ガイアからテラへ 宇宙の愛をあなたに ハッピーになるメッセージ ギフト わたしからあなたへ あなたからみんなへ そしてそれは宇宙の愛 神様からの大切な贈り物のリレー すべての人への宝物 そしてワンネス 神様からのプレゼント ブログトップ記事一覧画像一覧 自然が父であり母だっ…植物の生命エネルギー… 伊勢神宮 2022-09-04 21:18:47 テーマ:わたしがもらった宝物それは宇宙の愛 これも明治からの嘘 捏造 伊勢神宮 | 闇の正体は 偽ユダヤ (グローバリズム) 戦争も 国家間のトラブルも 影にはいつも 同じ存在がいた リンク mazeranmisogi.jugem.jp ☆ 郷土史研究家の方の記事です。 https://ameblo.jp/umesakurasaku/entry-12764157876.html #:~:text=昭和天皇が皇太子,いないのである。 皇大神宮(伊勢神宮内宮)が現在のようなイメージになったのは明治維新後であった。 以前は天皇の参詣も無く、むしろ豊受大神宮(伊勢神宮外宮)が大衆に広く信仰されていた。 明治維新後の国家祭祀についても出雲大社との綱引きがあり、辛うじて勝利した経緯があった。 すなわち、裏伊勢を自認する宗像大社の隆盛も明治維新後からであろう! 由緒があると宣伝された神社はピカピカで、古刹と言われる寺院は侘び寂びのイメージがあるのは、明治維新後の廃仏毀釈の為であった。 参考 @ 伊勢神宮の意味は明治維新で激変した(参考) 天皇家との関わりなど、出雲以上に厳格厳粛なイメージのある伊勢神宮(実際、伊勢神宮は結婚式事業には参入していない)。 しかし、江戸時代に庶民の人気を博した滑稽本『東海道中膝栗毛』などで描かれる"お伊勢さん"のイメージは、それとは少々異なっているようにも思える。 戦国の世が終わり社会が安定化してくるなか、「御師(おんし)」と呼ばれる中下級の宗教者たちが全国各地に飛び、庶民に対して伊勢参宮を勧奨して回ったという江戸時代。 当時は、皇祖神である天照大御神を祀った内宮よりも、五穀豊穣の神である豊受大御神を祀った外宮のほうが、むしろ庶民の間では人気が高かったようだ。 さらに、伊勢神宮の周辺には御師の営む宿坊が立ち並び、内宮と外宮の中間にあたる古市地区には男性客を当て込んだ遊郭が建てられ、国内でも有数の色街に発展していたという。 建築史や建築評論を専門としつつ、社会文化論などにも詳しい五十嵐太郎・東北大学大学院教授は、こうした点について次のように解説する。 「伊勢神宮は、少なくとも江戸時代には大衆的なツーリズムの場所であって、伊勢神宮の周辺にはいろんな土産物屋があったり遊ぶ場所があったりする、一大歓楽街だったわけです。 それが変わったのが明治時代。そうしたものをすべて取り払って、今日我々が一般的に持っているような伊勢神宮のイメージ――清らかで美しい場所であるというイメージに作り変えていった。 それまで、神仏習合の状態で受け入れられていたのを、そういった『非常にピュアなもの』であるというふうに変えたのが、近代におけるいちばん大きな変化といえるでしょう」(五十嵐氏) A-1 江戸時代までは歴代天皇は伊勢神宮に参詣しなかった(参考) by 歴史作家の恵美嘉樹 意外かもしれませんが、実は江戸時代までの歴代の天皇で伊勢神宮を参った天皇はいませんでした。。。 なんと、初めて参拝したのは明治天皇だったのです! 廃仏毀釈をはじめとする明治時代の「国家神道」というものが、いかに日本本来の歴史と伝統からかけ離れた「作られた伝統っぽい文化」だったことの証拠のひとつです。 伊勢神宮が、アマテラス大神をまつる国家第一の神社として存在したことが、歴史上間違いなく言える、ぶっちゃけ言うと、「日本NO1の伊勢神宮を創設した」のは、飛鳥時代末の天武天皇と考えられています。 『日本書紀によれば、雄略大王の時代から王女が「伊勢大神」の祠に侍する慣行のあったことが知られるが、しかし、歴代の倭王ないし王族のなかで、「天照大神」を拝したのは大海人皇子=天武天皇が最初であった。 「伊勢大神」は「伊勢の神」であるのに対し、「天照大神」は「高天原の神」であった。 「天照大神」の出現は、「伊勢大神」からの移行ではなく、新しい神の創出である。 「日神」と「天照る大神」との類似性はあるが、 しかし「日神」の自然神としての性格は、捨象され、人格神としての装いをもった「天照大神」の出現であった』 と、九州大名誉教授の田村圓澄さんは『伊勢神宮の成立』(115p、吉川弘文館、1996、2009年再刊)の中でずばり指摘しています。 A-2 天皇は誰も伊勢神宮を訪れなかった(参考) 六九二年、女帝持統天皇(四一代)は三月三日に伊勢に行幸すると詔を発したが、これに対して三輪氏の高市麿が強硬に反対した。 三輪高市麿とは出雲神大国主の子孫、三輪氏の氏上で壬申の乱(六七二)に軍功を立て、臣下の最高位である朝臣五二氏の筆頭の重臣であった。大国主命を祀る大和一の宮大神神社の社家でもある。 このために持統天皇は三日の出立は諦めたが、それでも反対を押し切り、三日遅れて六日に伊勢に向かった。 持統天皇(四一代)も聖武天皇(四四代)も、まるで伊勢~宮を避けていたかのようである。 伊勢~宮創建(日本書紀)から一六〇〇年も後に、ようやく天皇が初めて伊勢~宮を訪れた。明治二年(一八六九)三月のことであった。 昭和天皇が皇太子時代も含めて二〇回近くも訪れているので、天皇は伊勢~宮に親拝するものという思い込みが誰にでもあるが、明治時代前には誰一人として一度も訪れていないのである。 天照大神が「傍から離してはならない」と命じた鏡を遠国の伊勢に祀り、 しかも天皇は一六〇〇年もの間、誰も伊勢~宮を訪れていない。ここに日本の建国史の鍵が隠されている。 天皇が誰一人も伊勢~宮を訪れなかった事実を指摘すると、「宮中で祀られているから構わない」という反論が返ってくることがある。 しかし、一〇代崇神天皇は「神の勢いを畏れて、共に住みたまふに安からず。(日本書紀)」と言って、天照大神の祭祀を宮中から外に出したのである。 しかも『延喜式(九二七)』に載る宮中三六神の中に、出雲神の事代主の名前はあっても、天照大神の名は無い。 宮中の賢所に祀られたのは後世のことである。 明らかに天照大神の祭祀は、大和朝廷によって蔑ろにされていた。 それは『古語拾遺(八〇七)』の次の一文からも知ることができる。 「天照大神は祖・宗であって、尊きこと並びなく、他の諸神は子・臣にして、いずれも比較することはできない。それなのに今、神祇官が天照大神を祀るのが後回しにされている。」すでに、九世紀の初め(六〇代醍醐天皇の御代)には、天照大神の祭祀が諸神の後回しにされていた、と書かれている。 伊勢~宮に仕える皇女を斎王と言い、「天皇が位に就けば、伊勢の大神宮の斎王を定めよ。」と『延喜式』に記されている。 しかし、同様に「賀茂大神の斎王を定めよ。」ともある。 賀茂大神とは山城一の宮の賀茂大社をいう。その賀茂大社の社家には二説があるが、ひとつは大国主命の子孫の賀茂氏(三輪氏の同族)である。そして、賀茂の斎王は伊勢の斎王よりも上位の者がその任に就いた。ここでも皇祖神よりも出雲神が重要視されている。 皇祖天照大神は宮中に祀られず、祭祀が諸神の後回しにされ、斎王も賀茂神のよりも格下であった。これが紛れもない事実である。 B 天照大神が最高神に決まったのは明治時代(参考) ほとんどの日本人が、古代から天照大神の祭祀こそが、国家最大の祭事であったかのように思い違いをしている。 それは古代の大和朝廷ではなく、近代の明治政府が決定したことに過ぎなかった。 長い間判読できなくなっていた『古事記』を解読したのは、江戸時代の国学者本居宣長(一八〇一没)であった。 その宣長の死後、養子の本居太平に弟子入りした平田篤胤(一八四三没)が興した平田神学は、幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えたが、篤胤が重視した神は、天照大神ではなく出雲神の大国主命であった。 これは『古事記』を忠実に読めば、誰でもその結論に至らざるを得ない。 ところが、明治新政府は神道の最高神を決定するにあたり、二大派閥の薩摩が造化三神(天御中主神・高魂神・神魂神)を推し、 長州は天照大神を推していた。 一時、長州派が神祇官を独占し平田神学派を一掃したが、その後に、薩摩派が長州派を追い出し主導権を握った。しかし、薩摩派は西郷隆盛の失脚(一八七三)とともに、その力を失ってしまった。 こうして長州派(伊勢派)は力を盛り返したが、今度は出雲大社を中心とした出雲派が台頭してきた。出雲派の中心人物である出雲国造家の千家尊福は、著書の『神道要章』に次のように述べている。 「国土に生ずる万物は、大国主大神のお造りになった国土に生じるものであって、例え、太陽(天照大神)の光を受けても、土地を離れては生じることはできない。 (中略)天神(天照大神)を崇敬するにしても、まず(大国主大神のお造りになった)大地の恩に感謝すべきである。」 『記紀』と全国の神社のほとんどが出雲神を重視している以上、論争になれば、伊勢派がだんだんと窮地に追い込まれてしまうのは当然の結果であった。 しかし、伊勢派はより権力に近いところに居た。 長州の山田顕義(松下村塾出身 初代司法大臣)に働きかけ、明治一四年(一八八一年)に、「宮中に祭られる神は天照大神」という明治天皇の勅裁を得ることに成功した。 これによって最高神争いは決着し、出雲派の敗北が決定した。 このように神道の最高神が天照大神に決まったのは、政治の力であった。 西郷隆盛が失脚していなければ、あるいは勅裁が下りなければ、代わりに造化三神、あるいは大国主命がその地位を占めていた。 天照大神はまったく偶然の産物であった。 『記紀』は皇祖神を讃えず、出雲神を讃え、全国の大社・古社は皇祖神ではなく、出雲神を祀っている。 そのような状況下で、天照大神が最高神になったことは奇跡に近いことでもあった。 C 伝統行事と歴史の作り方(参考) https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12106995436.html ☆ 天皇という言葉がありますが 日本を治めていたのは 渡来人の王 だったと思います。 天皇という言葉でさえ 明治からの作り物ではないでしょうか。 (天皇とは 本来 死者への言葉だったということです) また 様々な 天皇の名がありますが みな 新羅 百済 高句麗の王ではないかと思います。 そう、なんだかかってに 明治から 日本の天皇というものが 出現したのだと思います。 ということは アマテラスというのは 悪魔なのでしょうか? とにかく 明治からの 不思議なNWOの権力が崇拝しているのですから。 ____________________________________________________________________________________________________________________________ 「靖国神社」誕生の舞台裏…当初は上野に建てられる予定だった 島田裕巳 歴史 試し読み 神社 宗教 戦争 (1) https://www.gentosha.jp/article/16162/
毎年、この季節になると必ず取り沙汰されるのが、いわゆる「靖国参拝問題」だ。国家間の対立にまで発展する、根の深い問題であるが、そもそも靖国神社とはどんな施設なのか、誰がなんのためにつくったのか、なぜ首相の「公式参拝」が批判を浴びるのか、天皇はなぜ参拝しなくなったのか……きちんと説明できる人は少ないだろう。そこでオススメしたいのが、宗教学者、島田裕巳さんの『靖国神社』だ。日本人ならぜひ知っておきたい事実が満載の本書から、一部をご紹介しよう。 * * * 「九段坂上招魂場」の誕生 東京に都が移った以上、明治新政府を打ち立てる上で大きな功績のあった戦没者を祀る場所としては京都よりも東京がふさわしい。そこで東京に招魂社を建てることが計画されたが、最初は上野戦争において激戦の地となり焼け野原になっていた上野が有力視された。上野戦争で彰義隊と戦った大村益次郎も、当初、上野に建てるよう建議していた。 (写真はイメージです:iStock.com/TkKurikawa) ところが、建設地は上野から九段に変更された。大村が、上野を幕府軍の戦死者の霊がさまよう亡魂の地として嫌ったからだとも言われるが、上野に大学病院や公園を建設する計画が持ち上がったからだとも言われる。九段は、幕府の歩兵調練場があった場所で、「九段坂上三番町元歩兵屯所跡」と呼ばれていた。
この土地は、その時点で東京府が所有するもので、軍務官はそれを東京府から譲り受けている。このときの境内地は今よりもはるかに広かった。約33万平方メートルで現在の3倍以上あった。現在の境内地は、第一章でもふれたように約10万平方メートルである。 敷地が広かったことが、境内地として選ばれた大きな理由だったのかもしれない。ただし、創建の翌年、明治3年11月には一番町と富士見町一丁目の全部と同二丁目の一部が売却されている。ここで言う一番町は、現在の千代田区一番町とは異なり、靖国神社のすぐ南側の地域、現在の九段南3のあたりの地域をさす。富士見町は現在の千代田区富士見で、靖国神社の北の法政大学、東京逓信病院、白百合学園などを含む地域をさす。 ここまで東京招魂社という名称を使って説明してきたが、創建の時点では、まだその名称はなかった。祭典の実施を伝える軍務官の布達では、「九段坂上招魂場」と呼ばれていた。ただ、上野を候補地としていた木戸孝允の明治2年正月15日の日記では、すでに「此土地を清浄して招魂社と為さんと欲す」と記されていた。東京招魂社という名称が使われるようになるのは明治7年頃からのこととされる。 かつて靖国は「神社」ではなかった 祭典は明治2年6月29日から5日間続いたわけだが、その前日の夕刻からは、社殿の竣工を祝う修祓式が営まれた。深夜には戊辰戦争に政府側として参戦した諸藩から届け出のあった戦死者3588名の霊を招き降ろし、それを本殿に祀る招魂の式を挙げた。 (写真はイメージです:iStock.com/Nut Thongchitrugsa) 翌29日には、弾正大弼・五辻安仲を勅使として迎える。勅使は勅幣(天皇から奉じられる御幣)を奉り、それを副祭主となった大村益次郎が内陣に納め、祭主の嘉彰親王が祝詞を読み、参列した官員、華族、各藩の藩士が拝礼した。
この時点では、戊辰戦争の戦死者の霊を慰めるために招魂式を行うことが目的であり、そうした霊を現在の靖国神社のように恒久的に祭神として祀ろうとは考えられていなかった。そこはあくまで招魂場、ないしは招魂社であり、神社ではなかった。 すでに述べたように社殿は仮のもので、また、通常の神社とは異なり神官は置かれず、神職を中心に結成された民兵組織、遠州(現在の静岡県西部)報国隊や駿州(同中央部)赤心隊の隊員62名が招魂社社司として仕えていた。社司は位の低い神職のことである。 したがって、この時代には、九段坂上招魂場にどういった性格をもたせていくか、それは定まっていなかった。最初の祭典が行われた直後の明治2年7月8日には、軍務官は兵部省に改組されているが、兵部省は、翌明治3年4月4日に、太政官に対して上申書を提出し、二つのことを建議している。 一つは、楠木正成など南朝の忠臣を、東京招魂社に合祀することである。当時は、幕末から高まっていた尊皇思想の影響で、正成を「楠公」として祀り、信仰の対象とする動きが盛んだった。 もう一つは、嘉永6年、あるいは安政元年以来、尊皇攘夷を志して亡くなった志士たちや勤王家を合祀することである。 また兵部省は、この二つの建議とは別に、東京招魂社に華族や官員を埋葬するための墓地を造り、霊社を建てて、その霊を祀りたいという願い出も行っている。 こうしたことのうち、後に実現されたのは志士や勤王家を合祀することだけだった。もし他の二つも実施されていれば、後の靖国神社の性格は今とはかなり違ったものになっていたことだろう。だが、この時点ではいずれも採用されなかった。そこには神祇官の意向が働いていた。国家の祭事を司る神祇官としては、兵部省の試みを越権行為ととらえたのである。 (2) https://www.gentosha.jp/article/16194/
靖国を変えた宮司、松平永芳 筑波に代わって第6代の靖国神社宮司に就任したのは、元海軍少佐で、戦後は陸上自衛隊に入り、一等陸佐として退官した後は、福井市立郷土歴史博物館館長をつとめていた松平永芳であった。祖父の松平春嶽(慶永)は第16代の越前福井藩主だった。
(写真はイメージです:iStock.com/kanzilyou) 最初、松平は、神職の資格をもっていないことと、靖国神社に祀られた戦没者の遺族が次々と亡くなっていくなかでは神社の経営手腕が必要だと断ったが、結局は石田に説得されて引き受けている。
松平は、東京裁判を否定しなければ、日本精神の復興はできないという考えを、それ以前からもっており、石田に対しても、そうである以上、「いわゆるA級戦犯の方々も祀るべきだ」と述べ、石田から「国際法その他から考えて当然祀ってしかるべきものと思う」という同意の見解を引き出している。 こうした人物が新たに靖国神社の宮司に就任したわけだから、A級戦犯の合祀が行われるのは必然である。松平を選んだ人間たちも、だからこそ松平に白羽の矢を立てたに違いない。松平は宮司を退任後、そのときのことを次のように語っている。 「私の就任したのは53年7月で、10月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏して御裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、9月の少し前でしたが、『まだ間に合うか』と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思い切って14柱をお入れしたわけです」(「誰が御霊を汚したのか──『靖国』奉仕14年の無念」『諸君!』平成4年12月号) ただ、靖国神社の側が、宮内庁に対して事前にA級戦犯を合祀することを伝えていたかどうかについては、関係者によって証言が異なっており、はっきりしない。伝えたにしても、宮内庁の側が諒承したわけではないことはたしかだろう。事後承諾だった可能性が高く、合祀の後、靖国神社の側は、A級戦犯について「昭和殉難者」という新しいカテゴリーをもうけ、それを冊子にして宮内庁に提出したらしい。 秘密裏に進められた「A級戦犯」合祀 侍従長だった徳川義寛は、「昭和53年秋にひそかに合祀される前、神社側から打診があり、『そんなことをしたら陛下は行かれなくなる』と伝えたという」(朝日新聞、平成元年1月16日付)。 (写真はイメージです:iStock.com/ofriceandzen) ただ、前掲の徳川の回想録では、合祀のことを伝えられ、「一般にもわかって問題になるのではないか」と文句を言ったとされるが、その理由としては、「私は東條さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言った」と説明されている。これだと、靖国神社の合祀の基準からずれていることが反対の理由だったことになる。
それでもやはり、靖国神社の側には、A級戦犯の合祀は密かに行いたいという意向があり、靖国神社が編纂した『靖国神社百年史 事歴年表』では、それが行われた昭和53年10月17日の項目に、合祀された者として、第29師団海上輸送隊陸軍中尉西田耕三の名前が筆頭にあげられ、A級戦犯の個々の氏名については言及されていない。 合祀の事実が明らかになった際に、当時権宮司だった藤田勝重は、「A級戦犯とはいえ、それぞれが国のために尽くした人であるのは間違いなく、遺族の心情も思い、いつまでも放置しておくわけにはいかなかった。なお、不満の人もあることから、いちいち遺族の承諾を求めるものではないと判断し、案内も出さなかった」(朝日新聞、昭和54年4月19日付)と述べている。 靖国神社の側は、合祀の事実が広く知れわたり、それが問題になることを恐れ、秘密裏にことを進めていった。合祀した翌日の当日祭の挨拶でも、松平は、東條以下の名前をあげず、「白菊会に関係おありになる14柱の御霊もその中に含まれております」と述べただけだった。白菊会は、ABC級戦犯遺族の会のことである。 靖国神社の側は、A級戦犯の合祀を秘密裏に行ったわけだが、それは功を奏し、その事実は半年にわたって世間に知られることはなかった。その事実をスクープしたのは、共同通信の編集委員で厚生省を担当したこともある三ヶ野大典で、記事は昭和54年4月18日夜に配信されている。 翌日には各紙が報道するが、当時はそれほど大きな話題にはならなかった。秦郁彦は、それについて「マスコミも半年前の旧聞に属する既定事実をむし返し騒ぎたててもしかたがない、と早々にあきらめてしまったからである」と述べている。 これは、現在の感覚からすれば、理解しがたいことである。現在靖国神社のことが問題になるとき、真っ先にあげられるのが、現役首相の参拝であり、その際にはA級戦犯が合祀されていることが首相参拝の問題点として指摘される。 それと比較したとき、合祀当時における社会の側の反応は大きく違った。しかも、その状況はしばらくのあいだ続く。 (3) https://www.gentosha.jp/article/16195/
「公式参拝」を宣言した中曽根康弘 あえて「公式参拝」であることを明確にして靖国神社に参拝したのが、鈴木の次の首相、中曽根康弘であった。 (写真はイメージです:iStock.com/patwallace05) 中曽根は、昭和57年11月に首相に就任するが、60年8月15日に公用車で靖国神社に赴き、内閣官房長官と厚生大臣を伴った。拝殿では「内閣総理大臣 中曽根康弘」と記帳し、本殿には「内閣総理大臣 中曽根康弘」と記された生花を供え、その献花料3万円は公費として支出した。
ただし、参拝する際には、二拝二拍手一拝の形式はとらず、10秒間にわたって深く一礼しただけだった。しかも、手水は使わず、宮司の祓いも受けなかった。松平永芳宮司は、一礼と手水を使わないことは認めたものの、祓いを受けなければ参拝にならないとし、目立たないように陰祓いをすると事前に伝え、当日は、中曽根を出迎えなかった。 中曽根がそういった方法をとったのは政教分離の原則に反しないようにするためだった。そこには、靖国神社法案についての内閣法制局の見解が影響していた。しかし、靖国神社の側にしてみれば、とても正式な参拝とは言えないものであった。 それでも参拝後に中曽根は、記者団に対して、「首相としての資格において参拝しました。もちろん、いわゆる公式参拝であります」と、公式参拝であることを明確にした。 中曽根は、首相に就任して以来、この公式参拝実現に向けて地ならしを行っていた。就任後はじめて靖国神社に参拝した昭和58年の春の例大祭のときには、「内閣総理大臣たる中曽根康弘」という形で曖昧な表現を用い、記帳は「内閣総理大臣 中曽根康弘」だった。翌59年のやはり春の例大祭のときには「内閣総理大臣である中曽根康弘として参拝した」と言い、一歩公式参拝に近づいた。 さらに中曽根は、同年8月に藤波孝生官房長官の私的諮問機関として「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」を発足させた。 この懇談会は、翌昭和60年8月9日に、報告書をまとめるが、その結論は、「政府は、この際、大方の国民感情や遺族の心情をくみ、政教分離原則に関する憲法の規定の趣旨に反することなく、また、国民の多数により支持され、受け入れられる何らかの形で、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社への公式参拝を実施する方途を検討すべきであると考える」というもので、懇談会で出たさまざまな意見が併記されており、必ずしも公式参拝にお墨付きを与えるようなものではなかった。 「靖国問題」は国家間の対立へ 中曽根は、この報告書が出た直後に公式参拝に踏み切るが、報告書も出ていて、さらに前日の8月14日には藤波官房長官が翌日に中曽根が公式参拝を行うことを発表したため、中国からは、「東條英機ら戦犯が合祀されている靖国神社への首相の公式参拝は、中日両国人民を含むアジア人民の感情を傷つけよう」との声明が出された。このときはじめて中国が首相の靖国神社参拝を公式に非難したのである。 (画像はイメージです:iStock.com/btgbtg) 中国の他にも、韓国、香港、シンガポール、ベトナム、ソ連などからも批判の声が上がった。靖国神社がA級戦犯を合祀したのは、昭和53年のことで、その事実が明るみに出たのは翌年のことだった。その時点では、諸外国からの反発は起きなかったし、国内でもそれほど大きな問題にはならなかった。
そのせいだろうか、中曽根は、公式参拝が政教分離の原則に違反しないかどうかというところだけに注意し、その上で参拝に踏み切ったように見える。靖国神社が求める正式な参拝の仕方をとらなかったのも、そのためである。 そうした中曽根の「正式ではない公式参拝」は、中国をはじめとする周辺諸国の猛反発を買った。それは、まったく新しい事態であり、靖国問題は新たな局面を迎えることになった。しかも、中曽根は、公式参拝に踏み切った後の昭和60年秋の例大祭での参拝を見送り、それ以降、首相在任中に靖国神社を参拝することはなかった。 中曽根は、準備を重ね、あえて政教分離の原則に違反する可能性のある公式参拝に踏み切り、それを望む日本遺族会に集う戦没者遺族などの期待にこたえた。ところが、中国などからの反発を招くと、それについては十分に予測していなかったのか、その姿勢を貫くことができなくなった。公式参拝の試みは、いとも簡単に挫折したのである。 そして、結果的にA級戦犯が合祀されていることが問題化することとなった。それは、靖国問題の解決を、それまで以上に厄介なことにした。次に首相の地位にある者が靖国神社に参拝するのは、中曽根公式参拝の11年後、平成8年7月29日の橋本龍太郎のときであった。 (4) https://www.gentosha.jp/article/16196/
大スクープだった「富田メモ」 天皇が亡くなってから17年が過ぎた平成18年のことだった。7月20日付の日本経済新聞は、「A級戦犯合祀 昭和天皇が不快感」という見出しで、いわゆる「富田メモ」のことをスクープした。 (写真はイメージです:iStock.com/oasis2me) スクープしたのは、同新聞社会部の元宮内庁担当記者だった。この記者は昭和天皇のもとで宮内庁長官をつとめたことがある富田朝彦が亡くなった後、遺族から富田元長官の日記帳を借り出し、そこに昭和63年4月28日の日付のあるメモが貼り付けられているのを発見した。そのメモは次のようなものだった。
私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取(ママ)までもが、 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ 私とは昭和天皇のことで、松岡とは、近衛文麿内閣の外務大臣として国際連盟からの脱退、三国同盟の締結などを主導した松岡洋右のことである。白取とは、駐イタリア大使としてやはり三国同盟の締結に貢献した白鳥敏夫のことである。ともにA級戦犯として極東軍事裁判にかけられたが、松岡は裁判の途中で病死した。白鳥の方は終身禁固刑となり、服役中に病死した。 この富田メモは、昭和天皇が靖国神社への親拝を停止したのは、A級戦犯を合祀したことにあるとするものである。新聞報道が行われた当座の段階では、メモの信憑性をめぐって議論が巻き起こり、内容を否定する人間も少なくなかった。 しかし、その後、昭和天皇の侍従を22年間にわたってつとめた卜部亮吾の日記が平成19年に刊行され、その昭和63年4月28日の項目に、「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」と記されていた上、平成13年7月31日の日記にも、「朝日の岩井記者来……靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」などと記されていた(御厨貴・岩井克己監修『卜部亮吾侍従日記』全5巻、朝日新聞社)。 徳川義寛侍従長も、歌人の岡野弘彦に対して、「(A級戦犯)の人達の魂を靖国神社へ合祀せよという意見がおこってきた時、お上はそのことに反対の考えを持っておられました」と語っている(岡野『昭和天皇御製 四季の歌』同朋社メディアプラン)。 天皇に逆らった宮司、松平永芳 こうした記録がある以上、富田メモに信憑性があると考えないわけにはいかない。何より、A級戦犯が合祀されて以降、昭和天皇が靖国親拝を行っていない事実が、その点を雄弁に語っている。しかも、前の章でふれたように、徳川侍従長は、靖国神社の側からA級戦犯の合祀について打診を受けた際、「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と伝えたというのである。 (写真はイメージです:iStock.com/Buretsu) A級戦犯合祀に踏み切った松平永芳は、宮司退任の翌年、『祖国と青年』誌の平成5年1月号で、「私の在任中は天皇陛下の御親拝は強いてお願いしないと決めていました」と語っている。さらに、共同通信の記者、松尾文夫に対しては、「合祀は(天皇の)御意向はわかっていたが、さからってやった」とさえ語っている(前掲『靖国神社の祭神たち』)。
これは、松平元宮司が確信犯だったことを示している。彼は、A級戦犯を合祀することによって天皇の親拝が難しくなることを分かった上で、それを強行した。しかも、それが天皇の意向に逆らうことになるにもかかわらず、あえてそれを実行に移した。その点では、松平元宮司は、天皇親拝の道を自らの考えで閉ざしたことになる。 靖国神社のあり方を支持する立場から編纂された前掲の神社本庁編『靖国神社』では、各論者が、首相の公式参拝が阻まれている現状について憂えているが、昭和天皇が親拝を中止し、現在の天皇も即位以降親拝していないことについては、その事実にふれてさえいない。 本来、靖国神社成立の経緯から考えれば、天皇親拝が中止されている状況は極めて憂慮される事態のはずである。ところが、A級戦犯の合祀が強行されたことで、親拝の道は閉ざされた。それは、かなり重大な問題であるはずである。 ただ、それを実際に合祀を行った松平元宮司だけの責任に帰すわけにはいかない。祭神名票を送ったのは厚生省援護局である。いくらこのセクションが元軍人主体で運営されていたとは言え、国の機関であることは間違いない。A級戦犯合祀へと向けてイニシアティブをとったのは、日本国家にほかならないのである。 (5) https://www.gentosha.jp/article/16193/
日露戦争時に「靖国信仰」はなかった 昭和の時代になると、日中戦争から太平洋戦争へと進んでいくなかで、兵士として軍隊に徴集され、「お国」のためにその命を投げ出すことに大きな意義が与えられ、「死んだら靖国で会おう」ということが若者たちのあいだでの合いことばになっていく。 (写真はイメージです:iStock.com/Rawpixel) だがそうした意識は、大江志乃夫が指摘しているように、日露戦争の時点ではまだ生まれていなかった。大江は、自分が目を通した限りでは、「日露戦争段階の出征軍人中の初級将校や下士卒の手記で靖国神社に言及しているものは発見できなかった」と述べている(前掲『靖国神社』)。
実際、日露戦争の後、昭和10年代になるまで、日本が大規模な戦争に参加したのは第一次世界大戦のときに限られる。日本は、イギリスとのあいだに日英同盟を結んでいたので、それにもとづいて大正3年8月23日にドイツ帝国に宣戦布告し、ドイツが権益をもっていた中国の青島を攻撃した。その後も、インド洋と地中海に巡洋艦や駆逐艦を派遣し、連合国側の輸送船団の護衛などを行った。 そうしたことで、新たな戦没者が生まれ、それは大正4年から6回にわたって靖国神社に合祀された。その総数は、4850名に及んだものの、日清日露戦争の戦没者に比べれば、かなり少なかった。 昭和の時代に入ると、昭和6(1931)年には満州事変が勃発し、やはり新たな戦没者が生まれたが、その数は、第一次世界大戦に参戦したときとさほど変わらなかった。靖国神社に祭神として祀られる戦没者が急増するのは、昭和12年に日中戦争が勃発し、戦闘が激化するようになってからである。 合祀は春と秋の例大祭のときに行われていたが、昭和13年10月の秋の例大祭以降、合祀される戦没者の数は毎回1万名を超え、昭和19年には2万名を超えた。そして、敗戦前の昭和20年4月の春の例大祭では4万名を超えた。ただし、1万人台で推移するのは、昭和10年代に入ってからのことである。それほどの大量合祀は、戦前の段階ではその時期に限られるのである。 軍国主義に「利用」された靖国神社 昭和10年代になると、靖国神社は、軍事体制のなかにしっかりと組み込まれ、国威発揚のためにその存在は積極的に活用されるようになっていた。 (写真はイメージです:iStock.com/beibaoke) たとえば、大日本雄弁会講談社(現在の講談社)が刊行していた『少年倶楽部』『少女倶楽部』などでは、「靖国神社の英霊に捧げる文」という懸賞作文の募集が行われている。これは陸軍省や海軍省などが後援していた。優等に選ばれた際には、作文を書いた本人が、靖国神社で開かれる献納奉告祭に参加して、社殿の、この時代には明確に英霊と呼ばれるようになった戦没者たちに向かってそれを読み上げた。
婦人雑誌も同様で、『主婦之友』誌は、昭和18年10月号で、子どもを軍隊に送り、その命を国に捧げさせた「軍国の母」の表彰を行ったりした(前掲『神国日本のトンデモ決戦生活』)。 しかも、昭和12年には、文部省が編纂した『国体の本義』が刊行され、天皇が現人神という形で神と等しい存在としてとらえられるようになる。それは、それ以前にはなかったことである。ちなみに、「神国」や元寇の際の「神風」ということばが教科書に載るのは昭和18年からである。(新田均『「現人神」「国家神道」という幻想─近代日本を歪めた俗説を糺す。』PHP研究所) つまり、戦後に「国家神道」と呼ばれるようになる、現人神としての天皇を信仰の対象とし、その天皇によって統治された日本国を神聖視し、武力による日本国の領土拡張を聖戦として称揚する体制は、戦争が拡大し、激化するなかで生まれたものなのである。 そうした状況のなかで、靖国神社は、たんに戦没者の慰霊を行う施設であるにとどまらず、国のために、あるいは天皇のために立派に戦死を遂げ、英霊として祀られるという目的を実現させるための、軍国主義の性格が強い施設に変貌した。 それによって、名誉の戦死がもて囃され、「死んで靖国に祀られる」ことが戦地に出掛けていく若者の合いことばとなったわけである。これは、靖国神社がまた変容を遂げたことを意味する。それが、変容の第3段階であった。 靖国神社は、内戦の戦没者を祀る施設から、維新殉難者を合わせて祀ることで変容し、さらに、対外戦争の戦没者を祀ることで次なる変容を遂げた。そして、戦死した後に靖国神社に祀られることを目的とさせるような施設に変容し、日本の軍国主義体制を支える上で重要な役割を果たすこととなったのである。 ____________________________________________________________________________________________________________ 【馬渕睦夫】残念ながらもし●●が変更されるようなことがあれば間違いなく日本は滅びます【ひとりがたり/まとめ】 2022/09/13 【馬渕睦夫書籍】 https://www.youtube.com/watch?v=7A4Byu8d_vo
豊岳正彦 0 秒前 スターリンもユダヤ人だよ。馬淵さんも勉強不足だぜ。 豊岳正彦 0 秒前 天皇論も間違ってる。昭和天皇は天皇じゃないぜ。
豊岳正彦 1 秒前 勉強が足りないが、東大よりははるかにましだな。
豊岳正彦 0 秒前 ユダヤ人っていってるが、モサドと呼ばなければ間違いだね。 プーチンはスターリンを軽蔑してるが馬淵さんにはわからんのさw 天照大神が日本を作ったわけじゃないことも知らないからしょうがないかw
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