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人種差別や徴兵制に反対、中国を承認、CIAに恐れられて排除されたオーストラリアの元首相が死亡
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201410250000/
2014.10.25 17:27:04 櫻井ジャーナル
10月21日にゴフ・ウィットラム元オーストラリア首相が死亡したという。労働党の党首として1972年の総選挙で勝利、人種差別に決別、徴兵制を廃止、中国を承認するなど政策を大きく変更してアングロ・サクソンの支配層から嫌われたが、中でも情報機関との軋轢は決定的だった。
アングロ・サクソン系の5カ国、つまりアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの情報機関は相互につながり、電子情報機関の場合は米英2カ国を中心にUKUSAを作り、連合体を形成している。
このUKUSAはNSA(アメリカ)とGCHQ(イギリス)の指揮下にあり、各国の機関は自国政府でなく、この米英2機関の命令に従って動いている。つまり、国家内国家。米英支配層が残りの3カ国を操る道具でもある。
UKUSAが世界を支配するために築いたシステムのひとつが全世界の通信を傍受できるECHELON。そのターゲットは全ての政府や国際機関で、情報を入手するだけでなく相場を操作するためにも使われているようだ。この辺の具体的な活動の一端はエドワード・スノーデンの内部告発で判明している。
電子情報活動が本格化するのは1970年代以降だが、その最初の段階でウィットラムはオーストラリアの首相に就任した。このオーストラリアのパイン・ギャップにはCIAがスパイ衛星の運用に使い、世界規模の通信傍受システムに組み込まれた最重要基地が存在、アメリカとオーストラリアの間で結ばれた秘密協定で1976年まで利用できることになっていた。
どちらかの国が通告しなければ使用期限は延長されることになっていたのだが、ウィットラム政権は利用期限の延長を拒否するのではないかとCIAは恐れる。1973年に同政権は情報を政府に隠しているという理由で同国の対内情報機関ASIOのオフィスを捜索、翌年には情報機関を調査するための委員会を設置したのだ。
1973年といえば、ヘンリー・キッシンジャーの命令でCIAがチリのサルバドール・アジェンデ政権をクーデターで倒した年。この秘密工作の内容をウィットラム首相は知っていた可能性があり、そうだとするなら矛先はCIAへ向くことが予想できる。1974年の選挙でウィットラムが率いる労働党が勝利し、パイン・ギャップ閉鎖もありえる状況になった。少なくともアメリカはそうなる展開を恐れた。
1975年になると、CIAの高官として対キューバ工作や東南アジアでの秘密工作を現場で指揮、さらにチリのクーデターやイラン・コントラ事件でも名前が出てきたシオドア・シャックレーがASIOに接触し、ウィットラム首相の行動を非常に心配していると通告する。その3日後、イギリス女王エリザベス2世の総督、ジョン・カーはウイットラム首相を解任した。
カーは第2次世界大戦中、オーストラリア政府の命令でアメリカへ派遣され、CIAの前身であるOSSと一緒に仕事をしている人物。大戦後もCIAときわめて深い関係にあった。
カーには首相を解任する権限があるので、今年2月にウクライナであったクーデターとは違い、憲法の規定に従っている。いわば「合憲クーデター」。この工作のために必要な資金を動かしたのは創設されたばかりのナガン・ハンド銀行だと言われているが、これは「CIAの銀行」のひとつだ。
麻薬取引で儲けたカネのロンダリングもしていた銀行だが、こうした稼業が発覚して1978年には創設者のフランシス・ナガン(オーストラリアの弁護士)とマイケル・ジョン・ハンド(元グリーンベレー)に逮捕令状が出される。ナガンの死体が駐車中のメルセデスの中で発見されたのは1980年早々のことだ。
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