アラブが見たアラビアのロレンス スレイマン・ムーサ 2005年 02月 27日
映画「アラビアのロレンス」のロレンスを見たため、ロレンス本を探す。これはアラビア側が書いたもので、ロレンスを英雄視している人にはショックな内容だろう。つまり、ロレンスはアラビアの反乱時には指揮権など持っておらず、単にイギリス軍人としてアラビア側に同行していただけだったが、イギリスの上司にはさも自分がアラビアの王たちに影響力があり、作戦を考え指示したように報告していたこと、著書では話を大きく書いていること(人はこれを嘘と呼ぶ)、そしてアラビアの独立時には、ロレンスはアラブとイギリスを繋ぐ重要人物になっていたのだが、彼はアラブの信頼を裏切りユダヤ人のパレスチナ入植を積極的に支持したこと(これがアラブにとっては最も許せないことだろう)など、多数ある。
まず彼の著書「知恵の七柱」では、ファイサル王子から大叔母から贈られた金の刺繍入りの婚礼衣装となっているアラブ服だが、これは単なる白い絹の服で、アラブ人にとっては客人や支持者に服を贈ることは当たり前のことだった。 映画ではロレンスが奇襲を仕掛け大活躍するアカバ占領だが、これはファイサルとアウダによって練られた計画で、ロレンスは自分がこの計画の指導者だと主張しているが、実際は地雷の埋設を助けるから一緒に連れて行ってくれと、有名な砂漠の戦士だったアウダに頼み同行しただけだった。映画ではアウダやアラブ人は金の亡者で金のためだけに戦闘に加わっているが、実際は多くのベドウィンが反乱への忠誠を示そうとアウダのもとに集結していった。そして映画では、砂漠を数週間で強行突破して通り抜ける所が強調されているが、アウダ軍は5月から7月にかけての長期にわたる移動であり、途中線路を爆破したりトルコ兵と戦闘したりしている。7月のトルコ兵との戦いでは、ロレンスは自分の銃弾が自分のラクダに当たりラクダが死んでしまい、ロレンスは戦闘が終わるまで失神していた。そしてアウダは、アカバでは守備隊を降伏させ、アラブ軍の主力隊の包囲によりトルコは降伏した。つまり、映画でのロレンスが砂漠を渡り、その際自分だけ砂漠に戻ってラクダから落ちたアラブ人を助けるなんて自己犠牲のお話は全く作られた映画での盛り上がりを作るための美談だった。 またロレンスが書いた「アラブ通信」では、トルコ兵が半トルコのアラブのシェイフを4頭のラバにくくりつけて八つ裂きにしたと載せているが、そういった名前の人物は存在せず、かつ動物に人をくくりつけて処刑するのは中世ヨーロッパのやり方で、トルコではこんなことは実際にしない。またロレンスはトルコ兵が婦女子を殺したとしているが、筆者が調べたところそういった部族の人たちはそれを否定している。 汽車を襲撃した件では、ロレンスは著書の中で、怯えきったアラブ人の老婦人を助けたため後に絨毯を送ってもらったと書いている。が、友人にあてた手紙には、”戦利品の絨毯”が出てくる。映画では絨毯は出てこないが、アウダらアラブ軍が汽車の中から馬や時計など乗客の荷物を盗んで行きロレンスが怒っているが、実際にはロレンスも同様に襲撃した車内から盗んでいたわけだ。 1917年11月デラアでロレンスは、トルコ兵に捕まり鞭で失神するまで打たれると著書と映画にある。そしてバーナード・ショーの妻に後日出した手紙で、この時犯されたのだと告白している。この件の前に、ロレンスは列車爆破の任務をしており、爆発の際に怪我をしている。本書の著者はロレンスが10日ほど前の怪我があるにもかかわらず、数日間あちらこちらを回り、デアラから直ちにアズラクへ戻っていることに疑問を呈している。もし本当にデアラで拷問を受けたのなら、生死の境をさまよいながら翌朝にはアズラクへ、そしてアカバへの600kmの道を行けたのだろうか。ロレンスのアズラク滞在を知る人物によると、ロレンスはアズラク滞在中、どこにも出かけていなかったようだ。 イギリスがパレスチナにユダヤ人国家建設を支持したバルフォア宣言は、力を持つアメリカのユダヤ人組織の支持を取り付けアメリカを参戦させるため、そしてエジプトとスエズ運河でのイギリスの地位を強化するためパレスチナを防波堤として確保するためだった。また石油目当てのイギリス、フランス両国であったが、イギリスはファイサル王子にフランスの野望の餌食にならないため、アメリカ人を味方につけないとシリアを救済できないと思わせ、ファイサルにバルフォア宣言を認めさせた。シオニストのワイツマンは、ファイサルに、ユダヤ人はパレスチナを支配するつもりはなく、避難所を持つことを目的としていると口説いた。 ロレンスはシオニズムにはっきりと賛成し、そして彼は常にイギリスの利益のために働いていた。イギリス女性が、イギリスの親シオニスト政策に抗議するためアラブ人やイギリス人を招いてパーティーを開いたが、ロレンスは反シオニズムはイギリスの国益に沿わないので、自分は出席しないと断っている。 アラブは独立のため大戦に参加したが、列強が協定や約束や保証を破り、アラブ諸国を分割統治してしまった。大シリアは分割され、イラク、シリア、トランスヨルダンとなる。ファイサルはイギリスが統治していたイラクに自治権を与えることを交渉し、イラクは独立しファイサルはイラク王となった。また兄のアブドッラーは、トランスヨルダンの首長となった。 ロレンスはチャーチルのもとで、ファイサルの父であるフセイン王に、シリア分割とユダヤ問題を受け入れることを迫った。が、フセイン王は「アラブの民は彼らの祖国の大義を私の両手に委ねた。そのため、住を求める彼らの要求から逸脱するような権限を私は持っていない」と、アラブ諸国に対する帝国主義的政策を容認することを拒絶した。 1919年9月のロレンスの手紙には、「アラブが最初の褐色の大英帝国自治領であるべきで、我々の最後の褐色植民地となるべきではないのです」とある。著者は、ロレンスの礼賛者たちは、ロレンスがアラブの地位を”植民地”から”自治領”へと格上げを望んでいたことに喜ぶのかもしれないと皮肉を書いている。そしてロレンスが支持し、ファイサル王に承認をせまったユダヤ人の民族的郷土政策により、パレスチナからアラブ人が追い出され、ユダヤとアラブの間に現在まで続く憎しみと戦いが行われている。 ロレンスはベドウィンの食事や閉鎖的習慣にも嫌な顔をしないイギリス人であり、ベドウィンは彼を仲間として受け入れていたことは確かだ。また彼は、アラブにはイギリスで自分が力があるように、そしてイギリスにはアラブで力を持っているように振舞うことで、双方の信頼を集めていた。根本的に役者だったロレンスは、大戦後にパリやロンドンをアラブ服で歩いた。アメリカ人記者トマスは、ロレンスを英雄に仕立て上げたわけだが、ロレンス自身「どちらかといえば、私は真実よりもウソを好むが、特に自分に関係がある時はそうだ。」とか「歴史なんて容認されたウソの積み重ねにすぎない」と言っている。 アラブにとって反乱は、アラブの目的のためにアラブによって行われたアラブの出来事であり、ロレンスたち外国人たちは、爆破技術支援のために連合国から派遣された軍事顧問団であり、ロレンスが反乱の指導者であるというのは、西洋人に作り上げられた英雄像でしかない。 ロレンスはアラブの勝利を望んでいた。なぜなら、アラブはイギリスの同盟者であり、アラブが勝てばエジプトからイギリス軍が侵攻しやすくなるからだった。またダマスカス入城を一番乗りしたのは、フランスにシリア拠点を取られたくなかったからだ。 ロレンスは本国に戻った後、偽名で入隊し、また著作でもうかった金を受け取ることを拒否している。こうした面はロレンスを謙虚であるとか、またはアラブに対して罪悪感を感じていたためとか言われている。著者は以下のように結論付けている。 ロレンスは、心の奥底では、自己の名声の大部分が欺瞞に基づいていることを知っていた。彼は又、もしも彼の仲間のようなより正直な道を歩んでいたら、大戦後の晴れ舞台や偉大な人物からの支援をほしいままにするのは出来なかったことも知っていた。それゆえに、彼の罪悪感が彼を空軍や戦車舞台へと追いやったのであり、そうすることで自分をひそかに苦しめていた以前の過ちの償いを臨んだのである。 https://nekotamago.exblog.jp/2130515/
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