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風刺新聞編集部への銃撃テロ
風刺画が売り物のフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」のパリにある編集部が、自動小銃をもったアルジェリア系フランス人の兄弟に襲われ、編集長や風刺漫画家ら12人が死亡した。絶句するような驚愕の事件だ。
シェルリーはどぎつい風刺画で知られ、イスラム教の予言者ムハンマドやイスラム教徒を繰り返し侮蔑してきた。風刺というよりも侮蔑といっても差し支えないほど酷な内容で、イスラム世界の反感が強かった。
しかしながら、どのような事情があろうともテロが許されるわけではない。1月11日には反テロのパリ大行進に120万人、フランス全土では370万人が参加した。市民社会が分厚く根づいていることがよくわかった。
1789年のフランス革命で多くの血を流して獲得した民主主義の土台ともいえる自由や平等への挑戦には、断固として戦うという姿勢を示した。「表現の自由」を守り抜くという決意も伝わってきた。
ただ、違和感があったのは、下劣ともいえる絵を描き、イスラム教徒を傷つけることが「表現の自由」によって守られるのか、という点だ。違法でなければ何をしてもいいとは言えず、「妥当な表現」なのかどうかを、この機会に立ち止まって考えてみる必要があるのではないか。
フランスの風刺(カリカチュール)は17世紀の喜劇作家モリエール以来の伝統で、19世紀に画家でジャーナリストのシャルル・フィリポンが創刊した週刊新聞「カリカチュール」が風刺新聞のはじまりとされる。風刺とは庶民が権力者を、持たざる者が持てる者を批判し、陽気に笑い飛ばすというイメージがある。シャルリーが描いたムハンマドの風刺画は、そのようなイメージとはほど遠い。
この事件を新聞が連日、大きく取り上げたのは当然であろう。しかし、「表現の自由」と「過激派によるテロ」を二項対立化して論じる記事が多くみられ、物足りなさが残った。これまでの記事を読む限り、「表現の自由」のあり方を考える視点が、多くの新聞で欠けていたのではないか。
異論を許さない空気が蔓延
2001年の米国での同時多発テロ「9・11」、2011年の東日本大震災と福島原発事故にも匹敵する衝撃がフランスに走った。多くの移民を抱える欧州社会、とりわけフランスにとっては事件の前と後で、社会をみる目や価値観が一変するような劇的な体験であったのではないか。
9・11のときもそうであったが、善と悪にくっきりと色分けされ、異論をはさむことを許さない空気が社会に蔓延した。社会が単色になり、移民を追い込んでいくといった流れになるのは危険だ。
この点で読売新聞1月12日朝刊の「緊急 論点スペシャル」はすぐれていた。
フランスの歴史人類学者のエマニュエル・トッド氏に電話インタビューし、次のようなコメントを掲載した。
「私も言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続ける『シャルリー・エブド』のあり方は、不信の時代では、有効ではないと思う。移民の若者がかろうじて手にしたささやかなものに唾を吐きかけるような行為だ。ところがフランスは今、誰もが『私はシャルリーだ』と名乗り、犠牲者たちと共にある」
「私は感情に流されて理性を失いたくない。今、フランスで発言すれば、『テロリストにくみする』と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じていない。独りぼっちの気分だ」といまの考えと気持ちを吐露した。
中東政治に詳しい千葉大教授の酒井啓子氏も同様な視点から、「『表現の自由を守る』イコール『シャルリーを認める』となってしまうと、表現の自由は尊重するが『シャルリー』の侮辱に耐えられないという人たちが置いていかれる。イスラム社会は『シャルリー』の擁護がイスラムをこきおろしてもいいという話しにつながっていく危険性を感じていると思う」と指摘した。
トッドと酒井両氏のコメントは、二元論で語るのではなく、第三の視点を提示しており、傾聴に値するものだ。(2015年1月13日)
※この批評は東京本社発行の最終版をもとにしています。
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徳山喜雄(とくやま・よしお) 新聞記者。近著に『安倍官邸と報道―「二極化する報道」の危機』(集英社新書)。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150113-00000010-wordleaf-pol
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