http://www.asyura2.com/14/senkyo159/msg/217.html
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<関連リンク>
「澤藤統一郎の憲法日記」
http://article9.jp/wordpress/
宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。「澤藤統一郎の憲法日記」
その1〜その10http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/712.html
その11、その12 http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/768.html
その13〜その15http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/870.html
その16
http://www.asyura2.com/14/senkyo159/msg/120.html
その17
http://www.asyura2.com/14/senkyo159/msg/141.html
澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解(人にやさしい東京をつくる会)
http://www.asyura2.com/14/senkyo159/msg/140.html
http://utsunomiyakenji.com/pdf/201401benngoshi-kennkai.pdf
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(1)(醍醐聰のブログ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo159/msg/143.html
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-7594.html
宇都宮健児氏を支持する前にやるべきことがある(2・前篇)(2・後編)(3)(醍醐聰のブログ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo159/msg/192.html
「緊急インタビュー 宇都宮健児×海渡雄一×岩上安身」
http://www.ustream.tv/recorded/42270218
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宇都宮健児君立候補はおやめなさいーその18
昨日に続いて、「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」に対する反論。
もう一度、読み直して印象を拭えないのは、この「見解」には、一片の反省もないことである。私の渾身の指摘を本当に全面否定でよいのか。省みて不十分なところは、潔く認めて反省すべきがよかろう。この「見解」の姿勢のごとき頑な無反省の姿勢では、再度の宇都宮選挙があった場合には、同じ轍を踏むことになる。
何人かの親しい人から「『私憤論』には踏み込まない方が良かろう」という忠告をいただいている。「法律論ではないところで、足を掬われる」「『なんだ私憤なのか』というだけで、人が耳を傾けてくれなくなる」「『見解』の狙いはそこにあるのだから、慎重に」というもの。ありがたい忠告なのだが、私にはどうしても避けて通れない。
私は、弁護士とは、他人の私憤に寄り添う職業だと思っている。とりわけ弱い立場にある人の私憤に、である。それぞれの人が、この世の理不尽に私憤をたぎらせている。その私憤をどのように昇華させるのか、その人に寄り添って知恵を絞り、汗をかくのが弁護士としてのあるべき姿ではないか。私憤を切り捨てては、弁護士の職務を全うすることができない。少なくとも、弱者の側に立とうとする弁護士のすることではない。私は、宇都宮君への批判の動機が、私憤であることを隠さない、恥じることもない。この私憤は、必ずや共感・共鳴を得ることができると考えているからだ。
さて、「見解」は、「3 選挙運動の為に使用する労務者の報酬の支払い」において、かなりきわどい論理を展開している。徳洲会やUE社が喜びそうな理屈だ。
この節の根幹は、「澤藤氏は、『公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています。』…との一方的な思い込みに基づく論理を主張している」というところにある。「法的見解」を書いた三弁護士は、「選挙運動は無償であるべきだという原則」が間違いであるかのごとく主張する。しかし、これは明らかに三弁護士の方が、公選法の理解を大きく間違えているのだ。
「見解」の内容を正しいと信頼して読む読者は、「公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています」という澤藤の指摘が間違っているかと錯覚することだろう。「公職選挙法の定めには、選挙運動は無償(ボランティア)であることの原則などはないのだ」と、思いこむはず。しかし、誤解してはいけない。公職選挙法の定めでは、明らかに「選挙運動は無償(ボランティア)であることとが原則」なのだ。「見解」の立場は大きな間違いなのだ。
公職選挙法の条文の中に、麗々しく「選挙運動は無償(ボランティア)であることの原則」がその文字通りの表現で記載されているわけではない。しかし、公職選挙法の選挙運動についての定めの構造を読み込めば、「選挙運動は無償」の原則が貫かれていることが明白なのだ。
やや面倒だが、次の判決文をお読みいただきたい。
すこし以前のものだが、次のように、格調高く理念を述べている判決がある。
「民主政治に不可欠な選挙は、国民が国家や地方の重要な施策の決定に参画すべき代表者を選出する手段であるから、選挙運動は自発的に応援すべきものであって、手弁当で自己の信じる人を出すということに至って初めて理想的なものといえる。公選法第221条は右の理想に基づき選挙運動者に対する報酬の支給に対し、厳罰をもって臨んでいるのである」(東京地裁、1964年1月29日判決)
また、主流をなす判決として次のものを挙げることができる。
「公職選挙法第197条の2は『選挙運動に従事する者』と、『選挙運動のために使用する労務者』を区別し、前者に対しては…実費弁償のみを支給することができるとし、後者に対しては実費弁償ばかりでなく報酬をも支給することができるとしているのであるが、これは、選挙運動が本来奉仕的な性質のものであるべきだとの建前から、これを原則とし、ただ… 選挙運動のために単なる機械的労務に服する使用人であるいわゆる労務者に対しては、無償の奉仕を期待しがたいところから、これに対し報酬を支給することを認めたものと解される」(1972年3月27日東京高裁判決)
この法理は、確立されたものとして下級審判決に受継されている。ごく最近の判決例として、下記の神戸地裁尼崎支部(合議事件)2012年3月5日公選法違反被告事件の判決理由中の一節を引用する。
「公職選挙法は、選挙運動が本来奉仕的な性質のものであるべきだとの建前から、原則として無報酬とされる『選挙運動者』と、無償の奉仕を期待しがたいところから、報酬支給を認めた『選挙運動のために使用する労務者』を区別しているところ、これは人による区別であると解されるから、『選挙運動者』がたまたま選挙運動のための労務を行ったからといって、当該部分に対して報酬を支払うことは原則として許されないものと解するべきである」
以上に明らかなとおり、法も判例も、「選挙運動(者)」と、「選挙運動のために使用する労務(者)」を厳格に区別している。そのうえで、「選挙運動(者)」は原則無償とし、「選挙運動ではない、選挙運動のために使用する労務(者)」には、定められた範囲での報酬の支払いを認めている。つまりは、「労務(者)」は、「選挙運動(者)」ではない。「選挙運動は無償(ボランティア)であることの原則」が貫かれているのだ。「法的見解」を書いた三弁護士は、この無償性の原則をどうしても認めたくないのだ。潔癖性に欠けると指摘せざるを得ない
では、「無償を原則とする選挙運動」とは何であるか。そして、「選挙運動ではない労務」とは何か。
最高裁判例は「選挙運動とは、特定の公職の選挙につき、特定の立候補者又は立候補予定者のため投票を得又は得させる目的をもって、直接間接に必要かつ有利な周旋、勧誘その他諸般の行為をすること」という。この定義が、1963年10月22日決定以来定着したものとして繰り返されている。「直接間接に必要かつ有利な周旋、勧誘その他諸般の行為をすること」であるから、極めて広い。この極めて広く定義されている「選挙運動」が無償でなされなければならない。
ウグイス嬢を「選挙運動者に当たる」とした著名な最高裁判決(1978年1月26日判決)を紹介した「判例タイムズ」(bR66)は、「公職選挙法によると選挙運動は無償で行われるのが原則であって、報酬を受領すると供与罪、受供与罪が成立する」と解説している。
同判決は、「『選挙運動のための労務』とは、選挙運動に当たらない行為を言い」と、両者を厳格に区別している。その上で、連呼行為をしたウグイス嬢を選挙運動者に該当し、197条の2にいう「選挙運動のために使用する労務者」には該当しないと結論づけた。その結果、ウグイス嬢(車上運動員)に報酬を支払った陣営幹部の有罪が確定した。当然ウグイス嬢にも受供与罪が成立することになるが、判例には被告人として出てこない。起訴猶予とされたものであろう。なお、周知のとおり、この判決のあと法改正があって、ウグイス嬢については「選挙運動者ではあるが、上限を設けた報酬の支払いが認められる」取扱いとなった。
判例上、一応「選挙運動」の定義は確立し、「労務」はその外の範疇にあることとはなった。しかし、現実にはその境界は必ずしも明確ではない。「選挙運動のために使用する労務者」を定義した判決として、次のものがある。
「『選挙運動のために使用する労務者』とは、自己の判断によって候補者の当選又は落選に影響あるかを認定し方針を決定することなく単純に選挙運動者の手足となりその命ずるままに肉体的な労働又は機械的な事務に従事する者をいい、しからざる者はすべて『選挙運動に従事する者』である」
「電話の取次ぎ、封筒の宛名書き、ポスター等選挙関係書類の発送、謄写版印刷のごときは機械的事務といえよう。しかし、各都道府県興行組合の要請や都合を照合し、遊説計画立案会議に列席してメモをとり、あるいは被告人Kが欠席した場合には同被告人に会議内容を伝えたりすること、遊説日程の連絡、宿舎手配の依頼、配車指図、選挙事務所設置移転の指示、標札標旗の移送指示、ポスター掲示依頼等をすることなどは、たとえそれが被告人KやMの指示によったものとしても、ことがらの性質上、自己の判断を交える余地とその必要のある行動である」として、このような「選挙運動」に報酬を支払ったことをもって、運動員買収が成立するとして、労務者報酬の名目で金銭を供与した側も受領した側も有罪となった。(東京地裁、1964年1月29日判決)
なお、「選挙運動者」と「選挙運動のために使用する労務者」とは、人による区別であると解されている。『選挙運動者』がたまたま選挙運動のための労務を行ったからといって当該部分に対して報酬を支払うことは許されない。また、「選挙運動」と「機械的労務」との混在がある場合には労務に対する一切の報酬を支払ってはならない。
念のために、付記しておきたい。「運動員として事前に登録されていれば、一日1万円の人件費を払って選挙活動(ビラまき・候補者と練り歩きなど)ができることになっています」という見解があるようだ。つまりは、「届出さえしておけば、選挙運動者にも報酬を支払うことができる」という理解だが、完全に誤っている。選挙運動(員)であるか否かは、実際に行う仕事の内容によるもので、届出の有無は無関係である。ビラまき・候補者と練り歩きなどは、典型的な選挙運動に当たり、報酬を支払えば、運動買収に当たる。法の解釈の誤解は弁解にならない。選挙運動はあくまで無償が原則である。
以上で、「見解」の「選挙運動は無償(ボランティア)原則否定論」への批判は十分であろう。上原公子選対本部長、服部泉出納責任者、その他の「労務者」(あるいは「事務員」)に対する報酬の支払いは、すべて洗い直さざるを得ないことがお分かりだろう。ことは、上原公子一人について「訂正すれば済むこと」ではないのだ。「見解」の作成者は責任をもって、早急に訂正をされたい。なお、昨日記載し忘れたが、公選法191条は、支出に伴う領収証の保存期間を3年と明記している。上原・服部、その他の「報酬領収証」は、「記載ミス」だったとして、訂正後の報告内容に沿う領収証がないとの言い訳はできないことを、十分に弁えておいていただきたい。
公開情報にアクセスするのは、市民の権利でもあり責務でもある。
「記載ミスを訂正すれば済む問題」なのだそうだから、訂正はすぐになされるだろう。
はたしてどう訂正されたか、東京都選管に閲覧に行こう。もし、緊急に「記載ミスの訂正」すらできないようなら、宇都宮君、やっぱり立候補はおやめなさい。
(2014年1月7日)
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宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその19
「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」に対する反論の続きである。
「見解」の第4節「供託金300万円の借入れについて」に記載の金銭貸借は、まったく法的な問題ではない。私は、何の違法も指摘していない。宇都宮君の革新共闘候補者としての適格性の存否に関する判断材料のひとつとして、お伝えするに値する情報を提供したまでのことである。宇都宮君を清貧な弁護士と積極評価されるもよし。何の判断材料にもならないと切り捨ててもよい。揶揄も侮蔑の表現もない。道義的に非難をしたつもりもない。もう一度、下記のブログをよくお読みいただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=1767
なお、このシリーズ「その6」に、宇都宮君の随行員であった私の息子・大河が下記のエピソードを綴っている。これも併せてお読みいただくようお願いしたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=1776
概要は以下のとおりである。
「同窓会
宇都宮さんの同窓会にも同伴した。東大駒場の文T(法学部進学)のクラス会だった。…その場で誰かが、「立候補に当たっての供託金はどうしたんだ?借りたのか?」という軽口が飛んだ。宇都宮さんは、それに「自分で用意した」と答えていた。自ら用意すると一旦は言いながら、結局用意できずに、他人から借りた事情を知っている私の前で、なぜそのような嘘を述べるのか、理解に苦しんだ。
その上、その場で旧友に対し、供託金が高すぎて負担が大きいとの持論を繰り返し述べていた。供託金が高いことを問題視するならば、自分で用意できないほど高いのだと率直に語った方が、かわいげがあったのではないだろうか。」
「見解」の第5節「運動員買収との主張について」は、およそ具体性を欠くもので、私の指摘を否定するものとなっていない。私は、事実関係を詳らかにしうる立場にない。私が指摘できるのは、「疑惑」のレベルでしかない。疑惑を解明して黒白を明瞭にする資料は、すべて宇都宮君や岩波書店の側にある。疑惑を指摘されたのだから、手許の資料を駆使して、疑惑を晴らす努力があってしかるべきだ。しかし、「見解」は、指摘された疑惑について解明しようとの真摯さに欠ける。
私が問題にしているのは、宇都宮君を候補者として推薦する政党や団体個人のリスクである。清廉潔白を看板にしている政党や市民団体が、本当に宇都宮君を推すことができるのか。支持や推薦した側のクリーンなイメージを傷つけてしまうのではないか。そのことを心配しての「疑惑」の指摘なのだ。当然のことながら、「疑惑」は私が指摘したから生じたというものではない。外形事実としては誰の目にも明らかなことなのだ。
まずは、「熊谷伸一郎さんが、フルタイムで選対事務局長の任務に就きながら、その間岩波書店から、従前同様の給与の支払いを受けていたのではないかという疑惑」についてである。やや煩瑣ではあるが、私の指摘を再掲して、「見解」が反論をなしえているかを吟味いただきたい。
「岩波書店に、(徳洲会やUE社と)同様の疑惑がある。もちろん、調査の権限をもっていない私の指摘に過ぎないのだから、疑惑にとどまる。だが、けっして根拠のない疑惑ではない。熊谷さんは、上司の岡本厚さん(現岩波書店社長)とともに、宇都宮選対の運営委員のメンバーだった。熊谷さんが短期決戦フルタイムの選対事務局長の任務を引き受けるには、当然のことながら上司である岡本厚さんの、積極的な支持があってのこと。選対事務局長としての任務を遂行するために、岩波からの便宜の供与があったことの推認が可能な環境を前提にしてのこと。常識的に、岩波から熊谷事務局長に対して、積極的な選対事務遂行の指示があったものと考えられる。
昨年の2月、私の疑惑の指摘に対して、熊谷さんは、『私は有給休暇をとっていましたから。それに、ウチはフレックス(タイム)制ですから』と言っている。これだけの言では徳洲会やUE社の言い訳と変わるところがない。また、言外に、給与の支払いは受けていたことを認めたものと理解される。
真実、彼が事務局長として任務を負っていた全期間について有給休暇を取得していたのであれば、何の問題もない。しかし、それは到底信じがたい。では、フレックスタイム制の適用が弁明となるかといえば、それも無理だろう。コアタイムやフレキシブルタイムをどう設定しようと、岩波での所定時間の勤務は必要となる。フルタイムでの選挙運動事務局長職を務めながら、通常のとおりの給与の支払いを受けていれば、運動員買収(対向犯として、岩波と熊谷さんの両方に)の容疑濃厚といわねばならない。
根本的な問題は、熊谷さんが携わっていた雑誌の編集者としての職務も、選対事務局長の任務も、到底片手間ではできないということにある。両方を同時にこなすことなど、できるはずがない。彼が選対事務局長の任務について、選挙の準備期間から選挙の後始末までの間、岩波から給与を受領していたとするなら、それに対応する編集者としての労働の提供がなければならならない。それを全うしていて、選対事務局長が務まるはずはないのだ。それとも、勤務の片手間で選対事務局長の任務をこなしていたというのだろうか。それなら、事務局長人事はまことに適性を欠いたものだったことになる。
どのような有給休暇取得状況であったか、また具体的にどのようなフレックスタイム制であったのか、さらに選挙期間中どのような岩波への出勤状況であったのか、どのように業務をこなしていたのか、知りたいと思う。労働協約、就業規則、労働契約書などを明示していただきたい。徳洲会やUE社には追及厳しく、岩波には甘くというダブルスタンダードはとるべきではないのだから」
(「その16」http://article9.jp/wordpress/?p=1832)
「見解」の主たる反論は、私の指摘には「何の根拠も示されていない」ということにある。その上で、「(熊谷)事務局長は休暇を取得しない日には勤務も行なっていた。そのような対応をしたという応答を得ている」という。宇都宮君が都知事になったとして、徳洲会や猪瀬の違法行為に対する追及はこの程度で終わることになるのだろう。こんなに露骨に身内に甘い体質では到底ダメだ。「そのような対応をしたという応答を得ている」などと言うふやけた調査で済ませる都知事候補を推薦することなどできようはずがない。
私は、宇都宮選対に違法行為があった場合のリスクを問題にしている。疑惑が立証された場合に、宇都宮君を推薦した政党や市民団体のクリーンなイメージに大きく傷がつくことになる。また、有権者に対する責任の問題も出て来る。「見解」は、説得的に疑惑はあり得ないとする論証をしなければならない。疑惑を指摘され、それを否定しようとする以上は、「疑惑のないこと」の立証責任を負担しているのだ。にもかかわらず、「見解」のこの投げやりな姿勢、自信のなさはどうしたことか。
「見解」は、「熊谷さんについて『入社3年目』と記載されているが誤りであり、実際には2007年に入社している」。大同小異のことではあるが、誤りであれば、その点は『入社5年目』と訂正する。
「見解」は、「そもそも公選法が規定する『選挙期間』とは告示日以降の17日間に限定されるため、事務局長が『選挙運動にボランティアとして参加』していたのは17日間を超えることはありえない」という。信じがたい稚拙な論理のすり替え。こんな小細工が却って疑惑を深める。その上、法解釈としても明らかに間違っている。
私は有給休暇の取得実態を問題にしている。いったい、熊谷さんには、当時何日分の有給休暇が残っていて、選対事務局長としてフルタイム稼働したほぼ1か月間に何日を消化したのだろうか。選対事務局長としてフルタイム稼働中の有給休暇の取得実態を問題にしているのに、敢えて選挙期間の17日間に限定して問題を考察しなければならない道理はない。そのように限定する予防的な姿勢が、「1か月全期間を問題にされては都合が悪い」という疑惑を生むことになる。
また、法的にも、運動員買収罪の成立は選挙期間中の17日間に限定されるという主張は明らかな間違いである。宇都宮陣営の弁護士がこんなことを言えば、徳洲会もUE社も大喜びだろう。
私は、公職選挙法221条1項1号違反を指摘している。買収の対象となる行為は、選挙運動の定義よりはるかに広い。また、買収・供応の犯罪は、選挙期間中に限定して成立するものではない。同条の文言からも、犯罪成立の時期について何の言及もなく選挙期間に限定されるものではない。立候補届出前の運動員の行為に対する対価の支払いにつき、本罪が成立するとした最高裁判例(1965年7月22日)もある。
「見解」は、「週末や休日を含めれば十分に有給休暇で対応できる範囲内であり、また事務局長は休暇を取得しない日には勤務も行なっていた」と言うが、これは明らかな誤謬の法解釈を前提とした不十分な調査の結論である。これで、疑惑が解消になるとは、起案者自身も考えいるはずはない。
「見解」の起案者は、再度の調査をなすべきである。
そして、具体的にどのような有給休暇取得状況であったか、また岩波にはフレックスタイム制が存在するのか、存在するとしてどのようなフレックスタイム制であったのか、熊谷さんにはいつからどのようなフレックスタイム制が適用になっていたのか、さらに事務局就任以後の全期間についてどのような岩波への出勤状況であったのか、どのように岩波の業務をこなしていたのか。資料を添えて、明確にしなければならない。そうでなければ疑惑を解消したとは到底言えない。
さらに、「選対からの度重ねての要請により…任務を引き受けた」という「見解」の指摘が見逃せない。「法的見解」とされているから敢えて述べるが、岩波書店の熊谷さんへの運動員買収の疑惑は、「事務局長就任の動機が選対からの要請によるものであったか否か」とはまったく無関係である。選対が運動員買収を要請した事実のあろうはずのないことはさて措くとして、「見解」は何を論じているのかを見失っている。再三言っているとおり、私が指摘し問題にしているのは、公職選挙法上の犯罪成立の疑惑と、疑惑が立証された場合の種々のリスクなのである。「会社員などの政治参加という観点からも問題」などという立法論のレベルでの論争でも、市民感情の可非難性の有無の問題でもない。現行公選法に照らして、犯罪成立のおそれの有無を論じているのだ。「見解」の揺れる視座は、犯罪成立のおそれはないことに自信のないことを表白している。
「澤藤氏は事実と証拠に基づかない私憤に基づく憶測から事務局長らの名誉を毀損する主張を繰り返している」などと言うようでは、法的見解における弁明の放棄と解さざるを得ない。
最後が宇都宮君ご自身の運動員買収疑惑だ。私が疑惑の根拠とするところはずいぶん書いてきたが、疑惑のきっかけは次のとおりだ。
「宇都宮君が発言した。その発言内容を明確に記憶している。
『えー澤藤さん。岩波が問題なら、ボクだっておんなじだ。ボクも、事務所の事務員を選対に派遣して選挙運動をお願いしたんだから』
これには驚いた。本当は、続けて発問したかった。いったい何人を派遣した? 誰を? いつからいつまで? 選挙運動って具体的にどんな仕事だったの? 賃金はいくら払ったの? 勤怠管理はどうしたの?…。しかし、制されて私は黙った。これ以上、彼らを刺激したら、大河(わたしの息子)と、とばっちりを受けたTさんの権利救済(名誉回復)の道は途絶えてしまうと考えてしまったからだ。」(「その10」)
http://article9.jp/wordpress/?p=1797
「見解」が弁明として述べるところは、まことに乏しい。わずかに次のとおりである。
「法律事務所事務員は、熊谷事務局長と同様に、有給休暇によりボランティアとして参加したものであり、宇都宮氏に公職選挙法等の違反があるとの主張も全く理由がない」
これを読んで、疑惑の解明になっていると考える人がいるだろうか。宇都宮君の熱心な支持者であればなおのこと、これで納得できようはずはない。
もう一度繰り返さざるを得ない。
「宇都宮君は、選対要員としていったい何人を派遣した? 誰を? いつからいつまで? 選挙運動って具体的にどんな仕事だったの? 賃金はいくら払ったの? 勤怠管理はどうしたの? 派遣当時有給休暇は何日残っていた? 選対勤務のために何日有給休暇を取得したの?」
「見解」の起案者は、いったいどんな調査をしたのだろう。宇都宮君が私に喋った「ボクも、事務所の事務員を選対に派遣して選挙運動をお願いした」という真偽をどのように確認したのだろうか。それとも、一切の調査の必要はないと考えたのだろうか。
「宇都宮選挙が、公職選挙法の厳しい制限のもと、市民選挙としてきわめてクリーンに行なわれた事実を私憤に基づいて中傷誹謗するものとなっていることは、きわめて遺憾である」という文章が空しい。これは、政治文書であって、「法的見解」ではない。「私憤」「中傷誹謗」などという言葉を、「法的見解」に出している点において、反論不能を自白しているに等しい。
どう考えも弁明は無理だ。疑惑は晴れない。疑惑が晴れない内は、推してはならない。やはり、宇都宮君、立候補はおやめなさい。
(2014年1月8日)
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