http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/833.html
Tweet |
「素晴らしいのは、インドの父がパキスタンの娘に出会えたことだ」。昨年12月、ノルウェー・オスロ市庁舎で開かれたノーベル平和賞の授賞式。児童労働根絶に取り組むインドの受賞者、カイラシュ・サティヤルティさん(61)は上気した様子でこう語った。演説の途中で原稿を見失い、アドリブで言ったセリフだったが、会場から盛大な拍手を受けた。「パキスタンの娘」というのはもちろん、同時受賞したマララ・ユスフザイさん(17)のこと。1947年の分離独立以来、3度の戦火を交えた敵対国の同時受賞となった一連の行事の中で、最も牧歌的な一幕だった。
ノーベル平和賞はしばしば「政治的な賞」と批判される。選考には受賞者の実績ではなく、ノーベル委員会の政治的意思が込められているという指摘だ。確かに、今回の平和賞には明確な意図が込められていたと思う。敵対する印パ両国の関係改善、そしてイスラム過激派に対峙(たいじ)することの重要性だ。
「敵対国からの同時受賞」「受賞者はイスラム教徒とヒンズー教徒」。こうしたキャッチフレーズは、確かに世界に融和への期待を抱かせるのに十分な宣伝力を持っている。とくにマララさんは史上最年少受賞者だ。パキスタン・タリバン運動(TTP)に銃撃されて重傷を負いながらも奇跡的に回復したという物語。イスラム過激派に立ち向かう勇気。胸を打つ感動的なスピーチ。どれを取っても受賞理由として申し分ない。「子供の権利」という主張も広く受け入れられやすく、今回の受賞は「平和に向けた素晴らしいメッセージになった」という感想も数多く耳にした。
しかし、だ。今回の受賞は印パ関係改善につながっただろうか。イスラム過激派に対する支持は減っただろうか。世界は平和に向かうことになったのだろうか。残念ながら、そうは見えない。私はむしろ、今回の平和賞をきっかけに、イスラム教国パキスタンと西欧社会との「断絶」がはっきりと浮かび上がったように思える。パキスタン国内でマララさんに対する反感が強まったように感じるからだ。
「マララは我々の社会的・宗教的価値観を壊した」。マララさんと同世代の大学生、ナジブラさん(18)はこう語る。「女性を男性の目から守るべきだ」という南アジアの伝統的な女性隔離の慣習「パルダー」(ペルシャ語で「幕」の意味)に反しているのだという。マララさんが銃撃されたことについても「事件のおかげで簡単に平和賞が取れた。ケガだって報道されたほどひどくはなかったのだろう」と言う。ある地元記者は「みんなマララさんを話題にしたがらない」と明かす。授賞式前日のマララさんらの記者会見も国内では一部だけ中継され、すぐに途切れたという。
学校関係者の中にも反発がある。全パキスタン私立学校連盟のミルザ・カシム理事長は「(マララさんを銃撃した)タリバン運動を支持するわけではない」としながらも、「マララはイスラム教や軍などの国家機関を不当に批判し、パキスタンの誤ったイメージを広めた。自伝『わたしはマララ』はイスラム教を冒とくする内容がある」と憤りを隠さない。さらに「ノーベル平和賞の受賞者の多くはこれまでも母国で論争の的となってきた。極めて政治的な賞だ」と吐き捨てるように言う。
なぜマララさんは嫌われるのか。ペシャワル大のサルファラーズ・カーン教授は、米国の「対テロ戦争」に翻弄(ほんろう)されたパキスタンの反米感情が背景にあると指摘する。
パキスタンは2001年の米同時多発テロをきっかけに外交方針を転換させた。半ば強引に米国の対テロ戦争に引きずり込まれ、友好国だったアフガニスタンのタリバン政権と戦う米軍を支援した。国内では米国の無人機攻撃が始まり、誤爆による民間人の犠牲者が相次いだ。イスラム過激派はパキスタン政府を敵視し、国内で無差別テロを開始した。治安悪化に伴い国民には反米感情が広まり、今も収まっていない。
一方で、マララさんは西欧的な学校教育の重要性を主張し、「自由」や「権利」を求めて声を上げた。銃撃事件後は英国に拠点を移し、欧米メディアはイスラム過激派を批判するマララさんの演説やインタビューを繰り返し報じてきた。カーン教授は「マララさんの主張が西欧の価値観と重なるため、多くの人がマララさんを『欧米の価値観を広める活動をしている』とみている」と指摘する。
平和賞の選考はノルウェーのノーベル委員会が担う。それだけに、今回の授賞はマララさんに対するパキスタン国内の反感を助長したのではないか。「やっぱり『欧米の手先』だと証明された」というわけだ。
マララさんは聡明で、記者会見やインタビューでの受け答えも当意即妙だ。演説は心をつかむようなフレーズがちりばめられ、イスラム過激派を批判する勇気には頭が下がる。しかし、だからといってマララさんを批判するパキスタンの人たちを「理解できない」と切り捨ててはならない、と私は思う。むしろ、なぜマララさんが嫌われているのかを考え、背景に何があるのかを理解しようとしなくてはいけないのではないか。「どちらが正しいのか」を直ちに判断するのではなく、異なる価値観を理解しようとする姿勢を保つことこそ、いま求められているような気がする。
フランスで1月、週刊紙「シャルリーエブド」が襲撃された事件は、欧米社会で「表現の自由」という価値観への攻撃と受け止められた。一方で、パキスタンなどのイスラム教徒は同紙の風刺画に対する非難の声が上がり、抗議デモも相次いだ。
「大きな断絶がある。それは思いやりの欠如だ」。平和賞を受賞したサティヤルティさんは演説で、子供の権利を巡る状況についてこう述べた。文脈は違うけれども、それは欧米とイスラム社会の間にも当てはまるような気がする。平和賞を機に浮かび上がったパキスタンと欧米の「断絶」。それが互いの価値観を理解しあうきっかけになったとしたら、そのときこそ、本当の意味での「平和賞」になるのではないか。
http://mainichi.jp/feature/news/20150120mog00m030007000c.html
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。