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〔はじめに/西山厚(男)〕
官能仏教。これは私の造語。
男がいて、女がいる。他人とともに生きて行くそれぞれの人生。官能があるからこそ生きられるなだという気がします。官能なき仏教に私は魅力を感じません。
よく似た感性の三人が南部官能学会を立ち上げたのは2006年3月のこと。
〔十四 理趣経〜愛の経典/愛川純子〕
愛欲についてまったく違う捉え方をしている経典がある。欲望を積極的に肯定する。煩悩も淫欲も菩提心へつながるものだと言い切る。それは秘密の仏教の秘密の経典、『理趣経』でございます。
実は、男女の交わりは清浄なものだとおっしゃるのです。理趣経のはじめには、愛欲に関する十七の心身の働きを挙げて、それはみんな清浄であり、菩薩の境地を同じなのだと説かれています。
冒頭の「妙適」とは男女の交合によって生じる快楽、恍惚の境地。これは清浄なもので、菩薩の境地を同じなのだ。この一文に尽きます。…それ以下は妙適に伴う具体的な説明です。欲望の矢が飛び、触れて抱き合う。相手を愛おしみ離れがたくなる。満ち足りて一切が自由になった気になる。いわば満心。つまりセックスから生じる心の歓びも躰の快楽も声も香りも味も、みんなみんな清浄で、素晴らしいものなのです。
だから理趣経の「十七清浄句」に説かれているのは、こんなことだと思うのです。人を愛するなら、セックスをするなら、純粋に真摯に本気でおやりなさい。後ろめたさを抱えていたり、いたずらな気持ちでするのはよくない、と。純粋に一心に愛欲に従えば、心地よく無我の菩薩の境地を体験できる。無我は恍惚の中から生まれてくる。
なんてやさしく、ありがたいお経でしょう。読んだ者を安堵させてくれる経典こそ、本当の仏さま言葉という気がいたします。正しい解釈かどうかはわかりません。
このように理趣経は「十七清浄句」にはじまり、「五秘密」(金剛薩埵と、欲・触・愛・慢の四菩薩)で終わります。「煩悩即菩薩」「淫欲即菩薩」と、愛欲を真っ向から肯定した経典は、まさにこの世で生きるひとに向かられたものです。欲は生きるためのエネルギーだから、欲を断てとは言わない。欲を否定しない。生きてゆくために、欲を活かそうとしているのです。生きとし生けるものも、仏さまも、みんな等しく、みんなひとつ。そしてみんな清浄。だから欲を自分ひとりのために用いるのではく、みんなのために浴を活かそうと説かれています。
生きることは欲そのものです。欲を否定して切り捨てたら、生を放棄したも同じです。
本気で生きなさい。本気で愛しなさい。本気で歓喜しなさい。本気で苦しみなさい。本気で祈りなさい。真摯に。
【出所】「官能仏教」西山厚・愛川純子・平久りゑ/角川書店‘14年
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