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日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか(矢部宏治・著)を読みました。
国際政治を法的枠組みできっちりと捉えた内容ですので、抜粋して紹介いたします。
→ 立ち読み版
この本を読むといろいろなことがわかります。
「なぜ日本は米国の属国なのか」
−そういうふうに協定で取り決めたから属国なのです。
「なぜオスプレイは我が物顔で日本を飛び回れるのか」
→ 日米地位協定があるからです。
「統治行為論とはなにか」
→ 日本の政府が安保に関することについては裁判所ではなくアメリカの官僚に判断を仰ぐという意味です。(このように解釈した法律書はないでしょう。しかし、実際はこの本に書かれている通り、統治行為論という憲法学の用語は、「日本はアメリカの属国なのだ」ということと同義です)
「なぜ日本は脱原発の議論が進まないのか」
→ 日本が原発を始めるときに日米原子力協定という二国間協定を米国と結んだからです。
著者の矢部さんは、もともと出版仕掛け人として孫崎享氏の『戦後史の正体』を皮切りに、『日米地位協定入門』など合計三冊の本をプロデュースした編集者です。今回、それらの本を踏まえ、さらに独自の調査を行い、これまでの三冊を飛躍、発展させて一つの決定版として本を完成させました。
アメリカのCIA要員が出入りしている建物の紹介までこんな風にやっちゃっています。
麻布米軍ヘリ基地と書いてあるのが、「赤坂プレスセンター」で、ここに米軍機関紙の「星条旗新聞」のビルもある。通りを挟んだところに、小泉進次郎のご養育かかりのジェラルド・カーティス(コロンビア大学教授)も在籍していた「政策研究大学院大学」がある。カーティスはCIAの情報提供者だった。
この本から、日本マスコミの日米関係報道がいかに歪曲され、重要な事が隠蔽されているのか分かります。
ネット右翼本ばかりが書店に並ぶご時世ですが、本物の右翼ならば日米安保問題に切り込まなくてはならないはずですし、リベラル派も「国家の自己決定権」についてもう一度しっかり考えるべきが来たでしょう。確かに日本国憲法はGHQの起草による押し付け憲法ですが、そのアメリカにとって憲法が今やじゃまになってきた。
このアメリカが変えさせたがっている「憲法」という最大の日本の安全保障上の「武器」を活用するべきなのは保守、革新とわずの共通認識にするべきです。しかし憲法を変える前に、日米の二国間協定の不平等の問題がある。これを放置していたら結局改憲しても従属が更に強化されてしまうだろう、と私は考えます。
さて、著者の矢部氏は次のようにまえがきで書いています。
<いま、私たち日本人が直面している問題は、あまりにも巨大で、その背後にひそむ闇もかぎりなく深い>
日米関係というのは、予め決められた二国間協定でがんじがらめになっています。この部分を新聞が報道しない。日本が原発をやめられない大きな要因は、「外務省原子力ムラ」が管轄する「日米原子力協定」という取り決めがあるからです。日米安保に関することが裁判で判断されない「統治行為論」もまた日米の取り決めがあるが故です。これで日本は主権国家として大きなハンディを負わされています。
矢部氏によると、他に米軍基地を持っている欧州の国々ではこのような「統治行為論」は存在しないのだそうです。
一般に統治行為論というのはポリティカルクエスチョンと英訳されていましたが、ここに大きなからくりがあって、日本で言う統治行為論と「ポリティカル・クエスチョン」(政治問題)とは全く違うものだというのです。ここはびっくりしました。
統治行為論というのは、「国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論」だとか大学の憲法学で教えられますが、これが憲法学者の解説の限界でしょう。
本当は、「日米安全保障条約は日本国憲法の上位法であるから、それにかかわる事件の裁判は許されていないのだ。なぜなら日本はアメリカの属国だからだ」ということにほかなりません。
(引用開始)
実はアメリカにもフランスにも、日本で使われているような意味での「統治行為論」は存在しません。まずフランスを見てみましょう。日本の「統治行為」という言葉のもとになったフランスの「アクト・ド・グヴェルヌマン(acte de gouvernement)」ですが、意外にも、「〔フランスの学界では〕統治行為論は、その反法治主義的な性格のゆえに、むしろ多数の学説により支持されていない」
「〔フランスの〕判例の中には統治行為の概念規定はおろか、その理論的根拠も示されていないうえに、一般に統治行為の根拠条文とされているものが一度も引用されていない」と、この問題の第一人者である慶応大学名誉教授の小林節氏は書いています。(『政治問題の法理』日本評論社)
そして統治行為論の安易な容認は、「司法による人権保障の可能性を閉ざす障害とも、また行政権力の絶対化をまねく要因ともなりかね」ず、「司法審査権の全面否定にもつながりかねない」と指摘しています。まさに正論と言えるでしょう。逆に言えば、砂川裁判以降、約半世紀にわたって日本の最高裁は、小林教授が懸念したとおりのことをやりつづけているのです。
一方、アメリカには「統治行為論」という言葉は存在せず、「政治問題(ポリティカル・クエスチョン)」という概念があります。そのもっとも初期の例は、一九世紀にロード・アイランド州で内乱が起き、正統な政府であることを主張するふたつの州政府が並立した、そのとき連邦国家であるアメリカ合衆国の最高裁は、「どちらが州の正統政府かという問題については、独自に決定できない」という判断を下したというものです。そのような、判決によっては無政府状態を引き起こしかねない問題は、裁判所ではなく大統領の判断にゆだねるのが適当としたわけです。
フランスと違うのは、アメリカでは判例のなかでこの「政治問題」という概念が、かなり幅広く認められているということです。なかでも外交や戦争といった分野では、それを「政治問題」として司法が判断を避けるというケースがたしかにある。
しかしそれはあくまでも、「対外関係においては戦線(つまり自国の窓口)を統一することが賢明」(C・G・ポウスト)であるという立場から、絶対的な国益の確保を前提として、一時的に権力を大統領ほかに統合するという考えなのであって、外国軍についての条約や協定を恒常的に自国の憲法より上位に置くという日本の「統治行為論」とは、まったくちがったものなのです。
(引用終わり)
このように日本の憲法学が砂川事件などの日米安保問題に際して引き合いに出す「統治行為論」のような考えを米国もフランスも持っていないし、「ポリティカル・クエスチョン」という概念もそれとは全く違う、ということを鮮やかに、小林節教授の本を引用して立証しています。
そして恐るべきは、基地問題だけではなく、日米の外交官僚の間では、原発にかかわる問題についても統治行為論を適用している、ということです。
(引用開始)
これまで原発に関する訴訟では、たった三件だけ住民側が勝訴しています。
まず日本で初めての住民側勝訴の判決、しかも現在にいたるまで、高等裁判所で唯一の住民側勝訴(設置許可無効)の判決を書いたのが、当時名古屋高裁金沢支部の判事だった川?和夫裁判長です。
その川?氏は、のちに朝日新聞記者の質問に答えて、自分はそういう考えをとらなかったが、「原発訴訟に統治行為論的な考え方を取り入れるべきだという人がいることは聞いたことがあります」とはっきりのべています。
(引用終わり)
原発においても「高度に政治的な判断」が行われている。たかが発電設備である原発でそのようなことが行われている、と。根本にあるのが外務省原子力ムラの護持する「日米原子力協定」という「日米地位協定」の原子力版であることはもう明らかです。原子力協定の問題点については、私もいろいろ紹介してきました。この本でも詳しい条文解説もやってあります。基地も原発も冷戦時のアメリカの思惑で「日本に与えられたもの」という認識を保つ必要があります。
この本の内容は盛りだくさんです。ご興味あればぜひ一読あれ。
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