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医師たちは何故足止めされたのか?−−阪神大震災の時、厚生省は何をしたか
1.寒い朝
寒い朝だった。明け方、神奈川県の私の家が揺れた時、何か、とてもいやな予感がした事を覚えて居る。間も無くつけたテレビが伝えたニュースは、私のその厭な予感を裏付けて居た。阪神大震災(1995年1月17日)の朝である。
その大地震が、東日本ではなく、関西の神戸で起きたと言う知らせに、私は、意外の念を覚えた。関西は地震が少ないと思って居たからだ。だが、やがて、テレビを通して伝えられる神戸の状況に、私は、その常識を破る大地震が起きた事を知らされた。それでも、その日は、連休明けの平日で、自分が勤務する病院に行かなければならないので、私は、早々に家を出た。駅の売店で雑誌を買い、その寒い朝の空気の中、いつもの様に、私は、病院に向かった。
病院に着くと、医局のテレビは、神戸で起きた地震の続報を次から次へと伝えて居た。後に、その神戸で起きた地震で、病院の同僚の一人が肉親を失う事を知るのであるが、その時は、まだ、そんな事は知らなかった。とにかく、神戸と言う予想もしなかった土地で起きた大地震の報に、その日は、心を奪われて仕事をする事と成ったが、その日の夕方、私は、院長室に足を運んで、或る申し入れをした。それは、自分の年休を使って行くので、神戸の医療活動にボランティアとして赴く事を許可して欲しいと言う要望であった。私のその言葉に、院長はうなずいた。だが、年休を取って神戸に行きたいと言った私に対して、院長は、「まあ待て」と言って、即答を避けたのだった。私には、その意味が呑み込めた。当時私が職員であったその病院は、厚生省(当時)直轄の国公立の病院であった。院長は、何か重要な事を決定する時には、常に、厚生省の判断を仰がなければならなかった。だから、この時も、院長は、はっきりそうとは言わなかったが、厚生省の判断を仰がなければ、大地震が起きた神戸に自分の病院の医者を行かせていいかどうか、即答できない事を、私はすぐに理解する事が出来た。だから、私は、「わかりました」と言って、院長室を引き上げたのだった。それは、その日(1995年1月17日)の夕方の事であった。
その日(1995年1月17日)の夜であったと記憶する。私は、都内で或る人に会った。神戸に深い関わりを持つ高名な作家である。神戸の空襲を生き延びた後、肉親の一人を神戸で失ったその人と私は、偶然にも、阪神大震災が起きた直後、都内で会う約束をして居た。その前年に知己を得て懇意にして居た人と、約束通り都内で会い、食事を共にした際、その人は、驚くべき事を口にした。当時、その作家は、或る雑誌にコラムを連載して居た。その連載されて居たコラムで、その作家は、神戸に大地震が起こったらどうするか?と言う趣旨の事を書いて、警鐘を鳴らして居たのだと言う。その人は、その「偶然」に自分自身が驚き、「あれは虫の知らせだったんだ」と、私に向かって、興奮した口調で語り続けた。私は、そんな事が有るものなのだ、と思いながら、その作家の言葉を黙って聞いた。そして、それから、自分は、なるべく早く、神戸に行って医療活動に参加したいと言ったと記憶する。私のその言葉に、その作家は、是非行って欲しい、そして、帰って来たら、現地の状況について聴かせてほしいと言った。
だが、私は、神戸に行く事は無かった。そして、私以外の私の病院(当時)の職員達の中で、医療従事者として神戸に駆け付けたいと希望した職員たちは、皆それを許されず、その日から永い間、神戸からの悲惨な報道をただテレビを通じて傍観する事を強いられたのである。
2.何故、厚生省職員は足止めされたのか?
地震発生から日を経るに連れて、神戸からの報道は、この震災が、尋常の震災ではない事を明らかにして行った。そうして、震災発生から1日、2日と日を経るに連れて、私は、震災発生の当日、院長室で院長に申し出た神戸での医療活動参加に対する許可を早く得たいと切望する様に成った。だが、院長にそれを尋ねると、「待て」の一言しか聞けない状況が続いた。震災発生から数日が経って、私は、一体、何故、神戸に行くことが許されないのだろうと?いぶかしく思い始めて居た。
1週間経っても、私の希望に対する答えは、なしの礫(つぶて)のままであった。その一方で、阪神大震災の被害の拡大は続き、神戸からは、悲惨な光景が連日報道され続けた。そうした現地からの報道の中で、私が、特に胸を痛めたのは、震災地神戸における医療状況の深刻化であった。震災直後から、神戸では、震災による多数の負傷者の発生と、医療機関自身が受けた被害から、医療活動は、困難を極めて居た。それは、日を経て、益々深刻化して居る様に思われた。現地の病院では、おびただしい数の負傷者、被災者が次々に医療機関にかつぎ込まれる一方で、医者や看護師が足りず、医師や看護師たちの疲労が、極限に達して居ると言う報道も聞かれる様に成って居た。そんな報道を毎日聞きながら、私は、苛立ちを覚えた。神戸でそんな状況が続いて居るのに、震災発生当日に神戸行きの希望を上司に伝えた私に、病院上層部が返す言葉は「待て」の一言だけで、ただ、空しく日が重ねられて行くばかりだったからである。しかも、神戸行きが許されない理由の説明も全く無いのである。一体、病院上層部とその更に上に在る厚生省は、何を考えて居るのか?私はいぶかしんだ。だが、10日以上が経っても、その状況は変わらなかった。
その内に、私は、私と同様に、多くの国立病院及び国立療養所の職員が、私と同様、神戸に急行して医療活動に加わりたいと希望して居る事を知った。病院の同僚たちから、そう聞かされたのである。私が勤務するその病院にも居た。ところが、皆、許可が下りず、神戸に急行する事が出来ないで居ると、私は、聞かされたのだった。私は、更に苛立ちを覚えた。だが、状況は変わらず、院長からは、何も説明を聞かされず、2月が目の前にやって来て居た。
そうして、1月は終わりに近づいた。その頃に成って、私自身は、予期せぬ個人的な事情から、神戸に行く事が難しく成ってしまった。そして、2月と成った。2月に入ってからは、記憶では、自分の同僚の中に、神戸に行く事を許されて、自分の職域での活動をする為に成った。だが、震災発生(1月17日)から、既に2週間以上が経って居た。もちろん、その時点では、その時点にすべき事が多々有った。だから、2週間以上が経ってからでも、厚生省職員である国立病院・国立療養所の職員達が、神戸に駆け付け、医療活動に参加した事は大いに意義が有った。だが、それでも思わずに居られなかった事は、何故、震災発生(1月17日)直後に、国立病院や国立療養所の医療従事者たちが、いの一番に神戸に急行する事が許されなかったのか?と言う疑問である。その疑問を、私は、20年間、考え続けて来た。
3.或る外科医の悔い
阪神大震災から、4年くらい経った頃と記憶する。私が勤務して居たその厚生省直轄の病院で、或る外科医による講演会が催された。その外科医は、関東地方の或る厚生省直轄の病院に長年勤務し、退職して間も無い整形外科医であった。臨床家として、尊敬を集めて来たその外科医は、退職を機会に、私が勤めた居た病院を訪れ、外科医としての自分の歩みを私たち病院職員に聴かせてくれたのであった。講演の内容は、その外科医の優れた力量と温厚な人柄を反映して、非常に有意義な物であったが、講演の最後に、質疑応答の時間が設けられた。そこで、私は手を挙げ、その外科医に質問をした。私の質問は、阪神大震災の際の医療活動についてであった。
私は、阪神大震災の際、厚生省直下の国立病院・国立療養所で、多くの医師たちが、直ちに被災地に行く事を希望したものの、すぐに神戸に行く事が許されず、その一人であった自分は、とても悔しい思いをしました。先生は、あの時の事をどうお思いに成りますか?と言う意味の質問をしたのだった。
すると、その外科医は、「私も、悔しい思いをしました」と答え、文字通り、唇をかみしめる様な悔しさにあふれた表情を浮かべた。そして、質問した私の顔をじっと見つめてくれた。ところが、その時、予期せぬ事が起こったのである。私のその質問に、その外科医が答えて居る最中に、講演の司会をして居た当時の私の病院の院長(阪神大震災当時とは別の医師)が、大きな声で、「それでは、これで終わりに致します」と言って、その質疑応答を打ち切ったのである。
それ切りであった。その経験豊かな優れた外科医の阪神大震災時の医療に関する言葉を更に聞きたかった私は、司会者である院長(当時)に質疑応答を中断されて、それ以上、何もその外科医の言葉を聞けない事と成ったのである。私は驚いた。そして、驚くと同時に、その時、三つの事を確信した。それは、やはり、阪神大震災の際、厚生省直轄化の国立病院・国立療養所の医師たちは、震災直後に被災地に行きたいと切望して居た事、それにも関わらず、何らかの理由で、医師たちは震災直後に神戸に急行する事を許されなかった事、そして、司会者であったその当時の院長の反応が示した様に、この問題は、厚生省直下の医療機関では、「触れてはならない」事柄に成って居ると言う事であった。その時の司会者であったその院長が、質疑応答を中断させた時の強い口調と表情を、私は今も良く覚えて居る。
4.厚生省は、何を恐れたのか?
私は、ジャーナリストではない。だから、阪神大震災の時、厚生省直下の病院で働く医療従事者たちが、震災直後に神戸に行く事を許されなかったと言うこの不可解な対応の理由をジャーナリズムの手法で調査した事は無い。本当はするべきなのかも知れない。だが、とにかく、その理由を厚生省(当時)に問い正すとか、情報公開を求めるとか言った「調査」をした事は無い。それでも、私は、あの時の悔しさを忘れる事は出来なかった。その悔しさを出来ないまま、その後の20年間を医師として生きて来た。
東日本大震災(2011年)発生の時、私は、もう別の病院で勤務して居た。そこでは、そこに居る自分の患者が余りに多く、しかも医師が足りない状況であった為、東日本大震災の被災地に行く事は、始めから不可能であった。だが、当然のことながら、東日本大震災が起きた時、私の脳裏には、阪神大震災の時の、あの苦い思い出が浮かんだ。そこで、東日本大震災が起きて間も無い頃、厚生省直轄の或る国公立病院で高い位置に在った在る医師に電話をして、厚生省とその下に在る国立病院・国立療養所がどう震災に対応して居るかを尋ねてみた。(正確に言えば、2011年には、国立病院・国立療養所は、独立行政法人・国立病院寄稿と言う名の組織に変わって居た)
すると、その医師は、電話の向こうで、「あの時とは違います。」と言う答えをしてくれた。少し嬉しかったが、この医師が電話で言ったこの答えは、裏を返せば、その医師も、阪神大震災の時の厚生省及びその管轄下の病院の対応がまずかった事に同意して居る事を意味して居た。
矢張り、阪神大震災の時、厚生省直下の国立病院・国立療養所に居た医師たち及び他の医療従事者たちは、私と同じ事を感じて居たのである。一体、あの時、阪神大震災発生直後に、私たちは、何故、神戸に急行する事が許されなかったのだろうか?私などは、もちろん、非力な医者である。しかし、震災発生直後、神戸の医療機関では、殺到する負傷者に対する医師、看護師の数が足りず、その人手の足りなさから救えなかった命も有った筈である。そこに、たとえ私の様な非力な医者をも含めて、少しでも多く、医師や看護師やその他の医療従事者が投入されて居たら、救える命は有ったに違い無いのである。それなのに、あの時、何故、厚生省直下の国立病院・国立療養所の医師たちは、直ちに神戸に急行する事が許されなかったのだろうか?
私のその問いに対して、或る推測を述べた人が居る。厚生省関係者ではない。又、医師でもない人だが、阪神大震災から数年が経った或る時、私のこの話を聞いて、その人が、こんな事を言ったのである。「それは、労災が発生するのを恐れたんじゃないでしょうか。」多分そうですよ、とその人は言った。あくまでも推測である。しかし、その人は、私の話を聞いて、厚生省(当時)は、厚生省職員である国立病院・国立療養所の職員を震災直後の神戸に行かせた場合、労災が発生する事を恐れて、震災直後に神戸に行く事を認めなかったのではないか?と言ったのであった。
「そうだったのだろうか」と私は思った。一つの推理に過ぎないが、その可能性は有ったと、私は思って居る。だが、そんな事を言い出したら、災害医療など不可能ではないか?消防署や警察や自衛隊の職員は、震災発生から間も無い時期に神戸に行って居る筈だ。それなのに、厚生省職員である国立病院・国立療養所の医師や看護師が、直ちに動かなかったとしたら、こんなおかしな事は無いのではないか?私はそう思ったし、今もそう思って居る。本当の理由は、当時の厚生省幹部しか知らないのであるが。
5.厚生省と災害医療
私は、1990年から2000年までの11年間、その厚生省直下の病院で医師として働いた。素晴らしい同僚たちに恵まれて働いたその11年間は、自分の人生の宝である。そして、誤解をして頂きたくないので言うが、厚生省の末端職員として働く中で、厚生省(当時)と言う官庁について、立派だと思う点も有ったのである。しかし、時として、厚生省とその管理下に在る国立病院・国立療養所を運営する管理者たちの行為に強い疑問を持つ事や、或いは納得できないと思う事も少なからず在った事は事実である。ここで語って居る阪神大震災の際の厚生省およびその管理下に在った病院の対応はまさにその一つであるが、他にも、類似して居るとも言える事例が在った。
その一つが、湾岸戦争(1991年)の際の対応である。1991年に湾岸戦争が勃発し、これが短期間で終結した後、日本政府は、「国際貢献」の一つとして、国立病院の医師たちをクウェートなどに派遣する事を検討した事が有った。私は、湾岸戦争終結直後に、この事をラジオのニュースで知った。そして、そう言う事が在るのならば、自分もそうした医療活動に参加したいと考え、院内でそうした告知と募集が有ると予想し、それを待った。ところが、ラジオで聞いたその話について、院内では、いつまで経っても何も話が出なかった。不思議に思った私は、当時の院長に「湾岸戦争後の医療活動に国立病院の医者を派遣すると言う話が有りましたが・・」と言って、この話がどう成ったのかを尋ねてみた。すると、驚いた事に、院長は、「ああ。あれは断った」と一言言って、その話がとっくに終わって居る事を私に告げたのだった。
湾岸戦争後の医師派遣については、私だけではなく、私の同僚にも、可能ならば参加したいと言って居る医師が居た。ところが、私やその医師には一言も打診をしないまま、院長は、「うちは出せません」と言って、それを断って居たのである。病院業務に比較的ゆとりが在ったあの時(1991年春)ならば、私の居たその病院は、海外の医療活動に医者を出す事は出来た。
だが、現場の医者には一言も相談しないまま、管理職である院長は、医師の派遣を一言で断って居たのである。これは、厚生省の本省ではなく、各病院の管理者の問題であったかも知れない。だが、こうした「面倒な事には関わりたくない」と言う姿勢は、それから4年後の阪神大震災の際、神戸への医師の派遣が遅れた事と通じる厚生省とその管轄下の病院の負のエートスではなかったかと、私は思うのである。
更に、1990年代後半に、日米防衛協力のガイドライン見直しが行なわれた際にも、同様の事が在った。この際は、全国の国立病院・国立療養所に、有事の際の医療に協力できるか?と言うアンケートの様な調査が行なわれたのだが、例えば、「英語の診療は出来るか?」と言った設問に対して、アメリカ留学の経験も有り、英語に堪能な筈の病院幹部が、「こう言うのは、出来ないと言っておくに限る」と言って、「出来ない」と回答すると言ひ、「うちは何も出来ない」事を強調しようとして居た事を良く覚えて居る。要するに、災害医療を始めとする「有事」の医療に対して、少なくとも私が勤務していた時代の厚生省直下の医療機関は、全く持ってやる気が無かったのである。これには、当時進行して居た国立病院の縮小、独立行政法人化も、何らかの形で影響して居たのかもしれないが、とにかく、管理職達の間にこうした「文化」が在ったからこそ、阪神大震災の時の医師派遣の遅れも起きたのだと、私は思って居る。
阪神大震災に話を戻せば、この医師派遣の遅れが、厚生省の高いレベルの意向による物だったのか、それとも、厚生省管理下の各病院で、院長レベルの管理者たちが及び腰だった結果、派遣が遅れたのかは私には分からない。だが、誰の決定であったにせよ、神戸への厚生省職員の派遣が遅れた事だけは事実である。
こうした厚生省(当時)の対応の悪さを思い起こすと、私には、東日本大震災の際、意思決定のまずさが一因と成って、多くの子供たちを津波の犠牲にした大川小学校の教員たちと阪神大震災の際の厚生省が重なって見えてしまうのが、この比較は不公平であろうか?
6.災害医療の向上を願って
公平に言おう。阪神大震災直後には、それでも、一部の厚生省職員が、早い時期に神戸に急行して居る。それが、上司の許可を得た物だったのか、或いは独断で行ったものかは分からないが、例えば。早い時期に、神戸に急行した放射線技師などが、厚生省管理下の病院職員の中に居た事は把握して居る。又、医師の派遣が遅れたとは言え、厚生省はもちろん、手をこまねいて居た訳ではなく、震災に対して対策を講じて居る。更には、阪神大震災の反省を踏まえて、DMATと呼ばれる災害医療チームを立ち上げる事に厚生省が努力した事ももちろん評価されるべきである。その後の日本の災害医療は、確かに、阪神大震災当時よりも改善された点が多く、そこに厚生省(当時)と厚労省の努力が在った事は認める。
だから私は、決して、厚生省及びその後の厚生労働省が阪神大震災後にして来た事を全否定して居る訳ではない。繰り返すが、阪神大震災の後、厚生省(及び厚生労働省)が、災害医療の在り方について、一定の努力をして来た事は認める。
だが、改善されて居ない事も有る。又、更に言えば、当時よりも悪化して居ると思う事柄も有る。先ず、改善されて居ないと思う事は、意思決定の在り方が、当時も今も定まって居ないと言う事である。これは、私個人の意見ではなく、私が知る災害医療に精通した医師などが阪神大震災と東日本大震災に共通した問題として指摘して居る問題である。この医師は、過去に、阪神大震災と東日本大震災の双方において、震災直後の医療の裏側を垣間見た人である。そして、現在、非常に高い地位に在る医師であるが、この医師は、東日本大震災においても、阪神大震災の時と同様、意思決定の在り方が全くなって居なかったと、私が阪神大震災の際の私の体験を語った際に言って居る。思えば、私を含めた厚生省直轄化の医療機関の医師たちが、直ちに神戸に行く事が許されなかったのも、この「意思決定の混乱」の一つであったと言う事が出来そうである。更に、阪神大震災と東日本大震災の双方での日本の災害医療の裏表を熟知するこの高い地位に在る医師は、東日本大震災での自らの経験を踏まえて、「病院を建てるとか、ヘリコプターを活用するとか言う事より、もっと大事な事は、コミュニケーションなんだ。コミュニケーションの在り方が、全然成って居ないんだ。」と言って、日本の災害医療の在り方を批判する。
そして、阪神大震災当時よりも悪化して居ると思う事は、日本の医療の質が、全般的に劣化して居る事である。医学は進歩して居る。だが、現実を無視した医療費抑制政策と様々な社会状況から、全国的に、内科や外科の医師が減って居る事、高齢化の影響も有り、全国的にベッド数が不足して居る事、医療制度の複雑化により、医師や看護師が書類作成などの雑用に追われて居る事など、日本の医療状況は、20年の時を経て、阪神大震災当時(1995年)より明らかに劣化して居るのである。それが、大震災を始めとする災害発生時にどの様に影響するか、私は心配でならない。
更には、これは意外に聞こえるかもしれないが、私は、電子カルテの普及が、大地震などの災害時にどう影響するか、懸念を抱いて居る。電子カルテの普及をはじめおする医療のIT化は、確かに、一面において医療に良い影響は与えて居る。膨大な紙カルテやレントゲン・フィルムなどを電子化する事でコンパクトにし、更に、情報の共有化を可能にした点などで、電子カルテは大いに貢献して居る。しかし、その反面、入力操作の煩雑さなど、カルテの電子化が、実は、医療現場の非効率化を招いて居る面が有る事を、一般の皆さんは知らない事と思う。更には、大地震などでコンピューター・システムが機能しなくなった場合、それを紙カルテに切り替えて救急医療を行なう事が、スムーズに行えるかどうかは、未知数である。そうした意味で、電子カルテの普及が、大災害発生時には、意外に医療活動に負の影響を与える可能性を私は、密かに心配して居る。
もう一度言うが、私をは、厚生省及びその後の厚生労働省が阪神大震災後にして来た事を全否定して居る訳ではない。そして、あの時、不眠不休で震災に対応した官僚が沢山居たであろう事も疑わない。しかし、あの時、テレビの映像を通じて、神戸の人々が悲痛な思いをして居る状況を目のあたりにしながら、足止めをされ、すぐには神戸に行く事を許されなかった医者の一人として、それを「何故」と問わずには居られないのである。そして、あの時、国立病院・国立療養所の医療従事者たちの悔しさを封じ込めたまま、阪神大審査20周年の日を迎えたくはない。この小文を書く動機も、その悔しさを厚労省の若い職員を含めた多くの人々に共有してもらう事で、日本の災害医療を少しでも改善、向上させたいと言う私の願いである。決して、他意は無い。私は、それが、私に出来る阪神大震災の犠牲者たちへの供養だと思うのである。
この小文を阪神大震災の犠牲者達の霊に捧げる。
平成27年(2015年)1月17日(土)
阪神大震災20周年の日に
西岡昌紀(内科医)
(転載歓迎:全文をコピペして転載、拡散して頂けたら幸いです)
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