01. 2014年7月15日 06:00:41
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聖職者に限らずプラトンの時代から世界中の上流階級で流行っていたらしいからな繁殖行動のみを奨励し性愛を否定するキリスト教倫理の方が不自然なのだろう http://ameblo.jp/historical-gay/entry-10222836212.html ギリシャ・神々までも同性愛だった時代 今回の「歴史の授業で習えなかった同性愛」は、同性愛の歴史上あまりにも有名なギリシャ時代のお話でございます。ソクラテスの一番弟子プラトンは、その著書『国家』の中で、「性愛とは男×女・男×男・女×女の3種類があります」と述べているぐらい、ギリシャ文化は同性愛と切っても切れない関係なのでございます。 とりわけ「教育」においては、ジムで素っ裸の男同士が汗を流し、そのあと寝転がってお互いの体に触れあいながら年長者が青少年にさまざまなナレッジを伝承したとか。そんなセクシーな教育を受けたかったぜ、こんにゃろ〜ってカンジですね。この時代のギリシャでは、学問・教育・軍事・文化などが同性愛と密接に入り組んでいて、年頃なのに年上の同性から口説かれないのは恥だったようです。ギリシア時代の演劇では、神々までもが同性同士で愛しまくります。その表現がまた「太腿への畏敬の念」だとか「太腿の契り」だとか悩ましい言葉遣いがズラ〜リ。 歴史の授業で習えなかった同性愛-1 プラトンの『饗宴』には、「アイスキュロス(作家)ったら、アキレス(アキレス腱のアキレスですな)とパトロクロスのことをアキレスのほうが年上みたいに書いてるけど、ホントはアキレスが年下だったんだから!」みたいなことが書かれてあって、そんなゲイバーでの会話みたいなことが大哲学書として後世に遺ってるんだからナントモ嬉しいもんであります♪ ギリシャ時代においては、同性愛と異性愛は「どちらもオッケー」という人がほとんどだったようです。アテネでは「おなじ悲劇作家でもエウリピデスは女の方が好きで、ソフォクレスは男の方が好き」なんてことが、人々の話題になっていたとか。悲劇作家のお二人は「異性も同性も相手にしながら、どっちかがメイン」みたいな性のありようだったみたいです。同性愛と異性愛はグラデーションしながらつながっていたのでありましょう(日本の江戸時代なんかを思い出すようなハナシであります)。スパルタなどでは、花嫁は寝室で男装して新郎を待つ風習があったというのですから、性愛のど真ん中に同性愛があったと考えてもいいのかもしれません。 ではでは、本シリーズ最古の同性愛エピソードを「無知の知」の大哲学者ソクラテスを中心にお届けいたします。どうかどうか、おつきあいくださいまし☆ 後の世の同性愛者をも明るく照らす光 さてさて、人類史上最も後世の同性愛者に希望を与えた人物とは誰でありましょう。 アメリカで1997年に刊行された『The Gay 100: A Ranking of the Most Influential Gay Men and Lesbians, Past and Present(ポール・ラッセル著)』という本がありまして、この本は現代のアメリカのゲイ&レズビアンの地位向上に功績のある人物をランキング形式で紹介しておりますデス。 その中で堂々の第1位は、「文句ナシでしょう」というカンジでソクラテス。 欧米の同性愛者たちがキリスト教による同性愛者の弾圧に遭い、孤立無援、バレたらオシマイ状態だった時代には、ギリシャのおおらかな同性愛文化は「ギリシャ人たちの悪癖」として隠蔽され、同性愛はインモラルの象徴であるかのような扱いを受けてきました。中世からつい最近に至るまで、そんな時代がずっと続いてきたのです。 「自分たちは間違っていない。自分に誇りを持てないまま、自分を責めながら生きていくなんて無茶だ。こんな世の中を変えなければ。」と、同性愛者たちが立ち上がるパワーを与えてくれたものこそ、このソクラテスをはじめとするギリシャ文化の同性愛のありようだったワケなのであります。 歴史の授業で習えなかった同性愛-2 1840年にイギリスで生まれたジョン・アディトン・シモンズが、ソクラテスの言動を多く書き留めたプラトンの著書『饗宴』『パイドロス』と出会ったのは17歳の時。「子供の頃からこの愛のせいで悩んできたけれど、ようやく足下がしっかりした。なにもやましいことではなかったのだ。ギリシャ人たちは、この愛を崇高なものとして真摯に追い学んでいた。そんな人たちがいたのだ!」と、人生の黎明を自覚したのでした。
歴史の授業で習えなかった同性愛-3 その後シモンズは歴史の中に連綿と続く同性愛と、それを取り巻く環境(キリスト教による弾圧)の変化を紐解いて世に示しました。「この愛が何の曇りもなく崇高なものであることはギリシャ時代と何ら変わりがないのに、とりまく環境の方がそれを恥辱にまみれたものにしてしまっているのだ!」と、声を上げたのです。
同性愛は病気か異常者扱いされていた時代に、そんな声を上げる人は誰もいませんでした。晩年の彼は医者・法律家・政治家などに請願して、「同性間性行為は二年の懲役」という法律を撤廃するために活動を続けます。そんな彼の言論と行動が、ヒルシュフェルトなど性科学の先駆者に次々と影響を与え、そののち彼らがヨーロッパでゲイの人権運動を広げる要因となったのです。まさに、一波を起こして万波となす。 近代のゲイの未来を大きく変えたシモンズ。彼の行動の源流は、紀元前400年あたりのソクラテスを中心とするギリシャ文化を生きる人々の言葉だったのであります。 ソクラテスの同性愛エピソード ソクラテスが生まれたのは、紀元前469年の都市国家アテネ。 ソクラテスは一遍も著書を遺していませんが、彼の言動については弟子のプラトンやクセノポンが恋愛エピソードも含めて書き遺しています。ソクラテスは数多くの若者を愛し、スキンシップたっぷりの教育を施しますが、一線は越えなかったとプラトンは伝えています。 歴史の授業で習えなかった同性愛-4 もっとも有名なソクラテスの恋の相手は、美貌と武勇の誉れ高い軍人・アルキビアデス。アテネとエーゲ海北のポティダイアと戦争になった折りにも、ソクラテスが負傷したアルキビアデスをかばい勇敢に戦ったというエピソードも伝えられています。二人は愛し合っていて、抱き合って寝たりもしょっちゅうしていましたが、ソクラテスはエッチまではしてこようとしなかったとのこと。 自信家のアルキビアデスは、「どゆーことやねん」とばかりに、ソクラテスを誘惑しようとします。「あなたは僕の相手になる資格のある唯一の人です」な〜んて、女王様発言。ところがソクラテスは、「私にそんな価値なんてないんスよん」と言って、アルキビアデスを抱いたまま眠っちまったのでございます。 歴史の授業で習えなかった同性愛-5 「それはソクラテスのほうに気がなかったんじゃないの〜?」なんて思ってしまいそうですが、「私は自分が何も知らないということを知っている」という哲学的にチョー意味深い名言を遺したソクラテスですから、これは突っぱねたというのではなく、より深い愛をアルキビアデスに与えたと解釈したほうがいいのかもしれません。 しかし、アルキビアデスにしてみたら、キキキのキーッであります(ま、そりゃそうだわな)。アルキビアデスはすっかりヤキモチ焼きになってしまい、ソクラテスがちょっとでも他の若者に目を向けようもんなら、「どこ見てんのよォォォォッ」状態となってしまうのでありました。 プラトンの『饗宴』でも、二人の痴話げんかが プラトンの『饗宴』は、ギリシャ時代の美貌のオネエ劇作家・アガトンの家に当時の知識人たちが集まり、恋とエロス(もちろん同性の)について語り合った模様を、プラトンがすばらしい編集能力で書物にまとめたものであります。 歴史の授業で習えなかった同性愛-6 会席者がソクラテスをトリにひと通り話し終えた後、アルキビアデスの一行がアガトンの家に乱入してきます。アルキビアデスは「僕はソクラテスのことをこんなに尊敬していて、褒め称えていて、好き好きなのに、ソクラテスったらつれないんです。僕の恋は、全然報われないんです〜〜」と、酔った勢いで本音をこぼしますが、ソクラテスは「私とアガトンの仲を邪魔するつもりだね」と、からかったりしちゃってます。 これってば、まぎれもなく痴話げんかじゃないスか。こんなニチョと変わらないようなこと書いちゃっていいんスか、プラトン先生。アリなんスか〜〜〜ッ。 歴史の授業で習えなかった同性愛-7 この後、野心家のアルキビアデスはアテネを裏切る軍事行動をとり、ソクラテスは若者たちをそそのかしたという濡れ衣を着せられます。これがキッカケで、結局ソクラテスは毒ニンジン入りの飲み物を飲んで死んでしまわねばならなくなってしまうのでした。歴史上、こういうことってゴマンとあるのだろうけど、なんともやりきれないオハナシであります。 プラトニック・ラブの語源は同性愛? 肉体的にも愛されたかったアルキビアデスに対して、「青年の肉体ではなく、青年の美そのものを愛するべきである」という思想で応えたソクラテス。これが、プラトンの伝えたソクラテス像であります。。 「ひとりの青年に恋をし、青年の美しさを讃え、そこに精神的な何かを生み出す。そして次には一人の相手に固執するのではなく、人間に共通する美しさを考える。やがては肉体に固執するのではない、魂の美しさを評価するようになる。」という、人生における精神の昇華をソクラテスは説いたのだと、プラトンは記しました。 これを後世のネオ・プラトニストが、「精神的な愛」をプラトン的愛、プラトニック・ラブと名づけたのです。異性愛に精神的愛なんてあり得ないなんていう気は当然ありませんが、同性愛を語る場で語られた言葉なので、プラトニック・ラブの語源は同性愛にあったと言ってもおかしくないとワタクシは思いますデス☆。 「精神的な愛」なんて聞くと、「禁欲的な愛」みたいなニュアンスが感じられて、「観念的でイミわかんねーよ、ばーか」なんて思っちまうワタクシでありますが、プラトンが記したように考えれば人間として自然な昇華の形であることがわかります。ひとつの言葉が指し示すイミは時代とともに変わっていくのが世の理でありますが、時には言葉のルーツをたどってみるのも、大事なことなのかもしれませんね。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1128353076 さかのぼれば藤原頼長は多くの妻と、男娼を抱えていました。 時代は保元平治の乱。 丁度、鎌倉時代の目前ですね。 この男娼は絵になって残っています。 どうみても・・・現代の感覚では・・・キモヲタ もとい、下ぶくれが人気だった時代なので、 下ぶくれの男娼が好きだったんでしょうね。 男性との性交渉は、元を正せば仏教寺院に始まるようです。 というのも、寺院には女性が入れませんね。 僧侶には稚児という、童形の付き人がいますが、 彼らは童形で有続ける限り、僧侶の性対象でした。 だから、寺院のなかでは男性同士の交わりが。 これは主従制とかではなく、女性の代わりってことですね。 上流階級は、女性との交わりは民衆より制限されていました。 どこでもかしこでも子供を作られたら、所領分配が大変ですから。 そこで、幼年期から元服までは男性相手に性交渉、というわけです。 男性相手なら子供もできないし、大丈夫だろうと。 だから、徳川家に至るまでの権力者には、 男娼が多く備わっていました。 完全にホモだったというのは、細川政元とかが有名ですね。 戦国時代になって男性同士、性交渉で結ばれている間は、 有力武将として引き上げられるといわれていますが、 必ずしも有力な人物を引き上げるために性交渉をしたわけではない、 と思います。 元々、才覚が備わっている人物を男娼とする、 結果としてその人物が育つ。 有力武将となる。 |