京新聞に中村桂子さんがコラムを書いている。

2013年10月18日(夕刊)は「日本は先進国なのか〜自分らしい生き方困難に」のテーマである。(中日新聞は10月16日?)

●『日本は先進国か?』
http://38taro.blog.so-net.ne.jp/2013-10-16-3

この中で中村桂子さんは、自分らしい生き方が出来る先進国の最低条件を次のように挙げています。

◇一極集中ではないこと
◇食料自給率が高いこと
◇コミュニティースポーツや文化が確立していること
◇街並みが美しいこと
(歴史・文化を踏まえて)
・・・・

「東京一極集中はまぎれもない事実であり、それはさらに首都圏集中となって、日本列島の上での人口分布を異常なものにしている。

これは、経済効率のみを追求した結果であり、人々の日常の暮らしやすさ、自然・文化・歴史を生かした質の高い生き方に眼を向けないために起きたことである。
中国やドバイと建物の高さを競うなど、先進の精神とは程遠い。

 その結果、東京という街が人間らしさを失っただけでなく、日本の他の地域が疲弊してしまったのだ。
北海道から沖縄までの、美しい自然に恵まれ豊かな食べものを生産できる場が過疎地になっている。
日本人の心の故郷ともいえる里山が無残な姿を曝している。
それは食料自給率39%(カロリーベース)という低さにもつなかっている。
ヨーロッパは、最も低いスイスでも50%を超えている。」

(略)

 なぜ今こんなことを考えるのかといえば、オリンピックである。日本人、とくに若者が一流のスポーツを楽しむ、外国の方をおもてなしする、経済を活性化するという目的なら、日本中の人が応援して、東京以外の街で行うのが答えだろう。

これでまた日本は当分先進国になれないのかと思うと残念だった。
しかも、先進国といわれる中でここ十年以上も賃金が下がり続けているのは日本だけなのだそうだ。
−−−−−−

●農業(食糧自給率)は豊かさの条件。
(ここでは農業を取り上げているが農林漁業に共通することである)

農業は「食糧安保」という言葉もあるように、国民の命を支える安全保障の基本中の基本であり、農業の弱体化(即ち食糧自給率の低下)は国の安定の喪失に直結するのである。

また、中村さんの言う「日本の各地域が自然・文化・歴史を生かした質の高い生き方」をするための大きな役割を農業は担うことができるのである。

その意味でも、TPPは日本を「豊かさ」から、そして「先進国」から遠ざけるものであると言わざるを得ない。

●中村さんと細川さんの一致する「東京オリンピック観」

中村さんはコラムで東京オリンピックについても触れている。

中村さんは更に東京一極集中の弊害を助長するとの懸念からもやや極端に「東京以外の街で行うのが応えだろう」と言う。

2014年1月12日の東京新聞1面トップに細川さんの都知事立候補に関する記事がある。

この中で「五輪、東京独占でいいのか」の小見出しがあり、1月6日夜に池上彰さんと都内のレストランで顔を合わせた時の会話の一部が書かれていて細川さんは「五輪は東京だけが独り占めしていいのか。被災地が置き去りにならないか」などの発言をしていたと言う。

これは中村さんと細川さんが非常に近い思いをもっていることを意味していると観じた。

●『都知事選に日本の命運』

これが1月12日の東京新聞一面トップの大見出しである。

細川さんの次の言葉を引用したものだ。

「都知事選には日本の命運がかかっている。勝負けは関係ない。世論を喚起できればそれでいいんんだ」

細川さん、勝ち負けが全とは言いませんが、関係なくは全くありません。

世論を喚起し、勝ち、そして日本の命運を変えなければなりません。


08. 2014年1月13日 11:44:19 : IJnH6ou5Ro
地球温暖化なんて、最初に習ったの30年位前の小学校だったけどな。
まぁ公害問題やら、水循環サイクルやらのついでだったが。
だから、地球温暖化がニュースになったとき
「あ、やっぱり進んでるんだな」と思うと同時に
「なんでメカニズムなんて説明してんだ?これ常識なんじゃないのか?」と思ったもんだ。

まぁ、阿修羅見ると中学生でも知ってるレベルでの常識ではないようだな。


09. 2014年4月21日 15:52:30 : Ir8bcrjkAI

飢餓の根本原因は何か〜“金貸し”(世銀・IMF)が世界の格差を拡大し貧困と飢餓を創り出している

2014年03月21日 | 雅無乱日記
http://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya/e/49f3b8809102dc493f56e62a0c1ba380?fm=entry_related_sleep

★飢餓の根本原因は“金貸し”による途上国破壊

世界の飢餓人口は、8億8600万人と推計されている。

世界の食糧、特に穀物は、「緑の革命」「ODA」、そして「WTO」によって、アメリカの巨大穀物商社、カーギルとADMの2社にほぼ牛耳られる事となった(カーギルが2/3を握る)。


発展途上国の栄養不足人口は、1969年〜1971年には約9億9000万人だった。その後、「途上国の飢餓を解消する」と称して莫大な資金が途上国に投入された。結果どうなったか、栄養不足人口は、国連食糧農業機関(FAO)の予測によると、2008年より1億500万人増え、2009年は10億2000万人になった。世界の約6人に1人が飢えに苦むという過去最悪の数字である。

この数十年間に「飢餓を解消するため」に投入された莫大な資金はどうなったか?

ほとんどが米政府と結託した巨大グローバル企業の懐に消えていっただけで、飢餓人口を逆に増加させただけであったというのが事実である。アフリカでは餓死者は増え、地域社会はどんどん破壊されていった。

「グローバリゼーション」と称して、欧米が主導で行ってきた開発は、途上国にこれまでにない破壊と貧困と格差拡大をもたらした。特に中南米の国々では、その動きを皮肉を込めて「ネオグローバリズム」と呼んでいる。この国際的な破壊を主導したのは誰なのか?

たしかに目立つのは、市場や流通を一手に支配しているカーギルや、種苗・農薬などを独占しているモンサントなどの企業群、そしてその手の企業を政策として支援してきた米政府である。

しかし、その背後にまるで批判を受けず、今後も「環境」をネタに途上国からの搾取と破壊を続けようとしている勢力があるのを忘れてはならない。

世界銀行やIMF、その背後にいる“金貸し”勢力である。

(長いので中略)図式の“緑の革命”は解りやすいのでぜひお読みください。

世銀やIMFは、国家(途上国)を相手に金を貸し、その金は巨大グローバル企業に還流する。途上国には負債と、破壊された食糧生産環境が残される。

世銀やIMFは莫大な金利収入を得るが、途上国の破壊の責任は問われる事はない。



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