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http://www.labornetjp.org/news/2014/0818pari
広島・長崎への原爆投下の後、日本が敗戦を受諾して今年は69年目に当たる。ヨーロッパにおける第二次世界大戦の終結は1945年5月8日。それに先立つ1944年の8月、1940年6月からナチス・ドイツに占領されていたパリは解放された。国内のレジスタンス運動が蜂起し、ノルマンディーに上陸した連合国軍(自由フランス軍を含む)と共に戦闘の末、解放を勝ち取ったのだ。その70周年を記念してこの夏、パリ市庁舎とカルナヴァレ美術館(市立パリ・歴史美術館)の2か所で、パリ解放の写真展が行われている。
パリ解放委員会のよびかけで国鉄職員のストが始まった8月10日から、連合国軍が到着してドイツ軍が降参する8月25日まで、市庁舎や警視庁を陥落させた後も、あちこちで市街戦が繰り広げられた。歴史の舞台となった市庁舎での展覧会「自由のための闘い」では、パリ解放の経過が写真と映像、蜂起の告知ポスター、当時の新聞などの史料と共に示されている。ノートルダム寺院に向かって射撃する市民、バリケードづくりに参加する女性や子どもなど、なじみ深いパリの街角の非凡な風景に、見学者は熱心に見入っている。はば22メートルのスクリーンに映写されるスライドショーも迫力だ。市街戦の様子やレジスタンス国内軍の地下司令部など、さまざまな歴史的瞬間をとらえた画像と映像がたくさんあることに、改めて驚かされた。
カルナヴァレ美術館の展覧会を見ると、その理由がわかる。レジスタンス運動に入ったアンリ・カルティエ=ブレソン、ユダヤ系のためパリで働けなくなり、米軍のカメラマンになったロバート・キャパ(ノルマンディー上陸に参加)などに加え、それまでナチス占領軍に協力していたエージェンシーのカメラマンたち、さらにアマチュアの市民もパリ解放を撮影したのだ。展覧会のポスターに使われた写真(解放兵士を歓迎する笑顔のパリジェンヌたち)を撮影したロベール・コエン(ユダヤ系)は、占領中ずっと身を隠していた。
カルナヴァレ美術館では、ドイツ軍との戦闘が東方でつづいていた1944年11月10日(第一次大戦の終戦記念日)から、パリ解放の最初の写真展を開催した。レジスタンス運動家だった美術館長フランソワ・ブシェは、「未来の歴史家に必須の記録」を集めるために、パリ解放後ただちに新聞紙上で、資料・写真を募った。今年の展覧会では、70年前に展示された写真(印がつけてある)と共に、展示もれしたものや新たに収集された写真・フィルムが選出され、画像・映像をとおして歴史と記憶がつくられるプロセスに注意を喚起している。タイトルは「解放されたパリ、撮影されたパリ、展示されたパリ」である。
1944年の展覧会では当然ながら、市街戦とバリケードづくり、赤十字の活動、解放軍とド・ゴール将軍のパレード(8月26日)を歓迎する市民など、英雄的要素とパリ市民の活躍・連帯が強調された。ドイツ軍が行った捕虜殺戮あとの死体写真は見せたが、「ドイツ兵と寝た」とされて集団暴力を受け、坊主頭にされた女性たち(「トンデュ」)の写真は展示されなかった。今年の展覧会ではそれら「不在の画像」にも焦点をあてて、画像・映像(イマージュ)が人為的につくられる過程を示している。たとえば、ドワノーが撮ったバリケードにもたれたレジスタンス闘士の写真は「英雄像」を象徴するが、横にいる兵士の部分を削った構図であった(その方がずっとインパクトが強い)。また、ドイツ軍のコルツィッツ大将が降伏文書にサインした場面の画像はなかったため、別の場面の写真が「降伏書へのサイン」として1944年には展示された。
「闘士」の画像に不在だったのはとりわけ、女性と外国人だ。解放には女性も大勢参加したが、行動を映像におさめられた女性はひとりだけで、それ以外の女性の写真はバリケードづくりや救援、兵士の歓迎場面である。フランス自由軍のルクレール将軍率いる第2機甲師団には、当時植民地だったアルジェリア、モロッコ、シリアなどの兵士と、スペイン、ベルギー、アルゼンチンなど22か国籍の外国人兵がいた。しかし、彼らの画像は稀であり、連合国軍の黒人兵の写真は1枚しかなかった。2006年、フランス自由軍に参加したアルジェリア人とモロッコ人を主役にした映画が話題になったが(ラシッド・ブシャレブ監督、原題は『土着民』だが邦題は『デイズ・オブ・グローリー』)、元植民地からも大勢が第一次、第二次大戦に参戦し、多数の犠牲者を出した史実は、そうした画像・映像があまりないために、人々の記憶にインパクトを残さず、忘れられがちだ。
今年のカルナヴァレ美術館の展覧会では、遺伝子学者のアクセル・カーンのインタビューも流され、「歴史的画像・映像」が個人的な記憶と重なり、新たなメンタル・イメージを構築する過程が説明される。パリ解放のイメージは、ルネ・クレマン監督の映画『パリは燃えているか?』(1966年)や、有名なドゴール将軍の演説など、感動を呼び起こす画像・映像によって美化されている。一方、パリの街を歩くと、銃弾の痕跡をとどめた建物がいまだ残っており、市街戦がその場所で行われたことが思い起こされる(民間人の死者582人、負傷者2000人弱)。この展覧会のように、ただ「X周年」を記念するのではなく、画像・映像をとおして歴史と記憶について考える機会を提供する試みは、とても興味深いと思った。
8月はこのように、フランス人にとってはパリ解放の記憶が想起されるが、長崎・広島原爆記念日の8月6日から9日にかけて、核兵器廃絶を訴えて断食を行う催しも毎年、フランスの反核市民団体によってパリで行われる。ヴァカンスで町から住民がもっとも減る時期とはいえ、今年は断食への参加者が約70人にのぼり、昨年からはイギリスとドイツの反核団体との連携行動として行われている。この催しは、フランスの核兵器「監視の家」と「核兵器ストップ!」というNPOを中心に、複数の反核・反原発や非暴力の市民団体が共同で行うアピールのひとつだ。彼らは毎月第一金曜日、防衛省前に何時間も交替で陣をとり、核兵器廃絶を訴えている。高齢者が多いが、若い世代の参加者もいる。
最近、韓国の原爆被害者2世の人権を主張した故金亨律(キム・ヒョンニュル)についての本、『被ばく者差別をこえて生きる』(青柳純一編訳・著、三一書房、2014年4月)を読んだ。広島・長崎の被爆者の約10%を占める7万人は韓国・北朝鮮人だったが、本国に戻った生存者たちは日本政府からも本国政府からも被爆者としての保障と援助を受けられず、2世にも後遺症に苦しむ人々がいる。韓国の原爆2世の人権回復のために「原爆被害者特別法」の制定を求めた金亨律さんは2005年に亡くなったが、それまで被ばく2世であると言うことさえはばかられた社会風潮に風穴をあけ、日本の被曝者やその子孫を含む市民に、新たな視点を示唆した。
一般的に原爆や空襲の「記憶」しか語られないことから、日本人の平和主義は「犠牲者」としての視点と感情から出発しがちだ。しかし、犠牲者には日本国籍以外、とりわけ太平洋戦争開始前に植民地化された朝鮮半島や台湾の人も大勢いたこと、そして侵略戦争を起こした「加害者」としてのさまざまな史実に目を向けなければ、国際社会の中で「平和」を構築していける思考を培うのは難しいだろう。証言や史料を歴史学のアプローチで検証しつつ、部分的な誤りや矛盾などから事象全体を否定・矮小化する歴史修正・否認主義に惑わされずに、歴史と向き合うことが必要だと思う。そうした作業をつづける歴史家や市民の研究をより広く、とりわけ若い世代に伝えていくことが、大量殺戮の世紀だった二〇世紀を生きた者たちの責任であろう。二つの世界大戦後も世界各地で戦争はなくならず、現在も複数の地域で戦乱がつづいている。
2014年年8月17日 飛幡祐規(たかはたゆうき)
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