01. 2014年11月12日 06:38:35
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医療・介護 大転換 【第16回】 2014年11月12日 浅川澄一 [福祉ジャーナリスト(前・日本経済新聞社編集委員)] 米29歳女性の死で注目された「安楽死」と「尊厳死」の大きな違い ?わが国における医療と介護改革について欧州から学ぶことの2回目は、「看取り」の問題である。日本ではまだ「死に方の話なんて縁起でもない」「老人は早く死ねってことか」と終末期の話題は避けられがち。終末期を迎えても、延命治療について医師などから問われると、「ご家族に判断を任せます」と口を濁し、その家族は「先生(医師)にお任せします」となることが多い。 ?自分で決めない。日本人特有の家族・集団主義からなかなか脱皮できない。一連の医療・介護改革で「本人の意志が重要」と唱えられても現場はだいぶ違う。 ?だが、個人主義が浸透している欧米では「自身の死のあり方」について社会的議論が成されてきた。その最先端を行くのがオランダだろう。現地での取材を織り込んで報告する。 世界で初めて法制化 オランダにおける「安楽死」のいま ?オランダは先進諸国で病院死が最も少ない国である。病院死が少ないのは、在宅医療や在宅ケアが社会の隅々まで浸透しているからだ。 ?その究極の在宅医療が安楽死という選択だろう。オランダは世界で初めて安楽死を法制化した国である。安楽死とは、自らの自由意志で死を選択し、その理由を聞いた医師が認めて薬を処方し亡くなること。死の選択肢を広げた。 ?延命治療を拒否して自然に死を待つ尊厳死や自然死とは異なる。本人の意志を尊重する究極の制度である。 ?安楽死法は2001年に成立した。同じ国会でやはり世界で初めて同性婚も認めている。同性婚は昨今、世界各国で次々受け入れられている。いろいろな考え方やライフスタイルを尊重し、妨げないことに国民が賛意を示し制度化した。安楽死も同様に、人々の願望をすくいあげ、選択の翼を伸ばそうという発想に基づく。? ?安楽死のそもそもの議論は40年前に遡る。「私の終末を助けて」と、半身麻痺の母親に頼まれた女医がモルヒネを投与して死亡させ大騒動になった。有罪宣告されたが、執行猶予つきの禁固1週間で実質的に薬の投与は容認された。 ?この事件を機に、「公開の議論に」と1973年に自由意志生命の終結協会(NVVE・安楽死協会)が作られ、医師会が安楽死認めて法制化作業に関わる。 ?国民的な議論を重ねた結果、「殺人だが、手続き通りなら罰しない」とする安楽死法に帰結した。その手続きとは、(1)本人が死を望む意志(2)主治医が認めて実行者となりもう一人の医師の承認が必要(3)死後に検視官が調べ検証委員会に報告――などが決められた。 ?2011年には、死者13万6000人のうち安楽死は3695人。12年は4188人に上り、全死亡者の3%弱。毎年増えており約8割強がガン末期の人だ。 ?発症前から手続きを踏んでいれば認知症の人も安楽死しており49人に上る。安楽死を認める国は広がり、隣国のベルギーやスイスに、そして欧州外のオーストラリアやアメリカのオレゴン、ワシントン、モンタナ、ニューメキシコ各州に及んでいる。 がん末期患者、そして認知症患者も 安楽死を望む人々が安らかに眠るまで ?安楽死を手助けするアムステルダム市内の安楽死協会を訪ねた。古本市などで賑うライッツェ広場近くの5階建て煉瓦ビルの2階。目の前に運河が流れる、オランダ最盛期の典型的な17世紀のたたずまいを残した地域だ。 ?安楽死を望む人たちの電話相談に乗るが、活動を支えるのは多くのボランティアだ。訪問時に活動内容を説明してくれた担当者もボランティアで、アムステルダム市の水道局の退職者だった。 「電話をしてくるのは相談相手となる家族やパートナーがいない独り暮らしの人が多く、電話を受けたら必ず自宅を訪問します。家族や友人代わりになってじっくり話を聞きます」。相談で難しいのは「自分の家庭医が安楽死に理解を示してくれない」という訴えだと言う。「昔ながらの考えに固執する医師には、なかなか理解してもらえないことがあります。そんな時には別の医師を紹介します」。 ?事務所内のある部屋で、電話のヘッドセットを付けた女性ボランティアがパソコンの画面を見ながら話していたのは、そんな相談かもしれない。23人のスタッフのほかに、120人ものボランティアが活動を支える。 ???? ?同協会のジョン・ロンマー医師は「家庭医が本人とよく話し合い、苦痛や悩みを十分理解し判断します」と事情を打ち明ける。オランダでは全国民が地域の診療所の医師に家庭医(GP= GeneralPractitioner)登録をしており、家族ぐるみで家庭医と交流がある。その延長線上で安楽死が選択される。 ?アムステルダム在住45年の同行ガイド、後藤猛さんが安楽死に立ち会った場面を著書に記している。 「ペーターは最後のお世話をお願いしますと静かに伝えた。薬の投与が終わるとホームドクターは後ろにさがった。薬の入ったワイングラスを持ったペーターの周りには、奥さん、息子さん、娘さんがいた」(「認知症の人が安楽死する国」より) ?アムステルダムの中央駅に近い運河沿いのビルの一階で診療所を開業しているロブ・リス医師を訪ねた。安楽死で使う2つの薬を教えてくれた。1つはチオペンタール。古典的な睡眠導入剤で、全身麻酔が必要な外科手術でよく使われる。もう一つの薬は致死薬の筋弛緩剤。筋弛緩剤の恐怖を和らげるために睡眠導入剤を使うようだ。 ?リス医師が半年前に看取ったのは、67歳のがん末期患者。30年前に失明し、2年前から安楽死を望んでいた。 「友達に見守られ、離婚した元妻の腕の中で亡くなりました。薬を投与して意識がなくなるまでに10分、それから死亡までに25分でした。報告書を書くのに2時間かかりましたよ」 ?安楽死に欠かせないのが医師の報告書である。患者の家庭医のリスさんの他にもう1人の医師、それに自治体の検視官の報告書が安楽死検証委員会に提出されて安楽死と認定される。 ?安楽死には、緩和ケアの一環として診療報酬が支払われる。リス医師は2時間半かけて対応したが、報酬は250ユーロ(約3万2000円)で意外と安い。 「今でも宗教者を中心に安楽死に反対する人は5%ほどいますが、85%は賛成しています」と話すのはオランダ安楽死協会のヤギ・ビルスマンさん。「カトリック信者の92%は賛成しています」という数字には驚かされる。カトリックの総本山、バチカンはずっと反対し続けているからだ。イタリアやスペインなどカトリック信者の多い国では安楽死を認めていない。 ?認知症の人も安楽死を選べる。認知症を発症する前から家庭医にその意向を伝えていれば認められる。安楽死協会によれば、2012年には42人、2013年には49人の認知症の人が安楽死した。 「耐えられない苦痛があるという安楽死の条件に適うか疑問もあって、議論が続いています」 ?今でも課題であることは確かなようだ。 日本のマスコミも誤解している 「安楽死」と「尊厳死」の大きな違い ?日本では、終末期の議論が進んでいないせいか、安楽死と尊厳死の違いすら十分に認識されていない。マスコミの報道でそれがよく分かる「事件」が起きた。 ?米国で脳腫瘍のため余命半年と宣告された女性(29歳)が、11月1日に医師から致死薬を受け取って死亡した。女性は事前に病気や死亡日をユーチューブで発信していたため、全米で大きく報道された。 ?日本でもマスコミが一斉に伝えたが、その死に方の判断で真っ二つに見解が割れた。3日の19時のNHKニュースでは「安楽死」と呼び、深夜のTBSやフジテレビ、そして翌朝のテレビ朝日などいずれも安楽死としていた。 ?ところが、4日の朝刊を見ると毎日新聞が「尊厳死宣言の女性死亡」、読売新聞は「尊厳死宣言?薬飲み実行」、東京新聞も「尊厳死予告の米女性死亡」と尊厳死の見出しを掲げる。 ?朝日新聞だけが「米女性、予告通り安楽死」と安楽死を謳う。朝日新聞は4日前には「米の女性?尊厳死宣言の動画」と尊厳死としていたのに、安楽死に転換した。 ?同じ事象に対して、テレビと新聞でこれだけ違う判断を下すのは珍しいことだ。ではどちらが正しいのか。答えは明らかだ。安楽死である。 ?尊厳死とは、延命治療を受けずに自然の成り行きに任せて死ぬこと。本人が食べたり飲んだりできる程度に合わせて、食事を提供するが、胃瘻など経管栄養や点滴もしない。延命治療だからだ。 ?脳腫瘍の苦痛に苛まれていた米国の女性は、自宅のベッドで家族に囲まれ医師から処方された薬を飲んで、自分の決めた日に亡くなった。先述のように安楽死そのものである。 ?4日の朝日新聞ではこうした区別がきちんと書き込まれている。実は、同日の読売新聞も、日本尊厳死協会副理事長で多くの在宅看取りを経験している長尾和宏医師の談話を載せ、安楽死と尊厳死の違いを明記している。それなのに本文では尊厳死としておりなんとも不可解だ。 ?ただ、6日の東京新聞を読むと、新聞各社が尊厳死とした理由の一端が窺える。死亡した女性はカリフォルニア州からオレゴン州に転居して自分の意思を実現させた。オレゴン州には1997年に成立した「Death with Dignity Act」があるからだ。この法を訳すと尊厳死法になる。女性も「尊厳死を選んだ」と話しており、こうしたことから尊厳死に傾いてしまったとも推論できる。 ?だが、事実を客観的に見極めるのが報道する立場の基本姿勢だろう。テレビのディレクターの判断が正しかった。新聞各社は、なぜ尊厳死としたのか読者に説明しないと、テレビを見た読者は戸惑うばかりだ。 ?新聞各社はほぼ1年前にも同様の「過ち」を犯していた。フランス映画「母の見終い」の映画評である。 ?脳腫瘍の老母が、医師から「治らない」と宣告されて自ら死を選択する。トラック運転手だった息子はずっと母親と諍いを続けていたが、その決断は穏やかに受け入れる、という話だ。 ?2013年11月29日の産経新聞は「病気のため尊厳死を選択した女性」と書き出す。末尾では、スレファヌ・ブリゼ監督の話として「この映画の主題は、決して尊厳死ではないのです」と記す。11月22日の読売新聞には、やはり「尊厳死を選ぶ母」「尊厳死を決断する」とある。 ?一方、11月29日の朝日新聞は「尊厳ある死を決意した母親」「尊厳ある死のための自殺幇助」と、筆者は「尊厳死」という言葉を避けた。映画の字幕では、確かに「尊厳ある死」と語られており、その言葉を忠実に守っている。だが、記事の見出しは「尊厳死願う母」となってしまった。 ?新聞社では、原稿を書く記者とは違う整理部の記者が見出しを考える。見出しの字数は、本文と違って制約があることも手伝い、「尊厳ある死」では収まらなかったのかもしれない。だが「尊厳死」と「尊厳ある死」とでは大違いなのである。緩和ケアによって、死への道を選ぶホスピスでの死も尊厳死である。 ? ?この映画では、母親は隣国スイスの「自殺を幇助する協会」に息子の運転で向かい、その一室で致死量の薬を受け取る。傍らの息子と抱き合った後、ベッドに横たわって飲みほし、生を閉じる。 ?このような死に方は尊厳死ではなく安楽死である。母親は死亡する手段と日時を本人がきちんと決めている。 ? ?体の細胞がいつ機能不全に陥って死に至るかがはっきりとは分からない尊厳死に対して、安楽死は死の日時を指定できる。受け入れる団体は「自殺幇助の協会」と字幕にあった。確かにその通り、自殺を手助けする人が介在する。 ?自殺ではあるが、本人の意志を尊重し、尊厳ある死のひとつであることには間違いない。従って、「尊厳ある死」という言葉で表現される。これを「尊厳死」と簡単な言い方にする段階で、間違いが生じてしまう。 ?なぜ母親はスイスに行かねばならなかったのか。「私たちの国では許されていない」と母親の主治医が説明するシーンがある。安楽死を認めている国は限られている。 欧米では当たり前の「尊厳死」 当たり前ではない日本でどう備えるか ?日本では近年、事実上の尊厳死は多くの在宅医療の現場やグループホーム、特別養護老人ホームなどの老人施設でみられるようになってきた。死亡診断書に「老衰」と書かれる。だが、まだ少数である。 ?公然と尊厳死は語られない。国会では超党派の議員立法として、尊厳死法が練られ、提出される寸前まで来ているが、いまだに日の目を見ていない。担当医が延命治療を拒否しても罪に問われないことを謳うのがこの尊厳死法だ。 ?本人が延命治療を否定していても、その数年後に認知症などで意思表示が難しくなると、家族の判断に従わざるを得ない。家族の中で、考え方が割れていると、死亡後に「治療を怠った」と医師側が訴訟に持ち込まれる可能性がある。そのため、医療機関は延命治療を続ける道を選びがちだ。「治療拒否」をしていないと証明したいために、延命治療に走ってしまう。おかしなことがまかり通っている。 ?中には「命のある限り治療せねば」と、医療教育そのままに延命治療に向かう病院医師もかなりいることも確かだ。 ?尊厳死法に対して、その立法化に立ちはだかっているのは障害者や難病の団体。その根強い反対運動に日本弁護士連合会も同調している。 ?尊厳死と安楽死について、決定的と思われる見解がある。長尾和宏医師の著書「医療否定本に殺されないための48の真実」の211頁に書かれている。 「スイスには、尊厳死を請け負う2つの組織がある。スイス国民のための『EXIT』と外国人も受け入れる『Dignitas』。共に『看取りの家』に入り、お別れパーティーを開いて、医者から命を絶つ薬を処方され、死を迎える。これを日本では安楽死という。海外では、日本で言う『尊厳死』にあたる言葉はない、当たり前だからだ」 ?映画「母の身終い」の内容説明となっているが、注目したいのは「尊厳死」にあたる言葉がない、と言う点だ。その理由は「当たり前だから」とある。 ?つまり、欧米で「当たり前」のことが日本では「当たり前」でない。日常生活で議論となっていない。訪問診療の医師が活動している現場などでは、事実上の尊厳死は広がっている。おかしなことだ。 ?介護施設に入所するときに、本人と家族、それに医師やケアマネジャーなど介護者を交えて看取りのあり方を話しあい、文書を取り交わす事業者が出てきた。「当たり前」が通用しない我が国では次善の策としてとてもいい方法だと思う。事業者にとっても、救急車を呼ぶかどうかで迷うことがなくなる。 ?死に際のあり方を家族で話し合う機会が増えるといい。流行の「エンディング・ノート」に希望する死に方を書き込んでおくのもいいだろう。いずれにしろ、ケアの先には必ず死がある。介護保険の施行でケアを隠し立てしなくなった。もう一歩進めて、死を日常生活の話題にする日が近づくのはいつだろうか。家族や親類との関係を冷静に見つめる団塊世代に期待しなくてはならないようだ。 http://diamond.jp/articles/-/61997
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