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投稿者 sogoro 日時 2015 年 10 月 14 日 10:14:54: iZnXJ9u1LRw9I
と云う投稿で思いついた自分なりの解釈を書いてみる。
まずは「不平等がいらつく」という事に対しての解釈をひとつ。
現行の社会性とするものの間では、基本的に人と云うものは、
「したく無い事をしなきゃならない」という、
人の忍耐と我慢の上に成立を見ているものですね。
それが善だ、良識だ、と云う見解で一致してしまっている訳です。
よって、したく無い事をしないのは「ずるい」、
嫉妬とやっかみによって、互いをまた全体性見回して、社会を監視しながら、
義務を負うのは当然だとする価値観を皆で維持しようとしています。
だからそれに反したことが起きると「イラつく」訳です。
自分は正しい事をやっているという認識だから、余計、「イラつく」。
「平等でなければならない」からといって、
全体性の中で皆が同じ負担を背負っている事も無い筈です。そんなことは不可能です。
そこで、ただ一致するのは、
「したいことだけでなく、したくないことをする」と云う一点のみに、
「イラつき」を抑えて、平等性を感じて安堵する事ができる訳です。
様々な背景を抱えて人はなんとか生存しようと試みています。
本来、自分の時間を皆、心行く迄持ちたいと思っていますよね。
じゃあ、どうすればいいんでしょうかね。
イラつくからといって、互いの足を引っぱりあってれば、
全体性としては合理性を欠く結果となるでしょうしね。
てずからちょっと憶った事を書いてみようと思いました。
ついこないだ流行っていた「ゼロベース思考」と云う言葉がありますが、
この言葉自体ある種観念的なものなので、まったくの「ゼロ」に立ち返って、
一から組み立て直す事を基本に物事を考えてみたいと思います。
例えば、逆に、全ての人が「したい事」だけをしていたとしたら、
別に「平等でなくてもぜんぜんイイよ」という声がかえってくるような気がします。
そうした「うん、それでぜんぜんいいよ」と云う互いへの眼差しを基本にして、
全体にとって必要なものは、皆で、無理しない程度に補いあう、ということになれば、
真の意味で「平等である」価値を手にすることが実現するだろうと云う気がします。
全体にとって善いのは、誰かが我慢したり、
忍耐の上に忍耐を重ねて無理をする社会ではない筈ですから。
そういうものを一からつくれば良いだけではないでしょうか。
・職人気質の労働専門に特化した技術屋左脳蟻 2
・ほどほどに特に暮らせれば良いとする中立蟻 6
・したい事だけをしたい芸術的センス右脳蟻 2
2:6:2
これが自然のバランスであるなら、それらをうまく回して、
基本的なライフラインの機能する社会基盤をつくれば良いだけでは?
合理的な国体を目指すというなら、国体を人体に喩えれば判りやすいけれども、
人体の細胞間の働きは、「働かざるもの云々・・」と、
別に鞭打って全体性を維持している訳でもない。
生物の身体とは、人の顕在意識的思考、意思とはまた別の意識レベルで管理されている。
自然に、専門に特化した働きをする細胞に変化して、
それが集まってそれぞれの組織を形成している。
人の意識がどう騒いだって、その運営は完全に自然任せで機能している。
逆に、人があれこれ騒ぐ事によって、人の不自然な意識が、
病気という形に自然のエネルギー変換している訳だから。
理想として善いと思うのは、資本と全体性社会主義を混ぜたようなもの。
まずは、あれほど騒いで実施された、裁判の「陪審員制度」同様に、
同じ名目で、国民ひとりひとりに交代制で、政治の場に就かせる。
これだって実施されて当然のものである筈。
それを始める為に我々は、ただその声を挙げればいい。
そこでは偽りの無い国民の大多数の意見をしっかりと聞き、
不満のでない国策の決定権を最終的に、国民に依存すると云う事ができる。
多数決で意見が半々に別れるなら、
それは国が半分に別れたら文句も無いでしょうに。
それなら、国民を半々に分けて国を二つにすれば、収まりがつく好都合な話です。
実質そうなっているのでは?
些細な事で、この国はいとも簡単に分裂する。
国民の無視出来ない声は、大よそ半分も無視されている。
さて、本題に戻って。
ライフラインにあたる企業とは、例えば人体で云う血管である郵便運輸。
誰でもできるような仕事はどの企業もごまんと有る。
住環境の整備。食だってそう。
これ迄のノウハウを訳合って、皆で出来る事はすればいい。
ホビー分野は増々好みが細分化されるだろうから、
人気の企業に一極集中するなんてことは、それほどない筈。
今既にちょっと資金が有れば、それぞれ独自発信で、個人でつくりたいものがつくれる世の中だ。
どのライフライン企業も、これ迄の倍の人員を確保出来るし、
人手不足になんかならない。
仕事の負担量は皆で分け合えばいい。
国(国民全体)参加で運営されてしかるものは、
その為に必要な資金(現行の円でなくても可)を国から調達し運用する。
だからと言ってそれは国営の仕事でもなく、あくまで、あたりまえに国民の仕事とする。
特別視、または優遇された公務のイメージはそこにはない。
国民の誰もが決まった仕事を持つ、または持てる、と云う事は理想としても、
それが縛りとなって大半の個人が夢を捨てるような世の中とはならず、
誰もが「したいこと」を基本として、とりあえずのなんらかの仕事を持つ、
またはボランティア(無償の仕事)をする。
確か、既に日本でも週四で正社員制の企業も有る。
別にどうした形態であっても非常識でも何でも無い筈だ。
それから国は、国民に毎年、旅行をプレゼントする。
そのくらいの事は当然あってよい筈で、精神性の豊かさを今こそ取り戻す事。
それは国民への感謝システムというもの。
中国のとある村でも確かそんなのが有った。
村民全体が企業の一員と云う村。国民全体が社員という国もあるね。
とにかく、仕事をみつける期間、まずは、
それぞれが当たり前に暮らしていく為に、
国は決まった仕事を提示し、そこに就いてもらうということになる。
それぞれは様々なライフラインとなる企業をまわり、
最低、週3日、週3時間、交代制で、誰にでも簡単な出来る範囲の仕事をすればいい。
基本、その期間のまま一生を終えたって構わない訳で、
ただ、そうして様々な仕事に出会い、社会に貢献する機会は与えられ、
そうして極力何の不満もストレスもたまらない中で、
あらゆる世の中への認識を学び、それを活かす為にそれぞれは、
新たな自分の能力を開発する為に必要とする学びを求めてる事ができる筈。
そうした社会性は何を生むのだろうか。
子供食堂と云った展開が個々人を繋げて、民間の中に生まれているが、
ああいった事がもっと推進されていけばいいと思う。
関心はそこに在り、興味は尽きない。
そこでも基本、資本社会ではあるので、「したいこと」として、
新たな企業の立ち上げ等々、何でもできる訳だが、
基本、生存の為のストレス社会ではなくなるので、
人の行動パターンは変化していくだろうと考える。
そこには、どんな新しい企業形態が生まれてもいいけれども、
もはや競争の為ではなく、より全体性に貢献の出来るものを。
そこに合理性などなかった。単に無駄が生まれ、共倒れしただけ。
新しいものを生むにも、高給を得たいと思うよりも、何を成したいかだけが目的となるだろう。
当然そこでは、それぞれが出来る範囲で、無理をしない為に、
楽な仕事をする為に、何を生むかが発明の動機となる。
本来の文化的発展、発明の動機とは確かそんなものだった筈。
そして生まれた余暇を人間の新たな能力への挑戦に向ければいい。
犯罪も激減するだろうし、あらゆるストレス性を生み出すからくりは消えてしまうだろう。
ただし、そこで同じような問題が起きるとすれば、
それは奪い合う事、また縛られたいとするような、
愛や善性に対しての所有欲と云った、
誤った認識に依る価値観によるものだろうと予想出来る。
金が意味を持たなくなれば、物、そして次に名誉となるから。
となるとまずは人には悟性が必要かもしれない。
それはまた別の機会に投稿することなので省略。
理想の社会を想い描いてみるのは楽しい。
と云う事で頭に浮かんだ事を書いてみた。
合理性という言葉が生きてくるのは、
そこに既にある全体性をどう運用するかで決まってくるのであって、
何か特別視出来るものだけを善として、活かし、残りは排除的、
また排他的に差別するということで生まれるものではない筈。
真の合理性を欠いているのが現代の国体だと思っている。
人々はどんな生き方をしてもいい。それが存在の基本的な価値を示すものである筈。
全体性の為に活きる、本当に人々が活きた社会をつくる為に、
国と云うものの働きが必要なら、いま、国はこの成すべき事をしていない。
そしてまた国民も何が正しいか判らず、考える為の知恵を奪われている。
自分の考えと価値観に自信も持てず、故に、受け売りの言葉の力に圧され、
考える力を削がれている。
そして本当の善、または楽とは、より程度の軽い苦痛を抱き続けることだと信じ、
何か勘違いしたまま、何も変えられないとだけ考えて生きている。
最低限の生きる保障をあらかじめ国は与えるというなら、
本当の善性、本当の愛について、それが何か、まず考える力を与える事だ。
その上で、よりそれぞれの人間性に期待して、
自発性を促す国策をつくれば良いだけである。
国民が過度なストレスなく、国策の中で、様々な企業を回る中に、
より自分に合うと思える仕事を見つける事が望ましい。
それぞれが自分に合う専門的な技術を習得する事が国策として合理性に繋がる筈だから。
景気の善い時には皆明るいが、経済が冷え込むと、
途端に顕著に人が変わると云うのは、根本的にその原因を
人を「性善説」に沿って信じることなど出来ない云々と、
話をすり替えてしまえるものなどではない筈。
↑これは古館さんが「報捨て」で口にしていた事だけども。
やぁやぁ、こどもたち。おとなってどこかおかしなやつらだとは思いませんか?
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