01. 2014年12月27日 19:10:22
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『オランダ・ハーグより』特別編 「カオラック再訪」 ■ 春 具 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 『オランダ・ハーグより』特別編 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ちょうど10年前の2004年の暮れ(12月26日)、スマトラ沖でおきた地 震によってインド洋沿岸地域におおきな津波が押し寄せたことを、読者は覚えてい るだろうか。当時、我が家の娘が通っていたハーグのアメリカンスクールのアルレ ット・ステイプ先生夫妻が休暇でタイを訪れていて、カオラックの村であの津波に 遭遇した。災難からほぼ二日、彼女たちはカオラックをうろうろしたあげく、多く のタイ人に助けられて帰国したのであるが、そのことを書いたアルレットさんの手 記を、わたくしはJMMに紹介したことがありました(第104回『カオラックのひ とたち』2005年1月7日)。先日、わたくしは先生とこの話をしたのですが、 あれから10年たった今、被災の記憶はいまでも生々しいと彼女は言っていた。わ たくしもいろいろ考えたのであるが、それを論じる前に、まず、彼女の手記『カオ ラックのひとたち』を簡単におさらいしておきましょう。 ・・・・・ わたしたち夫婦はプーケットから90マイルほど離れたカオラックのリゾートに 泊まっていたが、クリスマス翌日の朝、10時ごろやっと起きだして外を見ると、 浜は潮がひいて広い浅瀬になっており、ひとびとが貝を拾ったり散歩したりして いた。カリフォルニアに住んだことのある夫はそれをみて、おかしいな、海がこ んなに引くことはないぜ・・・ とクビを傾げた。と思う間もなく、轟音がして 沖から大波が押し寄せてくるのがみえた。わたしたちはホテルを飛び出し、高い 丘の上に逃げた。水はみるまに海岸線を越えてわたしたちのホテルを覆い尽くし てしまった。丘の上でわたしたちは親からはぐれたリサという少女、マルレーン とニーナというドイツ女性と知りあった。 しばらくして丘を下りてみたら、波が引いたあとのホテルはめちゃくちゃになっ ていた。あたりをうろついているうちに夜がやって来た。浜辺のスナックスタン ドで、イドと言うタイの女性がわたしたちにタイ・カレーを作ってくれた。彼女 は家族が行方不明だったが、肉親を捜すよりさきに、わたしたちに暖かい食事を 作ってくれたのだ。わたしたちはこのような信じられない親切をあちこちで受け た。 カレーを食べながら、わたしたちは津波の経験を披露しあった。ある男性は死人 の山を歩いていたら、倒れている女性の鼓動が聞こえた気がしたので駆け寄って 人工呼吸を施したと話してくれた。ふっと気がつくと彼女は死んでいて、鼓動に 聞こえたのは彼の心臓だった。そんな話ばかりが続き、わたしはもうそれ以上聞 きたくはなかった。 翌日になってバス停まで行くと、停留所には数人の外国人が空しそうにバスを待 っていた。だれもが裸同然の恰好をしているのに、わたしたち夫婦だけが服を着 てスーツケースをもっていた。わたしはなんだかじぶんたちがバカに思えた。バ ス停のそばの家族が風呂を使わせてくれ、わたしはリサとお湯につかりながら、 この子は孤児になってしまったんだろうかと、ふと考えた。 やっとバスが来て、それから8時間をかけて、空港には朝早く着いた。大使館や 領事館へ駆け込んだ人たちはパスポートの再発行に半日かかったと言っていたが、 わたしたちの経験は反対だった。タイ航空のひとたちがパスポートやチケットを 用意してくれ、どこへでも電話をかけさせてくれた。わたしたちは暖かい食事を 食べて新聞を読んだ。わたしはテレビを見ながら、BBCにメールを書いた。書か ずにはいられなかったのだ。津波に襲われて以来、タイの人たちはわたしたちに 心底よくしてくれた。肉親が行方不明だというのに、彼らはまずわたしたちの心 配をしてくれていた。そのことをわたしは忘れない。そしてそのことをわたしは ヨーロッパの人たちにも知って欲しかったのである。 空港でみんなとさよならを言っているときに、リサのお母さんが生存しているこ とがわかった。ニーナがリサのおばあさんに電話をかけたらそちらにお母さんか らも連絡が行っていたというのだった。わたしたちは空港が壊れるくらい喜びの 大声を上げた。 オランダに戻ってきたら、わたしたちの話はおおきなニュースになっていて、 BBCやオランダの放送局・新聞がインタビューにやってきた。寄付のオカネも届 くようになって、わたしはそれらをまとめてイドのスナックへ送った(政府や団 体に送ると、途中で滞ったり紛失したりするのだ)。 わたしたちはあの津波からまったく無傷で帰ってきた夫婦である。わたしたちほ ど幸運だったカップルはいない。津波では、あの海岸で亡くなったひとだけでも 8千人を越えたという。わたしたちは生きていて幸せだと思っている。同時に、 わたしたちほど運のよくなかったひとたちのために思いをよせたいと思っている。 わたしはみなさんにタイへ旅行に行って欲しいと念じている。わたしたちが旅行 することで彼らに仕事ができ、生活が立ち直っていくと思うからである。 ・・・・・ オランダに帰国してからアルレットさんは、救済支援のファンド・レイジングを はじめました。義侠心ではない。タイで受けた親切に報いたくてはじめたのです。 協賛するひとも多くいて、一日で2万ユーロを集めることもできた。そして彼女は それをイドへ送り、被災孤児のためのあたらしい学校つくりにつかってもらうこと に決めたのであります。さらに、アルレットさんはその学校で「ESL English as a second language 第二外国語としての英語プロブラム」を設計し、将来子供たち が観光事業に携わることができるよう手伝いをはじめたのです。 一年後、アルレットさんはふたたびカオラックを訪れました。浜辺はすっかり再 開発されて(ほとんどは地元民とボランティアでおこなわれたという)見違えるよ うなリゾートになっていた。もちろん、復興は一直線になされたわけではなく、時 間もかかったし曲折もあり、寄せられた支援の矛盾という思いがけない問題も表面 化してきていました。海上には外国から支援で持ち込まれたおびただしい数の漁船 が浮かんでいたが、この村の漁業にはこんなにおおくの漁船はいらなかったのであ る。漁民が船の数ほどいないのであった。援助支援は、ときに地元のニーズにかま うことなく押し付けられる。善意の押し売りは復旧の邪魔となることもあるのであ ります。それに、ツーリストの影もまだまだすくなかった。この地方は観光があっ てはじめて成り立つのだが、世界はまだ怯えたままカオラックに近づこうとしてい なかったのであります。 ひとびととの出会いをとおして、アルレットさんは支援にさまざまなアングルが あることを知った。たとえば、被災地のカオラックにはビルマの労働者が多くいた ことで、彼女たちの支援金は難民キャンプに住むビルマ人の子供たち(孤児も含む) の教育プログラムの重要性が理解され(タイに住むビルマ人は、ときおり差別の対 象になっているという)、また、ビルマ人と並べてみるのではないけれど、飼い主 を失った動物の保護も支援が必要なひとつであった。彼女たちの寄付金は野良犬た ちの保護団体にも使われたのでありました。 だがこのあたりを潮に、アルレットさんはタイに行くことをやめた。手伝ったプ ログラムは自己回転をしているし、生き延びたひとびともそれぞれ生活をとりもど し、国も元気になってきたのだから、もういつまでもわたしが行く必要はないと思 うのよ、とアルレットさんは言う。飛行機代を払いつづけるより、それは寄付にま わしたほうが合理的だとも彼女は言った。 「でも、そのことはわたしの記憶からあの津波が消えたということではないのです」 アルレットさんはしばらくのあいだ、津波の経験からきたトラウマを抱えて暮ら した。心の中はバラバラになったというのです。それはいわゆる「survivor's guilt」 すなわちじぶんだけ助かってしまったという「生存者の罪悪感」とは違う。それは、 あのとき、となりにいたひとに手をさしのべることをしなかったという慚愧の念で あった。「これから妻を捜しにいくという男性に出会ったの。そのとき彼は裸足で、 それに足を引きずっていたんです。わたしたちのスーツケースの中には代わりの靴 が幾足も入っていたの。それなのに、わたしたちはその一足を裸足のひとに分けて あげなかった。彼は足を引きずりながら、妻を捜しに去っていったわ。ケチったと いうのではないのよ。でも、あげなかったというそのことはずっとわたしを苛み、 わたしはとうとうオーストラリアまでこの男性を捜しにいったのよ」アルレットさ んはこの男性に会うことができたのだけど、彼の妻は津波にさらわれて死亡してい て、あらたな人生を歩もうとしている彼にアルレットさんの靴の話はわけのわから ない話だったようだった。だが、この一事は彼女にとって心にささった刺のような ものだったというのでした。「もう一度こんな緊急事態を経験することがあったら、 けっしてあとで後悔しないような行動をとろうと思う」と彼女は言った。 国の歴史や個人の人生にはときとして、石原慎太郎氏や村上春樹氏が「歴史の分 水嶺」とよぶ、乗り越えなければならない劇的な事件が訪れます。戦争のはじめと 終わり、経済恐慌、テロリストアタックなどはその後のわたくしたちの行き方・生 き方を変えてしまうが、タイやインドネシアのひとびとにとって、あの津波はその ような分水嶺のひとつだっただろう。 おなじように、東北の津波と原発事故はわたくしたちにとってひとつの分水嶺で あったでしょう。JMMにはMRICの記事が不定期に載っています。だがいま、わた くしたちのどれだけが、あれを読んでなにかを考えているだろう。2011年の津 波はスマトラ沖に劣らない悲劇であったし、さらに原発の崩壊というおまけが加わ ったというのに、たった三年であの経験はわたくしたちの関心からフェードアウト しようとしている。さきごろの選挙で国のリスク管理がまるで争点にならなかった というのも、わたくしは外国にいるからそう思うのかもしれませんが、すこし不思 議であります。わたくしの友人は、おれたちはのど元過ぎれば熱さを忘れる国民な のさと言ったが、辛いことはさっさと忘却して先へ進もうというのももちろんひと つの見識かもしれないけれど、あの災害を乗り越えるべき山並みととらえることが ない政治家たちは、我が国をどこへ持っていこうとしているのだろう、と考えてし まう・・・。 またメディアを思うに、普通のひとが普通に生きていくその生き様とか、その周 辺の親切とか善意とかはあまりニュースにならず、メディアが耳を傾けることはあ まりないようであります。ニュースマンは加害者を断罪するのは好きだけれど、被 害にあったひとびとを精密に報道することはあまりない。報道があるとすれば、気 の毒な姿をメロドラマ的に映し出すだけだ。 けれども、危機に襲われたとき、分水嶺を乗り越えていくのは政治を司るひとび とではなく、その普通の人たちなのだ、とわたくしは思うのです。ひとを貶めるこ とに熱心なメディアにとって、被災地の静かな進歩は退屈な風物詩にすぎない。そ れよりも対応を誤った政権を攻撃したり、放射能をまき散らしてアタマをたれてい る会社の上層部とかに噛みつくほうがよほどおもしろく報道のし甲斐があるのだろ う。メディアは正義の味方なのだ、とでも言うように・・・。 けれども、静かなニュースであっても、被災した人たちには顔があり声がある。 被災者は、被災したからというだけで「被災者」とひとくくりにはできない、それ ぞれに個性を持っている人たちなのであります。世界中のニュースでスマトラ沖地 震10周年のプログラムをつくったのは、わたくしの知るかぎりではBBCだけであ ったが(もちろん、インドネシアやタイではあったでしょうけど)、そこでは父親 が溺死したあと生まれたために父の顔を知らない10歳の少女とか、8歳だった少 女がいまではハイティーンになってオフィスで働いているところとか、10年の歳 月がもたらした復興の姿がまとめられてありました。 メディアがとりあげないから、政治の争点にならない。政治家がとりあげないか らメディアも書かない、見せない・・・。そのうちにわたくしたちも喉を過ぎた熱 さを忘れてしまう・・・。それでは、歴史から学ぶことはなにもないではありませ んか。 ま、そんなことをここで怒っても仕方のないかもしれませんが、アルレットさん の話を聞いてきたあと、これまで読んできた MRIC の(いまでは地味に思える)記 事を思い出しているわたくしとしては、センセーショナルな喧噪に踊るのでなく、 静かな報道にもっと耳を傾けるなら、このつぎの危機に際してあのような無様な対 応は避けることができるんだろうな(JMMの価値というのはこういうあたりにある のかもしれませんけど)と思ってしまうのであります。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 春(はる) 具(えれ) 自由学園、獨協大学、国際基督教大学院、ニューヨーク大学ロースクール卒。19 78年より国際連合事務局(ニューヨーク、ジュネーヴ)にて人事部と安全保障理 事会・イラク賠償委員会に勤めたあと、2000年より化学兵器禁止機関(オラン ダ・ハーグ)にて訓練人材開発部長・人事部長。2010年退官。現在、オランダ ・ハーグに在住。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ JMM [Japan Mail Media] No.825 Extra- Edition ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【発行】村上龍事務所 【編集】村上龍 【発行部数】92,621部 【お問い合わせ】村上龍電子本製作所 http://ryumurakami.com/jmm/
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