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[半歩遅れの読書術]吉本隆明と宗教者 私たちの内にある悪と罪 芹沢俊介
二〇一二年三月、八七歳で亡くなった戦後日本の傑出した思想家吉本隆明が、生涯にわたって並々ならぬ関心を寄せ続けていたのが福音書の中のイエスと、鎌倉仏教が生んだ宗教者親鸞だった。この本において二人が一つの場所に並んだ。「親鸞論註(ろんちゅう)」の親鸞と、「喩としてのマルコ伝」のイエスである。題して『論註と喩』(一九七八年、言叢社)。
「論註」において吉本は親鸞について、念仏を称(とな)えれば浄土に迎え入れようという阿弥陀様の本願は疑いようのない絶対的なものだという信仰と、そんなことは信じられないという不信心とが対立した場合、不信心を核に信仰を考えた思想家であったと説く。
人間はもともと信へと向かわせないものを抱えている。それが煩悩である。それゆえ、本能である煩悩を捨てろという教えは人間の本質に背いている。既成仏教は、この背理に目をつぶってきた。彼らは、こう説いた。煩悩が捨てられないのは、戒律に従い徳を積むという努力が足りないからだ、善人である度合いが低いからであると。だがこうした主張は自らを欺くものであった。現に、多くの僧が財を蓄え、権力や栄誉を望み、美食し、妻帯していた。
親鸞は、そうした見方を逆転させた。煩悩のままに浄土へ迎えとろうというのが阿弥陀様の本願である、自力修行の善人よりも、煩悩まみれの悪人こそが自力の計らいがない点で浄土への正しい原因となる、というように。
「論註」は、こうした他力思想を極北へと突き詰めていく親鸞の苦悩する姿を、手紙や語録(『歎異抄』)を通してたどっていくのである。
「喩としてのマルコ伝」のイエスにも、右のような親鸞の悪人正機説にどこか呼応する視点が用意されている。それは、イエスが相手にしたのが、当時のユダヤ教の秩序から疎外された罪人たち――犯罪者、取税人、不治の障害者、貧困者であったということだ。そして、こうした罪人の姿を、個々の内面の問題へと引き込んだところにマルコ伝のイエスの特徴があったと述べるのだ。
罪人という言葉が表す世界が内と外とに二重化したのである。たとえば、罪人という言葉は、実際の犯罪者、取税人、不治の障害者、貧困者を指すと同時に、それ以上に強く、自分の心の中に巣食う罪人性を表すようになったというのである。その結果、マルコ伝において、言葉が「喩」(たとえ)になったというのである。
マルコ伝以降、私たちは、罪人を単純に悪であると片づけられなくなったのだ。なぜなら、罪人という言葉は、いまや私たち自身の罪人性、つまりは悪と同義ともなったからである。これは目の覚めるような指摘であった。
(評論家)
[日経新聞11月15日朝刊P.22]
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