2. 2015年11月03日 18:56:44
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>01 荘厳かつ風光明媚な新天地は、それを求めてそぞろ歩くのをただ止めさえすればよく・・・、 ただ、それもまた人は楽しいとする、と云うことと理解しています。2015年を振り返ってみると、この年はデトックス元年のような感じが致します。 至る所で自分に不必要とする毒素としての感情の噴出を抑えきれない人々の姿が目立ちます。 そう観る私の感想としての言葉は淡々と、「なるほどな」と云うところです。 感情を溜めずに吐き出す事は自然なことです。 ですが、そこから、我々が新たな社会性に求めるのは、 何故自分がそうした感情を持っているのか、何故溜め込むのかと云う事に気付く事です。 ですから、常に気付く場所に居て欲しいと思っています。 心の作用とは我々に不可欠なものです。 しかし、そこで必要とすべきは、「人々と単に感情で繋がろうとすればそこに呑まれることにもなりうる」、と云う理解です。 私達は不穏な事件事故を目にする時、すぐに真実というものを知ろうとする側に付きますが、そうした所には不特定かつ、多岐に渉る人間(自己)不信に繋がる感情が介在します。 何もそうした心や体で人と繋がろうとせずとも、私たちは既に繋がりを得ていると云う事を理解する事はできます。 311の津波のおり、最後迄非難救助にあたった人々を私は敬い申しあげておりますが、彼らは皆、既に鎮魂の灯火を乗り終えて、自身の完璧さの全てを思い出す場所にて、必要とする癒しをすべて受け終えていると思います。 執着とは、それぞれの心の中にあり、癒えてない存在を想う自身の心にのみ、その姿を投影する事ができます。 そして、自身の次の選択の時を迎える迄の間、十分な期間を要してその準備ができます。 そこが謂わば"あの世"、または天国と称される場所のことであり、誰もがそこに向かって前進し続けています。(進むと云うよりは、ただ我々は受け容れ感じ尽くすだけの姿に形容する方が自然であり適切だと考えます。我々の利用する概念下に照らして、我々が拒絶するものをなにひとつつくり出さない限り、抵抗による停滞と遅延による痛みを生むこともなく、苦痛として具現化されるものは何ひとつ受けとることはなくなります。) しかしそこは本来、「内観の場」と云うに相応しい場所である事でしょう。 夢見の際も毎夜私たちはそこに訪れて、あらゆる試行錯誤に耽り、彼らと繋がりを得ています。 "この世"とはまた、自分の霊的な感性としての能力を深く掘り下げる場所である筈です。 そうして自分の在り方に満足できる事だけが、本来、望むままに、自身の行き先、その選択の幅を拡張する場所へと繋がり得ることだと理解しています。 私たちはここに自ら、自分の能力を信じて飛び込んできたのです。 自らの意思ですべては動いています。 自然とするスフィアの運行も山脈の形成も、雨水の循環も、生物の進化も、我々がここに存在すると云う人々が言う「偶然性としてのもの」に「直接的に繋がって」います(つまりすべては我々の意識に意図されたものだと云う事です)。 全ては霊性の輝き―それは嬉しさ、そして喜び―に満ちた者である筈です。 空間と時間の概念だけを通して我々は繋がり得ている訳ではなく、意識はそうしたあらゆる概念など飛び超えた所に存在します。 我々もまたそこに存在するということです。 我々がそれを信じないとし、そこに「不必要な必要性」と云うものを求めるうちは、自分に与えられた力に何一つ気付けないというだけです。 自然であるものに対して抵抗するのは、必要以上の力を要すると「考える」からです。 故に調和を崩し、すぐに体を痛めます。 自分達が知性で理解する力の働きしか見えていなければ、自然な感性の働きなどそこに覆い隠されてしまいます。 その事に気付こうとせずに、「私たちには力など無いのだ」と叫ぶのは、それはそれで横暴な感じがするものです。 自身の外に権威というものを生み出すのも、自身の中に自分を信頼する力を見出すのも、まったく同じ原理とエネルギーの質を利用して起こされているのです。 よってこの社会の秩序は、単なる思い込みで形成されていると云う事に、憚らず苦言を呈したいと思います。 こうした世界を変えられないものと決め込み、輪廻のサイクルを煉獄のように思う人々は、ここでの支配的な概念的思想の数々に少々考え違いを起こしてしまっている様です。 地獄と言えるものとは、人々の思い上がりが具現化した場所でしかなく、それは謂わば驕った理性の働きの具現化です。 怖れに対して救いを求める事が際立つだけの場所とも言えます。 故にそこでは、人々は救いをただただ求めて祈るだけになります。 怖れを拒絶し、逃れ、遠ざけ、「不必要な救いを必要とする場所」とは、人々のある種横暴な、思い込みで生まれています。 我々は今、その驕りを捨てた先の視線を持とうとしています。 そこは淡々と求められるものを手にする事が出来る場所です。 遠ざけられるものなど何も無く、回避すべきものなど何も無く、 全てを感じ尽くし、全てを受け容れることを理解する時、その具現化が始まるだけです。 そこに、荘厳かつ風光明媚な天国は素直に浮かび上がります。 無理に描こうとせずとも、自然と浮かび上がるものが私たちに求められたものと考えます。 関係性を繋ぐのに、望まれていない建前と云った接着剤など要らない訳です。 自分達の不完全さを理解し、そこから完璧さへと、その繋がりを求めていく力を失わなければ良いだけです。 問題点となるものは我々を通してそのまま改善点へと結びつきます。 初めからあらゆるものは問題視されるものとして存在する訳では在りません。 リスクを冒す事を怖れるより、あらゆる破戒と云ったリスクを冒して、 既存の関係性を壊しても、掴みたいものが私にはあります。 本心や本音以外のもので隙間を縫った関係性など、誰も欲しがらないと思うからです。 さて、いつも有り難うございます。 私が度々ここで語ってきた、「心のマザー」も今年、ついに山を降りられた様です。 私の父も10年以上闘病生活を強いられて居りましたがようやく。 そんなこんなで今年は大きな節目として私をも揺り動かしているように感じられます。 変われないと云うなら、その人は変わる必要性がないのでしょうし、 何もそうした人の数は社会が変貌する決め手とはならないです。 変革の意思はそのまま、ここに現れる次の世代に被っていくだけです。 「これが自分だ」と理解するものが本当に自分だと言えるのか、つまり「所有すると考える借物」を使って表現する自分と云うものが自分を縛らないものであるのかどうかに気付けば良いだけです。 肩書きや地位、名声は、それを必要とするものにしか与えられません。 いつでも驕りさえ捨てられれば、それらからの脱出は可能です。 変化を受け入れ、それを求めとして発する者は常に身軽であるのですから。 私は先に申したように、津波で最後迄救助に当った人々を敬っております。 つまり私もまたそのようにありたいと考えます。 何も怖れるもの無く、身軽だからこそ出来る事をしたいと考えています。 さて、70年代80年代が掘り起こされたような感覚を彼らの音に聞く事が出来て、久々に心が躍っています。 更にはそこに90年代、そして現代ともフュージョンして、突き抜けた爽やかさが在ります。 彼らとは、「サカナクション」、歌は、「新宝島」。 是非聴いてみてほしいと思います。 歌詞が私の心を掴んで離しません。 私は彼らのような歌い手の力を認めています。 人の心を「素晴らしいものだ」と私を引き止めてきたのは彼らのような歌です。 "ゲスの極み乙女"の"オトナチック"も歌詞にかつての私は共感を覚えています。 それでは。 |