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雑誌不況、地獄の季節へ ビジネス誌部数激減、「スクープ」から「身の回り」の時代に
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141206-00010000-bjournal-bus_all
Business Journal 12月6日(土)6時0分配信
「雑誌不況は底が抜けて、地獄の季節に突入しました」と、あるビジネス誌の発行人は危機感を募らせる。
1997年をピークに年々市場が縮小している出版業界において、比較的堅調といわれていたビジネス誌、経済・経営誌(以下、ビジネス誌)にも本格的な冬が訪れた。
10月末のABCレポート(日本ABC協会)によると、「週刊東洋経済」(東洋経済新報社)の発行部数は6万部を割り5万9501部、「週刊ダイヤモンド」(ダイヤモンド社)も前年同期比マイナス9000部の8万4298部と激減。「日経ビジネス」(日経BP社)は、その倍以上に当たる2万1000部も部数を落とした。そのような中にあって、「プレジデント」(プレジデント社)は、前年同期比107.5%となり、再び18万部台に乗った。デジタル版との重複を除く紙媒体のみの紙版公査部数で比較をすると、同誌とビジネス誌首位「日経ビジネス」の差はわずか1900部になり、「指呼の間に入ってきた」(出版業界関係者)という。
もっとも、東洋経済新報社のネット媒体である「東洋経済オンライン」は、7月1日付で新編集長が就任後3カ月、月間4000万PV(ページビュー:ウェブページ閲覧数)からおよそ倍になった。まさに同社は新事業で活路を見いだそうとしている。紙とデジタルをトータルでとらえれば、「東洋経済」はなかなか健闘しているともいえよう。対して、プレジデント社の「プレジデントオンライン」はPVもさほど多くなく、儲からない事業として紙媒体の付録的存在に留まっている。
とはいえ、いずれも往時の姿はなく「どんぐりの背比べ」。「『プレジデント』を2000年2月に月刊から月2回刊にし、部数を大幅に増部させた」と当時のプレジデント社社長が社内外で公言していたが、それは部数が落ち込んだ最悪期をベースにしての「大幅増」。同誌は、「最も伸びた雑誌」として注目された1980年代後半がピークであり、当時は30万部の大台をめぐり、「日経ビジネス」と「プレジデント」がデッドヒートを繰り広げた。その結果、「プレジデント」が一時ビジネス誌首位の座を占めた。
●身の回りの話題で部数伸ばす「プレジデント」
「ビジネス誌」という媒体は、読者としてビジネスパーソンだけでなく経営者も想定してつくられているため、企業広報関係者もマークしている。社会に影響を与えるマスコミとしての存在だけでなく、企業経営、経営者の意思決定をも少なからず左右しているといえよう。とはいえ商業誌、「売れてなんぼ」という点では、他のジャンルの雑誌と変わらない。変わらないどころか、発行元出版社は主力ビジネス誌を屋台骨として全社戦略のブランドにしているという点では(毎日新聞社発行の「エコノミスト」を除く)、各社の経営、事業システムを揺るがしかねないほど、部数減は深刻な問題である。このような中にあって、各誌はネタを替え品を替え、いろいろな企画で勝負。「プレジデント」が、お金、仕事術、自己研鑚、人間関係、老後など、いわば身の回りの話題を特集にして部数を伸ばしている。
かつて、「日経ビジネス」「東洋経済」「ダイヤモンド」「エコノミスト」などのジャーナリズム志向が強い老舗ビジネス誌は、「あんな人の欲をくすぐる恥ずかしい企画を堂々とよくやるよ」と揶揄し、低く見ていた。実際、「プレジデント」以外のビジネス誌は、編集部がスタッフライター(社員記者)を抱えており、彼らが取材現場を這いずり回り、最新・スクープ情報を収集する。それをもとに企画し、自ら記事を書く。彼らはいずれも優秀な人材である。例えば、「東洋経済」には、「会社四季報」の取材・執筆も兼ねていることから高い取材能力に加えてアナリストのように企業(財務)分析を得意とする記者が多数いる。このような秀才たちによりつくられた「賢い雑誌」の部数が少ないのは、国事を動かす経済・経営ものよりも、近視眼的な視点から「生活」を考える日本人ビジネスパーソンが増えてきた世相を反映している。
一方、「プレジデント」編集部には、いわゆる「業界担当記者」はいない。執筆をほとんど外部の人に依頼している、いわゆる「編集者雑誌」である。自動車や電機、金融といった主要業界の記者会見には、企業から案内が来るので編集者は顔を出しているが、上記4誌や新聞記者、アナリストのように積極的に突っ込んだ質問をしたり、それをベースに詳しい解説記事を書くような人は、現在の「プレジデント」編集部にはいない。それでもよし、とされる職場文化が同編集部だけでなく編集者雑誌にはある。
情報色が強い内容であれば、フリーランスの誰が書こうと、結果良ければすべてよしなのである。編集者雑誌では、いかに多くの部数を獲得する企画を発案するかが編集部員のミッションであり、昼夜を問わず額に汗して飛び回り取材をしスクープ記事を書いたところで、あまり高い社内評価は得られない。当然、そのような方向へ編集部員のモチベーションは高まらない。一昔前は、このような組織であっても、スタッフライター制の雑誌に対抗できる記事を自ら書く正社員の「編集記者」が存在したが、現在は業務委託契約により雇用されている週刊誌記者経験者が、情報色ものを時々書いている程度だ。
マスコミで「取材」と言えば、記者がキーパーソンにインタビューするだけでなく、自らさまざまなルートに接触し裏をとる。ところが、「プレジデント」のような編集者雑誌では、「取材」といえば外部の執筆者に書いてもらうためのデータ収集であることが多い。社長だけでなく、サラリーマンにインビューする際も、フリーランスのジャーナリストやライターと同席し、補足的に聞くだけというケースがほとんど。
企業文化とは恐ろしいもので、ある言葉が外部と内部ではまったく違う意味で使われていることがある。プレジデント社生え抜きか、異業種から転職してきてジャーナリズム(記者)経験のない人は、執筆者と一緒に飛び回っていることを「取材」と称する。しかし、他の4ビジネス誌や新聞記者にとって「取材」とは、自ら記事を書くための情報収集を意味している。まさに似て非なるものである。
編集スタッフの感覚も異なる。「プレジデント」編集部の女性デスクのフェイスブックを見ると、「今回はかなりデザインに力を入れました」と書いている。もっとも本人がデザインしたわけではなく、社外のデザイナーに「こんな感じに仕上げてほしいのですが」と依頼したことを意味している。これは、彼女にとっては誇るべき大仕事なのである。まず、スタッフライター制の雑誌編集部では、デザインに関する話題が出たとしても、フェイスブックで世間に向けて強調したりはしないだろう。なぜなら、それは編集の主たる仕事ではなく、外部のデザイナーにアウトソーシングする従の仕事であると考えているからだ。
●薄れるスクープ報道の存在意義
そもそも編集者という職業は、文芸畑を中心に形成された経緯がある。そのため、編集者は偉い小説家の先生に書いていただくのが仕事で、それをバックアップするために黒子に徹することが美しいとする価値観を持つ。「プレジデント」も創刊当時から数年、スタッフライター制を敷いていたが、編集者雑誌に変貌してから編集部は黒子に徹している。「プレジデントのやり方では人が育たない」と指摘するスタッフライター制の媒体関係者は少なくない。たしかに、そういう面は否定できないが、紙版部数という点から見れば、世の中の風は、「プレジデント」に有利なほうに吹いている。
インターネット・メディアの普及により、速報性は新聞にさえ求められない時代。雑誌は言わずもがなである。したがって、多くの記者とその人件費を投入し、あるテーマを追い、締め切りに間に合うかどうかと慌てながらスクープを週刊誌が掲載したところで、人々はあっという間にネット情報で知り、雑誌を買う必要性を感じなくなる。必要性を感じるとすれば、「プレジデント」が毎回、特集で打ち出している保存版的企画である。これは新書を求めるニーズに等しい。それとて、ネットを探せば該当する情報は溢れている。しかし、いまだに多くの人が、有名ビジネス誌が掲載している情報にネットよりも高い信頼性を感じている。加えて、大量のネット情報をわざわざ時間をかけてプリントアウトするぐらいなら、雑誌を一冊買って保存し、家族で読み回そう、といった人が購買層になっているようだ。
●生活臭のする身近な企画が増える理由
このような背景では、情報の新鮮度よりも、企画とデザインや図解などの見栄えに時間をかけられる媒体のほうが有利になる。取材し記事を執筆する過酷な知的労働をアウトソーシングすることにより、机上で考える時間が増える。そして、社内スタッフの情報力や知的水準がばれることもない。悪く言えば、他人の褌を使って相撲をとることができるのである。筆者も編集者としてよちよち歩きし始めた頃、先輩編集者から「そもそも編集者は女々しい仕事なんだ」と釘を刺された。今思い返せば「女々しい」という表現には問題があるものの、「ジャーナリズムの主役として、自ら署名入りで堂々と論を張れるような仕事ではない」と言いたかったのだろう。
さらに、「編集者雑誌」は固定費率が高い出版社の経営にとって好都合な事業システムである。安くない人件費の社内記者を多く抱える必要もないからだ。だから、経済・経営モノを扱う媒体以外は、ほとんどが「編集者雑誌」のスタイルをとっているのであろう。
書店売りではなく直売が中心である「日経ビジネス」は、相変わらず記者色を色濃く打ち出したオーソドックスなビジネス記事で構成されている。一方、「東洋経済」や「ダイヤモンド」も、老舗ビジネス誌ののれん、レゾンデートル(存在意義)を守るために、頑固なまでに同様の内容に力を入れ続けている。「ビジネス・ジャーナリズムを捨てるぐらいなら、死んだほうがいい」と豪語する記者も少なくない。しかし、本当に死んでしまっては困るので、より広い読者層と現代的ニーズに対応するため、近年、「プレジデント」と同じような生活臭のする身近な企画が増えてきた。
●新女性ビジネス誌創刊
このような変化の流れの中で、「新しい鉱脈」として実験台に載せられたのが「女性ビジネス誌」である。
すでに、「エコノミスト」に続き「東洋経済」の編集長には、優秀な女性が就任している。両誌とも女性層獲得を前面に打ち出しているわけではないが、安倍晋三政権が力を入れている「女性の積極的活用」の流れに沿ったようにも見える。かつて、「プレジデント」が月刊末期の頃に女性編集長を登用し、「男性ビジネスマン(経営者)を読者対象にしている『プレジデント』の編集長に女性が」という点だけがクローズアップされ、一部メディアで話題を呼んだが、部数は低迷したまま。そこで立て直しのため、もう一人の編集長として男性の編集長経験者が加わり、二人編集長という過去にない体制が敷かれた。この歴史が証明しているように、女性が編集長になったからというだけで伸びるほど、ビジネス誌は甘い市場ではない。
女性活用が叫ばれる一方で、「頭数合わせの女性活用」「男女逆差別」「すでに女性は活躍している。女性活用を叫ぶのは余計なおせっかい」、はたまた「脳科学的観点からいうと、男女同権は実現できても、男女同質はありえない」など、さまざまな意見が聞かれる。事はそれほど単純ではない。とはいえ、企業だけでなく、あらゆる組織において女性の人数、存在感が増してくることは事実である。
この流れに沿うかのように11月7日、「日経ウーマン」の牙城に「プレジデント・ウーマン」(プレジデント社)が乗り込んできた。「プレジデント」の別冊として創刊されたが、数冊出して感触が良ければ定期刊化すると見られる。社内でも強い反対意見があったそうだが、「プレジデント」の女性部員たちが2年半前から構想しゴーのサインを得た。
第一号の特集(カバーストーリー)は、『女の底力! 時間術のバイブル』。驚くべきことに、「プレジデント・ウーマン」創刊直前の10月29日に発売された「日経ウーマン」別冊の特集は、「仕事が速い女性がやっている時間のルール」。偶然かもしれないが、うり二つのタイトルである。競争し切磋琢磨するのはいいが、小さな市場を食い合ってどうするのだろうか。
「東洋経済」対「ダイヤモンド」、「週刊文春」対「週刊新潮」といった具合に雑誌は、それぞれのジャンルにライバル関係が存在した。現在もそうかもしれないが、あえて過去形で書いたのは、市場が成長期にあれば需要が拡大し、同じような商品でも売れる。しかし、市場が縮小している出版のような構造不況産業では、「女性ビジネス誌」という新市場を創造しようと思っても、下手をすればライバル同士が共倒れになりかねない。
にもかかわらず、「日経ウーマン」と「プレジデント・ウーマン」は、どうして同じような発想をするのだろうか。ちなみに、どちらも編集長は女性である。女性が読者である→女性の目線で企画する→同じものが出来上がる、という単純なロジックが影響しているのかもしれない。また、いずれも大量のアンケートに基づき「顧客の声」を聞き、それを企画に反映している。この方法を用いれば、恐らくある程度は売れるだろう。しかし、それ以上のイノベーションは起こらない。
●「顧客の声を聞く」の罠
マーケティング戦略でも、「顧客の声を聞く」ことの重要性と扱いについて議論されている。顧客はニーズを有しているが、その声は素人の発想から生じたものである。また、既存商品・サービスに対する不満であることが多い。それを真に受けて付加価値をつけず商品化しては、どこの会社も同じ商品を発売することになる。つまり、競争戦略でいうところの「差別化集中」を実現できない。日本企業は熱心に市場調査をするだけに、その罠にはまることが少なくない。
ともあれ、どの雑誌も創刊号は華々しくデビューし注目される。編集長はメディアからインタビューを受け、書店も良い場所を確保し、丁重に扱ってくれる。しかし、その後、内容や世の中の変化により、鳴かず飛ばずになってしまう雑誌が後を絶たない。
プレジデント社が前社長の肝いりで創刊した「プレジデントファミリー」もその一つである。別冊からスタートし、当初は20万部に達したと話題を呼んだが、その後は線香花火のようにしぼんでいく。月刊化したのはいいものの、鳴かず飛ばず。今は季刊誌(年4回発行)になっている。日本経済新聞社、朝日新聞社グループの出版社が、類似の雑誌を出してきたことから、このジャンルでも、小さな市場を食い合ったのだろう。さらに、同じような特集ばかりを繰り返しているので飽きられてしまったことも敗因の一つだろう。
「プレジデント・ウーマン」の創刊号を見る限り、「プレジデント」の別冊としてスタートしたとはいえ、その焼き増しかと思えるほど「プレジデント」風女性誌に出来上がっている。「プレジデント」でも人気を呼んでいるからという発想で似たような特集を組み、女性向けに置き換えている。では、女性向けとは何か。他の女性誌を参考にして、図解や写真をたくさん使い、情報をわかりやすく伝えようとしたというのが経営者の答えだ。
「日経ウーマン」とどう違うのか。「プレジデント」が開拓しつつある女性読者を奪わないか。雑誌編集経験者としてだけでなく、経営学の観点からストレートに考察しても、議論すべき点がいくつも浮かぶ。もうひとひねりが必要だ。例えば、女性はこうだから、と女性の視点で決めてかからないことだ。また、本当の意味で、男女共同参画社会を実現するためにはいかにあるべきか、というアングルから男性色をあえて取り込むこともありかもしれない。
●女性ファッション誌とは似て非なる女性ビジネス誌
とうの昔からカトリックをはじめとする伝統的宗教は、脳科学でいわれているようなことはお見通しであった。「男女がともに心地よく生きていける社会とは、企業とは」といった視点から女性誌は女性と同様に男性を研究テーマにすべきではないか。良い意味でも悪い意味でも、既存のビジネス誌は、なんでもかんでもフレームワークで片づけられるような合理性ばかりを追っかけ、非合理性、文学性、人間の性、男女の機微、つまり、広義の情緒が欠けているように思われる。
女性誌は、出版広告不況の中にあって広告がつきやすい唯一の媒体といわれているが、女性ビジネス誌は、商業性が極めて強い女性ファッション誌とは似て非なるもの。はたして、地獄の季節に突入したビジネス誌市場で、女性による女性向けの女性ビジネス誌は活路を見いだせるのだろうか。女性も男性も同じく活躍できる社会が望ましいが、双方とも身の回り半径数メートル範囲のようなことしか考えない木っ端ビジネスパーソンになってはいけない。志高き社会性、教養、歴史観を備えた大きな器の女性を育てる媒体になるよう、「女性ビジネス誌」のイノベーションと健全な発展を心から応援している。
長田貴仁/神戸大学経済経営研究所リサーチフェロー、岡山商科大学教授
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