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母の俊子さんが麗子の初の海外ロケに同行して撮影した(大原政光さん提供)
大原麗子、没後10年 「家庭に男が二人」発言の裏にあった妊娠、中絶/msnニュース
2019/07/28 08:00
http://www.msn.com/ja-jp/entertainment/celebrity/%e5%a4%a7%e5%8e%9f%e9%ba%97%e5%ad%90%e3%80%81%e6%b2%a1%e5%be%8c10%e5%b9%b4-%e3%80%8c%e5%ae%b6%e5%ba%ad%e3%81%ab%e7%94%b7%e3%81%8c%e4%ba%8c%e4%ba%ba%e3%80%8d%e7%99%ba%e8%a8%80%e3%81%ae%e8%a3%8f%e3%81%ab%e3%81%82%e3%81%a3%e3%81%9f%e5%a6%8a%e5%a8%a0%e3%80%81%e4%b8%ad%e7%b5%b6/ar-AAEXUNP?ocid=iehp#page=2
大河ドラマ「春日局」では烈女のイメージの強いおふくを母性愛にあふれた女性として演じ、ウイスキーのCMでは男性の帰りをひたすら待った。可愛らしい女がピタリとはまった大原麗子だったが、生き急いだ末に孤独死を迎えた。没後10年。実弟の大原政光さんが、激しい生き様を回想する。
* * *
一人住まいをしていた姉と連絡が取れなくなったんです。念のため警察に連絡したところ、「もし何かあったらいけないので」と要請を受け、刑事さんと一緒に姉の家を訪ねました。
――2009年8月6日、大原麗子が自宅で亡くなっているのが発見された。享年62。晩年の麗子はギラン・バレー症候群などのため芸能活動を控え、自宅で過ごすことが多かった。稀代のスターが迎えた孤独死について、第一発見者でもある実弟の大原政光さんが回想する。
私は大して心配していませんでした。というのも姉は海外に行っていると思っていたので。それなのに玄関のドアに私の合鍵が入らない。このドアは内側からも、鍵を差して施錠したり開けたりします。中から鍵が差さっている。姉は中にいるんだと、勝手口のほうに回りました。
勝手口は施錠されていましたが、隣のガラス戸が開いたんです。入ろうとしたら刑事さんが「待ってください」と言う。まず先に入ったうえで「ああよかったですね。無事ですよ」と。この方は元鑑識課だったそうで、「死臭がしません」と言いました。
そこで2人で2階に上ったんです。寝室のドアを開けると、姉が仰向けで倒れていました。死後3日経っていたそうです。左目の周りに青い痣(あざ)ができていたので、解剖してもらいました。殴られたわけではなく、脳内出血して、一部が流れたということでした。
姉と最後に会ったのは、約1カ月前の7月7日。うちに来たんです。姉は車を降りて玄関まで小走りしました。とても元気よく。
姉と私は交代で母親の面倒を見ていました。母を迎えに来たのかと思ったら、「カンボジアに行くから、今日は連れていけない」と言いました。もし母が一緒にいれば、姉が倒れたときにすぐに気付いて病院に連絡できたかもしれません。
――大原麗子は1946年11月13日、東京・小石川で和菓子屋を営む大原政武・俊子夫妻の長女として生まれた。店は繁盛し暮らしは裕福だった。
私は姉とは3歳違い。姉は母親っ子で、私が母のおっぱいを飲むと、自分もまたおっぱいを吸うようになったそうです。母はやめさせようと乳首に唐辛子を塗ったんですが、それでも我慢して吸い続けたとか。
私の面倒もよく見てくれました。喧嘩も強くてね。何かあったら、すぐ助けに来てくれました。
幸せな4人家族のようだが、実は大原家は大きな問題を抱えていた。政武さんは日常的に俊子さんと麗子を殴ったうえ、住み込みで働く従業員と関係を持ったのだ。
母は家を出ました。一人で出ていくはずが、姉がどうしても一緒に行くとせがんだようで、多磨霊園のそばの4畳半一間に二人で住み始めました。姉が8歳、私が5歳のときのことです。
姉は母を独り占めできるから、嬉しかったようです。ただし一緒にいられる時間はとても短かったはずです。父が養育費を出さなかったため、母は働きづめ。昼は都庁の下請けをしている会社で事務仕事、夜は皿洗いをしていました。
姉はときどき父を訪ねてきました。たぶんお金の相談だったのでしょう。
生活が苦しいなか、母は姉をバレエ教室に通わせました。習いたがっていたので無理して入れたんですね。
小学6年の学芸会で、姉は「パンドラの匣(はこ)」という劇で主役を演じました。男の子の役で、私の半ズボンをはいて出演しました。劇が終わるとものすごい拍手だったそうで、姉は感動し、それを機に女優になりたいと思ったようです。
――麗子が中学に入ったのに合わせ、夫妻は正式に離婚。その3年後、父に顔を見せに行った麗子は、屈辱的な対応を受けた。
姉は、母親を幸せにしたいという気持ちが強くなっていきました。芸能界に入って成功し、楽をさせてあげたい、と。オーディションを受けたり、野獣会(東京・六本木に集まった若者たちの会。多くが後に芸能界入りした)に入るなどして、チャンスをうかがっていました。
高校1年のときに何かの役を得て、初めてドーランを塗ってもらいました。よほど嬉しかったらしく、その顔を家族に見てもらいたいと思ったんです。父のところにも見せに来ました。
ところが父は、ドーランを塗った顔を見た途端、殴りつけたんです。父の価値観では、芸能界なんてまっとうな仕事ではない。堕(お)ちるに堕ちたといった気持ちで手が出たようです。
かなり強く殴られたので、鼻の骨の右側が少し盛り上がってしまいました。姉はこれが嫌で、そこが目立たないよう、写真の撮られ方を気にしていました。
母との関係はより強くなっていったと思います。初めて海外でCM撮影をしたときには、母をロケ地のハワイに連れていきました。母にとって、生まれて初めての海外旅行。カメラを買い、姉を撮ったようです。
――エキストラ出演から始まった芸能生活だが、頭角を現し、18歳だった64年、ドラマ「幸福試験」に主演。翌年、東映に入社し「網走番外地 北海篇」から5本連続で同シリーズのヒロインを演じ売れっ子となった。
姉は「女優」と呼ばれることを嫌いました。女優は演技だけでなく容姿も評価される。自分はあくまで演技だけで評価をされたい。「女優」ではなく「俳優」だと思っていたんです。
ファンの声を大切にしていました。ファンレターに自ら返事を書くんです。ファンとの手紙のやりとりが、演技についてためになったと言ってました。
とても頑固で、台本で気に入らないところがあれば書き直して、脚本家に交渉していました。「見る人も同じ考えだと思います」と。でも向こうは向こうで考えがあるから、なかなか通りません。それで降板したことが何度もあります。
見る人の気持ちを大切にしたい、大衆から支持されたいという気持ちが強かったんです。「すこし愛して、なが〜く愛して」のCMは、サントリーレッドが大衆酒だから引き受けたと言ってました。実際はお酒はあまり飲めない。ビール2、3杯で十分でしたね。
――私生活では必ずしも恵まれなかった。73年に渡瀬恒彦と結婚したが、5年後に離婚。80年に森進一と再婚したものの、84年に離婚。会見で麗子は、「家庭に男が二人いた」と結婚生活を振り返った。この言葉の裏には、重大な選択があった。
一寛さん(森進一の本名)との結婚生活の2年目、姉は妊娠・中絶をしたんです。夏のある日、姉は私に唐突に切り出しました。
「妊娠したから中絶したい。どこか病院を紹介して」
びっくりしました。姉は卵管を手術したこともあって、妊娠はなかなか難しいと思われていたんです。
私は産むように勧めました。でも姉は、ドラマに出演中で途中降板できない、迷惑をかけてしまう、と。
一寛さんに相談したのかと聞くと、教えていないと言う。私は、一寛さんが子どもを欲しがっていることを知っていたので説得したんですが、姉はこちらの言うことなど聞きません。
ドラマを降板し幸せな家庭生活に入るか、中絶してでもこのドラマをまっとうして俳優を続けていくか。人生の重大な岐路でした。
1カ月くらい経った頃に姉に聞いてみたら、「もう済んだわ」と答えました。女としての人生を捨て、俳優を取りました。女を捨てて、男になったんです。
自分が妻でいる限り、一寛さんは子どもに恵まれない。姉はそう考えた。それが離婚の一番大きな原因だと思います。
姉はなんでも一人で決めるんです。乳がんの手術、瞼(まぶた)の美容整形手術。全部、自分で決めました。友達はたくさんいますが、大事なことは相談しません。姉が言うことを聞くのは、高倉健さんだけでしょうね。
尊敬する美空ひばりさんに、「真赤な太陽」での赤い衣装は似合わないと言い切っていました。でも健さんにはなにも言えないんです。健さんに「講演の仕事を受けたけど、代わりに出てくれないか」と頼まれて、嫌だったのに嫌と言えずに出演していました。
――麗子の母性本能は甥に注がれたという。
私の息子をとてもよく可愛がってくれました。月に1〜2回は一緒に食事をしたものです。息子が描いた絵を額に入れて飾ってくれてましたね。でも甘やかすことはなく、礼儀作法などにはとてもうるさかった。あんまり口やかましいから息子に煙たがられるんですけど、気にせずに注意をしていました。成長を祈って、きちんと向き合ってくれたことに感謝しています。
父が亡くなったとき、看取りには間に合いませんでしたが、姉は家に駆け付けて来ました。私は来ないと思っていたんですが……。やはり父からの愛情に飢えていたんでしょうね。
――唯我独尊の俳優が亡くなって10年。改めて天国の姉に言いたいことは? そう尋ねると政光さんはすかさず答えた。
自分の死後はどうするかといったことを、きちんと書いていてほしかったですよ。何も記すことなく急に亡くなったから、こっちはどれだけ大変だったか。会社のことも税金のことも、私たちは何も知らされていなかったんですから。姉には、終活の大切さを教えてやりたいですね。(構成/本誌・菊地武顕)
※週刊朝日 2019年8月2日号
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