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先に書いてしまうが、個々人の意識は自然社会の意識とも密接に繋がっている。
地球環境としての現象の現れもまた、我々の意識に直結したものである。
一人一人が、疑心、不信、卑屈な想い、否定的な感情を放置することにより、
自身の身体に患部としての症状が現れるのを許すのと同じ原理で、
意識にある思い込みが凝り固まった結果を我々は自然現象として観測している訳だが、
ある種、我々が見ている自然の脅威、現象の数々は、
我々の意識の現れとして"看て"取れるものである。
故に、我々の意識による理知性とでも言える心が、
もっと感性に肉薄したものへと変わり、
感性と理性の釣り合いがとれるようになると(調和の実現)、
またそこに他の自然界の生き物の意識も、また現象も、影響を受けて、
本来の霊性である、(人類史上未だかつて無い)落ち着きを取り戻すのである。
つまり、現段階までに、理性と云うものとは、感性を信用出来ない人間にとって、
自然な霊力とでも言えるそうした未知の力に太刀打ちする唯一の切り札であった。
そこでは常に、理知的に把握不可能とされる、意識の本能的資質と言うべき感性に、
どんな点を比較しても、遅れをとったものとして感じられていたのである。
つまりそれが、劣等感として根底に働く思い込みなのである。
理屈によって自分の立ち位置、尊厳、アイデンティティを守ろうとする働きもまた、
ある意味、そこには自身の欠点をカバーしようとする働きとして伺えるものである。
現状の人間は、動物ならば自然に解消する事の出来る筈の感情をも、
不要に溜め込んで、不自然なフラストレーションとして発散しようとする。
人間特有とする社会的な道義に驕り、他者に自然な在り方を許す事を怖れる一方、
不自然な考え方に脅かされて生存する事を余儀なくされて行くのである。
それから,行動に付随する責任は、本来切っても切れないものであり、
責任とは、謂わば、言葉上は切り分けられるも、「行動」と同義的意味である。
行為全般、意識の中でのことであろうと、そこには責任が生じる。
私は責任と云う言葉を他者に負わせるべきリスクなどとは捉えていない。
主体性を帯びた自発的行動全般は、人が望むべきものであり、そこには責任が伴う。
しかし私は、人のそうした率先した行動欲求を抑制する意味で、
リスクや自己責任などと云う言葉を使うことはない。
これから私の書く事は、本能的資質である自然な行動欲求を抑え込むこと無く、
それら自然な欲求を建設的な行為として、行動へ促す為に書かれるものである。
なお、これはあくまで理論にこだわる方々に偏った内容となる可能性があり、
実践に向けた感性の開発の為の考察は、様々にあってしかるものである。
あくまで自分で感じ、考え、判断するということが、メッセージの中心にある。
これらは、その自己探求の為に参考となりうるものとして掲げるものである。
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