http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/874.html
Tweet |
件名:フランス式「言論の自由」は、普遍的ではない
日時:20150124
媒体:東洋経済オンライン
引用:http://toyokeizai.net/articles/-/58902
-----
イスラム教預言者ムハンマドの風刺画を繰り返し掲載してきた、フランスの風刺週刊紙「シャルリ・エブド」の風刺画家、編集者、記者など12人が、イスラム教過激主義者でアルジェリア系移民2世の男性たちに銃殺される事件が、1月7日、発生した。これを受けて、言論や表現の自由について大きな議論が発生した。
暴力による言論の封殺は論外だが、表現行為の自由はどこまで保障されるべきなのだろうか?今回は元ジャーナリストで、今はフランス屈指のエリート校となるパリ政治学院で情報戦争と政治学を教えるファブリス・イペルボワン教授 にフランスの言論の自由の定義や事件の影響を聞いた。同氏は数人のジャーナリスト仲間とともに、風刺週刊紙「カナール・アンシェネ」で世界各国政府による監視体制を暴露報道したことでも知られている。
フランス式とアメリカ式の言論の自由は違う
──テロ事件発生後、言論・表現の自由を支持する「私はシャルリ」というフレーズが世界中を駆け巡った。同時に、実際にシャルリ・エブドの風刺画を見て、暴力行為はもちろん支持しないものの、「これほどの挑発をすることはなかったのではないか」「下品すぎる」という声が出た。
イスラム教徒にとっては預言者ムハマンドの姿を描くこと自体が冒とくと聞く。フランスの言論・表現の自由の捉え方はどうなっているのか。
私たちがフランスで呼ぶところの「言論の自由」だが、私たちなりの定義がある。ほかの多くの国ではアメリカ式の言論の自由の意味で解釈されているので、他国とは大きく違う。
フランスの言論・表現の自由の考えは、絶対王政を倒し、近代的ブルジョア社会を作ったフランス革命と切り離すことはできない。絶対王政の時代には王政とカトリック教会は一体化していた。革命は神様が選んだ国王への反乱であり、聖職者に対しての反乱でもあった。革命によって聖職者たちの財産は没収され、共和国の国庫に入った。
教会権力を政治から排除すること、批判し、笑うこと。これこそが共和国の建国の精神だ。これをなくしては共和国自体が成り立たない。こうした歴史的経緯から、フランスでは神に対する冒とくは犯罪にならない。この点が伝統の1つになっている唯一の国がフランスだろう。
──フランスは、他の国とは違う、と。
そうだ。報道の自由は「フランス人権宣言」(1798年)第11条、出版の自由に端を発し、「1881年出版自由法」で法律上の保証が与えられた。
言論の自由には二つの形がある。世界共通の価値観で、どこの国に住む人もおそらく合意するのが米国式の言論の自由。これは、米国憲法の修正第1条に定められている言論・表現の自由だ。特徴は、自由はあるが同時に隣人に思いをはせる。社会を構成する個人が気持ち良く生きることを考慮する。神の冒とくはいけない、それは信仰を持つ隣人を傷つけることになるからだ。
フランス式の言論の自由とはフランスのみで通用する。隣人への考慮をしない考え方だ。
二重基準、ユダヤへの侮辱は違法
ただし、フランスに絶対的な言論・表現の自由があるわけではない。例えば人種差別的表現、特に反ユダヤ主義的表現やホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)の否定は確実に罰せられる。特に厳しいのがホロコーストの否定だ。
この意味で、フランスの言論の自由には「二重基準」の側面がある。具体例がフランスのコメディアン、デュドネだ。過去に反ユダヤ主義を扇動した罪で有罪判決を受けた人物だ。
──約370万人が参加した報道の自由の擁護のための行進(11日)で、デュドネは行進から帰宅し、自分のフェイスブックに「自分の気持ちとしては、シャルリ・クリバリのような気持ちだ」(この部分は後で削除された)と書いたと聞く(クリバリとは、8日、パリ南部のユダヤ人学校の近くで、女性警官を射殺したアメディ・クリバリ容疑者のこと。パリ東部のユダヤ系食料品店で人質とした4人のユダヤ人を殺害した)。
デュドネは私たちに問いかけているのではないかと思う。「自分はユダヤ人やテロ容疑者について思ったことを言いたい。シャルリには言論の自由が許されるのに、なぜ自分には許されないのか」と。デュドネは14日に逮捕されたが、テロを扇動した容疑で裁判にかけられる見込みだ。
──イスラム教の預言者を冒涜した場合、国内に住む約500万人と言われるイスラム教徒たち(ムスリム)の感情を害することにもつながるが。
その点が問題を複雑にさせている。共和国の価値観を受けて入れているどうかの問題にも関わってくるからだ。
フランスのムスリムたちのほとんどは、旧植民地諸国からの移民あるいはその2〜3世だ。この人たちは完全にフランス人にはなっていないと見られる場合がある。それは、例えば、自分の父がアルジェリア出身で自分がフランス生まれなら、アルジェリアの市民権を持っている。フランス人でありながらアルジェリア人でもある。2つのパスポートを持つ。フランスではアルジェリア人として扱われ、アルジェリアではフランス人として扱われる。
自分の国で拒絶されたと感じるので、もう1つのパスポートのほうに自分が近いと感じる。つまり、アルジェリアであったり、モロッコであったり、チュニジアであったりする。そこで、それぞれのコミュニティがフランス内にできてゆく。
何十年も前に来たほかの移民たち、例えばイタリア人、ポルトガル人、スペイン人などはフランス社会に十分に融合している。ところがムスリムたちはそうではなかった。文化的ギャップがはるかに大きく、かつ元の植民地国から来た人だった。彼らの唯一の文化的つながりはムスリムであることだ。
英語圏の人は無礼なことはしない
こういう人たちにとって、ムハンマドの絵は大きな侮辱だ。英語圏の人はやらない。無礼だからだ。規制されているからやらないのではない。無礼だからそうしない。
フランスでは、このような表現が言論の自由の核になる。しかし、真の意味の言論の自由ではない。言ってはいけないことがたくさんあるからだ。フランス人は言葉遊びが上手だ。ある言葉を拾い上げ、人々の心の中にあるその言葉の意味合いを変えてしまう。
──事件後、フランス社会は変わっていくだろうか。
変わらないだろう。白人市民の多くが「私はシャルリを支持する」と声を上げた。ムスリムの大部分はそう言っていない。風刺画がムハンマドを侮辱していると受け取るからだ。つまり社会の10%近くが「私はシャルリ」の全体に入っていない。
移民阻止を唱える極右の政党「国民戦線」は、11日の行進に参加しなかった。国民の25%がマリー・ルペン国民戦線党首を支持しているといわれている。全体で35%が「私はシャルリ」の行進に加わっていない。政治家は今回の事件でフランスに一体感が出たと主張しているが、長くは続かないと思う。
共和国の伝統・歴史に根差した言論の自由の権利をフランスのエスタブリッシュメントは絶対に手放さないだろう。それが実は「二重基準」であったとしても、たとえ少数派のムスリムたちが表現によって傷付いていたとしても、フランス人であれば、共和国の理念に倣うべきという信念は変わらない。もし揺らげば、共和国の概念そのものが崩壊してしまうからだ。
──事件後のムスリムたちへの影響は?
テロ防止のために、政府はムスリムたちと戦う方向に向かうだろう。フランス共和国の価値観に合わせることができるか、できないか。合わせることができなかったら、テロリスト予備軍と見なされる。ムスリムたちのほとんどが旧植民地からの移民やその2−3世なので、さらに視線は冷たくなる。
──視線が冷たい?
そうだ。14日、全国放送のラジオの朝の番組で、有名なメディア経営者が「現実を直視しよう。現在のフランスで、問題はムスリムだ」と発言した。「すべてのムスリムがテロリストではないが、すべてのテロリストはムスリムだ」。ここでもし「問題はユダヤ人だ」などとラジオなどで言えば、大問題。デュドネが12年前に反ユダヤ的発言をしたら、全てのメディアから干された。しかし、ムスリムについてならこんなことをラジオで言っても罰せられない。
ムスリムの存在自体、見えにくくなっている。宗教別の統計を取ることは違法になっているので、正式には人口のどれぐらいがムスリムかは分からない。私は10%(600万人)と思っているが。
ムスリムにはテロリストというレッテルを貼ることができる。フランスがドイツ占領下の第2次大戦中にユダヤ人の居場所を当局に通報したように、「隣人がテロリストだ」と言って、アラブ人たちを特定の地域に押し込めるかもしれない。過去にフランスはそういうことをやったし、今度もやるだろう。
国民戦線のルペン代表が支持率を伸ばせば、2017年の大統領選で勝利する可能性もゼロではないのではないか。
繰り返されるムスリムへの侮辱
──14日に、シャルリ・エブドが事件発生以来初めての号を出した。イスラム教の預言者ムハンマドと思しき人物が「私はシャルリ」と書かれたカードを持っている。その上に「すべては許される」と書いている。どのような意味に受け取ったか。
私の個人的な解釈だが、キリスト教的なムハンマドだなと思った。「テロ行為を行った人を許す」という意味に見えた。シャルリの表現を支持し、かつテロ犯を許す、と。
キリスト教から見たイスラム教のイメージに見えた。もしキリスト教徒の教会が攻撃されたなら、イエス・キリストの最初の弟子ペテロが同じことを言ったかもしれない。シャルリの風刺画家はこれを知りながら、キリスト教的な考えをムハンマドに言わせたのではないか。
いずれにしても、ムスリムにとって大きな侮辱であることに変わりはないと思う。
-----
//memo
"自由"のために誰かが犠牲になっている。
https://www.google.co.uk/search?q=cartoon+Charlie+Hebdo&sa=G&hl=en&site=imghp&tbm=isch&gbv=1
偏見や憎しみを煽るという、一方的な表現行為による犠牲だ。
両方向において、それはかつての私たちかもしれないし、
いつかの私たちかもしれない。
今後シャルリ誌を筆頭にフランスは"自由"を自粛するのだろうか?
暴力に屈するわけにはいかない、むろん言論の暴力に対しても…
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。