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7 3月 2014, 21:06
ウクライナ、ロシア、クリミアのこみ入った歴史[ロシアの声]
「クリミアがロシア連邦に入るというのは、何世紀にもわたって合一状態にあった領域が再び統一することを意味する。」
6日、クリミア自治共和国がロシア連邦の一構成体として編入を求める決定を行ったが、この決定に対し、こんなコメントが西側の専門家の口からも漏らされた。問題の歴史に対する偏らない見方がなされるということは、こうした評価が合法的なものであると確信することができる。
クリミア半島がロシア帝国に組み込まれたのは18世紀末。この併合でトルコやタタールの軍隊がロシア南部に繰り返していた破滅的な襲来に終止符が打たれた。ところが行政単位としてウクライナは存在しておらず、あったのは小ロシア(小ルーシ)のみ。これが白ロシア(現在のベラルーシ)と大ロシア(現在のロシア連邦)とともにロシア帝国の根幹を成していた。ウクライナという概念だけはすでに12世紀の段階で存在しており、これは文字通りロシアの土地のまわり(オクライナ、辺境の意)を示すものだったである。
行政単位としてウクライナが出現したのは1917年。ロシア帝国の崩壊後、レーニンの出した勅令によってだった。ウクライナ領は当時、現在よりもずっと小さく、これには、歴史的にポーランドやチェコ、ルーマニアに支配下にあったリヴォフを中心とする西部も、かつてロシア連邦の一部であった東部やクリミアも含まれていなかった。それが1945年、第2次世界大戦の終結後、長きにわたって諸外国の支配下にあった西部がスターリンによってウクライナに返還されたのだった。
1954年、ウクライナ出身のニキータ・フルシチョフがソ連のトップに着くと、彼はソ連の法的プロセスに背いてクリミアをウクライナ共和国に与えてしまう。
これは全く違法な措置だったが、フルシチョフには必要だった。1953年のスターリンの死後、激しさを増していたソ連の権力争いにおいて、ウクライナの党組織およびウクライナの行政エリートから支持を取り付けねばならなかったからだ。
ソ連市民にとってクリミアの地位が変わることは、当時はあまり大きな意味を持たなかった。なぜなら共和国の間に存在する境界は地図上の線に過ぎず、どこへでも何の問題もなく行くことができたからだ。だがロシア人が大半を占めるクリミアの住民にとっては、ウクライナ語の使用を押し付けようとするウクライナ政権の志向は、そう執拗ではなかったとはいえ苛立たしいものだった。これが問題化し始めたのは1990年代、ソ連崩壊後のことだ。
クリミアは当時、独立国となったウクライナの一部となってしまった。それでもクリミアは、旧ソ連の共和国の大多数を取りまとめる独立国家連合のメンバーとして活発な動きを展開していたため、ロシアとウクライナの間の文化、経済の結びつきは保たれた。
だがウクライナ指導部の中に、次第に反ロシア人的、反ロシア的な気運が高まる。これに影響していたのはウクライナ西部の出身者らで、この地域では昔から国粋主義者が幅を利かせていた。このほかに、ウクライナ領内にいる西側の外交官やおびただしい数のNGOの動きが影響した。これらはドイツの鉄血宰相ビスマルクの目指した形と完全に一致した、ウクライナをロシアに対抗する砦に変える路線をとっていた。ビスマルクの言葉とされるこんな記述が残されている。
「ロシアの威力を損なうには、それからウクライナを切り離す以外に手はない。切り離すだけでなく、ウクライナをロシアと対立させ、2つに分けた共通の民を、兄弟が互いを殺しあうように闘わせねばならない。
そのためには民族エリートの間に裏切り者を見つけ、それを増やし、それら助けを借りて偉大な民の一方の側の自意識を、無自覚にあらゆるロシア的なものを憎み、自分の一族を憎むまでに変えるだけでいい。あとはすべて時間の問題だ。」
1990年代末から2000年代の初め、ウクライナ政権はステパン・バンデラを賛美するキャンペーンを展開した。バンデラは超国粋主義者で、ナチスドイツの共犯者で排露派だった人物だ。バンデラの一味はウクライナの一般市民を殺し、強姦し、ポーランド人、ユダヤ人、ロシア人の大量殺戮を展開したが、これが「ウクライナ独立の闘士」として掲げられたのだ。
反ロシアのプロパガンダは西側外交の加担もなしに、近年激しさを増していた。圧力が増したのはクリミアの行政、議会、住民に対してもそうだった。クリミア半島は、ソ連崩壊後、ウクライナの一部として留まることへの補償として与えられた自治権をほぼすべて失った。クリミアでは、ウクライナ全土も同様だが、ロシア語への弾圧がますます強まり、ロシアとの文化、宗教、経済的関係を維持しようとするロシア関連の組織やロシア語を母語とする人の組織に圧力がかけられるようになった。
これがクリミア半島で60%以上を占めるロシア人たちの不満を呼んだ。特に憤慨を買ったのは、第2公用語としてのロシア語の地位を廃止する法律だ。これが2014年2月、憲法に反して行われたクーデター後、ウクライナ新政権が最初に採択した法律のほぼ筆頭に挙げられていたのだ。新政権は、「ロシア政府の手先である」ロシア系組織と闘うためにクリミアに国粋主義組織の武装戦闘員を送り込むと直接脅迫を吐いた。
「クレムリンの陰謀」ではなく、まさにこれがクリミアの市民の背中を押し、彼らはロシア連邦に助けを求めてきたのであり、何世紀にもわたってクリミアがその一部であったロシアに、一構成体として戻る道を考えさせてしまったのだ。
http://japanese.ruvr.ru/2014_03_07/268471004/
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