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仏教の自然観:とある仏教徒のゼロ視点、優しいかたち‥
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/505.html
投稿者 手紙 日時 2017 年 3 月 07 日 18:45:58: ycTIENrc3gkSo juiOhg
 

件名:仏教の自然観
日時:19920214 / インド・ニューデリー
媒体:The Office of His Holiness the Dalai Lama
出所:http://dalailamajapanese.com/messages/environment/buddhist-concept-of-nature
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仏教の自然観


今宵は、仏教では自然がどう捉えられているかお話しましょう。

ナーガールジュナ(龍樹)は、実体の無い空(くう)が可能な体系においては、あらゆる働きもまた可能であり、働きが可能であるがゆえに、空もまた可能である、と説いています。ですから、自然とは何かといえば、自然は究極、空です。では、空とは、サンスクリット語で言うシュニヤーターとは、何のことでしょう。それは、存在しない、という事ではなく、むしろ、真にまたは独立して存在するものが無い、という事です。つまり、事象は別の要因によって存在していると言うことです。


さて、生き物の住み家である環境にしろ、そこに住む生物にしろ、どちらもすべては五つないしは四つの基本的要素でできています。その要素とは、地、風、火、水、空大つまり空間です。空間については、カーラチャクラ・タントラの教えの中に、空間の微粒子である空間原子といものについて教えているところがあります。それが、あらゆる現象の中枢の力を成しているものです。宇宙の全体系が初めに展開したのは、空間の微粒子であるこの中心の力からだったのです。そしてまた、宇宙の体系はいずれ分解して、この空間の微粒子に戻るでしょう。ですから、この五大要素の考えに基づいて、住み家である自然環境と、その住人であるすべての生き物の間には、とても密接な相互関係、相互関連があるのです。


また、要素についてですが、生きとし生けるものの中に生来存在する、内的要素というものがあります。その要素にも、微細なものから粗いものまで、色々なレベルがあります。

仏教の教えによれば、究極的には、最も深いレベルである微細な意識が、唯一すべてを創り出しており、それ自体は非常に微細な形態の五大要素でできています。これら微細な要素が条件となり、内的要素を生じ、それが生命を形作っているのです。そうして次々と、外的要素を存在として生じさせたり、展開させたりしているのです。ですから、環境とそこに住む生き物とは、非常に密接な相互依存や相互関係があるのです。


相互依存の意味する中には、事象の依存する多様なレベルがあることを含んでいます。原因因子に依存する、全体が部分に依存する、現実の中でレッテルを貼ったり名称を付けたりする概念的思考に依存するなどです。


今日は、自然環境とそこに生きとし生ける物との相互関係、相互依存についてお話していきましょう。

さて、私の友人で、人間の本質は何か暴力的なものだと言った人が何人かいます。私はその友人に、そうは思わないと言いました。他の哺乳類、例えば虎やライオンのように、基本的に生きていく上で他の動物の命に大きく依存している動物を見てみると、そういう動物はその本質のために、長い歯長い爪など、特別な体の構造を持っています。そして、鹿などの穏やかな動物は、完全な草食で、歯や爪は違っていて優しいものです。そういうふうに考えると、私たち人間は優しい方の部類に入りませんか?私たちの歯も爪も、とても優しい形です。ですから、私はその友人に、あなたに意見には同意しないと言ったのです。人間は、本質として非暴力的性格を持っているのです。


また、人間が生きていく問題ですが、人間は社会的な動物です。生きていくためには、仲間が必要です。他の人間がいなければ、生きていくことは絶対不可能です。それが自然の法則であり、自然の姿です。


私は、基本的に、人間の本質は優しいのだと深く信じていますので、人は環境に対して優しくあるべきだと思います。ですから、仲間である人間と、とても優しい非暴力的な関係を持ち続けるだけではなく、同じように、自然環境に対しても、その姿勢を広げていくことがとても大切だと思います。道徳的に考えてもそうでしょう。私たちは皆、自分達の環境のことを心に掛け考えるべきなのです。


また、別の視点があると思います。それは道徳や論理の問題ではなく、私たち自信の生存の問題です。環境がとても大切なものであることは、この世代に限ったことではなく、この先の世代にとってもです。もし自然環境を極端な形で利用してしまったら、今日にはなにがしかの利益を得るかも知れませんが、長い目で見れば私たち自身が、そして次の世代が苦しむことになるでしょう。環境が変化すれば、気候の状態も変化します。その変化が急激であれば、経済構造や多くのことが、肉体でさえ変化するのですから、その影響力が大きいことは、お分かりになるでしょう。そういう観点からすると、これは自分達だけの生存の問題だけではなくなります。


ですから、もっと有意義な結果をもたらすように、そして、自然環境の保存、保護、維持をうまく進めるために、まず、人間自身の心のバランスをとることも大切だと思います。自然を疎かにしたことは、人間社会に多大な害を招きましたが、それか環境が特別に大切だと言うことを知らなかったからです。ですから、まずは人々にこの知識を広めることが、非常に大切だと思います。それが大切であることを人々に教えたり語ることは、私たち自身のために、とても大切です。


そしてまた、もう一つとても重要なことは、常々言っていることですが、思いやりのある考え方の大切さです。先にも申しましたが、人は物事を利己的に考えていても、一人では生きていけません。ですから、人の幸福を考えそれを示し、人の苦しみを分かち合い、人の助けになれば、結局は自分のためになるのです。自分のことしか考えず、人のことを忘れていると、いつかはうまくいかなくなります。これも自然の法則のようなものです。とても単純なことだと思います。あなたが人に向かって、笑顔を見せずに、何か嫌な顔とかをして見せたら、相手も同じような反応を返してくるでしょう。そうでしょう?人にとても正直に心を開いて接すると、これもまた同じような反応が返ってきます。ですから、これはとても単純な論理なのです。


誰も友達が欲しくて、敵は作りたくありません。友達を作る良い方法は、暖かい心を持つことです。お金や力があればいいというものではありません。権力やお金による友人は、また別のものです。友達とは言えません。


本当の友人とは、真に心の友達のことでしょう?いつも言っていることですが、お金や権力を持っているときに寄ってくる友達と言う人達は、本当の友達ではなく、お金や権力の友達です。なぜなら、お金や権力が無くなるとすぐ、この人達もバイバイ、サヨナラと言うつもりだからです。こういう人達は頼りにならないことを分かってください。心からの本当の友達は、いつも悲しみや重荷を分かち合ってくれて、成功しているときであろうが運の向いていないときであろうが、いつも来てくれます。ですから、そのような友達を作る方法と言うのは、怒りを用いることなく、また、ただ教養や知性があればいいと言うものでもなく、心、それも良い心によってです。
ですから、常々言うのですが、物事をより深く考えるのであれば、利己的になるにしても、狭い心で利己的になるのではなく、賢明に利己的になるべきです。そういう考え方で肝心なのは、普遍的責任感です。これこそが、力が沸く真の泉であり、幸福を生む真の源です。


その観点からすると、もしこの世代で次の世代や将来のことを気に懸けないで、森林、水、鉱物資源でも何でもあるものすべてを利用してしまえば、それは私たちの罪になるのではないでしょうか。私たちが、真の普遍的責任感を中心となる動機を主義として持てば、そういう方向から、環境との関係はうまくバランスが取れるようになるでしょう。同じように、周りの人、近所の人、隣の国等、あらゆる関係においても、そういう方向からバランスがとれるようになるでしょう。


この国インドでは、古代、実に多くのすぐれた思想家や偉大な宗教家が輩出しました。近代になっては、マハトラ・ガンディー他幾人かの政治家のような偉大なインドの思想家達が、アヒンサ(非暴力)のような高潔な思想を、政治の世界において実践したのだと思います。ある意味では、インドの非同盟外交政策も、そのような道徳的主義と関係しているのでしょう。このように高潔な思想や行動が、この国インドにおいて更に広がりを発展してくことは、大変由緒のあることであり重要なことだと思います。


さて、ここでもう一つ大変重要だと思うことは、意識とは何か、心とは何かという事です。今まで過去1、2世紀の間、特に西洋においてでしょうが、科学技術が非常に強調され、その対象は主に物質でした。


今日の核物理学者や神経学者の中に、微粒子を非常に詳細に深く調べて分析し始めている人達がいます。その研究で研究者達は、専門家の間では知覚者〞とも称される、観察者側から、ある種の関与があることを発見しました。知覚者〞とは何でしょう。簡単に言えば、それは存在、つまり、科学者のような人間のことです。さて、頭脳についてですが、西洋科学では、一千億以上ある脳細胞をまだすべては認識していません。現在のところ、一千億のうち数百程度認知していないと思います。次に、心についてですが、その名称が心でも、特別な頭脳エネルギーでも、意識でも頭脳と心、心と物質の間には、関係が生じています。これが重要なことだと思います。心と物質の関係を論点に、東洋哲学と西洋科学が何かの形で対話すべきだと思います。


とにかく、現代人の意識は、あまりにも外の世界ばかりに向いていて、そちらとばかりかかわっています。内なる心の世界を大切にしたり知ることが、なおざりになっていると思います。


科学的物質的発展は、私たちが生きていくためにも、恩恵を受けるためにも、栄えていくためにも必要なことです。同じ位に、心が平穏であることも必要です。心の平穏は、どんなお医者さんにも注射して貰えるわけではありませんし、どんなマーケットも心の平穏や幸福を売ることはできません。何百万ルピーもあれば大抵のものは変えます。でも、スーパーに行って心の安らぎを下さいと言えば、人に笑われるでしょう。お医者さんに、感覚を鈍らせるのではなく、本当の心の安らぎが欲しいんですと頼めば、睡眠薬か注射を処方されるかも知れません。それで少し休むことはできるかも知れませんが、休養とは少し意味が違いますね?

真の心の平穏、平静を望むなら、お医者さんからは貰えません。コンピューターのようにどんなに精巧な機械であろうと、心の平穏を作り出してはくれません。心の平穏は、心からしか生み出すことができないのです。どんな人間も、幸せや喜びが欲しいものです。ここで、喜びと苦痛を、肉体的なものと精神的なものとで比べてみてください。精神的なものの方がまさっていて、大きな影響と支配力があるのがお分かりになるでしょう。ですから、確かな方法で心をより平穏にすることは、相応の価値があるのです。そのためには、心についてもっと知ることが大切です。これもまた非常に重要なことだと、いつも思っています。私の話はこんなところでしょうか。


環境や環境保護のことを言うとき、多くの事がかかわってきます。最終的には、決断を下すのは、人間の心ではないでしょうか。ですから、鍵になるのは、思いやりの心と、はっきりした自覚に基づいた普遍的責任感だと思います。


1992年2月14日 インド・ニューデリーにおける演説


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//memo



by Viva Frei


 

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コメント
 
1. 2017年3月08日 22:14:13 : MsLepB7A0c : yqFSRwIWuHA[2]
自分のことしか考えず、人のことを忘れていると、いつかはうまくいかなくなります、

狭い心で利己的になるのではなく、賢明に利己的になるべきです。そういう考え方で肝心なのは、普遍的責任感です。。これも自然の法則のようなものです。

コンピューターのようにどんなに精巧な機械であろうと、心の平穏を作り出してはくれません。心の平穏は、心からしか生み出すことができないのです。


すばらしい言葉、教えがちりばめられてますね。


2. 中川隆[7023] koaQ7Jey 2017年3月09日 10:58:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7487]
こいつ、完全なバカだろ


そもそも、釈迦の教えは

わからない事については一切語ってはいけない

というものだからな

こいつの話は最初から最後まですべて思い込みと妄想だけで、中学生レベルの感想を言ってるだけだ


3. 中川隆[7024] koaQ7Jey 2017年3月09日 11:14:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7488]

釈迦、仏法を語る

ブッダは、「世界(宇宙)と我はひとつである」などという主張は、実証できない空想的独断にすぎないので、まったくおろかな見解である、と説きました。

___________________________________

弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなもの

に立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というよ

うな教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」

「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマ・ニカーヤ 22)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/okawa.html

ブッダは、人間が死後も存在するかどうかというような人間の知識を超えることがらについては、それは独断にすぎず、無益な

ものであると考えて、沈黙を守りました。


________________________________

滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか。世尊よ、どう

かそれをわたしに説明してください。あなたは真理をあるがままに知っておられるからです。

師は答えた。ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論議する根拠がかれ

については存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、すべての論議は絶えるのである。
(スッタニパータ 1075〜1076)

尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。

「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち ---

世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものである

とか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、

これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉

しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ 参って、この意味を尋ねてみよ

う・・・。

もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中

略)

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことが

あるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのよ

うに説くことを要求し、そのように説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。

また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに

、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを
征服することをわたしは教えるのである。
(マッジマ・ニカーヤ 63)


ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような

種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。そ

れは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマ・ニカーヤ 72)

弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなもの

に立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というよ

うな教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」

「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマ・ニカーヤ 22)


4. 中川隆[7025] koaQ7Jey 2017年3月09日 12:50:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7489]

こいつが安らぎだ、平和が大事だと唱えている間にこういう事態が進行してたんだ:

チベット人絶滅作戦

* 1959年の3月チベットの首都のラサで「改革解放」の名のもと「民族浄化」が開始、

殺戮・破壊・強奪・強姦が行われた。

* 15万人の僧侶と尼僧は公開虐殺によって1400人に減らされた。

僧侶に対しては、滑車を使い仏像の重みによる絞首刑や、尼僧に対し警棒の形をした
5万ボルトのスタンガンを性器に入れて感電死させ彼女の死体は裸のまま路上に捨てられた。

* 一般民衆の犠牲者は120万人におよぶ。中国は「強制断種(チベット男性の生殖機能を手術に

よって奪う事)」や「強制交種(チベット女性を中国男性と交わらせ民族の血統を絶つ事)」等
の民族浄化に力を入れた。

* 生き残った証言者によると、親の死体の上で子供に泣きながらダンスをさせ、人民解放軍は

それを笑いながら銃殺した。


「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。」
特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。
ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、 「仏陀に腕を返してもらえ」 と嘲笑された。
大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、
馬や車で引きずり殺されていった。
アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに
小便をかけるように命じられた。


さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」 と中共兵に嘲られ、
挙句に全員射殺された。おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、
大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。

貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。
僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。

リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。
何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。

僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、 「仏陀はどうしたんだ?」 と中共兵に嘲られた。


* 「ジュネーブ法律家国際委員会」が受理した供述書によると

「何万というわが国民が殺された。軍事行動においてばかりでなく、個人的に、また故意に
殺されたのである。彼らは銃殺されたばかりでなく、死ぬまでむち打たれたり、磔にされたり、
生きながら焼かれた。ある者は生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたりして殺された。
こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。
犠牲者の同じ村人、友人たち、隣人たちは、それを見物するよう強いられた。」とある。 -- (東亜から転載) 2008-03-19 10:46:18

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル ダナム著

妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。
尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。
拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。
大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、
熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。
さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と嘲られ、挙句に全員射殺された。
おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれた。 -- (名無しさん) 2008-03-19 21:09:31
鉄砲でやられてる犠牲者の写真
http://www.tchrd.org/press/2008/pr20080318c.html

なぜチベットで抗議の焼身自殺が後を絶たないのか

2012年11月14日(水)  福島 香織


 チベット地域で僧侶や尼僧、信者らの中国共産の宗教弾圧、人権弾圧への抗議の焼身自殺が続いている。2009年以降、すでに累計70人以上が焼身自殺を図り、60人近くが犠牲になっている。

 中国共産党の次期中央指導者が選出される第18回党大会開幕日の8日をはさむ4日の間に7人が焼身自殺を図った。このうち15歳の少年を含め4人が死亡した模様だ。9日には青海省のレプゴン(黄南チベット族自治州同仁県)で学生を中心に1万人規模のデモが発生し、学生らは学校で掲揚されている中国国旗が引きずりおろし、政府市庁舎前で「フリーチベット」「ダライ・ラマ14世の帰還」を訴えたという。自由アジア放送などが伝えた。

 とりあえず治安部隊との衝突は避けられたようだが、焼身抗議があるたびに、その犠牲者の故郷で抗議デモが起きる状況が繰り返されており、いつそれが暴発するか、再び2008年3.14事件(ラサのチベット僧侶らのデモ弾圧から始まった騒乱および全チベット地域に広がった抗議運動とその鎮圧事件)のような悲惨な事態が起きるか、その緊迫状況は想像を超えるものがあるようだ。

 また、ダラムサラからチベット関連ニュースを日本語で発信しているブログ「チベットNOW@ルンタ」によれば、青海省のゴロクチベット族自治州のマチェン県の村で、「軍事訓練」と称して村の住民全員を無差別に殴ったり、髪を強制的に剃ったりの暴力が行われ、チベット語擁護者は見せしめのように公衆の面前で暴行され入院者まで出ているとも(チベット語紙・チベット・タイムス10日付け)。文革時代さながらの暴力と緊張がチベット地域の村々で起きているもようだ。

チベット女流作家オーセルさんが伝えるチベット

 エッセイは2008年の3.14事件以降、オーセルさんが見聞きしたこと、感じたことを綴っている。最近の域内の様子をここまで伝えた本をほかにしらない。


生命を軽んじて焼身自殺をするのではない

 3.14事件がどんなふうに起こったかを証言するチベット青年との会話ににじむ憤怒と恐怖。

チベット仏教の伝統から言えば侵してはならない神聖な土地とされるギャマ(チベット自治区メルド・グンカル県)が、漢族資本により鉱山資源開発で掘りつくされ、廃液で重大な環境汚染を引き起こされ、さらに、掘削のために村に送りこまれた一万以上の漢族労働者と数千人のチベット村民が飲み水をめぐって流血事件が起きたこと。

ダム開発に伴う強制移住が与える後遺症の深刻さ。

中国語の書類を読めないチベット庶民に、「生活保護」に関する書類だと嘘をついて、ダライ・ラマ帰還拒否文書に署名させる地元当局幹部の悪辣さ。

開発や建設といった言葉を借りて行われる搾取と環境破壊は、もちろん漢族社会でも大きな問題だが、チベット地域ではこれは植民地主義的行為、民族のジェノサイドという側面が加わるということ。

とどまることを知らない焼身抗議の裏に、数えきれない焼身以外の自殺者が存在すること。


「他に方法がないのです。是非とも国際社会は中国政府に圧力をかけて、チベット人への圧政を止めさせてください。…21世紀になってもチベットがこのように残酷に扱われているという悲劇的状況に対して、緊急の行動が取られてもいいのではないでしょうか?」


文化が侵され、断末魔を上げている

 読んでいるうちに涙が止まらなくなってきた。これが今の本当のチベットの姿ならば、痛ましすぎる。一つの完成された文化が侵され、断末魔を上げているのだ。彼女の過激な言葉にも納得がいく。

 社会の近代化とともに宗教や伝統というのはすたれていくものだよ、チベットはそのプロセスにあるだけだ、ともっともらしくいう人もいるかもしれない。だが望ましい近代化というのはチベット人の手で推し進め、伝統や文化の呼吸を止めずに変容させることであり、仮に他者の手で行われるならば、その文化に対するよほどの敬意と憧れがないと不可能だろう。中国共産党が進めているのは、チベット社会の近代化ではなく、チベット文化の息の根をとめて、その遺骸を使って美しい剥製をつくろうとしているだけではないか。
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/333.html

治安維持とは原住民弾圧

今中国が国内でやっている事は、9割以上の地域の「本来の所有者」の少数人種をこの世から消し去る事業です。

北京以外は全て「外国」なので少数民族は邪魔であり、特にウイグルとチベットを敵視しています。

「治安維持」とは要するに少数民族をこの世から消し去り、中国全土を北京人種が支配するための費用です。


中国では毎日10回以上どこかで暴動が起きていて、テロも頻繁に発生しています。

中国は「国内だ」と言っているが、ウイグル人やチベット人から見ると、北京系中国人こそ外国人です。

ウイグルやチベットでは現地語の禁止、民族衣装の禁止、移住政策、教育の禁止などが行われている。


少数民族の年間所得は中国人の10分の1で、年収数万円といったところです。

絶え間ない弾圧政策で、例えば夕飯を食っている最中でも治安部隊が銃を持って突入してきて、家族を連行したりします。

テロ容疑だとかもっともらしい理由をつけるが、何の理由も無く連れ去って恐怖を与えるのは、中国4000年の伝統的な統治方法です。


台湾原住民によると中国人は、理由もなく暴行し、理由を説明せずに連れ去って処刑する。

理由を明かさない事が「何をしても無駄だ」という恐怖を増幅させ、住民を服従させるのだという。

対して日本軍は必ず理由を説明し、その理由を論破すれば相手を議論で負かすことが可能だという。
http://thutmose.blog.jp/archives/60763210.html


5. 2017年3月09日 19:18:29 : 7AOkdEr24c : dvP07uRclco[12]

ガウタマ・シッダールタは、ひとりの仏にすぎない。

それ故に、その教えは、ひとつの教えにすぎない。

それ故に、諸仏の教え、その総和を仏教と呼ぶ。



6. 中川隆[7027] koaQ7Jey 2017年3月09日 21:51:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7491]
>>5
大乗仏教というのはバラモン教やヒンズー教と中身が全く同じなんだ

紛い物のインチキ仏教なのさ

空というのはアートマン・ブラフマンと同じものだ

そして、アートマンは存在しない(無我説)、従って死んだら何も残らないというのが原始仏教の前提

従って、空というのは無意味な概念なんだ


7. 中川隆[7028] koaQ7Jey 2017年3月09日 21:55:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7492]
>ガウタマ・シッダールタは、ひとりの仏にすぎない。


仏というのは目覚めた者という意味

目覚めるというのは死後の世界とかアートマン=空 というのが単なる心の中に現れる妄想だというのを悟る事だ


8. クールクール・K[176] g06BW4OLg06BW4OLgUWCag 2017年3月10日 01:33:24 : 3eyVFVE6Qc : 4ITerbtfGWw[84]
仏というのは「宇宙のビット」のことさ。たぶん。
「宇宙のビット」はおれが考案した言葉だけどw

9. 2017年3月12日 13:01:42 : MsLepB7A0c : yqFSRwIWuHA[6]
7>「仏というのは目覚めた者という意味」

  そうなんだよ、仏の智慧で色々わかる、 釈迦が悟り開いたとき

  この悟りは誰も理解できないだろう、自分一人でこの境地を楽しもう

  と当初は考えておられた。


  つまり、悟りの境地は悟った者にしかわからない、でも 色々言葉で

  説明する、本物ではないが、言葉遊びの世界。

  君も悟っているわけではなかろう、悟とって無いもの同士の議論

  だから、あまり本気にならないように。


10. 2018年9月27日 09:04:13 : KqBkTpQwBY : G23smvAaP84[2] 報告

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