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カストラートとは、成人男性の体力を持ちながら、少年の声を保持している男性歌手のことである。実際、カストラートの時代は不幸な時代だった。彼らはどのような人々だったのか。その答えは、ぞっとするような風習―宗教の名のもとに行なわれた切除手術―と関係がある。
西暦325年のニケア公会議で定められた第一カノン(公会議規則)では、自らを去勢した男性は司祭職に就けないことを明示した。キリスト教世界の宗教指導者たちはこのような決定を下すことで、異教由来の忌まわしい風習を永久に除去しようとする。ところが、この風習はやがてローマ・カトリック教会の中で、教会の歌唱のために促進されるようになる。
歌唱は東方正教会やローマ・カトリック教会の典礼の中で重要な役割を演じており、教会の聖歌隊の主力はボーイ・ソプラノであった。しかし、少年は十代の初めに声変わりする。そのために聖歌隊の隊員が絶えず変わり、それに伴って訓練が必要になる。その問題を教会はどのように克服しようとしたのか。ファルセット(裏声)がしばしば用いられたのは事実だが、ボーイ・ソプラノの代わりになるものではなかった。ボーイ・ソプラノに代わるものと言えば明らかに女性ソプラノだったが、教皇は昔から女性が教会で歌うのを禁じていた。
1588年、教皇シクストゥス5世は女性が教会だけでなく公共の劇場やオペラハウスの舞台で歌うことを全面的に禁じる。それから約100年後、教皇インノケンティウス11世もその禁令を繰り返す。しかし、教会はこうした不動の立場を取りつつも、カストラートの問題を招くことになる。
オペラ劇場や公立劇場はソプラノ歌手を必要としていたが、教皇庁の聖歌隊も同様だった。少年は去勢すれば、声変わりを起こさないことが、すでに長い間知られていた。声帯はほんの少し大きくなるだけだが、胸郭や横隔膜は普通に発達する。その結果、カストラートは成人男性の体力を持ちながら少年の声を持つことになる。「バチカンの秘密の公文書保管所」という本の中のマリア・ルイーザ・アンブロジーニの言葉を借りれば、「み使いたちが持っていると考えられていたような声」だったという。
ギリシャ教会は12世紀以来、カストラートを聖歌隊員として採用していたが、ローマ・カトリック教会はどうだったのか。
バチカンにカストラートがいることは、1599年以来認められていた。教会の最高権威者がこの風習をひとたび公認すると、カストラートは受け入れられるものとなった。特にカストラートのために宗教音楽と世俗音楽の両方を作曲した人たちの中には、グルック、ヘンデル、マイヤベーヤ、ロッシーニなどがいる。
カストラートはたちまち人気の的になった。例えば、教皇クレメンス8世(1592–1605年)はカストラートの声の柔軟性と美しさに非常に感動したと言われている。去勢にかかわった人間は
だれでも破門されることになっていたにもかかわらず、教会の音楽上の必要が大きくなるにつれ、大勢の年若い少年がしだいに集まるようになっていく。「当店では少年を去勢いたします」という広告を出した店もあったと言われている。ローマには、「教皇庁聖歌隊の歌手は当店で去勢された」と誇らしげに宣言した理髪店が1軒あった。18世紀のイタリアでは4,000人ほどの少年がそのために去勢されたであろうと言われているが、その手術の際にどれほどの少年が死んだかは知られていない。
親はどうして息子がそのような切除手術を受けるのを許したのか。カストラートは大抵、貧しい親から生まれた人たちだった。息子に何らかの音楽の才能のあることが分かると、その子を、時には公然と音楽院に売ることができた。ローマのサン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊や同様の教会の学校から引き抜かれる子供たちもいた。もちろん、親たちは、息子が有名なカストラートになって、自分たちの老後の面倒をよく見てくれることを願っていた。
教皇ベネディクトゥス14世は自ら昔のニケア公会議の決定に言及し、去勢は不法行為であることを認めた。しかし、同教皇は1748年に、カストラートは禁止すべきであるという司教たちからの提案を退けた。もし禁止したなら、教会が空っぽになるかもしれないことを恐れたためだ。教会音楽の魅力と重要性はそれほど大きかった。それで、聖歌隊のカストラートたちは、イタリアの教会の聖歌隊の中で、またサン・ピエトロ大聖堂や教皇のシスティナ礼拝堂の中で歌い続けた。
去勢反対の世論が盛り上がった1898年に、教皇レオ13世は慎重に行動し、バチカンのカストラートに恩給を与えて退職させ、同教皇の後継者である教皇ピウス10世は1903年に、教皇の礼拝堂でカストラートを用いることを正式に禁止した。しかし、カストラートを導入した教皇シクストゥス5世の大勅書が正式に撤回されたことはなかった。
最後のプロのカストラートだったアレッサンドロ・モーレスキーは、1922年に亡くなる。その歌は1902年と1903年にレコードに吹き込まれたので今でも聞くことができる。そのレコードのラベルには彼のことが、「システィナ礼拝堂のソプラノ歌手」と記されている。音楽評論家のデズモンド・ショー‐テーラーは、「その声は疑いもなくソプラノであるが、少年の声にも、女性の声にも似ていない」と書いている。
そのアレッサンドロ・モーレスキーの歌がこれだ。
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