02. 2014年8月16日 18:36:59
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http://ryumurakami.com/jmm/ 「ロビン・ウイリアムズの死に慟哭するアメリカ」 ■ 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住) <<<お知らせ、その1>>> 『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基 準』(阪急コミュニケーションズ刊)という本を出しました。17年にわたる進学指 導の経験を踏まえて、学部段階からアメリカの名門大学に留学するためのアドバイス を網羅しています。同時に日米の入試制度、高等教育のあり方について考える材料を 提供するようにも心がけました。おかげさまで好評です。是非、ご一読ください。 http://books.hankyu-com.co.jp/list/detail/1470/ http://www.amazon.co.jp/gp/product/4484142236/ <<<お知らせ、その2>>>
もう一つのメルマガ、「冷泉彰彦のプリンストン通信」(まぐまぐ発行) http://www.mag2.com/m/0001628903.html (「プリンストン通信」で検索) 先々週から先週までの内容を簡単にご紹介しておきます。 第023号(2014/08/05) ジム・ブレディの死と銃規制の今後 「帯に短し、タスキに長し」共和党の大統領候補(上) 連載コラム「フラッシュバック69」(第9回) 「異常気象と温暖化論議、そして日米関係」 Q&Aコーナー 第024号(2014/08/12) イラク空爆、オバマには戦略はあるのか? 「帯に短し、タスキに長し」共和党の大統領候補(下) 連載コラム「フラッシュバック69」(第10回) 戦後70年へ向けて何を考えておくべきか? Q&Aコーナー JMMと併せて、この『冷泉彰彦のプリンストン通信』(毎週火曜日朝発行)も同じ ように定期的にお読みいただければ幸いに存じます。購読料は月額800円+税で、 初月無料です。登録いただいた時点で、当月のバックナンバーは自動配信されます。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 一時代を築いた俳優や歌手の死がニュースとして大きく取り上げられることはよく あります。例えばロビン・ウィリアムズの死の翌日に訃報が伝えられたローレン・バ コールの死は、50年代のハリウッドの巨星であるだけでなく、晩年に至るまで様々 な活躍をしていた人だけに、大きな話題になりました。 俳優の死ということでは、ここ数年、抗不安薬服用による事故や、中毒性薬物の過 剰摂取などで亡くなった役者さんの悲劇が繰り返されてきたわけです。『ダーク・ナ イト』という余りにも巨大な遺作を残して人生を駆け抜けていったヒース・レジャー (2008年1月)、ミュージカルドラマ『glee』で人気の頂点にありながら逝って しまったコリー・モンティス(2013年7月)、多くの佳作に出演して役者として アブラの乗っていたはずのフィリップ・セーモア・ホフマン(2014年2月)、そ れぞれの死は悲劇として大きな話題になりました。 ミュージシャンの死も同じです。例えば、マイケル・ジャクソン(2009年6 月)あるいはホイットニー・ヒューストン(2012年2月)の場合は、それぞれの 存在が巨大であっただけに、死去の第一報から、死因の詮索、そして葬儀に至るまで 全国的な、あるいは世界的な大ニュースとして繰り返し取り上げられています。 ですが、今週の月曜日、8月11日に亡くなった俳優ロビン・ウィリアムズの場合 は、こうした一連の「有名人の訃報」とは受け止め方の次元が違うように思うのです。 その死は、はるかに広く、はるかに深いインパクトをアメリカの社会に与えていま す。アメリカが慟哭している、そんな表現がふさわしい雰囲気が、今週のアメリカを 覆っているようです。 何故なのでしょうか? 一つには、ロビン・ウィリアムズの出演した作品が、現代のアメリカ社会にとっ て、今でも生き続けている、つまり現代人の心の中に強く残っているからということ があります。そして、それぞれの作品の持っている重さということが、自殺という重 たい事実に何らかの形で重なってくるのです。 具体的には、3つの作品を取り上げてみたいと思います。 まずオスカーの助演男優賞を受賞した作品 "Good Will Hunting" (邦題は『グッド ・ウィル・ハンティング/旅立ち』、ガス・ヴァン・サント監督、1997年)を取 り上げてみることにします。本作では、類まれな才能を持ちながら、心を閉ざし、社 会に背を向けている青年(マット・デイモン)に対して、その心を開くよう静かに導 くセラピストを演じています。 ロビン・ウィリアムズ演ずるセラピストは、優秀な能力を持ちながら「コミュニテ ィ・カレッジ」つまりローカルな郡などの設置する短期大学の講師をしているのです が、自身も妻の死という心の傷を負っているという設定です。 セラピスト自身が自分の心の傷と向き合う中で、同じく心に傷を負った青年の再生 をそっと助けていくというのがメインのストーリーですが、主演のマット・デイモン がある種自伝的な要素を入れて仕上げ、そこにベン・アフレックが下町の若者たちの 活き活きしたダイヤローグを加えてできた緻密な脚本は、映画史に残る作品として結 晶しつつ、この2人の類まれな才能を世に出すキッカケともなりました。 その大変に難しい脚本に、ロビン・ウィリアムズは極めて抑制された演技で命を吹 き込んでいます。現在30代の人々には、この繊細な心理劇は自身の青春そのもので あり、20代の若者の多くにとっても古典として接する中で、心に深く刻まれている 人はとても多いと思います。まず、この作品の記憶があるのです。 次は "Dead Poets Society" (邦題は『いまを生きる』、ピーター・ウィアー監督、 1989年)でしょう。全寮制の名門私立学校、いわゆる「プレップ・スクール」を 舞台に、ロビン・ウィリアムズ演じる「キーティング先生」は思春期の若者たちに、 高度な理想主義と既成概念への反抗を教えていくのですが、それが学園に大きな波紋 を投げかけるというストーリーの作品です。 印象的なシーンの多い映画ですが、中でも国語の担任としての初授業の際の教科書 の中の「詩の理解」の部分をめぐる論議というのは名シーンでしょう。その教科書に は「詩の偉大さは表現の完璧性(P)と内容の重要性(I)」の掛け算であるからP とIを縦軸と横軸に取った面積が「詩の偉大さである」という「解説」が出てきます。 キーティング先生はまずその部分を生徒に朗読させます。名門校の優等生ですから キチンと朗読するのですが、その間にキーティング先生は問題の「P×I」のグラフ を黒板に書くのです。面積が大きければ「偉大だ」というわけです。 生徒たちは「なるほど詩の偉大さは計算で決まるんだ」という顔をして聞いている のですが、次の瞬間にキーティング先生は、この理論は「クソである」と宣言しま す。そしてクラス全員に対して、国語の教科書の該当の部分を「破り捨てよ」と命じ るのです。「諸君、これは戦いである」と。 文学というのが教養や知識だと思っている人には何のことか分からないでしょう が、文学が文学だということが分かっている人間には、心の奥に一生残るシーンであ ると言えるでしょう。文学とは何か、教育とは何か、人間とは何かという問題の恐ら くは一番大切な部分を3分ほどで提示してしまった名場面だと思います。 勿論、この作品の場合はオーストラリア出身の名匠、ピーター・ウィアー監督の手 腕も大きいと思いますが、何と言ってもキーティング先生を演じたロビン・ウィリア ムズの、精神的に微動だにしない強い演技あってのことだと思います。恐らくは、史 上最高の「学園ドラマ」と言っても良いこの作品を彼の代表作とする人も多いでしょ う。 この2作よりと比較すると、相当にカジュアルな作りなのが "Mrs. Doubtfire" (邦題は『ミセス・ダウト』、ちなみに原題は「不審火夫人」という怪しくも滑稽な 意味、クリス・コロンバス監督、1993年)です。離婚して親権を失った男が、子 どもに会いたさに女装して初老のお手伝いさんとして前妻と子どもたちの家庭に入り 込むという設定で、家族崩壊の痛みの中で、父親としての悲痛なまでの子どもたちへ の愛情のあり方を描いた作品です。 アメリカでは離婚しても、それぞれの親と子どもの親子の関係は一生切れないもの として、共同親権やそうでない場合は面会権の確保がされていますが、そうした社会 習慣が確立していく中での社会的な影響を与えた作品とも言えます。 表面的には「女装がいつバレるか?」といったドタバタコメディの要素を入れ、そ こに「モノマネ漫談」のプロ中のプロであったウィリアムズの「名人芸」を見せると いう趣向です。ですが、結局は作品としては、そうしたコメディの要素をはるかに突 き抜けたものとなりました。 子どもたちと切り離された父親の悲痛ということが、それこそ心に突き刺さるよう な形で描かれてしまったわけで、そのウィリアムズの演技はやはり歴史に残ると思い ます。興行的にも成功し、DVDなどで繰り返し鑑賞されている作品です。 この三作品ですが、それぞれに人間とは何かという問題のある種の側面を深くえぐ るような表現に達しているということもありますが、同時にウィリアムズの演じた役 はどれも悲しい役柄であることを指摘しなくてはなりません。 この中で "Dead Poet Society" について言えば、キーティング先生と子どもたちに 起きる展開は、そのまま映画のストーリーの「ネタバレ」になってしまうので厳に慎 みたいと思いますが、悲劇的な展開だということは申し上げてもいいでしょう。 残りの二作に関しては、紹介の中でも記しましたが、"Good Will Hunting" のセラ ピストの役は実に陰翳の深い人物ですし、"Mrs. Doubtfire" の場合はコメディ性を表 現すればするほど逆に悲劇性を醸しだしてしまうという、悲しみの表現であったと言 えます。 今回の訃報が、ある種の「慟哭」として広がっているのは、そうしたウィリアムズ の演技の記憶が、一種の「ナショナル・トレジャー(国家的な宝物)」であると同時 に、そこに色濃い悲劇性をたたえているからということが言えます。具体的に言えば 善良であるがゆえの悲劇、善良であり過ぎることの悲劇ということです。言ってみれ ば、ロビン・ウィリアムズという人は、その善良であることと、その悲劇性を表現し 尽くして、それに殉じたとも言えます。 今回の訃報に接して思い返してみたのですが、ウィリアムズの演技の中には、直接 「死」という問題を直視したものもかなりあるのです。 例えば、紹介した "Dead Poet Society" ですが、タイトルの「死せる詩人の会」と いうのはある種の文学表現に過ぎないかもしれませんが、日本での公開にあたって与 えられた邦題の『いまを生きる』という語句には実はある種の「死の匂い」が込めら れていたのです。 この「いまを生きる」というのは、作中に出てくる "seize the day" の訳です。元 はラテン語の "Carpe diem"(カルペ・ディエム)という古代ローマの詩人ホラティ ウスの詩句で、日本では「一日を摘め」などと訳されるようです。その英語の定訳が "seize the day" にはもっと強いニュアンス、つまり「今、この日という時を大切に 使え」とか、あるいは「自身がこの瞬間をどう生きるかを決める主人であれ」という ニュアンスになるわけです。 キーティング先生はこの概念を子どもたちに教えようとするのですが、そのシーン では「今、生きている誰もがやがて呼吸を停止する時が来る」のだとして、伝統校の ホールに飾っている「往年の先輩たちの古い写真」を見せるのです。「君たちと同じ ように目を輝かせて人生へと向かっていく」若者たちの写真ではあるのですが、そこ に写っている人々はもうこの世にはいないのだというのです。 だからこそ「この日を大切に」せよ「決して流されるな」という強いメッセージで あり、正に歴史に残る学園ドラマに相応しいシーンではあるのですが、同時に「死の 匂い」を濃厚に感じさせるシーンでもあります。ウィリアムズの訃報に接した後では ちょっと簡単には見られない場面だと思います。 ウィリアムズには直接「生と死」の問題を扱った問題作(あるいは怪作)もありま す。"What Dreams May Come" (邦題は『奇蹟の輝き』、ヴィンセント・フォード 監督、1998年)がそれで、今回、彼自身の訃報、とりわけ重度の鬱病やパーキン ソン病の初期症状を患っての自殺というニュースに接した後で、この作品を思い起こ すと何とも不思議な感慨があります。 この作品は、ストーリーに少々粗い点があるのと、発展途上期のVFXで表現され た「死後の世界」のビジュアルに関しては、見る方の好き嫌いがあるということか ら、傑作映画に数えるのはちょっと難しいかもしれません。(但し、賛否両論のある 「天国が印象派の油絵みたい」という点に関しては、ストーリー上の理由があること を注記しておきたいと思います。)例えば、日本の宗教観、ビジュアルの趣味からは 少々遠い作品だということも残念ながら否定できません。 その一方で、この映画のストーリーそのものは、今回のウィリアムズの死という事 件に重なるものがあるので、ストーリーそのものを紹介してしまうことにします。 (※鑑賞予定のある方は、以下の2つのパラグラフは飛ばしてお読みください) ウィリアムズ演じる夫は多忙な医師なのですが、ある日、交通事故に巻き込まれて (そのシーンは上手に表現されています)亡くなってしまいます。極めて善良な人物 である主人公は、当然のこととして天国に召されるのですが、やがて大変な事実を知 ることになります。 夫の死、そして子どもたちの死を経験して、自分だけ生き残った罪障感などから鬱 を発症した奥さんが自分で命を断ってしまったのです。自殺というのはキリスト教で は大変なタブーであり、奥さんは地獄に突き落とされます。ウィリアムズ演じる夫 は、その奥さんを「救済」するために、天国にいる人々の反対を押し切って地獄の門 をくぐって奥さんを救いに行くという話です。 この映画ですが、公開当時は賛否両論であり、結局ものすごい予算でVFXをやっ たにも関わらず、北米市場だけでは回収ができなかった失敗作ということになってい ます。ですが、今回のウィリアムズの死を前提にすると、見方が全く変わってきます。 夫婦関係の破綻と修復の話、大切な人間に先立たれた人の罪障感など、一つ一つの エピソードがウィリアムズの実人生にどうしても重なって見えてしまうのです。とり わけ、鬱病によって自殺に追い込まれる人間の辛さと、その自殺という死に方への 「赦し」という概念は、正にウィリアムズの死をどう受け止めるかという問題そのも のと重なってくるわけです。 そうしたテーマ性のある作品であるだけに、ここ数日、ネット上ではウィリアムズ の熱烈なファンの間で、この "What Dreams May Come" (『奇蹟の輝き』)につい ては、再評価の動きが顕著になってきています。 一方で、このウィリアムズの訃報に関して、問題発言を行って「炎上」した人物が います。保守派のラジオDJで、何かと放言で物議を醸すことで有名なラッシュ・リ ンボーがその人ですが、何と「ウィリアムズを殺したのはアメリカの誤ったリベラリ ズムである」と言い放ったのです。 それだけ聞けば、ハリウッドの左派を嫌っているリンボーの「いつものポジション ・トーク」ということなのでしょうし、それでウィリアムズのファンたちは激怒して いるわけですが、発言の中身自体には少々興味深いものがあるのです。 リンボーは「アメリカのリベラルというのは、いつも無意味な怒りを抱えている」 というのです。「世界に何か悲劇があると、それを直さなくちゃいけない、悲劇があ るのはイカンといって怒る」、それが「いけない」というのがリンボーの指摘です。 つまり「世界は完璧でないし、理想主義が実現できないことを知ることも必要だ」と いうのです。 更にリンボーは、「アメリカの左派というのはいつも罪の意識を持っている」と指 摘しています。「世の中に問題があるから直さなくちゃいけない」と考えて、そうな っていないのは「自分が悪い」と責める、あるいは「偉い人は皆死んでしまって、自 分だけが生き残っている」と自分を責める、結局「ウィリアムズという人が、(名誉 もカネも)何もかもを手にしながら、内面では不幸のどん底」に陥ったのは、そうし た左派のカルチャーに原因があるのだという論法です。 では、どうすれば良いのかというと「期待値を下げること、不幸であることが基本 であってそれを受け入れること」が大事で、どうもリンボーに言わせると、これがア メリカの健全な保守思想だということのようです。 一見すると、中国の老荘思想にある「無為自然」とか「足るを知る」という話を、 物質的な満足の話だけではなく、社会正義の達成といったな思想的自己実現の話に適 用しているわけで、そうなると益々東洋的な感じもしてきます。そうではあるのです が、広大な大地を開墾したり、カウボーイ的な生活で自然と向き合ったりする中か ら、そうした思想が出てくると考えれば、分からない話ではありません。 但し、ロビン・ウィリアムズのファンからすれば、彼が命をかけて表現しようとし た「普遍的なヒューマニズムを否定された」という反応になるのは仕方がないわけで す。その点で「大炎上」となったのは当然とも言えます。 ちなみに、このリンボー流の、「左右の対立軸」つまり、「アメリカは理想主義実 現の実験国家」だから「自分の自尊感情などを目一杯投入して理想を目指す」一方で 「社会が不完全であることには、常に自身の力不足という罪障感や憤怒を抱え」て 「ある種の消耗に至る」のがリベラルであり、それに対して健全な保守主義は「期待 値を下げて、足ることを知る」ものだというのは、私は興味深い対立軸だと思いま す。いずれにしても日本的な左右対立とはずいぶん違うわけです。 リンボーのコメントは、ある意味では無茶苦茶ですが、それはともかく、ロビン・ ウィリアムズの死というのは、単なる役者さんの死ということを越えて、一人一人の アメリカ人に取って「人生」を考える大事件であったこと、そして、アメリカとは何 かということを考える思想的な事件であったと思います。 私は、彼が「リベラリズムに食い殺された」というのは違うと思います。そうでは なくて、時代の動きが激しくなり、それと同時にあらゆる価値観が相対化されていく 時代に、ロビン・ウィリアムズという人は、ヒューマニズムの最も大切な部分に関し ては守りぬこうと孤軍奮闘してきたのだと思います。その「たたかい」という意味で は、彼は敗北したのではなく、明らかに勝利して駆け抜けていった、そのことは疑い 得ない、私はそのように信じます。 ちなみに、ウィリアムズの作品の中で、もう一本忘れられないのが、人情味あふれ る医師の伝記映画 "Patch Adams" (邦題は『パッチ・アダムス トゥルー・ストー リー』、トム・シャドヤック監督、1998年)です。アダムスというのは実在の医 師で、小児患者に対して「道化師」として振る舞うことで、精神的な癒やしを与える という治療技術を主唱した人物です。正に、ウィリアムズはその役に適任でした。 実は、この作品は今年のはじめに亡くなったフィリップ・シーモア・ホフマンとの 共演作であり、ホフマンにしては珍しく、端正な演技と透明な笑顔を表現していたの が印象に残っています。そのホフマンを追うように半年後にはウィリアムズまでこの 世を去るとは思ってもみませんでした。私にとっても、ロビン・ウィリアムズの死と いうのは、慟哭をもって受け止めるしかありません。 ---------------------------------------------------------------------------- 冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ) 作家(米国ニュージャージー州在住) 1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。 著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空 気」「場の空気」』『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』『チェンジはどこへ 消えたか〜オーラをなくしたオバマの試練』。訳書に『チャター』がある。 最新作 は『場違いな人〜「空気」と「目線」に悩まないコミュニケーション』(大和書房)。 またNHKBS『クールジャパン』の準レギュラーを務める。 ◆"from 911/USAレポート"『10周年メモリアル特別編集版』◆ 「FROM911、USAレポート 10年の記録」 App Storeにて配信中 詳しくはこちら ≫ http://itunes.apple.com/jp/app/id460233679?mt=8 |