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日経新聞連載:
[迫真]プーチンの執念
(1)停戦案、2時間で仕上げ
9月3日の朝、ロシア極東を訪問中の大統領、プーチン(62)の専用電話が鳴った。「東部の停戦を話し合いたい」。出張先まで緊急協議を申し入れてきたのは、ウクライナの大統領、ポロシェンコ(49)だった。
2人は紛争の収拾策について持論をぶつけ合った。親ロシア派の武装戦力と政府軍の戦闘は約5カ月に及び、ウクライナ国内には疲れと焦りが充満していた。「我々の考え方は近い」。国を背負って3カ月のポロシェンコに比べると、政治家として何枚も上手のプーチンは確かな手応えを感じていた。
受話器を置いたプーチンは、白、青、赤のロシアの国旗を機体にあしらった大統領の専用機に飛び乗ると、モンゴルへのわずか2時間の機中、メモの作成に没頭した。戦闘の停止、捕虜の交換、停戦条件の監視など7項目にわたる「プーチン計画」が手早く書き上げられていった。
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「戦闘を続ける両者は直ちに以下の行動を調整し、実現しなければならない」。ウランバートルでモンゴルとの首脳会談を終えた3日夜、記者会見に臨んだプーチンは、時々にらみ付けるような鋭い視線を送りながら、ウクライナの停戦に関する7項目を読み上げた。そのほとんどすべてが2日後の5日、親ロ派とウクライナ政府の代表がベラルーシで交わした合意文書に並んだ。
8月上旬、当時の主導権はウクライナの側にあった。7月のマレーシア機の撃墜で厳しい批判を浴びた親ロ派の旗色は急速に悪くなり、装備と兵員数で圧倒的な優位に立つ政府軍は親ロ派の主要拠点であるルガンスクとドネツクを陥落寸前に追い込んだ。「東部を親ロ派の独立地域にするクレムリン(ロシア大統領府)のプロジェクトは破綻した」。多くのロシアの政治専門家もプーチンの失敗を予感していた。
そこから事態は急変していく。まず親ロ派の最高幹部が突如交代した。ロシア軍やクレムリンに近いとされながらも、軍事的な劣勢を招いた張本人であるロシア国籍のアレクサンドル・ボロダイ(42)は自ら名乗ってきた「ドネツク人民共和国の首相」の座を降りた。この頃、ひそかにモスクワに入ったボロダイは「多くの政治家、社会活動家と会った」と認めた。断定を避けつつ、クレムリンすなわちプーチンの意向に沿った人事だったことを示唆する発言だった。
新たに最高幹部に就いたウクライナ国籍のアレクサンドル・ザハルチェンコ(38)は8月半ば、「約30両の戦車など150台の装甲車両とロシア領内で4カ月訓練を受けた1200人の人員を受け取った」と明かした。ロシアからの装備も人も、プーチンの許可なしではできない大規模な供給だった。
プーチンら政権幹部は繰り返し否定するが、8月の同じころ、ロシア軍部隊のウクライナ領への越境がたびたび伝えられ、ウクライナ軍は敗走を重ねた。資源、金融など経済の中枢を狙う欧米の追加制裁をかわしながらロシア有利の条件でウクライナとの停戦に持ち込むには、隠密の軍事行動しかなかった。
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8月26日深夜。プーチンはベラルーシの首都ミンスクにある大統領公邸「独立宮殿」の3階で、追い詰められたポロシェンコと極秘に会った。同行筋によると、プーチンは直談判で繰り返し停戦を迫ったという。その場で勝負はついた。
「誰が何と言おうと、ロシアとウクライナは同じ(東スラブ)民族なのだ」。8月29日、松林の美しいロシア北西部トベリ地方の湖畔で、親政権派の青年キャンプを訪れたプーチンの言葉は自信にあふれていた。
プーチンは自ら主導する旧ソ連圏の経済統合に「第2の地域大国ウクライナに加わってほしい」と強く願ってきた。ウクライナが欧米の陣営に加わる北大西洋条約機構(NATO)加盟も絶対に容認できない一線だった。
10月7日、プーチンは62歳の誕生日にあわせてシベリアの密林まで専用機を飛ばし、「大統領として初めて」1日限りの休暇をとった。最も近い民家から300〜400キロも離れた地で「野生を楽しんだ」とだけ伝えられる。謎めいた印象を伴いながら精力的に働くプーチンへの支持率は8割超が続く。
(敬称略)
◇
3月のクリミア半島の編入に続き、ウクライナ東部の武装勢力を支えてきたロシアは9月5日の合意で、親ロ派による実効支配の地域を固めた。世界を揺さぶるプーチン氏を追った。
[日経新聞10月15日朝刊P.2]
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(2) 裏切りは最大の罪悪
9月10日深夜のモスクワ・クレムリン(大統領府)の一室。お気に入りのえんじ色のネクタイ姿で現れたロシア大統領のプーチン(62)は旧知の元首相、森喜朗(77)とお茶とお菓子が並んだ白い丸テーブルを囲んだ。2人は柔道などスポーツ談議を楽しんだが、話題がウクライナ危機と欧米主導の経済制裁に及ぶと、プーチンは口をゆがめた。「彼ら(欧米)は信用できない。日本はなぜ言いなりになるのか」。吐き捨てるような言葉に怒りがにじんだ。
世界が東西冷戦の終結へ突き進んだ1985年から90年にかけて、プーチンは旧ソ連国家保安委員会(KGB)の職員としてドイツに駐在していた。主な滞在先だった旧東独ドレスデンでは「子どもたちを地元の保育園に入れ、クリスマスには山歩きを楽しんだ。懐かしい」。そんな思い出をロシアのテレビに語ったこともある。
90年、当時のソ連大統領、ゴルバチョフ(83)は東側を仮想敵と見立ててきた北大西洋条約機構(NATO)について欧米から「東欧への拡大はないとの確約を得た」として東西ドイツの再統一を受け入れた。その理解とは裏腹にソ連崩壊後、旧東側諸国がNATOに次々となびいた。プーチンは情報収集の最前線に立ちながら懸念を膨らませた。「裏切りによって軍事的に包囲される」。有力な政治家にのし上がると、西側への警戒感をそう表現した。
疑念を確信に変えたのがウクライナの政変だった。反政権デモを続けていた親欧米派の勢力と、ロシア寄りだった大統領のヤヌコビッチ(64)は2月21日、混乱の収拾策で合意した。しかし親欧米派は直後に合意を破って政権の転覆に動き、欧米も追認した。「我慢にも限界がある」。プーチンは激怒した。
すぐに秘密の国家安全保障会議を開き、ロシア系市民が多いクリミア半島での反撃を決意した。対外的には軍事介入を否定しつつ、記章を外した迷彩服姿の軍特殊部隊を「地元の自警団」として送り込んだ。クリミア編入が既成事実化した4月中旬になると、テレビ番組で「自警団の裏には我々の軍人たちがいた」とあっさり認め、冷ややかな笑みを浮かべた。
90年代からプーチンの人となりを知るロシア中東研究所長のエフゲニー・サタノフスキー(55)は「仁義を重んじ、裏切りを最大の罪悪とするKGB的な価値観をプーチンは体現している」と語る。
(敬称略)
[日経新聞10月16日朝刊P.2]
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(3)密室でアメとムチ
10月初め、ウクライナ大統領の座を2月の政変で追われたヤヌコビッチ(64)の消息に関する情報が駆け巡った。ウクライナの政府関係者が交流サイトに「ヤヌコビッチがロシア国籍を付与された情報がある」と書き込み、ロシア大統領のプーチン(62)が出した「秘密の大統領令によるものだ」と指摘した。
ロシア大統領報道官は「たわごとに反応しない」と具体的なコメントを避けつつ、明確に否定はしなかった。首都キエフから姿を消したヤヌコビッチは今、ロシア国内で保護されているとの見方がもっぱらだ。
プーチンは頼りないヤヌコビッチに再三振り回されてきた。昨年11月9日、2人は詳しい時間も場所も明らかにされていないが、キエフ以外の場所で極秘に会っている。当時、ヤヌコビッチは同月末の欧州連合(EU)との首脳会議で「連合協定」を結ぶかどうかで迷っていた。EUとの協定が実現すれば、長くロシアの影響下にあったウクライナが西側に軸足を移す建国以来の分岐点になり得た。
プーチンは国益を左右する案件には自ら手を下す。ヤヌコビッチとの「会談」の様子を関係者らは「横やりが入らないよう密室で、協定への署名を思いとどまるよう繰り返し説いた」と明かす。ロシアとの自由貿易協定(FTA)を破棄してもいいのか。ウクライナには多額の金融支援の用意がある――。アメとムチを巧みにちらつかせ、親欧米の方向にふらつくヤヌコビッチに翻意を迫った。
「(EUとの協定に向かう)状況は両国の長期的利益に合致しない」。プーチンはヤヌコビッチにそんな「共通認識」を持つよう迫り、最後はのませた。
直後に新たな騒乱が待っていた。ウクライナ政府がEUとの協定作業の凍結を公表するとキエフで反政権デモが広がり、市中心部の独立広場を市民とバリケードが埋め尽くした。「憲法違反のクーデターだ」。プーチンは歯がみしたが、後の祭りだった。約3カ月後のヤヌコビッチの退場はプーチンの強権を内外に知らしめ、欧米の制裁と経済の疲弊の連鎖を招いた。
「(制裁は)我が国の発展目標の達成に向けた決意を強くさせるだけだ」。10月2日、モスクワ市内で投資家向けの会合に出たプーチンは強気を通した。野望をかなえるウクライナへの介入は、小さなミスで政権基盤を揺さぶる爆弾にもなる。
(敬称略)
[日経新聞10月17日朝刊P.2]
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(4)笑みと無表情
中国の国家主席、習近平(61)はロシアの大統領、プーチン(62)からの求めにまたも応じなかった。2人は9月11日、中央アジアのタジキスタンで会談し、ガスパイプラインの建設や高速鉄道の整備などで次々と合意をまとめた。しかしウクライナ危機に話題が移ると「中国の支持を得たい」と詰め寄るプーチンに、習は「『包括的な対話を通じて解決すべきだ』としか言えない」と距離を置いた。
ロシア側は事実上の支持を得られたと説明してきたが、中国側は「文書に残した事実はない」とつれない反応だ。中国側の関係者によると、今年に入ってウクライナ問題でプーチンが習に支持を求めたのは5月の上海、7月のブラジル・フォルタレザでの会談に続いて3度目だった。「中ロは同盟ではない」。習は対ロシアの交渉担当者にそんな判断を示し、中国の利益にならない問題でプーチンと組み国際社会の批判を受けないようクギを刺した。
中国にとって極めて気になる存在ではある。北京市の繁華街にある王府井書店で今月初め、「プーチンの鉄拳」「強権と鉄腕 プーチン伝」などと題した書籍がずらりと並んだ。販売員は語る。「中国人は強い指導者が好きだ。プーチンの本はヒトラーやスティーブ・ジョブズの伝記に並ぶベストセラーだ」。大衆の人気を気にする習は5月の上海での会談後、「なぜ彼は大統領に返り咲けたのか」と側近に問いかけたとされる。
同じ世界のリーダーでも米大統領のオバマ(53)へのプーチンの視線は冷め切っている。ホワイトハウスでは2人の長電話が知られる。最長は3月1日の90分で、1時間ほどに及ぶことも珍しくないが「接点を探るよりも言いっ放しに近い」。6月6日、フランスで開かれたノルマンディー上陸70周年記念式典の合間での会談はわずか15分だった。笑みを絶やさないオバマとは対照的に、プーチンは無表情を貫いた。
プーチンは16日のセルビア訪問を前に地元紙との会見に応じオバマ政権の対ロ姿勢を「敵対的と呼ぶほかはない」と断じた。同じ西側でもドイツのメルケル(60)とは通訳を入れずに話し込み、日本の安倍晋三(60)には9月21日、安倍の誕生日のお祝いとしてプーチンのほうから東京に電話をかけた。執念深く目的を追求するプーチンは、分断と連携の指し手を巧みに使い分けている。
(敬称略)
石川陽平、田中孝幸、吉野直也、赤川省吾、島田学が担当しました。
[日経新聞10月18日朝刊P.2]
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