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七人の侍のテーマ - 山口淑子
http://www.asyura2.com/14/music14/msg/422.html
投稿者 スットン教 日時 2014 年 4 月 26 日 00:19:16: CmuKS.2SNuq/E
 

 その時、タルコフスキーは、試写室の隅で一緒に見ていたが、映画が終わると、てれた様に私を見つめて立ち上がった。
 私は、タルコフスキーにいった。
 「とてもいいよ、怖い映画だね」
 タルコフスキーは、はにかんだ様に、でも、うれしそうに笑った。
 そして、それから二人は、映画人専用のレストランでウォッカを乾杯した。
 普段、酒を飲まないタルコフスキーは、大いに酔って、レストランに音楽を流しているスピーカーを切ってしまい、『七人の侍』のテーマを大声で唄い出した。
 私も負けずに、それに合わせて唄った。
 私は、その時、地球にいるということがとても嬉しかったのである。
 『惑星ソラリス』は、見た人に、そういう気持ちを抱かせるだけでも、並のSF映画ではない。なんだか、本当に怖いところがあるのだ。


黒澤明 1977 5.13 朝日新聞初出



一 番
旗幟(はた)のように侍は
嵐のなかに翻る


ちょーりょ、ふーりョウー
ひょうーふりョウー
ひャる、アーろよ、ひょうーふりョウー


苦しいときも、爽やかに
悲しいときも、美しく
名利(なのみ)を惜しむ吾なれど
哀れは誰何(だれ)も変はりなし


二 番
疾風(かぜ)のように侍は
大地の上を吹き逷(す)ぎる


ちょーりょ、ふーりョウー
ひょうーふりョウー
ひャる、アーろよ、ひょうーふりョウー


昨日相(み)し人、今日は亡し
今日相(み)る人も、明日は否(あら)じ
明日とも察(し)らぬ、吾なれど
今日は人こそ、愛(かな)しけれ


1
HATA NO YO NI SAMURAI WA
KAZE NO NAKA NI HIRUGAERU


CHO FRYO, FURYO
HYO FURYO
HIYAL, AHROYO HYO FRYO
KURUSI TO MO SAWAYAKA NI
KANASI TOKI MO, UTSUKUSIKU
NANOMI WO OSIMU WARENARE DO
AWARE WA DARE MO KAWARINASHI
2.
KAZE NO YO NI SAMURAI WA
DAICHI NO UE WO FUKISUGIRU
CHO FRYO, FURYO
HYO FURYO
HIYAL, AHROYO HYO FRYO
KINOH MISI HITO, KYO WA NASI
KYOH MISI HITO MO WASU WA ARAJI
ASU TOMO SIRANU WARE NARE DO
KYOH WA HITO KOSO, KANASI KERE.
 

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コメント
 
01. 2014年4月26日 10:14:42 : dv6kljamIQ
タルコフスキーと黒澤明 間で交友があった事を全く知らなかったので
タルコフスキーは七人の侍のテーマ曲歌える程だったのかと衝撃が大きいです。
思えば惑星ソラリスは首都高だし、デルス・ウザーラはソ連だし
白痴とかどん底とかありましたが、、
中学生の映画部みたいな会話描写が、微笑ましいような気恥ずかしいような、
表現として「怖い」に落ち着くところが、黒澤少年らしく思います。

02. スットン教 2014年4月26日 11:34:59 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
この文章、タルコフスキーの没後特集本にあったんですが、私もごく最近youtubeでこれ見つけるまではよく事情が分かりませんでした。

遺作の頃からファンなんですが、『サクリファイス』の父子が「前世は日本人」とか言う台詞があって、当時は???でしたね。


03. 2014年4月26日 13:13:56 : PfH28c8wrY
歌詞の全文引用はまずいみたいだけど大丈夫?

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/278.html#c123

(ピ)


04. スットン教 2014年4月26日 14:44:14 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
あら、ピノキさん。管理やってらっしゃいましたか?
記事の貼り付け大丈夫なんですか?

05. スットン教 2014年4月26日 15:11:29 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
タルコフスキーは、文章を書くと詩人哲学者ですよ。私は思い返せば、宗教や芸術の基本をタルコフスキーから学んだように思います。ピノキさんクリスチャンでしたっけ?

■ キリスト教徒はキリストが唯一の出口だと考えていますが。
タルコフスキー 信仰というのは人間が現実に待っている唯一のものです。ボルテールは「もし神がいなかったならば、神を考え出していただろう」と語っています。これは彼が神を信じていないのではありません。彼は神を信じていました。唯物論者たちはボルテールの言葉に恐るべき意味を込めています。信仰は人間を救うことのできる唯一のものだということ、これこそ私の強い確信なのです。それ以外の方法がどうしてありえるでしょうか。これこそ人間が疑いもなく所有している唯一のものなのです。それ以外のものはすべてフィクションです。

■ あなたは黙示録に熱中しているようですが、その到来が早まることを望んでいるからですか。
タルコフスキー 黙示録というのは、やがて起こるであろうことではありません。それはとうの昔に始まったことなのです。問題にできるのはその終わりだけなのです。私はただわれわれがどこまで来たか見ているだけです。……黙示録というのは、「終わりの書物」ですから、悲しみにみちた思想はそこからおのずとやってくるのです。チェルノブイリ(これはウクライナ語でにがよもぎのことです)のタイプは「にがよもぎの星」(訳注──『黙示録』のなかで、終末に空から降ってくるとされる破壊の星のこと。オットーのモデルと思われるレーベジェフが、『白痴』で言及している。)と関係があるのです。
 概して、進歩の問題も馬鹿げています。文明は今日のようなカタストロフィックな結末にわれわれを連れてきましたが、四千年以上にもわたってなんの役に立ったというのでしょう。人間を正しい道に向けるために、二千年前にゴルゴダが必要とされました。しかし、人々はその責任を自分で背負おうとしなかったのです。これがなにも持たらさなかったと考えることは辛いことだと、私は理解しています。けれども希望は持てるようになったのです。ただ間に合うかどうかです。

■ あなたは、芸術家を聖人もしくは修道僧と違うものと考えていますか。
タルコフスキー それは全く違った道です。聖人や修道僧は創造行為を拒否しています。なぜなら彼らは日常生活に関わってはならないからてす。聖人と修道僧の御旗は関与しないのです。このことは東洋的仏教徒的アプローチを思いださせます。しかし芸術家、哀れな芸術家彼はそこから踏みてることの困難な出来事の森のなかに踏み迷わなければなりません。例えば私たちは詩人であることを拒絶したフランスの詩人を知ってします。ランボーのことです。こういう人はそれほどいませんが。
 私は修道僧にある種の哀れみを感じます。彼らは自分自身を部分的にしか生きていません。芸術家に関してですが、彼らは、同時にさまざまなことを行い、誤りを犯し、汚れる傾向にあり、その魂を危険にさらします。
 しかし、聖人と詩人、これを天使と悪魔ということは出来ません。人間はじつにさまざまな状況に陥ります。聖人は救われるでしょう。芸術家は……、恐らく救われません。この意味で残されているのは、あなたがたに霊感を与える天恵にたいする信仰だけかもしれ ないのです。あるとき、へルマン・ヘッセは、実際には罪びとであるにもかかわらず、生涯、聖者たろうとしたと語っています。それゆえ 彼に残されていたのは天恵について考慮することだけでした。私には彼の真似はできませんが、これがなにを意味するかというと、聖人と芸術家のあいだには、並行関係があるというということです。…

最晩年インタビュー 初掲載「フランス・カトリック誌」1986 6.20


06. 2014年4月26日 16:02:13 : PfH28c8wrY
スットン教さんお久しぶり。
いや、ケチをつけるつもりはなかったんよ。
言い方が悪かったらごめんね。
おいら的には、七人の侍のテーマに歌詞バージョンがあったのは驚きだったし、歌詞も面白かったよ。

カトリック誌のインタービューもなかなか興味深かった。
『惑星ソラリス』見てみるかな。 

(ピノキ)


07. オコチャマ 2014年4月26日 18:30:14 : Ogbg4PpbxA5CI : 0EopofEgjc
親切で言ってんのに失礼なオヤジだなぁ、このスットン教っての。
ピノさんこんな野郎に謝ることなんかねぇよ。

08. スットン教 2014年4月26日 18:44:06 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
ダダイズムぽい歌詞ですね。黒澤自身もお気に入りだったんでしょうか。

「信仰というのは人間が現実に待っている唯一のものです。これこそ人間が疑いもなく所有している唯一のものなのです。それ以外のものはすべてフィクションです」という言葉は素晴らしいですね。日本人らしく仏教的に受け止めたって構わないと思うんですがね。私は葬式仏教徒ですよ?


09. スットン教 2014年4月26日 18:49:15 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
おや、

>>7
JASRACですか。奴らには肖像権をちらつかせて黙らせてやります。これも世間的なやり口ですけど。

以後気をつけます。ピノキさん、ご忠告ありがとうございました。


10. スットン教 2014年4月26日 23:04:51 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
金色の髪の毛にして付け鼻つけたら格好良いというほどでもありませんね。

11. スットン教 2014年4月27日 00:14:55 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
ヤッベー、バレたか。
ガイジンどもにウケてる、、、

外国人「金髪に高い鼻は差別」 ANAの新CMに苦情も海外の反応は・・・
https://www.youtube.com/watch?v=RuP9lFrzU2Q


12. 2014年4月27日 01:01:07 : dv6kljamIQ
そっか、タルコフスキーの本側からの資料なんですね。
安易に質問してしまいますが、
タルコフスキーがボルヘスについて書いた文章があると聞いて
読みたいなと思ってた所なんですが、スットン教さん何かご存知でしょうか?
ひとまず>>5のインタビューが読めて僥倖です。

13. スットン教 2014年4月27日 02:20:27 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
タルコフスキーは大層読書家らしくて日記には引用が多いとのことですから、そっちかな? 私は持ってないです。

ソラリスの海で再開した父親の家が部屋の中で雨降りだったり、『ノスタルジア』のドメニコが水浸しの廃屋に住んでたりするのは、暗に黒澤のことを意味してるのじゃないか知らんと思います。


14. チベットよわー 2014年4月27日 06:38:23 : Xy93FIMaJupUQ : EWkfgCvPvR

(小声で)しかし誰も七人の浪人が正しいタイトルだというまっとうな指摘はしないようだ・・・・・・

15. 2014年4月27日 07:12:28 : dv6kljamIQ
引用の多い日記ですか、良い情報いただきました。
ありがとうございます。ぼちぼち探してみます。

父親の衣服に水が落ちていくところは、暗に黒澤明をと考えると納得するものがあります、びっくりです。
逆に黒澤からのタルコフスキーの存在は「夢」の随所で語られてたのかと思い至りました。


16. スットン教 2014年4月27日 10:00:57 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
「夢」、残念なことにまだ見てないんです(東宝作品の箱に入ってなかったもんでw

「夢」にはゴッホが出て来ますね。黒澤は若い時期に画家修業してましたが、評論家の小林秀雄の「ゴッホの手紙」の影響もあるでしょう。ゴッホは読書家で、絵筆を握るドストエフスキーみたいなところがある。

タルコフスキーの「ストーカー」は、私はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を背後に透かして見ているのですが、一方、主人公のストーカーは雰囲気がゴッホに似ています。そう言えば途中、ゾーンで小麦粉の小山のようなものを敷き詰めた屋内で、カラスが奇妙な登場をする場面もあります。「カラスのいる麦畑」のことですが。帰宅したストーカーの背後には大量の書物が見えます。

ゴッホは筆遣いが特徴的ですが、ゴッホ書簡に目を通すと「一筆」ということに強いこだわりを見せています。これは、印象派に与えた日本の絵師が上手に筆遣いで動物画などを描いていることなどに影響を受けているのかも知れません。

タルコフスキーは、ロングショットで有名ですが、これはエイゼンシュタインのモンタージュ技法へのアンチテーゼでしょう。この問題は、タルコフスキーが自ら詳細に論じています。ここでの、タルコフスキーのワンショットに対するこだわりは、ゴッホの書簡での一筆への思いをつづった箇所を連想します。

途中、タルコフスキーの文体をちょっと真似してしまいました。


17. スットン教 2014年4月27日 10:13:00 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
気取ったわりには途中、文章狂ってますな・・・

×これは、印象派に与えた日本の絵師が上手に筆遣いで動物画などを描いていることなどに影響を受けているのかも知れません。

○これは、印象派に影響を与えた日本の絵師が上手に筆遣いで動物画などを描いていることなどに由来しているのかも知れません。


18. スットン教 2014年4月27日 11:26:36 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
黒澤は、雨を降らせたのは、ハリウッドの西部劇が晴ればかりだったからと言ってますね。昨今の日本人にはそういうところはないですね〜

19. 2014年4月27日 20:50:16 : dv6kljamIQ
なんだっけかな、日本人の宗教観ってこういうものである、
というのに雨や田んぼがでてきた一文があったんですが・・・
さり気なくて、あ、そういえばそうね。と思ったんですが。

一筆(書き?)とロングショットを関連させた観点は、大変に面白いです。興味深いです。
さらに、父なるエイゼンシュタインのモンタージュ理論が漢字から着想ってほんとかな・・

エイゼンシュタインの時代は、ポスターデザインとかをロシア構成主義の人たちが担ってた時ありましたね、
少し前に《陰影礼賛》のコピーで、東京の国立新美術館で展示やってましたがそのポスターイメージがロシア構成主義の代表格ロトチェンコの写真だった記憶があります。

で、ロトチェンコの「線」に関する短いテキストあったのを思い出し、手元にあるので読み返してみました。

「絵画のすべての進化はもっぱらフォルムにおいて生じてきたが、ほとんど後退することなくたえず前進し、つねに前方への動きを指し示す一本の直線に見えるほど首尾一貫として理論的である。
この線は、これに先行して起こったものと、これから続いて起こるものを、ひとつの有機体として結びつける。・・・」
(「線」アレクサンドル・ロトチェンコ,1934年)

あたりは、主義主張はともかくも、上のタルコフスキーのインタビューで、黙示録に関してのコメントを想起しました。

日本画は、筆でああいった 鋼のような線 を引けるようになるまでに相当な努力が居るらしいですね。
日本画の肉筆画などと呼ばれているものを、フリーハンドの線、しかも筆で。って所だけで見ると、個人的に、驚嘆と憧憬があるのでその主観に寄った感想ですが
ゴッホの素描など見るに、浮世絵が印象派へ与えた影響の一つとして、確かにゴッホが響いたのは線なのかもしれないなと。
ゴッホが普段のスケッチで具体的にどんな形の筆記具使ってたかは知りませんし、彼のテキストは読んでないですが、
書き慣れた、且つ要素の少ない鉛筆のような筆記具での作業であれば、
表現はより純粋な理想に近づくだろう、という所で、ゴッホの線のこだわりに関して、頷きます。

「夢」のゴッホの回は、美術館の絵から、「カラスのいる麦畑」に終着する構成でしたが、
人が、枠としての画面を出入りする手法の先駆けはチャップリンやらバスター・キートンあたりなんでしょうか
そういえばBGMが雨だれのエチュードだったなー、というのも今回発見でした。
あと夢の別話で、富士と放射能が扱われていましたが、
チェルノブイリがあったからかと、これも上段のインタビューで気づいた始末。
黒澤明の絵コンテ集見たことありますが、これはこれでゴッホの筆致思い起こします。

つらつら書いてたら長文になってしまった、>>16-18、とても面白かったです
ただ、惑星ソラリスを観たのは割と最近で、タルコフスキーの他の作品未見ですが
鏡、サクリファイス、ノスタルジア、特にこの3本は、そのうち観る予定でいます。
スットン教さんのコメントを読み、ストーカーもこのリストに入れました。
惑星ソラリスは、かつて無い至福の映像鑑賞体験でしたが、
ドン・キホーテの扱いが面白かったので、そこからの興味もあります。
小林秀雄の「ゴッホの手紙」やゴッホの書簡集,一応本棚に積んではあるので読んでみようかな・・


20. 2014年4月27日 21:08:49 : dv6kljamIQ
あ、間違えました。雨だれは前奏曲ですね、プレリュードでした。

21. スットン教 2014年4月28日 20:33:22 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
タルコフスキーは主要七作品しかないので、貴方のような方なら全部見て損はないですよ。

ゴッホの書簡集は小林秀雄の抄訳版の「ゴッホの手紙」で解説付きで読んだ方が良いかもですね。Wikipediaの小林秀雄の項目にも書きましたけど。


22. スットン教 2014年4月28日 20:41:36 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
そういや、「夢」の時期はチェルノブイリで大騒ぎしてた時代でしたか。黒澤は第五福竜丸事件でも「生き物の記録」を撮りましたね。「七人の侍」の翌年なんですが。

このタイトルは、当時、その描写手法が議論になってたディズニーの「砂漠は生きている」への皮肉だと思うのですけど。


23. スットン教 2014年4月30日 17:55:36 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
http://www.geocities.jp/kmkr_01/ura.kurosawa-akira.html

「デルス・ウザーラ」は、戦後間もなく舞台を北海道にして和人とアイヌ人の話として作る予定だったらしい。これは見たかった。

企画段階では原節子出演が多いですね。


24. スットン教 2014年4月30日 18:13:10 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
戦争末期の未婚の女性の勤労動員が始まった頃に山本周五郎の「笄堀」という女性がお城を守る短編小説が話題になりまして、これを黒澤が戦意高揚作品「荒姫様」として映画化しようとして敗戦で未完の幻の作品になりました。

これを下敷きに、今度は上原美佐という素人の肉食系の女性を連れてきて、戦後日本のお家再興のための戦意(?)高揚作品である「隠し砦の三悪人」を作ったわけですね。

SFリメイクで、特撮の派手さでごまかしてるスターウォーズよりも面白かったですよ。上原美佐はその後、二年ばかりで女優業を自主廃業してしまったというのも伝説的で良い。


25. スットン教 2014年4月30日 18:47:12 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
書き落としましたが、その「荒姫様」も原節子主演だったわけです。

私は黒澤の初期作品の看板やってた藤田進が割と良いと思ったんですが、藤田は「隠し砦」で三船の当て馬的な立場で復帰しましたね。当時、黒澤と三船の関係にはすきま風が吹いてました。

この作のラスト間際の雪姫様を挟んで新旧二枚看板そろい踏みのシーンなどなかなか良い。ただ藤田の殺陣が重いのは残念なところ。年のせいか、アクションスター系の三船の当て馬としての役割は荷が少し重かったというところでしょう。それで藤田の重要な役柄での再起用は続かなかった。

田所兵衛(藤田)のところに向かう真壁六郎太(三船)の見せる馬の立ち乗り場面など鬼気迫る迫力なのは、三船の藤田へのライバル意識あってのことか知りませんが。

・・・スターウォーズなんか面白いのは黒澤作品をリメイクした第一作だけでしょう?


26. スットン教 2014年4月30日 19:18:15 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
三船の野獣系のキャラクターは、60年安保後の右傾化する日本では右より過ぎて、看板スターとしては黒澤もだんだん使いにくくなっていったんだと思いますよ。

アメリカ人なんて何にも分かりやしない。ハリウッドの出資した黒澤作品なんてロクなのないでしょう。「影武者」は少しマシですが、音楽が角川映画並み。「乱」はフランス映画社が出資してたはず。


27. スットン教 2014年4月30日 19:48:17 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
ルーカスが「スターウォーズ」作ったのは、黒澤がソ連で「ウザーラ」作って間もなくで、ハリウッドの当てつけみたいなもんですね。その後、ハリウッドが黒澤にカネを出すようになったので、スターウォーズの著作権の話はチャラにされているような雰囲気ですね。

それはそれだけの話でしょう。


28. スットン教 2014年4月30日 20:13:13 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
私みたいなどっかの馬の骨はアメリカ人だのハリウッドだのは、どこか別の世界の話で気にもしないで言ってしまいますけどね。アメリカ人と関わって損することはあっても、恩恵を受けることはまずない。

担がれるなんてまっぴら御免なたちなもんでしてね。


29. スットン教 2014年4月30日 22:37:17 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
フォースの「暗黒面」というのはソ連共産圏で映画撮ったことらしいですね。
大きなお世話なんですけど。

30. スットン教 2014年4月30日 22:45:54 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
冷戦が終わるや、「デススター」と「ダーズベーダー」の帝国国家と化したアメリカは、結局、自ら暗黒面であることを証明したわけですね。

31. スットン教 2014年4月30日 22:52:40 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
いえ真面目な話、メイキング映像を年代順に見ると、60年安保後の「用心棒」から黒澤は撮影中に黒眼鏡かけ始めていますからね。

32. 2014年5月01日 10:50:03 : 85kpqqjgic

  スットン教=素っ頓狂=素頓狂  のことか?


つまり馬鹿なんですか? これでも聴いて目覚めろよ!

http://www.youtube.com/watch?v=9G4jnaznUoQ




[12削除理由]:言葉使い&アラシ

33. スットン教 2014年5月01日 13:48:39 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
たまにアニメとかも良いですよ。音楽センスが良い。

Božji Meč - The Dagger Of Kamui - カムイの剣 (slo sub/HD is overrated)
https://www.youtube.com/watch?v=DoeKgf4HBLo

ヒットする映画ってのは、何かしら時代を反映した作品ですから、古い映画を見るにはその時代を知るのは大事なことかも知れないですね。昨今のアイドル映画を時代が下って鑑賞しても、どんな時代か知るのは難しいでしょうけど。


34. スットン教 2014年5月01日 14:13:16 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
金色の髪の毛にして付け鼻つけたら格好良いというほどでもありませんね。

・・・このネタは二度目か。

素晴らしき日曜日 1947
https://www.youtube.com/watch?v=jZYX7yuHNVU

東宝争議中の作ですね。貧しい若いカップルの話で、よほど出演者に恵まれなかったかと思って辛い思いをしながら見たんですが、このひょろんとした背の高い男は黒澤で、ころっとした女性は喜代子夫人かも知れないですね。


35. スットン教 2014年5月01日 17:29:04 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
>>32
若い頃は私はスプリングスティーンでしたよ? 「ウィアーザーワールド」で一人吠えまくってのが格好良くて、柄にもなしにロックアルバムなんてものに手を出しました。「労働階級のヒーロー」ですね。たたき付けるような激しさが良いです。

同時テロ後はアメリカ人と喧嘩ばかりしてるんで、聴くこともなくなってしまいましたけどね。


36. スットン教 2014年5月01日 19:11:02 : CmuKS.2SNuq/E : 7bUsMLlvNQ
私は90年代からもう精神的にアメリカ文化離れしてしまってたんですが、若い頃からの習慣もありまして、何となく聴いてたのですけど。
90年代は「怒りの葡萄」を題材にした「トム・ジョードの幽霊」とか。アメリカは民主党時代でしたからね。

https://www.youtube.com/watch?v=-PTJHhUeAfc

吠え切れないのは年のせいでしょうか・・・


37. 2014年5月02日 23:04:59 : HidZOr5hfA
良い歌ね。毅然としてて。

しかし、この「ふふょろひょよ」みたいな変な風の擬音は、三好達治の詩かなんんかの影響じゃないの?昔の日本人は、音を写すにあたっても真面目だったんだな・・・とも思うが、やっぱりおかしいね(笑)

「野良犬」で犯人の恋人が、刑事に追及されて自棄になり、当時としては高価なドレスを着て、「楽しいわ、楽しいわ」とか叫べながら、くるくるバレリーナみたいに回る(笑)シーンがあるでしょ。思わず笑っちゃうのだけど、こういうシーンにこだわらず、「大目に見る」のが古い映画を楽しむコツだね。

で爺


38. 2014年5月03日 11:45:00 : 7bUsMLlvNQ
私としては、「七人の侍」の歌詞は、小林の訳したランボーと中原中也を連想しますね。三好って、そういう作風でしたか? 小林秀雄が戦時中の空襲の激しかった頃に仲間内で三好の「測量船」をもじって

太郎の家、焼尽し
次郎の家、焼尽す

って自虐的に笑ってるのを書いてますね。しみじみとする。
https://www.youtube.com/watch?v=a3PBiLDXawU

私の音楽趣味は90年代からずっとこんな調子でね。冷戦崩壊期の世界観の更新時期で色んな試みがあった時代です。宗教性もロールバックしようって風ですかね。
https://www.youtube.com/watch?v=w2iY2bNWHbQ

どんな作品でも時代を反映してるもので、時流に乗った他愛ない流行り物作品でもそれは一緒ではありますね。黒澤は時代と権力におもねらない主人公を描いた作が多くて、時代の移り変わりを泳ぐにも一筋縄でいかない。黒澤も苦しんだ。世の中は黒澤を軽くあしらうようになった。しかし、日本映画は黒澤後にはもうロクなものもない。小津は60年安保間もなく東京からだけでなしに、この世からも逃げちまいました。

スットン


39. 2014年5月03日 12:03:38 : 7bUsMLlvNQ
小津安二郎と言ったら「七人の侍」と同時期の作である「東京物語」ですが、晩年の60年安保前後は、東京から逃げ出すような話ばかり作ってましたね。

スットン


40. 2014年5月03日 13:36:06 : dv6kljamIQ
「鏡」がDVDで観れたので再訪しました
やっぱり喜劇の取り扱いに関しての計り知れないユーモアが、一つの魅力です。

よく、海外の映画監督などが影響受けた日本人監督として溝口、黒澤、小津が挙げられるの見ますが、
そういう時の、小津安二郎作品の魅力って何なんですかね。


41. 2014年5月03日 19:14:29 : 7bUsMLlvNQ
やがて、この国は付け鼻と金色の髪の毛の英語を喋る奴らばかりになって、知らない奴らが世の中にあふれ返る。もうそうなった後か。

42. 2014年5月03日 19:20:04 : 7bUsMLlvNQ
>40
登場人物が歴史空間の中にいることじゃないか?

43. 2014年5月03日 19:35:29 : HidZOr5hfA
「横笛」という詩の擬音に似ている。擬音だけだけど(笑)

東京物語で、土手の上で、おばあちゃんが、孫を遊ばせてるシーンがあるでしょ。まず遠景でとって、それからアップになって、おばあさんががつぶやくのね。「あんたが、大きゅうなるまで、おばあちゃん生きとるかの」とか何とか。孫は無心に遊んでるだけ。で、また遠景になり、笠知衆がそれを、家の窓から見ている。私はこのシーンで必ず泣けるのですよ。

で、これは私の個人的な体験のせいかなと思っていたんだけど(私は四国出身で、尾道とは方言の感じが似てるし、笠知衆なんか自分の爺さんそっくりだからね)、IMDBの投稿欄を読むと、やはりこのシーンで必ず泣くという外人が結構いるのね。「自分をあれほど愛してくれた人に、報いることが少なかった」という悔恨の情は、日本人だけではなく、どこの国の人にもあるのですよ。当たり前のことですけど。そういうごく単純な普遍性が小津映画にはあると思いますね。

で、ある掲示板の議論で、このシーンが、物語のクライマックスへの、重要な伏線になっていて、監督はこの場面で、おばあさんを前もって追悼しているんだと書いたら、ニュージーランド人が、こういう指摘をしたのですよ。「あのおばあさんは、よく片手を揉むしぐさをしている。オレの婆さんも、脳卒中で死んだが、死ぬ前はよくああしていた」とね。私は気づかなかったけど、言われてみればそうなのですな。こういうディテールのすごさね。私は、このディテールが、このニュージーンド人の記憶の中の、最も親密な部分を喚起させたと思いますよ。

小津映画を楽しむためには、どっかの大学の先生の本よりも、東京物語に助監督でついた高橋治の「絢爛たる影絵」を読むといいと思いますね。あっけにとられるような指摘がある。例えば、東京物語の原節子は、もう一人寝の寂しさに耐えられず、夜密かににオナニーをしているような女性なんだ・・・とか。そこまでは書いてないけども、つまりそういう意味なのですよ(笑)でないと、原節子が「私は本当は汚いんです」とあれほど激しく言う理由がわからない。あるいは、「麦秋」の経済的背景とかね。それが分かってないと、何で爺さん夫婦が、原節子が結婚すると、奈良の親戚の厄介者にならなければならないか、理解できないですからね。こうやって勉強することも、古い映画を見る楽しみのひとつですな。(笑)

で爺


44. 2014年5月03日 19:36:06 : 7bUsMLlvNQ
タルコフスキーで喜劇論てのも珍しい奴だね。坂口安吾の愛読者?
そう、タルコフスキーは「年代記こそが映画の最高の形式です」とか言ってるな。
歴史については、

「事実がその胸に秘めた意味を打ち明け、詩と年代記か一様に見える高い洞察力を養い、それを守らなければならない。」

とか言った人もいる。

これはオマケ
https://www.youtube.com/watch?v=dzB3tnAQozk


45. 2014年5月03日 19:49:20 : 7bUsMLlvNQ
>43
汚らしい爺の妄想では楽しめないな。原譲は、戦前からのキャリアあって、戦意高揚作とかにも普通に出演してらしたでしょう。戦後は主に小津作品で有名で、そういうイメージないですけど。

46. 2014年5月03日 20:19:08 : 7bUsMLlvNQ
黒澤は父親が陸軍の大物なんで、小津みたいに招集は受けなかったか知りませんが、戦時中の売り出しの若手監督の常で戦意高揚作を撮った。未婚女性の勤労動員が盛んになり始めた頃でもあったから、女性が主役の作品でしたけど。

黒澤夫人の矢口陽子は、「一番美しく」では若き銃後の乙女達のリーダー役で、映画製作で戦争するのが好きな黒澤には銃後の母としてはうってつけの女房だったようで。この年代の人達はそれが普通でしょうね。


47. 2014年5月03日 20:41:20 : 7bUsMLlvNQ
一度、戦争に負けたくらいで日本人が日本人であることをやめられるはずはないんです。大日本帝国憲法は発布から60年くらいで廃止になりましたが、この国には魏志倭人伝から歴史はあるでしょう。二世紀中葉の邪馬台国時代から勘定すれば1800年は歴史がある。

それが気に入らない浮き草どもがいる。


48. 2014年5月03日 21:22:00 : 7bUsMLlvNQ
歴史が失われると精神も損なわれる。すると特に若い奴らは薄皮一枚の格好良さに引き寄せられる。80年代以後は、特にそういう傾向が強くなった。歴史から切り離されると人間は振るまいがだんだんとサルに似てくる。落ち着きがなくなるからでしょうか?

49. 2014年5月04日 00:00:20 : 7bUsMLlvNQ
「隠し砦の三悪人」の火祭りの歌は室町時代の「閑吟集」由来だと思いますが、黒澤映画には古典へのこだわりがありますね。

------------------------------------

このシーンのアフレコをしたボランティアエキストラの者です。

残念ながら、いずれ映画のサントラが発売されても、曲頭からエンディングまで歌を録音したようなものでは無いので、入らないかもしれません。
DVDが発売されたら、それから聴く事しか出来ないかもしれませんね。

とりあえず、貴重な歌詞カードは当日の資料として保管してましたので、歌詞だけですが記しておきます。

人の命は火と燃やせ
(アッセ アダホイ、アセテ サモハイ)
虫の命は火に捨てよ
(アッセ アダホイ、アセテ サモハイ)
思い思えば闇の夜や
浮き世は夢よただ狂え

(アッセ アダホイ、アセテ サモハイ)

この掛け声…(アッセ アダホイ、アセテ サモハイ)には…

アッセ(イ)…圧政=圧力政治 を アダ…仇(討)で ホイにすれば、
アセテ…褪せて サモ…さも=いかにも ハイ…灰になる

…と言う意味があると説明されました。
開放を願う山の民の願いが込められた火祭りの歌です。

http://okwave.jp/qa/q4020


50. 2014年5月04日 02:10:56 : 7bUsMLlvNQ
雪姫の上原美佐の演技が下手くそだという人をよく見ますけど、これの前に蜘蛛巣城の演出に能の手法を取り入れたことを考慮してないですね。意図的に抽象的な演技をやらせて、歴史絵巻から飛び出てきたような女性像をやらせている。それは全く成功していると言えるでしょう。どこか作り物のような人物造形は、小津映画にも言えることですね。現代社会劇には普通にあるような、個人であることをもてあました消化不良の個性の展覧会とは違うのでしょう。

51. 2014年5月04日 02:44:33 : 7bUsMLlvNQ
蜘蛛巣城とどん底をやる前に黒澤は小林秀雄と対談しています。小林は古典芸能が好きでしたから。最近の映画ファンはCG映画は好きでも文學には無関心な人が多いようですね。

52. 2014年5月04日 03:38:32 : dv6kljamIQ
あー、もうやはり、どんな作品も一度は歴史のムーブメントに置いて考えたいですね。
体験不可の限界はあるにせよ。
作家本人が敢えて口に出して説明しなかったこと、書き残さなかったこと、場や立場に合わせた発言になったもの、を含めて解釈したいと思った時に、唯一有効な手立てかと思いました。



53. 2014年5月04日 12:54:28 : 7bUsMLlvNQ
「カメラは極度に正確を好む。カメラの最も苦手とする處は、空想的なもの幻想的なもの荒唐無稽なもので、この種のものを映畫が表現しようとして成功した例しはない。荒唐無稽な笑ひの表現が、正當な映畫によらず、漫畫映畫によつて最も成功してゐる所以も其處にある。又例へば、ラインハルトの映畫「眞夏の夜の夢」を見た人は、シェイクスピアの古風な幻想の中に、なんというふ科學的な正確な人間の表情や四肢の運動がちらちらするかとあやしむ。元来が無理なのだ。而もその無理はラインハルトの手腕を超越してゐる。カメラの性格から直接やつて來る。」

昭和十一年のドストエフスキー映画についての小林秀雄の文章です。読んだ途端にビリビリ来ましたね。


54. チベットよわー 2014年5月04日 16:59:47 : Xy93FIMaJupUQ : FPQtjgaIrI

53の小林秀雄の引用文を今みたんだけど、あまりの出鱈目さにウンザリしてしまいました。
知らないことを評論するときは、もう少し試論としての柔軟さを持つべきですね。

カメラが被写体に与える表現の様式が現実的すぎて、文学の幻想性を奪ってしまう。

ただこれだけの女子高生が思いつくようなカスカスの感想文を無理に評論調に書こうとすることが
元来、無理なのだw。

夏目漱石の「坊ちゃん」を映画化する試みがハーレー彗星のように何十年の周期で訪れるのだが、
作家の井上ひさしが「原作の中で構築された言葉の世界をカメラが攻略するのに失敗した」というように
解釈した。映画バカの井上先生だけあって、カメラが持つ限界性などというものが幻想にすぎないことを
はなから理解していて結局は、原作を斬り捌く技量の問題へ視点をうつしている。

谷崎純一郎の「卍」。これを映画化したのが東大の増村保造。もしこれがたとえば二流どころの森田芳光
だったなら失敗して「カメラでは文学性が描けないなあ、はい!想定内」ということで議論は終了だろう。

文学をつくるのは人間であって、カメラではない。


55. 2014年5月04日 18:37:09 : 7bUsMLlvNQ
文學と映畫について話すと長くなりますね。

小林には、山本有三の「真実一路」についての文學評論があるんですが、大半を何故か映画の話題にしてしまっている。ちょっと前に懸案の「真実一路」を読み切ったのですが、小林の文學評論は期待通りあてにはならなかった。小説はそれなりに面白かった。小林は、小説を読むことから刺激されて哲学をしてそれを書いてる風です。

山本は、駆け出しから十何年か戯曲作家をやってますね。小林のお気に入りだった正宗白鳥も新聞記者時代は劇評の仕事をやっていた。岸田國士の言い分では、岩野泡鳴より、白鳥の方が戯曲は巧いということになる。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44337_34709.html

戯曲というのは、映画のシナリオに近いですね。小説とはちょっと違う。


56. 2014年5月04日 18:44:32 : 7bUsMLlvNQ
>54
小林秀雄が映画の素人で、井上ひさしが映画のプロというのはどこから出てくるのですかね? 小津安二郎も黒澤明も小林を軽んじてはいないですよ。井上ひさしの影響からどんな作が生まれましたか?

井上ひさし氏を悪く言うつもりは全くありませんけど。


57. 2014年5月04日 19:15:50 : 7bUsMLlvNQ
最近のハリウッドのファンタジー系の作品など、女子高生未満でしかないということですね。いくらCGで幻想的な世界を作っても、ウォールストリートを歩き回ってるような雰囲気の人物しか登場しない。言いたくなかったんですけど。

58. 2014年5月04日 19:55:19 : 7bUsMLlvNQ
「真実一路」は主人公のいない小説です。強いて言えば少年が主人公なのですが物語の大半は少年を取り巻く大人達の話である(小林は少年の姉を主人公としてますが、どうでしょう)。それで場面ごとに、それぞれの登場人物の主観的内面から物語が書かれることになる。

少年の家庭は姉はいても母親がおらず、少年はそれに物心つく前から慣れてしまってるのですが、少年には何故か目の前に空白な映画フィルムが被さっているような奇妙な印象が拭えない。映画というのは、この内面の描写というのが難しいですね。そこから、小林は文学作品と映画は別のものであるという話を始める。人間的主観のリアリズムというような話もする。私はこれを読んだ時に、黒澤の「羅生門」の元ネタを見つけた気がしました。ませた年上のガキ大将の、少年に言う「歴史とは地球に傷を付けることだ」なんて台詞は、後の小林の歴史哲学を連想します。

1928年(昭和3)5月3日、「暴支膺懲」の声が高まって日中戦背へ至る第一歩となった済南事件が起きて間もなく、山本は朝日新聞に「波」という作品を連載します。ルビ廃止論を主張した山本らしく、極限まで読みやすさを工夫してあって、波に乗るように読み切れる小説でした。「そして父になる」みたいな作品ですかね。ファシズムの「波」が押し寄せる時代では、自分の子供すら世の中の影響を受けて他人の子供のような疎遠な存在になって行くという暗喩にも読めました。作中、

「ね、小説にしたって、そうじゃない。あたし、わりに夏目さんのものを読むけど、そうそう夏目さんばかり読んでいると、つまんなくなっちまうわ。やっぱり里見さんの小説も読んでみたいし、・・・」

なんて女性の台詞がある。戦後になって小津映画の脚本を書いた里見クですね。下は京都の造り酒屋のHPですが、小津が「小早川家の人々」を撮った背景が分かりやすい。小津はこれを「コバヤカワ」ではなく「コハヤガワ」と読むんだと言ってたらしいですが。

 小林は、妖刀を振りかざし直した。座のだれもが、この修羅場は、顔を伏せて受け太刀しないことが奥義であることを熟知していた。もちろん、僕(筆者・伊藤玄二郎)だって……。
  しかし、里見のお伴で末席に連なっている郎党としては、返り討ちに遭うのに怯えながらも、たまりかねて口を切ってしまった。

http://www.tamanohikari.co.jp/taidan/02.html


59. 2014年5月04日 20:22:27 : 7bUsMLlvNQ
「路傍の石」で有名な山本有三は、戦時中は弾圧され続けて、共産党に資金提供したかどで検挙されて転向声明を出すに至っていますが、「少国民文庫」というようなものを出して、ファシズムの時代に少年少女に世界へ目を開かせようというような努力をしている。この本は子供時代の皇后様の愛読書で、90年代の保守化時期に再版されています。戦後は改憲まで貴族院議員を務めてた。戦後的地平では、こういう人物は保守政治の見本みたいに見えてしまいますね。

済南事件間もない頃、小林秀雄は同棲中の長谷川泰子を放り出して、志賀直哉のいる奈良に逃げ出してます。ファシズムの東京が嫌になったのかも知れない。


60. 2014年5月04日 21:24:55 : 7bUsMLlvNQ
黒澤の「羅生門」は芥川の「藪の中」を「羅生門」の舞台設定を借りた話ですから、「真実一路」の裏返しみたいな話ですね。

「文学をつくるのは人間であって、カメラではない」だなんてのは当たり前の話で、むしろその言い方は映画側から文學を見てゐる風です。小林は映画文化黎明期に立ち会って、この真新しい娯楽の本質をそれ以前の世界から把握しようと努めてゐるわけです。

「映画の文学性」というような物言いは小林は薄っぺらな見方だと退けますけど、文学的な素養のあるなしでは映画の出来上がりも自ずと変わっては来るでしょう。今自分はマンガの映画化しかしないような雰囲気ですけども。


61. 2014年5月04日 21:59:32 : 7bUsMLlvNQ
映画の歴史に対して、人類の歴史は殆ど文學の歴史みたいなもんですから、映画における文学性の欠如は、すなわちスクリーンからの歴史の奥行きの消滅を意味することになりますかね。

62. 2014年5月06日 22:02:09 : 7bUsMLlvNQ
年代記と歴史の違いとは、前者は人間が主役であるのに対して、後者は客観性を重視するという点にありますかね。タルコフスキーの「鏡」は正に詩でもあり年代記でもある。これは、山本有三についての小林の評論の話に似てくる。

63. 2014年5月07日 12:17:28 : 7bUsMLlvNQ
最近の西洋は白人優越主義が蔓延してますが、日本では古来、白は無常の色ですね。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表すと平家物語に申します。これは、釈迦入滅の時に、祇園精舎の沙羅双樹が一斉に鶴の羽根のように真っ白になったという故事を言ってるのであります。転じて沙羅双樹の林を鶴林と呼ぶ。「潔白」とは、世の無常を知ることから成り立つのかも知れません。

黒澤の「乱」のラストシーンの白装束の鶴丸には、そういう意味があるのではないかと思ったわけです。


64. チベットよわー 2014年5月07日 12:41:29 : Xy93FIMaJupUQ : Qxl8P2oPJ2
>>55

小林のいいたいことはよくわかりませんでしたが、山有の小説はやはり独特のダイアログが魅力であり、小説をドラマの脚本としてそのまま使えるくらいの展開力を持っていると私は思っていました。

>56

井上ひさしが「坊ちゃん」映画バージョンに言及したことと、小林がアメリカの映画監督がシェークスピアを銀幕に再現したのを評論した内容の違いは、小林が「カメラのせい(で映画が失敗)」といっているのに対し井上は「人間のせい(漱石の観念的な文章体系が映像に還元されにくい)」とみていること。

どちらが正しいかは小林以後の歴史が証明しているとおり。カメラの問題なんかじゃない。


>60

映画「羅生門」は小説「藪の中」を原作としているのはしっていますが、その裏返しが山有の「真実一路」というのは意外ですね。

子供の頃に読んだ小説なので覚えていないのに近いのですが、やはり真実一路のテーマは「血の繋がっていない子供を育てることはありか?」という白樺派共通の愛や家族の解釈をめぐるものではなかったかと思います。

藪の中は、精神に異常をきたした男が書いた小説だけあって、不安神経症が爆発するネタですね。これと比べたらいくらなんでも山有がかわいそうですよ。


65. 2014年5月07日 14:18:42 : 7bUsMLlvNQ
我々からすると、西洋人というのは生まれつき死に装束に見えるわけですね。

66. 2014年5月07日 14:21:15 : 7bUsMLlvNQ
>小林以後の歴史が証明しているとおり。

アニメブームになりましたが?


67. 2014年5月07日 15:36:26 : 7bUsMLlvNQ
1983年3月1日の小林没の翌月、TDLが開業しましたけど、宮崎駿の長編アニメの「ナウシカ」の製作もこの頃ですね。

>58のリンク先にもありますが「鎌倉文士」なんて人達が頑張っていたのはせいぜい60年代までですかね。川端もその一人ですが、三島の後を追うように70年代初頭に自裁してしまった。それまでは、関東の文化の中心は歴史ある古都鎌倉であったと。小津の映画はそうですね。鎌倉仏教は禅です。小津の墓も「無」の一文字が刻んである。小津映画見ていると、背筋がピンと伸びて座禅組んだ後のように精神的に整った気分になりますね。


68. 2014年5月08日 09:27:22 : 7bUsMLlvNQ
>64
あんた自分で女子高生未満に落ちてどうする? 「坊ちゃん」は幻想ファンタジーではなかろう。

>「人間のせい(漱石の観念的な文章体系が映像に還元されにくい)」

文芸作品の逐語的映像化は意味がないということは、小林のみならずタルコフスキーも全く同じように申しております。


69. 2014年5月08日 11:45:21 : 7bUsMLlvNQ
 パアル・バックの「大地」といふ小説が映畫化されて、評判になつた事がある。あのなかに一つ素晴らしい場面があつた、と言へばあの映畫を見た人は、直ぐ思ひ出す筈だが、蝗の大群が農作物に襲来する、すさまじい光景である。あそこで人々は眼を見張り息を殺す。だが、これと比較してバックの小説のなかでは、蝗の襲来の描寫はどうであつたかをあまり考へようとしない。
 僕等は、小説の或る場面に目を見張つたり息を殺したりは決してしないものだ。若しそんなことが起るとするなら、それは讀む人の心が未熟なのか、作者の小説術が至らないか、どちらかだ。いゝ小説がもたらす齎す感動といふものは、もつと静かなものである。小説の映畫化と言つて、映畫は、小説が到達してゐるもの或は到達しようとしてゐるものを決して目指してはゐない。映畫は何か全く別のものを作り上げて了ふのである。

山本有三の「眞実一路」を廻つて 1938年 小林秀雄

頭の良い人は分かりやすい文章を書きますね。「切れ」を感じる文章というのは単純な概念を使い、論理的な骨組みがしっかりしている。

山本有三の作品は、世界観を生物学で把握しようとしている点で、時代を感じさせます。小林も同じ欠点を1980年代に没するまで引きずっていた。


70. 2014年5月08日 12:11:02 : 7bUsMLlvNQ
 『ストーカー』に関して言えば、原作はすっかり書き直されてしまい、原作のなかで残されたものはストーカーという職業だけです。それすら映画の展開の中ですっかり違うものになっています。ですからこれは映画化ということすらできません。シナリオはストゥルガツキー兄弟の小説『路傍のピクニック』(邦題『ストーカー』)とほとんど関係がないのです。私はタイトルに銘記するよう強いられただけです。これがSF映画であることがはっきり分かるように首脳部が要求したのです。
 最良の映画化とは、私の考えでは、原作とは別の、新しい何かなのです。シェイクスピアとドストエフスキーの最良の映画は、黒澤の『蜘蛛巣城』(マクベス)と『白痴』です。
 しかし黒澤はきわめて多くのものを破壊しました。まったく新しいものを創造するために、舞台を現代に移しさえしています。しかし、例えばドストエフスキーの小説を、逐語的に言いかえたり、図解したりしようとする監督よりも、黒澤はドストエフスキーの世界に近いことが分かるのです。文芸作品の映画化それ自体は、純粋の意味では、意味がないと私は思います。

「真の創造に精神的なるものは不可欠である」 タルコフスキー
初出 1985年『ロシア思想』

黒澤が1983年に没した小林「秀虎」を主役にして「乱」を撮った頃の文章ですね。タルコフスキーの遺作「サクリファイス」は翌年になりますが、劇中で主人公アレクサンデルはシェイクスピアの「リチャード三世」とドストエフスキーの「白痴」の舞台でかつて成功を収めたというような過去が語られます。

「サクリファイス」はドストエフスキーの「白痴」のタルコフスキーによる翻案と言える。この物語の中心にかつて「白痴」を撮った黒澤をモデルにした人物を置くことで、物語は入れ子構造になっている。

劇中、子供が作ったアレクサンデルの家のミニチュアが、背景の本物の家にかぶせて映される場面があるのは、以上のような意味があるのではないかと私は読みました。


71. チベットよわー 2014年5月08日 18:58:59 : Xy93FIMaJupUQ : J1RaqsMpIo
>僕等は、小説の或る場面に目を見張つたり息を殺したりは決してしないものだ。若しそんなことが起るとするなら、それは讀む人の心が未熟なのか、作者の小説術が至らないか、どちらかだ。いゝ小説がもたらす齎す感動といふものは、もつと静かなものである


こんな評論はダメです。これはジャンルの問題でなくスタイルの問題だ。私はこのレベルの与太に
付き合うほどお人よしではないのです。



72. 2014年5月08日 21:43:56 : 7bUsMLlvNQ
ええ、分かります。私もマンガを活字にしたよな百田のラノベ作品を連想しながらそんな風にちょっと思いましたよ。

73. 2014年5月09日 12:37:03 : 7bUsMLlvNQ
ここでの小林にとって「小説」とは、いわゆる「純文学」のことであって、「サブカル文学」でも「大衆文学」でもないのでしょう。ポストモダンの時代には「芸術」というものは成り立ちにくいですね。

精神的でない芸術はありません。精神のないところにインスピレーション(霊感)はありませんし、インスピレーションのない芸術もないのです。タルコフスキーが「アンドレイ・ルブリョフ」について論じた芸術論はそんな調子です。

「ルブリョフ」におけるタタール来寇の場面は「七人の侍」の野ぶせりの来襲を模していて、よく見るとタタールの旗が日の丸です。旧日本軍みたいですね。タルコフスキーからするとサムライの子孫である我々日本人はタタール人の亜種に見えるのでしょう。タタールはかつて、ウクライナのキエフ大公国を飲み込んで消滅に追い込んでしまった。「ルブリョフ」のタタール来襲場面はかなり厳しい光景が繰り広げられます。タタールとはモンゴル帝国のことで、我々は中世鎌倉時代にそれを撃退しました。そうして見ると、この作品の最後に鳴り響く鐘の音は平家物語の序文を連想しますね。

主人公の「ルブリョフ」には黒澤の影が落ちているのだと思います。「赤ひげ」を撮影した頃で、この後黒澤はアメリカ進出に失敗して苦難の時代に入ります。

作中、鐘作り職人の息子が登場します。彼は本当は何も知らないにも関わらず、自分が死んだ父から鐘作りの秘密を受け継いだのだという嘘をついて、教会の鐘作りの仕事を請け負います。これはウクライナ出身の詩人アルセイニを父に持った二世芸術家タルコフスキーの自画像でしょう。タルコフスキーの父は彼が幼い頃に家庭を捨てた。タルコフスキーは芸術家の息子としての意識は残ったが詩作という行為の秘密を父から教えてはもらえなかった。ついに鐘作りを成功させた少年は、ルブリョフに向かって秘密を教えてくれなかった父親のことを告白して慟哭します。


74. 鶴木俊樹 2014年5月18日 11:00:33 : uoVUrVXCEbIi6 : 7bUsMLlvNQ
ルブリョフも年代記だな。詩と年代記が一致するのは、人が永遠の相に立った時と言える。ランボーの見者の書簡の終わりも年代記であるし、小林秀雄における歴史性の本質もそこにあると言える。例えば「無常といふこと」がそうだ。

永遠の相に立つ人間は、自分のいる時代をすら遙か過去や遠い未来を見るように見ることをする。それによって、全ての時代を等価に評価可能になる。



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