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全世界を驚かせたボブ・ディランのノーベル文学賞受賞。長らく候補に挙がっていたとはいえ、その衝撃の大きさは想像以上だったようだ。日本ではおおむねお祝いムードなのだが、欧米では受賞の是非をめぐる議論が巻き起こっているという。特に文壇から発せられる疑問の声は小さくない。
◆ディランにとって「文学」扱いは迷惑?
小説『トレインスポッティング』の著者であるアーヴィン・ウェルシュは、「これは、ボケて支離滅裂の年寄りヒッピーたちの臭い前立腺からもぎ取られた、ノスタルジー優先の良くない受賞だ」(BBC NEWS 日本語版 10月14日配信)と痛烈に批判した。
小説家のジョディ・ピコーも祝意は示しつつ、「だったら私でもグラミーもらえるかしら?」とのハッシュタグを付け加えることを忘れなかったという。
だが周囲の喧噪をよそに、かたくなに沈黙を守るディランの真意はどこにあるのだろうか? 受賞決定から2日ほど経ってもコメントひとつ発表せず、ノーベル賞事務局さえコンタクトが取れずにいるという。(注・10月15日現在)
こうした状況をある程度予想していたのが英紙ガーディアンだった。
10月13日に配信された記事で、イギリスの小説家、ウィル・セルフの見解を紹介している。セルフによれば、ディランはサルトルにならって受賞を辞退するだろうというのだ。爆弾や武器によって築いた財産から生まれた勲章を手にすることは、かえってディランの価値を貶める。それが彼の理屈だ。
ただし、そのような理由からディランが受賞を拒否するとは考えにくい。なぜなら一昨年のスーパーボウルのハーフタイムでクライスラー社のCMに出演し、「アメリカ以上にアメリカ的なものなど、この世にない」と、ドナルド・トランプも真っ青のナレーションを吹き込むのがリアリストたるディランの真骨頂だからである。
●OFFICIAL Chrysler and Bob Dylan Super Bowl Commercial 2014 America’s Import
ゆえに、もしそれが現実に起こるとすれば、もっと個人的な理由からだろう。
長年の友人でソングライターのボブ・ニューワースはワシントンポストの取材に対し、「受賞の事実そのものを認めないだろう」(原文・He may not even acknowledge it)という言い方をしている。つまり、自身の音楽が“文学”として評価されることに、ただならぬ違和感を覚えているのではないだろうか。
◆CDに歌詞カードを付けなくなったディランの真意は
そのひとつに、ディランがある時期からCDに歌詞カードを付けなくなったことが挙げられる。日本語盤ライナーには詞の対訳のみ掲載されているが、原盤には歌詞に関する情報が全く存在しない。
もちろん公式サイトで全て確認できるから必要ないのもあるだろうが、最大の理由は、音楽よりも詞ばかりが深読みされる事態にディランが辟易している点だろう。彼の神格化に貢献した“Dylanologists”(ディラン学者)の存在こそが、ミュージシャンとしてのディランを悩ませている皮肉。
そこへノーベル「文学」賞なる重石も加わるとなれば、ディランの音楽は“聴かれる”ものではなく、永遠に“読まれる”ものとして扱われてしまう危険すらあるのだ。
そしてディランは、何よりも自身をミュージシャンだと考えている。次の発言からよく分かるだろう。
<俺にとって興味があったのは、ミュージシャンであることだった。シンガーであることも大事だし、曲も大事だ。しかし、脳裏のどこかで常に一番最初に来るのは、ミュージシャンであることだった。
(中略)他の連中が「ラン・ルドルフ・ラン」に夢中だった頃、俺の興味はレッドベリーにあった。ステラの12弦ギターを弾いてた頃さ。「あれをどうやって弾いているんだろう?」「どこに行けば、あの12弦ギターを買えるんだろう?」って。(中略)俺の理知は常にそういう働き方をした。音楽に関して。>
(『インスピレーション』よりボブ・ディランのインタビュー 著:ポール・ゾロ 訳:丸山京子)
“ノーベル賞などより、ガーシュウィン賞やケネディ・センター名誉賞の方が、遥かに重要なのだ”と語ったとしても、全く驚かない。それほどまでにミュージシャンであることへの強いこだわりが感じられるエピソードだ。
◆ディランを「反体制」だという人たちのカン違い
最後に考えられるのが、ノーベル文学賞にある種の政治的なメッセージが込められる可能性への嫌気である。つまり、トランプ、プーチン、ルペンなどが台頭する世界情勢へのアンチテーゼとして担ぎ上げられるのはまっぴらごめんだ、と。
なぜなら、ディランにとって詩や曲を書くことは、社会を改良することと何の関係も持たないからである。
「詩人はPTAに出席しない。詩人は、そうだな、例えば住宅改善事務局の前でピケを張ったりしない。」(『インスピレーション』)
これこそが、ディランの基本理念なのだ。
自伝の中で、なぜロバート・ジョンソンに取りつかれたのかを分析している箇所がある。
<彼は、孤独だとも絶望したとも束縛されているとも叫ばない―――何物にも臆さない。偉大な人の例に漏れず、彼はほかの人とはまったく違う道を行っていた。
ジョンソンは、富裕階級や人種差別に抗議をする「ワシントン・イズ・ブルジョア・タウン」のような歌とはまったく結びつかない。>
(『ボブ・ディラン自伝』 訳:菅野ヘッケル)
もし、ノーベル委員会に何らかの意図を感じたとするならば、ディランが真っ先に思い出すのはロバート・ジョンソンのことだろう。だがそのもろもろをもひっくり返して、何食わぬ顔で授賞式に顔を出すことも考えられる。
いずれにせよ、ボブ・ディランにとってノーベル文学賞とは、喜びにも悲しみにも値しない、皆いずれ忘れ去るだけの出来事として処理されるはずだ。
●Bob Dylan – Unbelievable
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