08. 2014年10月10日 06:57:12
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「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明」 デフレの国に来る台風のインフレ化2014年10月10日(金) 小田嶋 隆 台風が接近しつつある。
10月9日正午現在の気象庁の発表によると、台風19号のスペックは、中心気圧900hPa、中心付近の最大風速60m/s、暴風域は200km、強風域が北側500km南側330kmということになっている。 なかなか印象鮮烈な数字だ。 先週末から今週のはじめにかけて日本列島を通過した台風18号は、「過去10年の台風の中でも最大級の勢力」と言われていたわけだが、今回の19号は、さらに将来を嘱望されている。 現段階では、「特別警報級の台風」という扱いが一般的だが、媒体によっては、「2014年に地球上で発生した最強の台風」ないしは「壊滅的被害を与えた『ハイエン』に匹敵する台風」ぐらいな言い方で、その規模と強度を喧伝している。なるほど。こっちの方が迫力がある。 強さの表記でも、たとえばネットメディアは、単純な最大風速ではなくて、よりインパクトの強い「最大瞬間風速85m/s」の方を採用していたりする。 昔からそうだが、東シナ海を北上中の台風については、五輪開催前のメダル予想と同じく、「可能性を最大に見積もった場合」の影響を基準に、さまざまな予測が展開されることになっている。 「このまま中心気圧を維持した状態で、最も東寄りのコースを取った場合」 とかなんとか、われわれは、そういうお話が好きなのだ。 「ホンダさんが絶好調かつカワシマに神が降りてきてる状態で、なおかつファルカオとバッカのケガが治らず、雨上がりでショートパスがつながりやすい展開だったら、これはもしかすると……」 と、私自身、ついしばらく前、そんな夢を見ていた気がする。 それはそれとして、ここへきての気象に関する形容のインフレ化は、いかがなものなのだろうか。 今年にはいってから、「特別警報」というワンランク上のスーパーグローバル警報が設定されたこともその気象関連用語誇大化傾向のあらわれだと言えば言えるし、今年になって気象情報の中に突如として登場するようになった「これまでに経験したことのないような大雨」という表現も、20世紀の天気予報では聞かれなかったタイプのフレーズだ。 個人的には、「これまでに経験したことのないような」という言い回しの周囲に漂う文芸臭が気になっている。 「気象ポエム」という感じがする。 「《これまでに経験したことのないような》って言うけど、その《経験》の主体はいったい誰なんだ?」 「《経験》である以上、個人差もあれば地域差もあるわけで、誰の《経験》とは特定できないだろ」 「だよな。それに《これまで》とひとくちに言っても、小学校5年生と57歳のおっさんじゃその総量がまるで違うし」 「97歳だと経験してても覚えてない可能性があるぞ」 「地域によっても異同があるしな。沖縄あたりと南関東じゃ大雨の基準自体が別だろ」 「っていうか、3年毎に全国を転勤移動してる銀行員とかの場合、どの町でどんな雨に降られたかいちいち覚えていられないんじゃないか?」 「まあ、晴れの日に傘を貸すのがあの人らの仕事だし」 「銀行員には雨が降らないのか?」 調べてみると、果たして「特別警報」については、気象庁のホームページにわかりやすい解説がある。 ここを見ると、「数十年に一度の降雨量」や、「数十年に一度の強度の台風」という表現に関して、その基準が説明されている。要は 《この「50年に一度の値」は、日本全国を5km四方に区切った領域(「格子」と呼びます)ごとに算出してあります。格子ごとに算出した値を次頁以降に図示します。》 ということのようだ。 つまり、「これまでに経験したことのないような」という言い方は、ひとつひとつ特定の地域の過去の降雨量のデータを踏まえた上で発信されているわけで、そう思ってみれば、これは、「文学的な」描写というよりは、より、地域の特性に沿った、決めの細かい表現として受け止めるべきなのかもしれない。 なるほど、よくわかった。 とはいえ、「なるほど」と納得した一方で 「なんだこりゃ」 と感じる気持ちも簡単には消えないわけで、どうせ私は、「これまでに経験したことのないような」という言葉を聞く度に、これまでのおのれの人生を振り返って、3秒間ほど、感傷的になってしまうに違いないのである。 こんなことが起こるのは、天気予報を見ているわれわれの側に、気象用語についての読解力が、十分に育っていないからでもある。 そう考えれば、この先、われわれが、新しい気象用語に慣れて経験を積んで行くにつれて、徐々にリテラシーが高まって、適切な読み取り方ができるようになるというふうに考えることもできる。 ただ、形容詞にしても副詞にしても、程度や強さをあらわす表現は、人それぞれで、解釈のバラつきが生じる。それを避けるためには、受け手の感受性に委ねるような表現は控えて、なにかの「度合い」や「程度」をあらわす指標は、地震における「震度」みたいに、シンプルに数値化してしまった方が良いのかもしれない。 たとえば「短時間豪雨指数」とか「積算総雨量指数」とか「土砂災害危険度」とか「河川氾濫危険度」みたいな数字を、百分率なり10段階の数値なりで開示することを根気よく続けて行けば、その数字を読み取る側のわれわれにも、相応の理解力が身につくはずで、長い目でみれば、そういうふうに数字でやりとりする方が、色々な点で紛れが少なくなるという考え方もある。 もうひとつ、先週の台風情報を眺めていて感じたのは、「避難勧告」が乱発されていたことだ。 NHKの集計によれば、 《静岡市の30万4000世帯、71万人余り、千葉県松戸市のおよそ21万世帯48万人余りなど、最大で12の都と県の合わせて122万世帯290万人余りに出されました。》 てなことになっている(ソースはこちら)。 290万人といえば、茨城県の全人口(←296万9770人:2010年:全国11位)に近い。 いくらなんでも、この数字はどうかしている。 大まじめに実行したら、民族大移動になる。 建前の話をすれば、避難勧告の空振りはある程度仕方のない話だ。 対して、避難勧告を出さない状態で、住民が大きな被害を受ける事態は絶対に避けなければならない。 とすれば、行政が安全率を多めに見積もって、早めの避難勧告を出すこと自体は、もちろん責められない。 でも、それにしても、290万人という人数に対して避難勧告が発令されたことは、当該の台風がもたらした風雨と被害の大きさに比して、やはり異様な反応であったと申し上げなければならない。 実は、この問題は、昨年の10月の段階で、既に、日本中の自治体で検討されていた。 きっかけは、直前に伊豆大島で多数の死者を出した、台風26号に伴う土砂災害だ。 この時、大島町は、避難勧告を出していない。 で、そのことが、厳しく批判された。 川島理史町長は、被災直後の会見で 「夜間の大雨で避難させる方が危ないという思いもあり、計画通りの対応ができなかった。総合的に判断したつもりだったが……」 と、述べたが、批判はやまなかった。 大島町のお役人は、文字通り、吊し上げに直面した。 で、以来、日本中の自治体で、「避難勧告」の発令基準について見直しが行われたわけなのである。 10月19日(2013年)の朝日新聞(西部本社)は、 《避難勧告 悩める自治体……「乱発で不信」心配》 という見出しで、こんな記事を書いている。 《−−略−− 半年余りで出した勧告は7回で、初回は対象の2523人のうち145人が実際に避難。ところが7回目は、対象が9115人と増えたのに避難者は115人に減った。住民からは「行政のアリバイ作りのために勧告を出しているのでは」と不満も出たという。市は雨量や土壌の状態を確認した上で、徐々に基準を戻した。 ただ、当時市長だった長峯誠参院議員は、積極的な勧告発令を訴える。「常々、早めに避難勧告を出すべきだ。空振りは許されるが、見逃しは許されない」 09年7月の集中豪雨で、勧告が出ていなかった地区の特別養護老人ホームの入所者ら14人が犠牲になった山口県防府市。この豪雨をきっかけに、勧告の判断基準を「1日雨量が100ミリを超え、1時間雨量は30ミリ以上が予想される」などと具体化した。 ただ、防災の担当者はこう話す。「危険性がないのに勧告を乱発すると、肝心なときに市民に届かない。簡単に出せばいいというものでもないのが悩ましい」−−略−−》 先週の台風18号に関して、「避難勧告」が、どの地区の何世帯の何人に対して出され、実際に何人が避難し、何人が被害を免れ、何人が被害にまきこまれたのかを正確に集計したデータは、いまのところまだ無いが、おそらく、盛大な「空振り」だったはずだ。 個人的には、この290万人という数字は、昨年の大島町の会見の吊し上げ状態を見た、各自治体の防災担当者が、「勧告を出さないことのリスク」(←吊るし上げのターゲットになること)を過剰に意識した結果なのだと考えている。 で、このこと(安易な避難勧告が乱発される傾向)は、昨年の朝日新聞西部本社の記事が示唆している通り、やがて「狼少年効果」(←誰も警告を真に受けなくなること)をもたらすはずで、してみると、今週末にわが列島を直撃するかもしれない台風に伴って発令される避難勧告は、ほとんど実効的な機能を発揮しない可能性があるということになる。 大変に困ったことだ。 「避難勧告」については、一概に指定された避難所に向かうことが安全であるのかどうかという問題もある。 雨量や、住民の住んでいる家の立地(海抜高度、崖からの距離、過去の土砂崩れのデータ)や、時刻(暗くないのか)、地形(冠水して見えなくなっている用水路や小川の有無など)といった様々な状況を勘案すれば、家の中の高い場所にとどまった方がベターな場合もある。 それ以前に、避難が災害とは別次元のリスク(病気の悪化や体力の消耗)をもたらすケースすらある。 自然災害に際して、反射的に行政の責任を追及する報道がパターン化すると、地方自治体の中で、避難勧告や防災メールを担当する部署の人間や、災害後のメディア対応を担うお役人が、過剰におびえた予防線を張るようになる。 と、行政の最前線では、公民館のイベント受付担当が、たった1件の苦情を受けて申請者に門前払いを食らわせたり、図書館の司書が、特定の書籍の購入や展示について腰の引けた対応を決め込んだりするケースと同じく、事なかれ主義と機械的な無責任が現場を支配することになる。 こういうバカげた過剰反応は、ぜひ防がなければならない。 最後に、昨年読んだ『「流域地図」の作り方: 川から地球を考える』(岸由二著、ちくまプリマー文庫)という本の話をする。 私自身、この本を読んではじめて気がついたことだが、現在の日本の行政区分は、河川の流域とはほぼ無関係な境界線によって区切られている。 ということは、ひとつの市町村なり自治体が単独で、降雨や土砂災害について、有効なデータを蓄積し、機動的で実効的な対策を立案し、実行すること自体が、そもそも非常に困難なのである。 われわれは、自治体のお役人にできないことを求めている。 そして、彼らが本来できっこないステージで案の定の失敗をする度に吊し上げをしている。 こういう不毛なことはあらためた方が良い。 流域に沿った防災を実現することは、口で言うほど簡単なことではないのかもしれない。 でも、とりあえず、行き過ぎた吊し上げをやめることは、そんなに難しいことではないはずだ。 そうすれば、せめてマスコミの吊し上げから避難するために避難勧告を出すみたいなバカなことはなくなる。 それだけでも、テレビの画面はずっと見やすくなると思う。 (文・イラスト/小田嶋 隆) この場をお借りし、小田嶋さんに成り代わりまして 台風の被害に遭われた皆様にお見舞いを申し上げます。 『場末の文体論』 本コラムから4冊目となる単行本がついに発売されました。今回は小田嶋さんが自分のルーツを語るコラムを収録。帯に中学時代のオダジマが感銘を受けたというトルコのことわざ「明日できることを今日するな」を入れたところ、この本に関わる皆さんが次々に締め切りを忘れてしまったという……。無事間に合ってよかったです(うれし泣)。【書籍担当編集者T】
このコラムについて 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明 「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20141009/272388/?ST=print |