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[創論]冷戦終結25年、欧州の課題は
ユーロ導入 生き残る道
元ハンガリー首相 ネーメト・ミクローシュ氏
1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終わった。それから四半世紀が過ぎ、歴史に名を刻んだ「生き証人」たちはいま何を思っているのだろうか。社会主義体制に終止符を打ったのは正しい決断だったのか、いま欧州は何に取り組むべきなのか。当時、改革派だったハンガリーと体制にしがみついた旧東ドイツの国家指導者2人に聞いた。
――ハンガリーが「鉄のカーテン」を撤去したことが契機となり、冷戦が終わりました。いまの欧州統合の姿をどうみていますか。
「プラスとマイナスの両面がある。冷戦終結直後、そのわずか1年後に西独と東独が再統一すると予測する人がいれば、私は鼻で笑っただろう。だが、これまでにドイツ統一は実現した。北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)だけでなく、国境検査を廃止するシェンゲン協定に参加する国も急増した」
「それでも(東欧民主化の)先頭を走っていたハンガリーの現状については失望している。我々は欧州単一通貨ユーロを導入しておらず、ポケットにはまだ通貨ユーロの紙幣も硬貨も入っていない。改革の速度が鈍ったことにかなり幻滅している。こうなったのは世界情勢の変化のせいではない。我が国の内政が冷戦終結後に迷走したせいだ」
――欧州債務危機で信認が揺らいだのにユーロを導入したいのはなぜですか。
「(ユーロによる)通貨統合に旧共産圏から(2015年には小国の)バルト3国(のすべて)も参加する。世界経済の大きなうねりは小さなハンガリーなどのみ込む。いまは我が国を守る傘がない。同じ共産圏だった国々の多くがユーロを導入済みだ。これが彼らの傘だ。今後も生き残ることができるだろう」
「ハンガリーはこの25年間に多くのミスを重ねた。(政権は)選挙に負ける恐怖にかられ目先のことにとらわれてきた。ユーロ導入を準備する勇気がなかった。数の論理ばかりを気にした近視眼的な政治のツケだ。何度もユーロを導入するチャンスがあったのにそれを逃してしまった」
――社会主義体制は終わりました。現代欧州で左派政党の役割とはなんですか。
「首相だった時は、西欧型の社会民主主義に近づこうとした。財政上の制約で社会福祉を切り詰める必要が生じるが、それは社民でも保守でも同じことだ」
――ウクライナがロシアの影響から逃れようとしています。それを阻止しようとするロシアとの対立は「新冷戦」の勃発といえるでしょうか。
「ロシアの指導者には交渉と妥協のほかに選択肢はないと知ってほしい。どの国も国益にからむ事情を抱え、米国や欧州にも間違いはあった。だからこそテーブルをはさんで議論する必要がある。東西冷戦は40年にも及ぶ、軍事力で勝負する古いタイプの対立だった。ロシアとウクライナの緊張はしばらく続くかもしれないが、そうした類いのものでない」
――25年前、いまのロシアより強大だったソ連からなぜ逃れようとしたのですか。
「自らの仕組みの行き詰まりはわかっていた。改革しかなかった。ハンガリーでは戦後の47年に共産党が実権を握り、複数政党制と市場経済を停止した。そこで自らの道を失った。原点に戻る必要があると考えた」
――ロシアはウクライナの自立をなかなか認めません。当時のソ連はハンガリーの行動をすぐ受け入れましたか。
「旧知の仲だったソ連指導者のゴルバチョフ氏には(首相に就いてから4カ月後の)89年3月に会いに行き、鉄条網の撤去と複数政党制への移行を打診した。するとゴルバチョフ氏は『複数政党制には賛成しない』と答えたが、『私が権力を持っている限り、(軍事介入は)2度と起こさない』とも約束した。これは重要な一言だった。(共産圏全体の利益のためなら一国の利益を制限してもかまわないという)ブレジネフ・ドクトリンの死亡宣告だった」
「帰国すると少しずつ鉄のカーテンを撤去した。だが抗議の電話や、ソ連軍の移動はなかった。抗議文書を私に渡すためのソ連大使のノックの音は聞こえなかった。それでゴルバチョフ氏を信頼した。同氏が失脚しなければ、我々は独自の改革も鉄条網の撤去もできると思った」
――鉄条網を撤去しただけでなく、国境検問所のゲートを開放したのはなぜですか。
「(強権的な)東独からハンガリーに逃れてきた市民が89年初夏までに最大15万人に達していた。この人数を抱え続けることは無理だと考えた。国境を開き、西独に逃がすしかないという結論にたどりついた。国境を全面開放する前には西独のコール首相とも秘密裏に会っていた。『信頼』が激動の89年のキーワードだった。私はゴルバチョフ氏もコール氏も信じていた」
Nemeth Miklos 冷戦終結前後にハンガリー首相。「鉄のカーテン」の撤去は、89年11月のベルリンの壁崩壊につながった。66歳。
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所得の東西格差 解消を
元東ドイツ閣僚評議会議長 ハンス・モドロウ氏
――統一ドイツの現状をどう見ていますか。
「コール氏はドイツを再統一に導いた偉大な首相と教科書に書かれているが、私は東独出身のならず者と紹介される。本当にそうだったのかと問いたい。コールが善玉で私が悪玉だったのか。もっと歴史は複雑なのではないのか」
「いまでも旧東独の出身者は旧西独出身者に比べ年金の支給額や給与の水準が低い。同じ職に就いていても出身地域による格差が残る。統一したとの実感がない。こうした『二重社会』はよくない」
――年金などが手厚かった東独と比べ、いまのドイツは社会保障制度が十分といえないとお考えでしょうか。
「国家は福祉にきちんと責任をもってほしい。教育や社会保障制度に市場原理が適用されれば金持ちの両親が子供を教育し、エリートがエリートを生み出す。現与党で中道左派のドイツ社会民主党(SPD)はこうした問題を提起せず、保守勢力との大連立にしがみついている」
――かつてドイツの性急な再統一に反対していました。
「東独経済を一夜で崩壊させるべきではなかった。統一後の急激な民営化で200万〜300万人の雇用が短期間で失われた。私は東西ドイツがそれぞれ国家の枠組みを残したまま『国家連合』を形成する構想をまとめたが、西独のコール首相は全く興味を示さなかった。東独が不安定になればなるほど、西独に吸収してもらいたいという願望が大きくなると同氏は考えた」
――計画経済を軸とした社会主義体制そのものに問題があり、東独が行き詰まったのではないですか。
「1970年代の東独指導者ホーネッカー氏の経済・社会改革は民衆の大きな支持を得た。問題が生じたのは80年代になってからだ。西独とどちらが優れているかという競争を繰り広げていたため、東独政府は『問題がある』と認めず、国民の信頼を失った」
「(市場経済化を進める)中国は体制を転換するとは言っていない。社会主義のモデルが一つだけで、それにすべての国がならうという当時の仕組みは間違っていた」
――冷戦終結時のソ連指導者ゴルバチョフ氏のせいで共産圏が負けたと思いますか。
「その判断は非常に難しい。だが、私はゴルバチョフ氏の路線ではソ連も社会主義も強めることはできないと87年には判断した。同氏は『改革』と言ったが、ブルガリアともポーランドともハンガリーとも議論はなかった。各国が一緒に社会主義を強化するような統一コンセプトはなかった。それぞれの国が個別に政策判断しなければならない状況を作るべきでなかった」
「欧州連合(EU)だって加盟する28カ国が勝手に行動しているわけでない。統一コンセプト作成のために議論をしている。社会主義体制の頂点だったソ連がほかの国と話し合う余裕を持つべきだった。ゴルバチョフ氏はいまになって、最初からソ連解体と共産主義の終焉(しゅうえん)を目指していたと語っているが、それならばそうとあの時に説明しておくべきだった」
――東西統一のおかげでドイツはEUの盟主となり、国際的な影響力が増しました。欧州統合に賛成しますか。
「条件付きで支持する。冷戦終結後、中・東欧諸国はまず北大西洋条約機構(NATO)に入り、それからEUに加盟した。ルーマニアとブルガリアではEU加盟に先だちNATOのミサイルをどちらが受け入れるかで議論になった。配備されれば米国からお金をもらえる。統合とはそういうものでないはずだ。共同体意識を持つだけでよい」
「ゴルバチョフ氏とは、統一後の新生ドイツが軍事的な中立を保つことで合意していた。だが西側陣営にはドイツがNATOに強く関与することを求める声があった。ベーカー米国務長官が90年2月にモスクワに飛び、(ゴルバチョフ氏と)ドイツ再統一とNATO加盟を決めた。ゴルバチョフ氏に『私との約束は何だったのか』と迫ると、『NATOが東方拡大することはないとの言質をとったから』と釈明した。その証拠をいま見せてほしいと言いたい」
――ドイツは軍による国際貢献にも乗り出しています。
「東独出身の牧師だったガウク現大統領は国外派兵を口にしている。それはドイツが戦争に参加しなければならないということなのか。そこ(戦場)に子どもたちを送り込むつもりなのか。こうした疑問を解消しないといけない」
Hans Modrow 89〜90年に東独閣僚評議会議長(首相に相当)として国家破綻の阻止に奔走したが、西独に吸収合併された。86歳。
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<聞き手から> 改革怠れば次世代にツケ
グローバル社会では通用しない思考に共鳴する仲間が集まったのが社会主義体制下の中・東欧だった。持続できない制度にしがみつき、改革を怠ったことのツケは重い。
東独では80年代後半でも政権党の執行部の危機感は小さかった。まだ地方自治体のトップだったモドロウ氏に経済政策の失敗を指摘されると「正しく理解していないのは君だ」と逆に叱責するほど、現実を直視していなかった。
再統一後に膨大な復興投資を実行しても東西格差が縮まらない現状は、東独時代の損失の大きさを物語る。
早くから改革に乗り出したハンガリーは共産圏時代の末期、ほかの東側諸国では入手が難しかった西側のコーラや家電製品を比較的容易に買えた。だが、改革速度が鈍った途端、周辺国に追い抜かれ、中・東欧のリーダー格はポーランドに移った。
改革が遅れれば次世代が重荷を負う。教訓をいまに生かせるか。日本も人ごとでない。
(ベルリン=赤川省吾)
[日経新聞9月28日朝刊P.11]
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