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とある神社のご神木にまつわる話でこういう話が在った。
ある地区を代表する区長が、"神木"である落葉樹の枝の剪定を業者に頼んだ。
訊けば、近接する個人所有の住居内敷地領空に、神木の枝が伸びてしまい、
落ち葉が溜まって苦情を受けたのが原因だそうだ。
庭師は頼まれるがままに、小さい敷地にしては"大きくなり過ぎた"「御神木」の枝を切った。
「基本、樹木は枝葉を切れば養分を取れなくなり、その事で枯れるかもしれませんよ」と断り置きをしたと言う。
すると、当然のことなのだが、しばらくして、
みるみるうちに木は弱り果て、予想された通り枯れ木同然になってしまった。
すると、次に区長は、「なんとか蘇らせて欲しい」と再び庭師に頼みにきた。
「代々続いた歴史ある神木が、自分たちの代で枯れてしまったらどうなるのか」
それ迄そうした考えがなかったのかわからないが、
今度は別の住民からの問い合わせに不安になったようだ。
なるほど、区長は、それぞれの住民の不安を解消しなければならない訳である。
だが、時、既に遅し。
住民も、もう少し地区の為に知恵を貸したら良かろうに、
それぞれは何とも後味の悪い、
のちに誰かしらの責任問題に発展しそうな、意識的リスクを抱えてしまった。
業者である庭師は、再び樹木活性剤の薬を根に注入しに再び神社に出向いた。
見ればもういくら施しても枯れてしまう事は明らかだった。
だが、区長もそのくらいの事は知らない筈も無く、
その時点で、再び蘇る事のない事を理解していた筈である。
住民が集められて、業者によって"蘇生薬"が撒かれる。
ほぼ半日をかけて、たっぷりと"費用をかけた"液体で、神木の根を浸した。
その様子は近隣住民の眼に焼き付いた。
つまりこれは、「出来ることは尽くした」と云う既成事実をつくる為の、
「リスク回避の為のパフォーマンス」でしかなかった。
こうして氏子、業者、地区の代表者の責務は果たされ、
意識的なリスクは最小限に留められたように見えた。
だが、その場で何ら問題が解決した訳ではない。
唯一そこで黙殺されたのは「神木」と云う存在だが、
人間社会に於いてそれは、"無口な者"でしかない。
やがて三たびそれは近隣住民に「隣接する民家に倒れる」と云う新たなリスクを抱えさせるだろう。
そしてまた、次に同じ業者がきっと呼ばれて、
「リスク回避」と云う正当性なる回転刃で、切り倒されてしまうだろう。
この話はまた、盲従的な「信心深さ」が、何かしらのリスクを孕んでいる事を告げ、
いつから人間社会の中に不可解な「重責」と云うものが居座り、
心理的リスクをただ代々引き継ぐだけの作業が続けられて来たのか、
その事を私に考えさせた。
最終的には、きっと何も残らないだろうに。
現行の社会性の中に於けるそれぞれの個人は、
自己防衛を第一の優先事項にすることを考える。
なんとも矛盾した話のようだが、互いを簡単には信用しないということは、
逆にこうした社会では信頼性を勝ち取るとの考えが在る。
一定の社会的位置づけとしての距離を保つ事で、
改めて互いの協調性の中に緊張感を維持し、リスク軽減、または回避を促す協定を結ぶのである。
勿論それもそれぞれの保身の為のリスク回避の為のテクニックである。
しかし、どんな場所でも、そのようにリスクを孕んだ関係性の中では、
最も"もの静か"で、かつ、"自分に素直"な"観察者"が苦汁を呑むのかもしれない。
こうしたリスク回避に余念なく、
誰もが得するように循環しているように見える社会に於いても、挫折し、離脱していく者がいる。
「何事にも向き不向きが在るものだ」と確かに言えるのなら、
こうした社会で自分をなんらかの"ポスト"としての位置づけに置かれる事に、
非常に難色を示す者がいても、何らおかしな事とは言えないだろう。
決してその者は何かに従順で居られないとする訳ではない。
逆に何かを強く信じるが為に、自分と云う存在を利用してそこに表現しようとする。
例えばこの社会性もまた、ある視点から見れば、異質なものであるかもしれない。
ともかく、現行の社会性もまた、何か特殊な信仰形態を通して、人々を統率しているものだとは言える。
「立て前」としてのものとは、全体性の組織構築の為、
またその統率の為に必要な考え方として存在する。
それはまた、それぞれの本音としての言い分を包込み、妥協、
納得の上で優先すべき意見だとされる。
よってそこにこそ、人々は纏められるものだとする。
だがこの「リスクに拠る支配統制の取れた宗教」にも、祭祀の為の祭壇があるようだ。
誰もがすべて、社会に於いて非常に重要な役回りを持っているが、
祭壇に上がれるのは、基本、徹底して自分の生き方に純粋な者だけである。
つまり、そこに捧げられるのは、生け贄となるポスト(地位)にあたる者である。
昔からそうかもしれないが、生け贄として祀りあげられる者とは、
存在自体がその社会観への痛烈な批判、そして風刺そのものと成りうる。
つまり私の目から見て、彼らはとりわけ、「非常に重要なポスト」に就いている。
"ポスト"に空きができれば、そこには淡々と"替え"が用意される。
(だが、実際の我々は、それを黙って見ている事が出来ない存在でもある筈である)
人々は何より社会のため、全体のためと、所属する企業、または社会の、
「統率の取れた組織構築の為の理念(立て前)」に沿って動く、とする。
企業も政府も個人も、社会的な責務(道義)と云う、
「大多数に支持された"正当性"」と云うものを利用して、それから物事を考える。
それは当然リスク回避の為である。
あらゆる社会的地位を失墜させるのは専ら、
そうした世間の"正当性"によって推進される、圧倒的な団結力であるのだから。
そこでの個人とする者は、そうした繋がりをどこか敬遠した判断力を自身に強いている。
先ずは何を打ち出すにも、自己保身の為。
リスク回避の為の"安全弁"として、"信頼出来る何か"を常に確保しておかなければ、
誰とも安心して繋がる事は出来ない、と考えるらしい。
自身の肩書き、役職、社会的立場を守ろうとする事は、
社会性に鑑みて容認、また昨今は、とみに奨励されている。
我々は先ず、自分が安心出来る場所を「安心出来る立ち位置」として確保したいのである。
そうした場が自分側にあると判断すれば、途端に人は、
当たりが強く、リスクを感じずどこにでも抗議する事が出来るようになる。
だが、そうした盾前に対して「個人の本音」は実際はどうなのだろうか。
どこかで、また別の新たなリスクが生まれて頭を悩まさないとも言えない。
しかし、最終的には誰かの責任、誰かの意見に押し流されている事が、
やっぱり楽だと感じてしまう。
何故なら、周囲の人間、友人、愛する家族も皆一様に同じ生き方をしているし、
そうした大多数の中に自分は居たい、と。
「利用出来るもの」は利用する。
確かにそれで軽やかに居られるのなら、それに越した事は無い筈だ。
しかし、そこにはどうしたって、
遠く知らない誰かの「生け贄」もまた必要とされつづけると云う事なのかも知れない。
この社会は、一体どんなリスクの上に成り立っているというのだろうか。
リスクの無い社会へ移行する為に、
誰がどんな危険性を冒さなければならないと言うのだろうか。
そもそも我々の知る正しさと云うもので、何を果たそうとしてここにいるのだろう。
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