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三重県津市の沿岸部。今から500年以上前の地震で町は壊滅した
南海トラフの「先祖」明応地震の破壊力
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150213/dms1502130830005-n1.htm
2015.02.13 警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識 夕刊フジ
恐れられている南海トラフ地震。その「先祖」の大津波に襲われて、以後200年間も人が住めなかった港がある。
南海トラフ地震には13回の分かっている「先祖」がある。その先祖は大きさもいろいろあって、いちばん最近の東南海地震(1944年)と南海地震(46年)は先祖としては小さめのものだった。
それに比べて宝永地震(1707年)は東日本大震災なみの巨大地震だった。「先祖」は約200年ごとに大きなものが起きるのではないかという学説もある。
1498年に起きた先祖である明応(めいおう)地震は、とてつもない津波を生んだ。
津波でいまの三重県にあった日本三大港のひとつだった港町では、数千軒の家など町全体が跡形もなくさらわれた。そのうえ地形も変わってしまった。
この港は安濃津(あんのつ)。港町の復興は200年後の宝永地震以降にようやく始まったと考えられている。
大津波で壊滅して、歴史からも忘れられてしまった安濃津を発掘して調べようという試みが1990年代から始まっている。
発掘では大量の常滑(とこなめ)焼の陶器が見つかった。ここが愛知県・常滑や知多半島で作られた陶器の積出港だったことが分かったのだ。
また積み出し先だった北関東の北武蔵や上野(こうずけ)国などで、15−17世紀にかけて遺跡から常滑焼がほとんど出土しないことがナゾだったが、安濃津の壊滅のせいだったことも分かった。影響は関東など各地にも及んだのである。
この地震ではそのほか、内陸にあった浜名湖の南岸が切れて、海とつながった今の姿になった。
ところで明応地震での四国や紀伊半島での津波の高さや被害は知られていない。
この時期は応仁の乱以来、ずっと戦乱が続いた時代だった。地震についての詳細な記録を残すどころではなかったのだ。このため震源の広がりは分かっていない。
明応の大津波から学んで、その後500年間もの間、被害をほとんど出していない町がある。
それは津から60キロメートルほど南東にある志摩半島の国崎町だ。いまの三重県鳥羽市にある。ここでは津波は15メートルもの高さで襲ってきて大被害を生んだ。
この大津波のあと、国崎の住民は高台に集団で移転した。その後現在に至るまで500年の間、低地には戻っていない。
もちろん高台から浜に通わなければならない漁師は大変だ。しかしこのために、その後の宝永地震や安政東海地震(1854年)の津波では溺死者はほとんど出なかった。
安濃津はいまの三重県津市だ。東日本大震災のあと津波の怖さを思い出したのだろう。海際の土地の値段が下がり、高台の価格が上がったという。いまでも市街地を少し掘ると水が出てくるようなところもある。
かつて地震で壊滅したところにある県庁所在地は、日本でもここだけだろう。
■島村英紀(しまむら・ひでき) 武蔵野学院大学特任教授。1941年、東京都出身。東大理学部卒、東大大学院修了。北海道大教授、北大地震火山研究観測センター長、国立極地研究所所長などを歴任。最新刊に、本紙連載をまとめた『油断大敵! 生死を分ける地震の基礎知識60』(花伝社)。
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