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ウクライナ情勢:「革命」までのプロセス、その温度 - 生田泰浩
人口4,600万人を有し、ロシアと欧州連合(以下:EU)の間に位置するウクライナは、目下内戦に突入する危機が生じている。さまざまな要因が複雑に絡まり合いながら泥沼化する状況について、世界中が固唾をのんで見つめている。当然、直近のメディア報道は現在進行形のクリミアにおけるロシア軍の展開、内戦の可能性、プーチン大統領と欧米の政治的駆け引きに焦点が移りつつある。
ただし、反政権デモから革命まで達した経緯と、その後の東西分裂を巡る議論あるいはクリミアで起きている内戦危機の問題は明確に区別して考える必要があるだろう。極端に言うと、前者が内政的問題に起因しているのに対して、後者は長い歴史と国際政治の言説や駆け引きによるところが大きいと考える。
そこで本稿では、前者にあたる反政権デモから革命までのプロセスについて、近年のウクライナにおける政治社会的な背景、ならびに現地の様子を踏まえて(筆者は2013年4月〜7月、9月〜12月の間、首都キエフに滞在していた)考察していきたい。
反政権デモの経緯―デモから「革命」へ
デモの発端
今回のウクライナにおける一連の政変は、昨年11月21日、ウクライナ・EUの関係を強化する連合協定の締結直前[*1]で、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ前大統領がそのプロセス凍結を決定したことを発端としている。当時、アザロフ前首相はその凍結理由について、「対ロシア関係の正常化が政府の最優先課題」である為だと表明した。
一方、この事実を速報ニュースで知った市民は即座に反応した。早くも同日夜には、後にデモの中心となる首都キエフの独立広場に凍結撤回を求める人々が集まった。同時に、ここ数年ウクライナでも浸透著しいソーシャルネットワークもその機動性を発揮した。翌22日には、学生を中心とした組織が形成され、以降の反政権デモと革命の代名詞となる「ユーロマイダン[*2]」アカウントがツイッターやファイスブック上に登場する。
凍結表明後、はじめての週末にあたる11月24日の日曜日には数万人の市民が集まり、3ヶ月に及ぶデモの始まりとなった。
デモの拡大
続く翌週30日には、抗議集会を開いていた学生を中心とする約5,000人に対して政権側は強制排除に乗り出し、数十人の負傷者を出す事態に発展する。これを受けて12月1日には少なくとも30万人以上と言われる市民が野党勢力とともに抗議集会に参加し、大規模デモを形成した(正確な参加者数は不明だが、現地の人の印象によると2004年のオレンジ革命[*3]を確実に上回るとのこと)。さらに同日、独立広場に近いキエフの市庁舎と労働組合会館を占拠するに至った。
事態が深刻になる中、ヤヌコーヴィチ前大統領は財政支援を取り付ける目的で、中国訪問を決行する。その最中の12月4日には、歴代大統領3名による「EU統合路線」支持の連帯声明が表明された。また、8日には独立広場からも近い大通りに佇んでいたレーニンの銅像がデモ過激派によって引き倒されて破壊される。
[*1]11月28日〜29日、リトアニアのビルニュスで開催されたEU東方パートナーシップサミット時に調印予定であった。プロセスの段階は異なるが、11月29日にグルジア、モルドバは仮調印している。
[*2]今回のデモに際して発生した造語であり、「欧州広場」の意。ウクライナ語ではЄвромайдан。当初からメディアを含めて広く使用され、この言葉自体が抗議活動を含意するものとなった。
[*3]2004年の大統領選挙戦で、いわゆる「親欧米的」なユーシチェンコ第3代大統領と「親ロシア的」なヤヌコーヴィチ前大統領の両陣営が対決した結果、ユーシチェンコとティモシェンコを中心とする「オレンジ連合」側が勝利した一連の政変。
何とか打開を図りたい政権側は、デモを呼びかけている主要3野党の党首との円卓会議を模索する一方で、強制排除の責任を問うかたちでキエフ市長らを解任した。しかし、政権の退陣を求める野党側とは折り合いがつかないまま、独立広場周辺には日ごとに寝泊まり用のテントが立ち並び、廃材やタイヤでバリケードが築かれ、完全に長期戦の様相を呈する。こうして、ユーロマイダンは2013年の暮れを迎えることとなった。
年が明け、クリスマス(正教は1月7日)も過ぎた1月中旬になると、事態は再び動きはじめる。1月17日、ヤヌコーヴィチ政権はいわゆるデモ規制法案を議会で可決させ、デモ隊の封じ込めと排除が可能となる枠組みづくりに着手した。これに対して、野党側は激しく反発、19日には大規模デモの後、治安部隊との間で衝突が起こった。200名以上の負傷者を出したと見られ、22日には今回の騒動を通じてはじめて2名の死者が出る惨事になった。
欧米を中心とする海外からの批判やEU首脳の説得も相次ぐ中で、政権側も妥協を迫られ、25日には野党「バティキウシチナ」のアルセー・ヤツェニューク代表に首相、「ウダール」のビタリー・クリチコ党首に副首相のポストを打診することで懐柔を試みたが、両者ともこれを拒否。加えて、西部各州でも政府関係庁舎がデモ隊に占拠され、知事が追放されるなどの事態に発展、可決したばかりのデモ規制法案の撤廃を決定する。また、庁舎の明け渡しとの交換条件で、デモ隊拘束者に恩赦を与えるとの確約、しかし無条件恩赦を譲らない野党側はこれも拒否した。
2月に入っても状況は膠着状態にあり、都市機能が麻痺しかけている中、政権側はさらなる妥協策として、治安部隊によるデモ隊拘束者240名以上を釈放した。これによって野党側もキエフ市庁舎からの退去を開始する。しかし、実際のところ野党側は主要3党の中でも主張の違いがある上に、民族主義的な極右セクターと言われる集団がかなりのプレゼンスを示すようになっていた。つまり、野党指導者もデモ隊をすべてコントロールできる状態ではなくなっており、暴力的な衝突の一因となっていた。
それが顕著に現われるかたちになったのが、2月19日未明の治安部隊との衝突であり、双方合わせて死者26人、負傷者600人以上を出す惨事が発生する。事態収拾に向けて同日、政権側と野党側は「停戦」で合意を果たす。しかし翌日すぐさまこの合意が破られるかたちで再び40人以上が死亡する大規模な衝突が起こった。
欧米からの度重なる警告と非難にもさらされ窮地に陥った政権側は、2月21日、当初からの野党側の要求である、「大統領選挙の前倒し」や「大統領権限を大幅に議会に移す憲法改正」などの条件を受け入れた。ドイツ、フランス、ポーランドの外相の仲介によって合意文書に署名がなされ、事態は収束に向けて進展するかに見えた。
ところが、この頃には大統領の即時辞任を求める声も強く、極右セクターの間には野党指導者の妥協に対する不満も広まっていた。その気配を察知したのか、ヤヌコーヴィチ前大統領は同日21日未明にキエフを脱出、ウクライナ東部のハルキウに移動する。翌22日には大統領府や官邸、最高会議庁舎などからも治安部隊が姿を消し、野党勢力が流れ込むかたちでその管理下に入った。
ウクライナ最高会議(議会)は23日、大統領権限を野党側から選出されたトゥルチノフ議長に暫定的に移すことを決定する。与党の地域党からは数十人規模で離党者が続出し、野党主導の議会はヤヌコーヴィチ政権の閣僚を次々と解任していった。事実上の政権崩壊であった。
その後、27日には前述の野党指導者の1人、ヤツェニュークが新首相に指名され、27日の最高会議で承認された。また、大統領代行のトゥルチノフ最高会議議長は、5月25日に大統領選後を行い、その後に議会選を行う方針を発表する。一方で、ヤヌコーヴィチ前大統領は南部のクリミアを経由してロシアに入国、当地で開いた記者会見の中で「自分が依然としてウクライナの合法的な大統領である」ことを主張している。
以上のように、反政権デモはヤヌコーヴィチ前大統領側の対応や打開策がことごとく経路依存するように悪循環を繰り返しながらしだいに激化することで、平和的なデモから革命への発展を招き、結果的に自身と側近のキエフからの逃亡と政権の崩壊をもたらした。
近年の政治社会的な風潮
ここで、ウクライナにおける近年の政治社会的な背景について触れておく。近年さまざまな地域で頻発している反政権デモと同様に、このような政権への反発意識は一瞬にして沸点に達するものではない。ウクライナも例外ではなく、ヤヌコーヴィチ前大統領と与党「地域党」に対する慢性的な不満は市民の間で広く高まっていた。
2010年に政権の座について以降、大統領の支持率は概ね10〜20%台に落ち込み、与党地域党の支持率も同様に20%台で推移していた[*4]。これは政権の支持基盤である東部地域でも満足に支持を得られていないということを示しており、基本的に「全ウクライナ」で支持は低下していたと言って良いだろう。筆者がキエフに滞在していた昨年春から夏の時点でも休日には大規模なデモが度々開かれていた。
また、今回の革命後、即座に釈放されたユリア・ティモシェンコ元首相については、その逮捕収監時から、国内外で釈放を訴えるキャンペーンが行われていた。とくに欧米はこの逮捕が「政治的な動機に基づいている」として、一貫してヤヌコーヴィチ政権を批判してきた。後述するが、この「ティモシェンコ問題」は今回のデモの契機となる決断の要因の一つとなった。
また、ウクライナが従来から抱える政治社会の問題として、最近はメディアでも度々指摘されている東西分裂についても背景を述べておく。
ウクライナは、統計分布的に西部・中央部地域にウクライナ人が多く、東部・南部にロシア人が多く居住している。これは歴史的な経緯によるが、この事実によって使用言語や政党、政策などに対しては、各地域に偏った傾向が見られる。そして、この問題は大統領選挙や議会選挙のたびに争点として注目を浴びてきた。
ただし、この統計分布と投票結果に依拠して、「親欧米派」「親ロシア派」という概念を単純に当てはめることの危険性は指摘されている[*5]。実際は、物理的にも行政上も特に明確な分断線がある訳ではない。ましてウクライナのような国では、多くの人が複雑なアイデンティティを保持している。それにもかかわらず、このような単一基準のみを重視することは、他のアイデンティティを全て埋没させ、覆い隠してしまう。確かに、このような二者択一的概念は政治アクターにとってキャンペーンに利用しやすい。それ故に、ウクライナ国内の政治のみならず国際政治の上でも、作為的に形成され、誇張されてきた側面も考慮すべきだ。さらに言うと、西部と中央部、東部と南部は地域によって大きな差異がある上に(今のクリミアが例である)、最近の国政選挙では従来の傾向から変化が見られる地域もある。本来的にこの2項対立軸への集約はやはり適切ではないだろう。
[*4]ラズムコフセンター研究所、統計調査より http://razumkov.org.ua/ukr/index.php?
[*5]例えば、松里公孝(2014)「ウクライナ政治の実相を見誤るな」『ロシアNIS調査月報』1月号、社団法人ロシアNIS貿易会。
反政権デモはなぜ起こったか?
次に、反政権デモがここまで大規模なものとなった根本的な理由について分析を試みたい。直接的な理由はヤヌコーヴィチ政権による「EUとの連合協定プロセスの凍結」という選択であった。ただし、激しい反発を招いた理由は「選択」そのものに加えて、「選択の動機」によるところが大きい。
連合協定プロセスの凍結、その理由とは?
この決断の一報が入る瞬間まで、現地キエフの専門家や有識者の間でも連合協定は調印されるというのが基本的な論調であった。それが一転して「心変わり」である。ではなぜそのような決断に至ったのか、以下にその主な理由を述べる。
第一に、ウクライナの喫緊の課題は財政問題であり、2013年中に大型融資を得られ無ければ国家財政は破綻して、債務不履行に陥る危険性が指摘されていた。以前からウクライナは国際通貨基金(IMF)に支援を要請していたが、融資条件は緊縮政策の導入というヤヌコーヴィチ政権にとって受け入れ難いものであった。
また、EUからの支援についても、その条件は先に触れたティモシェンコ元首相の釈放という、これもまた受け入れ難いものだった。なぜなら、両条件はいずれも2015年2月に予定さている大統領選挙において、緊縮政策は国民に反感をもたらし、政敵ティモシェンコの釈放は強力なライバルの復活を意味するという、自身を不利な状況に追いやるものだからである。
第二に、EUとの連合協定締結は、透明性の高いEU基準の制度の導入を余儀なくされ、現地では「ファミリー」と呼ばれる自身と周囲の側近たちの資産や経済利権に影響が及ぶと考えられたからである。
他方で、ロシア・ベラルーシ・カザフスタンとの関税同盟に関しては、このような影響は考慮しなくてもよい。さらに財政問題に関しても、ロシアのプーチン大統領はこのウクライナに対して150億ドル(1兆5,400億円)の事実上の財政支援する方針を明らかにし、従来からウクライナが要求していた天然ガスの価格の値下げを提案したとされる。
結論を端的に言うと、ヤヌコーヴィチ政権は短期的かつ自らの権力維持の為に、国家の長期的な発展への道を閉ざしたのだ。ウクライナ国民の多くの目にもその魂胆は明白であり、結果的に大きな失望と憤りをもたらした。
ヤヌコーヴィチ政権への慢性的な不満
「マフィアを追い出せ!」。このスローガンは、独立広場でよく耳にしたスローガンである。かなりラディカルな表現だが、マフィアとはヤヌコーヴィチ前大統領とその「ファミリー」を指す。上述の通り、今回の反政権デモは「EUとの連合協定プロセスの凍結」という決断が招いたことは疑いない。しかもその決断の動機が、自らの権力基盤を維持したいが為であるという点は、国民の怒りに火を付けるに十分な理由だろう。
さらにここで強調したいのは、ウクライナ国民はヤヌコーヴィチ政権に対して慢性的な不満を抱えており、その積み重なりが上記の事象によって閾値を超えたという点である。ユーロマイダンのデモ参加者に対する以下の意識調査[*6]では、それが統計として示されている。
国民の意識としては「EUかロシアか」という争点も大事だが、それ以上に重要なのは「暴力、腐敗、独占にまみれた体制から脱し、法の支配と司法の独立が実践され、経済的にも豊かな将来」なのだ。だからこそ、その目標に少しでも近づく為に、ヨーロッパ選択は有効な手段として切望されたのである。
「ヨーロッパ選択」の継続性
次に、ウクライナがソ連からの独立以来、最優先課題として進めてきた「ヨーロッパ選択」という長期的な政策志向についても触れておきたい。
そもそも、ウクライナのヨーロッパへの統合路線は1990年代から志向され、EUの東方拡大の動きに伴い、ウクライナも徐々にではあるが一貫して統合ならびに将来に向けた加盟への取り組みを進めてきた。
当初は「親ロシア派」とされていた第2代クチマ大統領の時でも、実際には明確に「ヨーロッパ選択」という目標を打ち出していた。詳細な経緯については触れないが、志向の度合いに程度の差こそあれ、この路線はウクライナの歴代政権が継続的に目標として掲げており、今や断定的に「親ロシア派」にされているヤヌコーヴィチ前大統領についても、今回の決断に至るまで、基本的にはこの姿勢を踏襲していたという点には留意するべきではないか。
終わりに――現地の温度
現在のウクライナ情勢において最も懸念されている、クリミアでの軍事衝突や東西分裂という可能性に関して、当のウクライナ国民はどう捉えているのか。対立する勢力双方の過激な主張や行動は、もちろん当事者である彼らの真実の一つの側面だ。しかしながら多くの国民が、例えば西部の人々がロシアやロシア人を嫌い、東部やクリミアの人々がウクライナ人を嫌っているかというと、それは完全な誤りである。
ロシア系住民が多い東部でも過半数はウクライナ人であり、クリミアでも4割は非ロシア人である。ましてやソ連からの独立以来20年以上、彼らはそれぞれの地域で共に働き、生活してきた。分裂を煽る政治的言説がある一方で、今回の革命後、西部の中心都市リヴィウでは「ロシア語で話す日」を設けて東部にシンパシーを示した。ヤツェニューク新首相も、ロシア人やロシア語に最大限配慮する姿勢を表明している。ウクライナ・ロシア関係を問う統計調査[*7]では、「主権を有する友好国同士として、ビザや関税をオープンにした関係」を望むと答えた人は、地域、民族、年齢、支持政党の帰属を問わず、すべてのカテゴリーで6割を超える。現地の人々だけではなく我々のような外国人も、このようなポジティブな傾向に注目することは極めて重要だと考える。
最後に、昨年末時点での現地の温度について触れて本稿を締めくくる。「ウクライナに栄光を!」「英雄たちに栄光を!」。この掛け声は街中の至る所で、カフェで、地下鉄の車内で、行き違う人々が挨拶のように発していた合い言葉である。
今回のデモの象徴的場所である独立広場では毎日必ず国歌が歌われていた。何万人もの人々が一心に歌う姿は理屈抜きにして胸を打たれるものだ。「我らは自由の為に魂と身を捧げる、そして示そう、我ら兄妹がコサックの血を引く者であることを[*8]」。まさにウクライナが長きにわたって抱える闘いと苦悩の歴史、そして彼らの気概の所以を示しているように感じられる。クリミアでの今後の展開も含めて未だ事態は予断を許さないが、ウクライナ社会に安定が戻り、人々の暮らしがこれまでよりも良いものになっていくことを切に願う。
[*6]キエフ国際社会研究所、統計調査より http://www.kiis.com.ua/?lang=ukr&cat=reports&id=216&page=2
[*7]キエフ国際社会研究所、統計調査より http://www.kiis.com.ua/?lang=ukr&cat=reports&id=236&page=1
[*8]ウクライナ国歌「Душу й тіло ми положим за нашу свободу, І покажем, що ми, браття, козацького роду」の部分を引用(筆者訳)。19世紀に作られた曲でロシア革命後の1917年に国歌に採用され、ソ連時代の廃止を経て、ソ連崩壊後の1992年に復活した。
生田泰浩(いくた・やすひろ)
ウクライナ政治社会
慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程在籍。専門はウクライナ政治社会。ウクライナ地域研究。上智大学外国語学部卒業後、企業勤務を経て、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了(2012年)。
http://blogos.com/article/81968/
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