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ロビン・ベイカー「精子戦争〜性行動の謎を解く」を読んでみた
2005年12月13日 | Weblog
多くの人は、自分で自分の人生を決めることが“前向き”だと思っている。自分が何かを考え、実行するから、現実がつくられていくのだと。
でも、実際には自分で何か実行したところで、なかなか思う通りにはいかない。
だから、しばしば人は自己嫌悪に陥る。自分はダメな人間だとか、人生は所詮こんなものだとか思ってしまう。
あるいは人生を恨む。この世界をろくでもないものとみなしたり……。
結局、ポジティブになろうとすることでネガティブになってしまっている。なろうとすればするほど、ネガティブなものを引き寄せている。
そんなふうに言えないだろうか?
と、ここで思う。
つまり、人は自分で自分の人生を決めている。……本当にそうなのだろうかと。
そうではなく、じつは逆にすべてが「決まっている」のではないか?
こう言うと、人はみずからの自由意志が否定されたように感じてしまうかもしれない。一種のニヒリズム(虚無主義)のようにとらえる人もいるだろう。
しかし、そうした自由の捉え方そのものが、その人の自由を縛っている(その人を不自由にさせている)「錯覚」にすぎないとしたら……。
多くの人の陥っているであろう、この「錯覚」に気づかせてくれる本として筆者がおすすめしたいのが、アメリカの生物学者、ロビン・ベイカーの書いた「精子戦争〜性行動の謎を解く」という一冊。
精子戦争。……冒頭のテーマとは一見無関係に思えるが、読者はこのフレーズにどんなイメージを抱くだろうか? まずは作者のベイカー博士が80年代に手がけたという、非常にユニークな研究調査について紹介してみよう。
(ベイカーは)合計約百組のボランティアのカップルから、約千個の射精された精子を収集したのである。男性にはコンドームを渡してセックスやマスターベーションで出た精液を採取してもらい、女性には射精の後に膣から流れ出たフローバック(逆流)を大変な努力を強いてビーカーに集めてもらった。
そして、その中の精子の数を顕微鏡をのぞいて逐一数え、他の男性の精子がミックスされている時は精子はどのように違った行動をするかを観察したり、子宮内に残っている精子の数を割り出したのである。
……それらの調査を通じてわかったことは、射精された精液に含まれる精子の数は変化する、その変化は前回のセックスとの間隔がどのくらいあいているか、パートナーとどのくらい一緒の時間を過ごしたかに関係するという、生物学者を驚かせる革命的なものであった。
こうした研究を大まじめに行なったあたり、優秀な学者に不可欠な“奇人ぶり”が発揮されていて、なかなかおかしい。
ただ、ここで注目したいのは、「射精された精液に含まれる精子の数は変化する」というくだり。
何がどう注目されるのか、わかりやすく言えば……。
男性の体は、その時々の性行為(自慰も含む)の状況に応じて、射精の際にどのくらいの数の精子を放出するかを決めている。
それは、生物的なレベルでコントロールされていると言い換えてもよく、しかも、いかに優秀な精子を取り込むかという女性の体の需要と密接に関わり合っている。
だから、たとえば次のようなことも起こりうる。
女は自分はもう子供はいらないと本当に信じていた。妊娠を避けるため、ピルを飲んでいたし、必要なときには夫にコンドームを使わせて二重の用心をしていた。……(しかし)いわゆる性的に一番活発な一週間の間に、ピルを使うのを「忘れた」のだった。これは本当に「忘れた」のだったか? それとも潜在意識の戦略だったのだろうか?
当人はたまたま忘れてしまった、その結果、子供が生まれてしまったと考える。
しかし、それはあくまでも個人の主観の話。
生物のレベルで見たら、本当に「たまたま」なのかどうかもわからない。
そもそも、普段我々が何気なく使っている「たまたま」とは、どういう意味なのか?
要は偶然そうなったと言っているわけだが、たとえば科学の目で見た場合、偶然と呼ばれるものの法則性をカタチにできるとは思えない。
それよりももっと単純に、物事には原因があって結果があるという因果律で、この世界のありようをとらえてみる。
するとすべてが必然、たまたまということはない、ということになる。
たとえば、先の事例に出てくる「女」は、夫が出張中の間に「たまたま」用事で家に現れた会社の上司と不倫し、性的な関係を結ぶ。次いで、若い窓ふき掃除の男とも、不意な衝動に駆られて同じように関係を結んでしまう。
以上は、ベイカー氏が自らの調査研究から得られた「事実」を、読者にわかりやすく伝えるために創作されたエピソードの一つだが、彼自身、「このシナリオは大変陳腐であるため、注意しないと重要なポイントを見逃してしまう危険性がある」と語っている。
ここまでの話をふまえるならば、この陳腐で見逃してしまいやすい、でも重要なポイントとはどんなものなのか、想像がつかないだろうか?
そう。じつは意思と呼ばれるものは、偶然とも思えることのもっと根底にあるものだということ。
生物にとっての重要事である出産に関して言うなら、それは先にもふれたように、「より優秀な個体を産み出すための最善の判断をする」ということと重なる。
本人の都合とは関わりなく、である。
この女性の体が本当に決めていたことは、夫の子供はいらないということであった。
……(なぜなら)女の目から見ると、夫はここ何年にもわたって体力が落ちている。夫は、最初の二人の子供をつくったときのような力を出すことができなかった。そして今また再び健康を害している。
……実際、彼女の体は、三番目の子供の父親は夫よりもっと丈夫な体格をした、誰か別の人にすると決めていた。したがって、チャンスが到来すると、女性の体は自分の魅力を大いにいかそうとしたのだった。
ここには不倫と呼ばれる行為の、生物的な面でも意味合いがわかりやすく書かれている。
もちろん、不倫をことさらに奨励しているわけではない。ある意味、不倫したいと感じること自体、セットされたものであると言えるわけで……。
女性は、夫以外の男性とセックスするときのほうが、何の避妊法も使わない傾向がある。不倫の場合は状況的に何らかの避妊法をとるのがむずかしいのだが、いつもそうだとはかぎらない。……彼女がピルを適切なときに飲んでいたなら、妊娠することはなかったろう。しかし、彼女はピルを飲むのを忘れてしまった。
繰り返すが、ここで彼女が忘れてしまったことを、「たまたま」ととらえるべきなのかどうか。
この解釈の仕方ひとつで、自分がこうして生きているということの意味合いががらりと変ってしまう。
たとえば、多くの人は避妊さえしておけば子供は産まれない、つまり、子づくりはある程度人為的にコントロールできると素朴に思っていないだろうか?
しかし、そのような理性的な行為?はしばしば「失敗」する。“できちゃった結婚”のような事態が起こる。
この場合、たまたまコンドームをつけなかった。それが「失敗」だった。
状況だけ見れば確かにそうかもしれない。しかし、なぜたまたまつけなかったのか?
それは本人がある瞬間に、つけないでもいいやと思ったからかもしれない。たまたまストックのない時に衝動に駆られたからかもしれない。
しかしいずれにせよ、そんなある状況のある感情までは、人はコントロールできない。そのような「気持ち」は予期せずにやってくる。
もっと視野を広げて見るならば、人は人為によって自然をコントロールできると考える。
しかしそれはしばしば裏切られる。「予想もつかない事態」が起こる。
そのようなとき多くの人は、自分たち人間の愚かさを呪う。
しかし、愚かだからコントロールに失敗したのだろうか? より賢くなることで、失敗は限りなくゼロにしていける。
そんな「理性神話」はどこまで信用できるのだろうか?
……こうした問いかけに関して、先ほどの「陳腐なエピソード」からはまだまだおもしろいことが導き出せる。
もう少し話をつづけよう。
先の女性は、体のレベルで(つまり生物のレベルで)、体力の衰えた夫の子供を産むことを望んでいなかった。
本人は仕事に打ち込みたいからとか、もう二人も産んでいるのだから十分だとか、
顕在意識のレベルでは思っていたかもしれない。
しかし、「彼女には夫の遺伝子よりよい遺伝子を提供されて妊娠できるこんな完全なチャンスを得ることは二度とないかもしれない」。
彼女の体は、唐突にやってきた“不倫のチャンス”に対してそのように判断していた。
彼女が経験した突然で一週間も続いた性的興奮のうねりは、妊娠しやすい時期に起きたホルモンの働きのなせる術である。
この時期に、女性は不倫にいつもより関心を抱くようになることはすでに述べた。……一週間の終わり近くに急に不倫に興味がなくなったことは、妊娠しやすい時期が終わったことを意味する。そしてそれは、妊娠の始まりだった。
不倫をするという以上、そのとき彼女は明らかに“発情”していた。
普通人はそれを「たまたま」ととらえる。しかし、生物的に見たらじつは何らかの力によって誘発されたものであるのかもしれない。
何のために? そう、「夫の遺伝子よりよい遺伝子を提供されて妊娠できる」ようになるために。
おわかりだろうか? 自らに起こったことには、感情面も含めて、それなりに意味(必然性)があるということだ。
その意味を受け取れる人は、同時に現実を受け入れることもできる。
しかし、その意味が見えないままに「たまたま」という視点でとらえようとすると、この世界を動かしている法則性は蚊帳の外になる。
たまたまうまくいった。たまたま失敗した。……確実性のない世界ほど、不自由なものはない。
それより、ミスも含め成功も含め、その背後に意味を見る。自分の都合を超えたところで、よりよく、より強く生きようという生物としての意思を感じてみる。
避妊することで妊娠をコントロールする。ミスがなければ、もちろん子供は産まれない。
自分たちが産みたいと思った時に、避妊をやめる。
そうなれば妊娠する確率はぐっと高まる。そして、実際に子供を産むこともできるだろう。
しかし、そのように意思すること自体が、「よりよい状況でよりよい遺伝子を受け入れて妊娠する」という女性の体の判断に基づいたものであるとしたら?
場合によっては、レイプによって妊娠してしまうケースもある(むしろそのケースが統計的に高いという話を聞いたこともある)。
あるいは、避妊などしなくても全然子供が産まれない、いわゆる不妊症で悩んでいる夫婦もいる。
産まれてきた子供が何らかの障害を抱えていたり、先天的に虚弱であったりする場合もある。
すべてモラルの面から「悪」とされていることである。もちろん、解釈の仕方によってその「悪」が「善」に変わると言っているわけではない。
そこには人の感情が介在するから、往々にして「傷」(トラウマ)も生まれる。
しかし、その傷は「善意」によって解消されるものではない。
まず、善悪の観念にとらわれず、感情的にならず、もっとフラットな視点から物事をありのままに見るようにする。
そうするとこれら「悪」とされてきたことにも、もっと違った主体的な意味や必然性と言ったものも見えてくるかもしれない。
その理解によって傷が癒えたり、人間としての「強さ」を身につけられたりするケースもある。
それを怖いと感じるか、「興味深く」思えるか……。
善悪の観念を生み出すのは脳だが、たえず生物的な意味で“よりよいもの”を志向しているのは、人の身体にほかならない。脳をも含む「全体」が見えてくると、性の意味合いももっとフレキシブルで、自由なものに変わってくる……。
運命に支配されていた状態から、もっと主体的に、その運命に乗って進んでいくことができるようになる。(運命とは“命を運ぶ”と書くように……)
なお、本のタイトルにある「精子戦争」という概念も、こうした“よりよいもの”を志向する生物としての意思に関わっている。
たとえば先ほどの女性は、夫の留守中に衝動にかられ、夫の会社の上司と窓ふきのアルバイトの男と同時進行の不倫をする。
しかも、この不倫がばれないように出張から帰ってきた夫とも、避妊なしのセックスをする。そして、3番目の子供(遺伝的には夫の血を引かない第3子)を出産する。
精子と言えば、「ああ、あのオタマジャクシのような」と思うのがふつうだが、ベイカーは戦闘の兵士である精子にはそれぞれ違う種類や役割があると言って、またまた私たちを驚かす。
すなわち、卵子に突入し受精する「エッグ・ゲッター」と呼ばれる少数派のエリート集団と、受精する能力はないが敵を攻撃する「キラー」、行く手を邪魔する「ブロッカー」のカミカゼ集団だ。
まず、何より大事なのは時間である。ライバルが自分のパートナーの子宮に精子を送り込んだと知ったら(知るのは難しいから、常にそう無意識のうちに仮定して)、いち早く自分の精子軍団も送り込むのだ。
早ければ早いほどいい。しかし、それがわからないからルーティン・セックス(*生殖目的ではない日常的なセックスのこと)をして、安全策を取っておくのである。
(以上、「訳者あとがき」より)
つまり、生殖面ではまったく無意味なルーティン・セックスだが、それはライバル(不倫相手?)の精子の“万が一”の侵入に備えて、自分のパートナーの卵子を守っている兵士を常備させておく手段ということになる。
あるいは、上記にあるようにすでに侵入してしまった“敵”に対して「戦争」を仕掛けるという目的も……(それが「精子戦争」ということ)。
時間の他に、精子戦争に勝つ要因は、量的に圧倒することである。敵の軍団よりはるかに多い軍団を送り込めば、勝つ見込みは高い。
また、キラーを増やしたり、若い精子を増やして、精液の中身の割合を調節する。
(同上)
戦争などと言うとぶっそうだが、ベイカー博士の言わんとしたことの意味は、これだけでも何となくわかるだろう。
個人の価値観は、脳の中で作られるものだから多様で、相対的。
しかし、人はそれ以前に生物であるから、根本的にはあくまで「より優秀な種を残す」ということに最善の策を講じようとする。
「生物としての自分」にとっては、それを実現できたときが「勝利」なのである。
もちろん、この「生物としての自分」の意思に従うのが正しいと単純に言っているわけではない。
子供を産み育てる(あるいは子孫を残す)ということも、必ずしも絶対の価値観ではない。
というより、そもそも(再三繰り返してきたように)、その人が何をどう感じるか、そのこと自体も生物的な意思の中に組み込まれているものであると言えるわけで……。
だから、世の中には生物的な繁栄の法則には180度反している、ホモセクシャルのような人もいる。
ここで彼らの存在を間違っていると言っているわけではないし、そう言ったところで何の意味もない。
肝心なのは、「気づく」ということ。「見る」ということ。
脳の解釈、その脳が産み出した善悪の観念にとらわれず、「よりよいものを志向する」生物としての自分の意思を感じてみる。
そうすれば、ホモセクシャルとして生まれてきたこと自体にも、何らかの意味を見いだせる(必然と受け止められる)ようになるかもしれない。
この「よりよいものを志向する」の“よりよい”は、自分にとって都合のいいこととは必ずしもイコールではないということだ。
生物の自分は、それが自分のためであると判断したなら、身体の免疫力を弱らせ、大病を患わせるような「試練」を与えたりもする。
障害を持って生まれてくることをも判断するかもしれない。
このへんの機微がわからないかぎり、自分が脳のつくりだした牢獄の中にいるということ自体に気づくことはできないと筆者は思う。
逆に言えば、それさえわかれば物事の価値観が180度逆転する。
自分を肯定する、受け入れるということの意味、あるいは「すべてが決まっているからこそ、人は自由である」というパラドクスも見えてくる。
性の解放をもし説くというなら、何よりもそれは脳の自分が作り出した観念から自己を解放するということではないだろうか?
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