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苦しみが人にとって何であるかを明確に理解した人ならば、
その苦しみを止める為の知識と云うものもまた、
そこでしか掴めないものである、
と云う事を理解するのではないかと思います。
そしてまたそこに、人が本当に必要としているものとは何か、
と云う事をも理解している筈だろうと考えます。
私の感覚からすれば、大方の人にとって「耐え難い苦しみ」とは、
集団であるものから差別されることだと見受けられます。
人が何故、集団の中で「無理をし続けてしまうのか」と言えば、視点を変えれば、
そこで個人が密かに感じている自身の特異性を不自然に変質させようとする行為に依るもの、
または、その特異さを隠してしまおうとする事に拠るものかも知れないと感じもします。
特異性とはこの場合、それぞれが持ちうる性質の事を言い表します。
それぞれの存在の背景とは、すべて一様なものでは有りません。
故にここで伝えたい事とは、誰もが特異性をもっていると云う事です。
私自身の事を話せば、私は家庭的に見ても、
特別変わった環境に生まれ育った訳でもなかった筈ですが、
年を重ねる程に、決まり事のような大衆的な話題性に馴染む事が出来ず、
自分をある種、普通のタイプではない、と周囲との温度差に、
隔たりを感じるようになっていった事は間違い無いと思います。
その後のある期間、身の回りの人の関わりに特殊な縁が生まれた事もあり、
自分の性質を隠しても見空かしてしまう人々に恵まれたおかげで、
その関わりの中では、大分楽に、自分をありのままに表現する安心感を得ていきました。
そこで、人とは、また自分らしさとは何かを考えるきっかけを与えられたように思います。
そこで、少しずつ穏やかさと云うものをも取り戻す事ができていったのだと思いますが、
それ以前の私はとても気性が激しく、間違っていないと一度感じた事に対しては、
断固として譲らないとする強情な一面を隠しませんでした。
よって人前で思い切った行動も辞さない人間であったと、今は幾分自重もできますが、
そうした部分を多々持って居たと云う事です。
しかしそうした自分の他人と違う部分をも、そこでは強みに感じて居たのも、
間違い無いと言えます。
ADHDやアスペルガーという症状と診断された子供たちが居ますが、
私も私の親もそこに部類する性格の人間だと感じています。
故に話す事ですが、そうした家族を抱える者にとって、
そうした性格とは、日々、頭を悩ませる事なのかもしれません。
特に気性の激しさや集団生活に馴染めないとする問題は、
そうした子供を持つ親族として、また親として、大変な気苦労を感じる事にもなるのでしょう。
しかし、それを無理に治す必要など有るのでしょうか。
それが病気として存在すると云う事、またそれは"治るもの"だとして診る事も、
社会に出る時にまで治らなければ、生活に支障をきたすものだと考える事も、
どちらも余計に苦痛と心労を重ねてしまうばかりであるように思います。
親故に、愛故にと、無理強いをしたり、手に余ると遠ざかったり、悲観したり、
そこにあるのは本当に愛情だと言えるでしょうか。
何故、生まれ持ったものを信じる事が出来ないのでしょうか。
社会的診断に当て嵌めれば、私もまたそこに属す人間であることは、
先ず間違いがないのだろうと考えます。
しかし、それに対しては、何も問題の無い事だと考えています。
何故なら、私はそう認定された方々の代弁者として言うことですが、
「既存の社会性自体が、未発達で障害そのものである」のだと言えるからです。
改善すべきと診断されるのは、そうした社会性の方である、と云うのが、
素直な私として伝えたい事です。
こうした声が少しずつでも理解されていくように、今後の、
「一億想選択時代」に期待していきたいと考えています。
誰に打ち明けるでもなく自殺する子供たちが居る事を考えれば、
どんな声でも彼らの訴える悩みに対して、手を差し伸べたいと考えた次第です。
既存の社会性では彼らに求められる答えを出せないのだと、
彼ら自身もまた察しているのだと思います。
「生(活きる)か死か」のギリギリの価値観の中に、ただ放置される子供たちに、
光明としての声を投げかける事の出来る人々は、
そうした全体数に対してまだ少ないのではないかと云う気がします。
自分と云うものをどのようにして持つべきかが判らないが為に、
社会性と云うものに対して従順であろうにも、
そこに属す事が出来ないと云う事をもまたそこで知らされる訳です。
すると後は、精神性の続く限り、誤摩化し、無理をし続けると云う悪循環に辿り着きます。
そこ迄行くと、後は、それぞれの人生は単なる賭博か、
運(またはその積み重ね)でしかないように捉えられてしまいます。
(この世で最もワケの判らない概念は「運」と云うものへの執着です)
そうなるとそこに漏れた人々の中で、最後迄、自分を生きようとする人々は、
自分の求める世界に自ら旅立つか、作り上げるほか無いのかもしれないと云う事です。
人に採っての苦痛とは、はじめの方で挙げた通り、
例えば、人の役に立たないと看做されると云った事です。
自分を役立てる場が無いと感じると云う事は、
そこに愛する者へ対し、愛を与える事も、
そこから受けとる事も、求める愛を感じていく事も出来ないと考えてしまうと云う事です。
(勿論、と云うか、私としては、そうしたものは求めるのではなく、
与える事によって感じられるとする見解に寄り添う立場ですが)
人はそうした精神性による苦痛をもっとも、耐え難いものに感じる生き物だと云う気がします。
よってそこに入り込みさえしなければ良いのだと云う考えの元、
より苦痛の少ない、別の肉体的な苦しみを授かろうとする事によって、
まず何よりも優先して回避を試みようとするのかもしれません。
勿論そこには活きる基盤を生む原動力があります。
しかし、その根底にある仕組みとは、一度人々の自由なる精神の土壌の上に、
一から組み替えられるべきであると考えます。
何故なら、現行の社会性の基盤と云うものが、そうした苦への怖れが求心力となり、
どなたか元公務員の方が揶揄していましたが、「一億総公務員化」で、
誰も責任をとりたがらない、よって採るべき行動もとられていない、
しかしそこにはお金と云う歯車だけは回っている、ようなものとして感じるからです。
(TPPの問題にしても、国内外の全体性の需要に鑑みて、
どの分野にでも利益を出せる関税の掛け方ややり方はもっと他に有る筈だと感じます)
誰かと比較する機会があった訳でもないのですが、
所謂「物心つく年頃」とは私の場合、一般的に見て、
かなり遅かったのではないかと思っていたのですが、
しかし、最近知った事で、小一くらいの記憶だったのではないかとする記憶が、
生後四か月の頃の記憶だったと云う事がわかりました。
その時既に、人間的な理解を通して、
周囲の状況を把握しようと務めていると云う事を自分の記憶に理解しました。
もし、何らかの知識を持つとした人が、自分の持ちうる知識を伝える事で、
その人が、元の力を取り戻す事が出来るかも知れないと考えるのならば、
それは何らかの見返りを期待する事以上の想いがそこに働いて居るものだと、
素直に信じたいと考えます。
そしてまたそうした人は、自分の評価を期待するでもなく、
押し付けるような真似をするでもなく、ただただ、
自分の伝えたい事が伝わって欲しいと云う事を願うのではないかと思います。
長いので二部につづく
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