04. 2014年12月12日 06:19:21
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歴史に学ぶ「日本リバイバル」 元内閣府事務次官・松元崇 【第1回】 2014年12月12日 松元 崇 [第一生命経済研究所特別顧問] アベノミクスの原型・高橋是清の経済政策を顧みる 積極財政の誤解と国債の日銀引き受けから学ぶこと これほど誤解されている人もいない アベノミクスの原型、高橋是清 12月の総選挙は、アベノミクスの是非を問うものになった。アベノミクスとこれまでの政府の政策との最も大きな違いは、デフレからの脱却のために思い切った金融政策を断行したことである。 デフレからの脱却といえば、厳しいデフレから脱却し経済を活性化させた戦前の高橋是清が思い浮かぶが、高橋財政と言われるその政策の本質も、思い切った金融政策であった。 筆者は長年にわたり、戦前の経済財政政策を研究してきたが、アベノミクスの是非が問われるようになった今日、当時の高橋是清の政策運営から学ぶべきものが何かについて、改めて整理してみることとしたい。 最初に、ごく簡単に高橋財政が登場した頃の時代背景を振り返っておこう。当時の日本は、昭和5年(1930年)に井上準之助蔵相が実施した旧平価(日本経済の実力以上の円高水準)による金解禁で、不況のどん底にあった。そんな中で、昭和6年(1931年)には満州事変が起こり、世を挙げて軍事最優先になっていった。 つい10年ほど前の加藤友三郎内閣(1922年−23年)においては、その前の高橋是清内閣の緊縮財政路線を引き継いだ大軍縮が行われ、「電車に乗るのにも軍服では気がひける」といわれていた状況だったのが、様変わりしていた。そこで、景気回復と軍事予算抑制による健全財政への復帰という課題を背負って登場したのが、このときの高橋是清であった。 はじめに言うと、高橋是清くらい誤解されている人も少ない。その最たる誤解が、高橋は経済成長最優先の積極財政論者だったというものである。経済成長最優先だったというのはその通りであるが、そのために高橋が何よりも重要と思っていたのは、効率的な金融制度の確立であった。そして、効率的な金融制度を守るためには健全な財政基盤が必要と考える健全財政論者だった。ただ、時に応じて臨機応変の積極財政も断行したのである。 高橋が健全財政論者だったことは、明治44年(1911年)6月に高橋是清が日銀総裁になったときに政府に提出した意見書を見れば、明らかである。同意見書で高橋は、「歳出ノ増加ハ断然之ヲ避クル」として、日本銀行総裁の立場から健全財政を求めていた。 ちなみに、高橋是清を財政の専門家と思っている人が多いが、高橋は本来金融の専門家である。そのことは、高橋のキャリアを振り返ってみればわかる。 高橋が日本銀行総裁から大蔵大臣になったのは、大正2年(1913年)、山本権兵衛内閣においてであったが、当時高橋は59歳だった。59歳までの21年間を日本銀行で、うち12年間を日本銀行副総裁として過ごしたのが、高橋是清だったのである。 井上デフレからの脱却期、80歳を前にした高橋蔵相の下で事務次官を勤めた黒田英雄は、戦後の懇談会で、経済学者の大内兵衛から高橋が予算とか租税について一通り知っていたのかと問われたのに対して、「特にそういうものに対する知識はないが、つまり一般的な知識はありました。金融方面が専門ですから、大体こちらから言うことはわかります」と答えている。 重点は財政政策ではなく金融政策 アベノミクスと高橋経済政策の比較 そのような点をまずは押さえた上で、昭和6年(1931年)末に4度目の大蔵大臣に就任して井上デフレからの脱却を果たした後、昭和11年(1936年)の2.26事件で暗殺されるまでの4年余りの期間の高橋の経済政策を、アベノミクスの3本の矢との比較で整理してみると、以下のようなことが浮かび上がってくる。 まず、第一の矢である思い切った金融政策こそが、高橋が一貫して行った政策であった。第二の矢として積極的な財政政策を行ったのは当初の半年余りで、それ以降はデフレ脱却後に取り戻した効率的な金融制度を守るために財政を健全化する、軍部からの予算増要求を抑え込む闘いであった。 第三の矢の成長戦略として高橋が意図的に行ったものはなかったが、井上デフレからの脱却後には実質経済成長率7.2%、インフレ率2%という、戦前で最も理想的な経済成長がもたらされた。 以上のような整理は、一般的に理解されているところとはかなり異なることから、戸惑う読者も多いと思われるので、以下、時系列に従って何が起こったか、それに対して高橋がどう対応したのかを追っていくこととしたい。 なお、高橋自身の成長戦略は、地域の実情に応じた自主的な取り組みを低利融資で助成するとのものであったが、本稿ではスペースの制約もあるので、別途機会があれば論ずることとしたい。 満州事変から3ヵ月後の昭和6年(1931年)12月11日、井上デフレを推し進めていた民政党の若槻内閣が閣内不一致で総辞職。当時の政党政治における憲政の常道に従って組閣の大命を受けたのは、政友会の犬飼毅であった。 犬養は、その足で高橋是清を訪れて「井上の金解禁の後始末が重大だから、どうしてもお前、大蔵大臣を引き受けて一緒にやってくれ」と要請した。そのようにして蔵相に就任した高橋は、即日、金輸出再禁止を行った。 就任2週間後の12月26日には、満州事件費を計上した昭和6年度追加予算案を提出し、年が明けると昭和7年度予算にも救農土木事業費などを盛り込んだ三次にわたる追加予算案を提出した。 自らの編成となった昭和8年度予算案は、井上蔵相が編成した対前年度当初予算比51.4%増の22億3900万円余となり思い切った財政支出による「非常時代予算」と新聞に書きたてられた。そのような高橋の井上デフレ脱却策は、積極財政をその特徴とする高橋「財政」と認識されている。 しかしながら、このような認識で見落とされているのが高橋の金融政策である。高橋の蔵相就任即日の金輸出再禁止によって進んだのが、大幅な円安であった。円レートは、ほんの2週間余り後の12月末には、それまでの1円=49ドルから34ドル台と3割もの円安となり、昭和7年に入っても円安の流れは止まらず、6月末には30ドル台、年末には19ドル台にまで低下した。6割もの円安となったのである。 その状況で、高橋蔵相は、昭和8年(1933年)3月に円を当時不安定だったドルではなく、ポンドに1円=1シリング2ペンスで固定した。そのような為替政策と平行して高橋蔵相は、昭和7年(1932年)3月から強力な低金利政策を推し進め、昭和7年6月には、それまで33年間据え置かれていた日本銀行の通貨発行限度額を1億2000万円から10億円へと8倍以上に引き上げたのである。 高橋「金融」が日本にもたらした影響は 高橋「財政」よりもはるかに大きかった そのような円高是正策及び金融緩和政策、すなわち高橋「金融」が日本経済にもたらした影響は、高橋「財政」よりもはるかに大きなものだった。というのは、高橋「財政」を象徴する昭和8年度の「非常時代予算」の実態は、その実質的な規模が井上デフレで削減される5年前の昭和3年度予算とほぼ同じで、かつ追加予算後の前年度実行予算と比べれば実質マイナスというものだったからである。 そもそも、高橋是清が克服した井上デフレの不況の原因が、それまでの歳出規模を3分の1も削減するという井上前蔵相の無理な歳出削減策だったのである。 6割もの円安は、井上が設定した旧平価からすると3分の1の水準であった。随分と大幅な円安になったものだと思われようが、大正12年(1923年)の関東大震災で受けていた損害からすればそれが実力相応のレートであった。同種の前例としては、第一次世界大戦で大損害を被ったフランスが旧平価の5分の1の水準で金本位制に復帰していたことがあった。大正12年(1923年)9月1日の正午前に関東地方を襲った大震災は、国民総生産の3分の1にも及ぶ被害をもたらしたものだったのである。 そのように言うと、井上の旧平価での金本位制復帰はとんでもないことだったということになるが、当時の多数説は日本経済を立て直すためには無理な旧平価でも、まずは金本位制に復帰することが重要としていた。当時、金本位制は先進国にとってマクロ経済運営の良好さを示す認定証(Seal of Good Housekeeping)とみなされており、第一次世界大戦で金本位制から離脱した国々は次々と金本位制に復帰し、昭和3年(1928年)にフランスが復帰すると、日本だけが取り残される形になっていた。 強力な緊縮財政策で公債発行を減らし 金利低下で景気回復をもたらす必要性 そこで、日本も早晩金本位制に復帰(金解禁)するとの思惑から円投機が行われ、円レートが変動して輸出入業者の採算が不安定になり、貿易振興に支障をきたしていたのである。 そこで、とにかく早期に金本位制に復帰することが、貿易振興からの経済立て直しにつながると考えられていた。それにしても、過激な緊縮財政によって、わざわざデフレにしてまで旧平価での金解禁をすることはなかったというのが、今日の感覚であろう。 しかしながら、当時は、関東大震災後に悪化した財政を賄うために発行された公債が金利の上昇をもたらし、それが経済成長を阻害している。したがって、強力な緊縮財政策を断行して公債発行を減らし、それによる金利低下で景気回復をもたらすことが必要。緊縮財政によるデフレは一時的には困難をもたらそうが、それを乗り越えていくところに経済成長があるというのが、財界一般の考え方でもあった。 デフレの恐ろしさが認識されていなかったのである。そして、そのような考え方に沿った政策を強力に打ち出したのが、井上準之助であった。 無理な旧平価での金解禁 井上デフレの破壊力は想像以上に ところが、そのような実力不相応の旧平価での金解禁は問題だと考えていたのが、高橋是清であった。それは、高橋が明治28年(1895年)、横浜正金銀行の本店支配人として、わが国の銀行で始めて外国為替業務を扱えるようにしたという実体験に基づくものであった。 高橋は外国為替業務の専門家として、明治30年(1897年)、我が国の金本位制導入に際して、実勢に従って当時の公定の円レートを半分に切り下げるべきだと、時の大蔵大臣・松方正義に進言したという体験も持っていた。そのような高橋にとって、井上が断行しようとしていた旧平価での金解禁は無理なものであった。 しかしながら、井上準之助は、高橋是清にとって、日本銀行時代の長年の部下であり後継者だった。そこで、井上が濱口内閣の蔵相になって金解禁を断行すると挨拶に来たのに対しては、高橋はしっかりやりなさいとしか言わなかったのである。 昭和5年(1930年)1月11日、金解禁は予定通り旧平価で行われる。井上デフレの破壊力は、高橋の心配をも超え、人々の想像を絶するものとなった。円高と厳しい緊縮財政によって、景気は時を追って悪化していった。 当時の状況を描いた城山三郎の小説『男子の本懐』によると、「都会で職にあぶれた人々は、やむなく郷里へ帰ろうとする。だが、汽車に乗る金さえなく、東海道などの主要街道は、妻子を連れて歩いて帰る姿が目立った」という状況になった。 昭和6年(1931年)の冷害・凶作が追い討ちをかけた東北地方では、餓死者が伝えられ、欠食児童や子女の身売りが大きな社会問題となった。そのような経済の行き詰まりに直面し、折から起こった満州事変への対応でも迷走した民政党政権は、昭和6年(1931年)12月に閣内不一致で瓦解する。そこで、高橋蔵相の登場ということになったのである。 蔵相に就任した高橋は、円レートを実力相応のものにし、低金利を実現すれば経済は活性化する。そこまでで自分の役割は終わると考えていた。それは、4年余り前の昭和2年(1927年)、田中義一内閣において、田中首相からの要請で金融恐慌の後始末をするために30〜40日という約束で蔵相に就任し、実際に42日間で退陣したのと同じことを考えていたのであった。 斎藤実首相に請われて 軍部を抑え込む財政健全化へ 大蔵省の調査企画課(当時)が取りまとめた『大蔵大臣の思い出』によれば、昭和7年(1932年)の5.15事件で犬養首相が暗殺された後、高橋是清は身を引くつもりだった。ところがそれを、「軍の予算抑制のために是非とも」と引き止めたのが、犬養の後継首相に指名された斎藤実海軍大将であった。 斎藤の「軍の予算抑制のために」という言葉は、満州事変以降の軍事最優先となった世の中における軍事予算拡大の流れが、軍人出身の首相にも抑えられなくなっていた状況を示すものであった。 このとき高橋を引き止めた斎藤は、国際派の海軍軍人で、若い頃には4年間、在米国公使館付武官を務め、グルー在日米国大使とは親友という人で、後に2.26事件で高橋是清と同じく暗殺されることになるのである。 その斎藤首相と高橋蔵相の関係は、「高橋さんは斎藤さんの政治的な相談役で(中略)一にも二にも高橋さんというように、何でもご相談なさっておった(高橋蔵相秘書官だった久保文蔵の証言)」というものであった。 そして、そのようにして蔵相に留任した高橋の、これ以降の役回りは、財政健全化のために軍部と厳しく対決するということになっていった。その姿勢は「自分も、もっと若ければ先へ行って奉公する機会もあろうが、自分はこの歳だ。自分はもうこのまま死ぬつもりだ」(『昭和大蔵省外史(中)』有竹修二)と語っていたほどのものだったのである。 高橋財政期の高橋蔵相の財政健全化路線は、一貫していた。昭和6年(1931年)12月に犬養首相から要請されて蔵相を受諾した当初から、井上前蔵相の緊縮財政路線を承継することを対外的に公表していたのである。5.15事件後に斎藤内閣の蔵相として編成し、高橋の積極財政の看板と認識されている昭和8年度の「非常時代予算」の国会審議でも、歳出増加分は臨時的なものなので、2年後の昭和10年度には財政均衡を図る旨の答弁を行っている。 そもそもこの昭和8年度予算も厳しい歳出削減を行ってのもので、積極財政の実態など無かったのであるが、そのことを示すエピソードが、高橋の「随想録」に載っているので、ここでご紹介しておくこととしたい。 高橋は、当時を振り返って「各省に我慢をしてくれといったら、皆も忍んでくれた。それで心からただそれに酬ゆるつもりで皆に辛抱してもらふのだから自分も何か辛抱することがなければならぬと思って(中略)、どうしても今やめることの出来ない煙草をやめようと思って、やめた」というのである。 今日では忘れ去られている 高橋の健全財政路線 このように厳しい歳出削減を行った昭和8年度予算が実質、対前年度実行予算比マイナスだったことは先に見たとおりであるが、それが新聞に「日本始まって以来の非常時代予算」と書きたてられたのは、名目上前年度当初予算比5割増だったことと、大蔵省も努めて大きく発表したからであった。デフレ脱却にマインドが大事だということからすれば、デフレ脱却からまだ間がなかったこの時期に、新聞にそのように報じられることはいいことであった。 しかしながら、そのイメージだけが今日まで残って、高橋蔵相がどうしてもやめられなかった煙草をやめるほど厳しい緊縮予算だったという実像は、すっかり忘れられてしまっている。昭和9年度以降の予算編成になると、厳しい歳出削減が誰の目にも明らかになり、当時の人々から健全財政の時代と言われるようになったのであるが、今日ではそのことも忘れられてしまっている。 軍部と衝突しながら、必死の思いで健全財政路線と守ろうとした高橋是清の姿を浮かび上がらせるエピソードとしてもう1つ、昭和11年(1936年)の2.26事件で高橋が暗殺される前の最後の予算閣議の模様をご紹介しておきたい。 閣議は、昭和10年(1935年)12月29日午後2時半に始まり、翌30日朝の7時までの17時間半にも及んだ。そこに高橋は世界地図を持って臨み、米ソと戦って勝とうとしても無理だとして、軍の非常識な予算要求を激しく弾劾した。高橋は「国防というものは、攻め込まれないように守るに足るだけでよいのだ。大体軍部は常識に欠けている。(中略)常識を欠いた幹部が政治にまでくちばしを入れるというのは言語道断、国家の災いというべきである」とまで述べて、軍事予算を押さえ込もうとした。 その高橋の断固たる姿勢は、当時の日本銀行総裁の深井英吾から、国債の市中消化に問題ありとの進言を受けてのことであった。それは明治44年(1911年)の日本銀行総裁就任の際、政府に対して効率的な金融制度を守るために歳出増加を断然避けるように申し入れた高橋としては、当然の姿勢であった。 効率的な金融制度を守るため 財政健全化に命を懸けた教訓 以上でご紹介したところからアベノミクスの原型と言える高橋是清の経済政策が、デフレ脱却によって効率的な金融制度を取り戻すことを基本にしていたこと、その金融制度を守るために強力な健全財政路線をとったことが、ご理解いただけたであろうか。 高橋は、デフレ脱却のために日本銀行の国債直接引き受けによる積極的な財政政策も行ったが、それは一時の便法(深井英吾の解説)だった。しかしながら、そのような高橋の政策の基本は、当時でも、高橋のように実体験に基づく金融政策がわかっていない周辺の人々には、理解されないものであった。高橋蔵相の直接の部下だった、大蔵省の西村淳一郎国債課長にも理解されなかったのである。 西村は、「井上さんのときには公債は全くいけない。この上公債を出しては国家が破滅するとまで言われたものが、高橋さんの時代になると、10億円(国会予算の半分程度)出しても順調に行っている。(中略、それをここにきて)公債発行額を徐々に減らさなければならないといった。世間の人はこれを冷やかして、10億円もの公債を出していながら、減らす減らすというのはどうも滑稽ではないかと言っておりましたが、高橋さんとしては主義として、(中略)わずか2千万円、3千万円程度であっても、とにかく少しずつ」減らしていったと述べている。 世間で滑稽だと言われようとも、部下から「主義として」と言われようとも、「自分としてはもうこのまま死ぬつもりだ」との覚悟の下、経済成長の基盤である効率的な金融制度を守るために財政健全化に命を懸けたのが、高橋是清であった。アベノミクスの是非が問われるようになった今日の財政・金融政策として、高橋是清から学ぶべきことは多いといえよう。 なお、軍部の無理の前に多くの人々が暗殺される世の中になっても、決して希望を失うことなく、最後まで天真爛漫に、人を信じ、国家を信じるという人生を貫いたのが、高橋是清であった。 http://diamond.jp/articles/-/63586
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