01. 2014年12月01日 10:15:38
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競争に敗れた個別企業が潰れること自体は、そう問題はない http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20141126/274297/?ST=print 遠くにボールを投げるなら、「森ビルになりたい」です。ツクルバ CEO 村上浩輝さん、CCO/クリエイティブディレクター 中村真広さん【後】 2014年12月1日(月) 古市 憲寿
[左]村上 浩輝(むらかみ・ひろき) 株式会社ツクルバ 代表取締役CEO 1985年東京都生まれ。立教大学社会学部産業関係学科(現経営学部)卒。コスモスイニシア(旧リクルートコスモス)に入社後、事業用不動産のアセットマネジメントに従事するが、リーマンショックの影響から入社7か月目でリストラに。その後、ネクストを経て、2011年8月、ツクルバを共同創業。 [右]中村 真広(なかむら・まさひろ) 株式会社ツクルバ 代表取締役CCO/クリエイティブディレクター 1984年千葉県生まれ。東京工業大学大学院建築学科専攻修了。大学院時代に渋谷・宮下公園に作られたスケボーバーク基本設計を担当。その後、コスモスイニシアに入社するも、村上氏同様、リーマンショックの影響から入社7か月目でリストラに遭う。以後、ミュージアムデザインを手掛けるア・プリオリを経て、フリーランスに。2011年8月、ツクルバを共同創業。 (前回から読む) 古市:ビジネスを勉強しようと思って就活した。そうすると、最初から辞めるつもりで入社したってことですか。 村上:はい。就職の面接では「僕は3年で辞めて起業します」と言っていました。それでも採用してくれたのがコスモスイニシア。 古市:3年で辞めるって言ってる人を採用するのか、コスモスイニシアは……。 村上:当時は採ってくれたんですよ。 中村:僕らの時代はそうでしたね。 村上:逆に「君はなおさらうちに来たほうがいいよ」と人事の人が言ってくれて。さすがに僕も「え?」って思ったんですが、リクルート系は人事に力をものすごく入れていて、トップ営業マンや新人賞を獲った2年目の人を新卒採用に据えるんです。それで、USENの宇野(康秀)さんとか、いろいろ具体的な出身者のリストを見せられて「ほら、うちは起業家輩出企業なんだよ」って(笑)。「そうですか、じゃあ、行きます」ってことになりました。 古市:すごいな(笑)。 村上:でも面白い会社だな、と思いました、まあ、騙されたようなものなんですけどね。その後、たちまちリストラされちゃいましたから(笑)。 古市:リストラ話は中村さんと一緒に後で詳しく聞くとして、ダンスイベントで3000人集めたという学生団体が気になるんですが、それは何人でやっていたんですか。 村上:1人で。 古市:1人! 村上:お手伝いをしてくれる人には日当を渡して、チーム的に4〜5人。でも実質、動いていたのは僕だけです。組織を作るのが下手だったから、全部自分でやっちゃえ、と。 古市:そもそもなぜそういう学生団体をやろうと思ったんですか。 村上:クラブのマネージャーをしている年上の知り合いがいて、学生を集めてイベントやってよ、と言われたからやってみたら、意外と集まっちゃった。 古市:へえ。できるものなんですね。情報がなくてもそういうことが。 村上:当時、DA PUMPさんが出ていた番組があって、そこに出ていたダンサーに伝手を辿って出てもらったら、すごく人が集まって、僕の手元に30〜40万円のお金が入ってきたんですよ。学生にとって大金ですから、これはバイトしなくて済む!と。まあ、その時、そもそもバイトしてなかったですけど(笑)。 村上:イベント規模が大きくなると、企業側からアプローチされるようになるんですね。ナイキが「Just Do It TOKYO」というキャンペーンをやっていた頃で、宮下公園のプロジェクトにも関わったりして。 古市:友だちが多かったんですか。 村上:僕の場合は、ダンスイベントというコンテンツを持っていたから、声をかけられることが多かったです。 古市:それで、コスモスイニシアに入ってからはどうだったんですか。 村上:採用では不動産について何も聞かれなかったから、不動産に興味もなく入ったんですが、入社したら「宅建って資格があるから、(入社するまでに)取っておいてね」と言われて。最初は「何ですかそれ?」って感じでしたけど、不動産というのは規模がでかくて面白そうで、いろいろ可能性は感じました。 だけど、僕が内定をとった2008年はリーマンショックの年だった。4月に内定とった時は会社の調子がすごく良かったのに、9月にリーマンショックが起きて、翌年入社はしたけれど、その時にはADR(裁判外紛争解決手続)を出していて、結局、入社して7か月でリストラされちゃった。新卒40数人が全員クビ、2年目もほとんど、3年目は半分くらい、40代以上もほとんどクビ、役員は総辞職。 古市:クビって、いつくらいに言われたんですか。 村上:夏くらいです。4月の初旬に配属が決まって、20日くらいに緊急集会があって社長が号泣しながら「ADRを出しました」って言ってました。僕は訳がわからないながら、「うわー」って思ってた。先輩たちは「さすがに新人は大丈夫だよ」なんて言ってくれていたんですが。 入社3年目まで一律、退職金120万円 古市:リストラされちゃった、と。大変でしたね……。退職金はあったんですか。 村上:120万円くらいもらいました。 古市:7か月働いた退職金が120万円、悪くないかもしれないけど……。 中村:僕もそのとき一緒にリストラされたわけですが、でも、ラッキーだったと思いますよ。 古市:というと? 村上:入社1年目から3年目まで、退職金が一律だったから。3年目はぶーぶー言ってました。(笑) 中村:「なんでおまえらと同じ額なんだ」って。 古市:そりゃそうですね。 村上:それで、ほっとくと飲み代に消えちゃう微妙な額だから、これを元手に何かできないか、と考えて、僕と中村、それから他に2人、合計4人でカフェを始めることにしたんです。 中村:実際に始めたのは2011年2月。僕も村上もすぐ次に就職した本業があって、他の2人はカフェ運営を本業にしました。今はツクルバのグループ会社にしていますが、その時、作った会社がアプトで、飲食部隊です。 古市:なるほど。村上さんと中村さんはどのタイミングで出会ったんですか。 村上:コスモスイニシア内定者の親睦会でした。 中村:ただ、配属された部署がまったく違いましたから、会社にいた頃はそんなに接点はなかったです。 村上:僕は本社の法人担当営業、彼は建築設計の出身ですが、一応、販売を経験しておけ、ということで中村も晴海のマンション販売の現場に。 中村:でも、「おまえ、営業をしっかり見てこい」っていうタイミングで終わっちゃったという(笑)。 古市:建築学を専攻したのに営業の現場に行っただけになったのか。中村さんも前から起業を考えていたんですか。 中村:起業というか、建築家になるつもりでいました。で、建築家のロールモデルは先輩のアトリエで働いて、30歳くらいで独立して、中村真広建築設計事務所を作る、という感じですね。だから、独立を考えていた。 古市:ああ、そういう意味での「起業」か。中村さんは学生時代に宮下公園のスケボーパークの基本設計を担当された、と聞いていますが、村上さんも関わっていたプロジェクトですよね。 建築萌え×リア充の出会い 中村:まさに、ニアミスだったんです。ナイキの担当者も同じ人だったと後で判明しましたが、その当時は出会いませんでした。 古市:じゃあ、本当に奇遇だったんだ。建築家として独立を考えていたのに、建築家の道に直接は進もうと思わなかったんですか? 中村:公共の公園をあれほど作り変えることができちゃう。仕掛ける側に面白い人がいるとそういうこともできるんだな、と学生ながらテンションが上がって。建築を学んでいましたが、その前段階にデベロッパーがあると気づきました。それで、企画側に行きたくなった。コスモスイニシアにしたのは、学生時代、これもたまたまですが、コスモスイニシアと共同研究していたので。 古市:なるほど。もっと堅実なデペロッパーが他にありそうですが(笑)。 中村:それはそうですね(笑)。親にも、「あんた、それリクルート事件の会社よ」と言われましたけれど、僕はそんな時代の話は知りませんから。今振り返れば、結果的に正解だったんだろうと思っています。 古市:中村さんのご両親はどんなお仕事を? 中村:父親が日立製作所の営業、母は専業主婦ですが、パートタイムでカウンセラーを。精神科医ではないので処方はできませんが。僕はひとりっ子です。 古市:ご実家はどちらですか。 中村:千葉市です。村上と同じでベッドタウン。家はへーベルハウスでね。 古市:おふたりとも典型的な昭和のご両親と暮らし、という環境で育ったんですね。 中村:そうですね。二世帯住宅でしたし。周りに起業家もいませんでした。 古市:で、内定してから出会って。 中村:そこでナイキの話になって、共通の話題ができた。でも、僕は理系男子で村上は文系男子。僕は寝袋が友だち、みたいな生活していたのに、彼はダンスとかイベントとかやってリア充っぽいし、海で「イエーイ!」ってやってそうな感じ。僕と違うなあ、って思った。 村上:実は僕のほうが楽しくない地味な生活でしたよ。イベントの主催者は楽しめないからね。 中村:でも当時「mixi」で友だち登録して彼が投稿している写真を見たとき、内容の質が違いすぎて、「文系と理系の違いってこういうことなのか……」と本当に思ったよ(笑)。 退職金でなぜカフェを? 村上:あ、僕も違いは感じました。彼の写真は一眼レフとかで撮ったきれいな建築写真や風景写真なんです。 中村:人が全然出てこない(笑)。そっちは「旅行に行ってきました!」っていう集合写真とかなのに。 村上:僕らは建物の前で記念写真を撮って、そっちは「この門構え、萌える」みたいな写真で。 古市:ははは。 中村:「こりゃ仲良くなれない」と思ったんですが、会社で行われていた宅建の講座で一緒になって、同期の中では気になる人、という感じになった。 村上:そうですね。 中村:コスモスイニシアに入って良かったのは、「リクルート的」なマインドに触れられたこと。建築をやっているとお金の稼ぎ方がいまいちわからないし、仕事は作るものだ、というマインドになかなかならない。だけど、リクルート系は自ら機会を作り出す、といった社風だから、僕の仕事観に影響を与えてくれました。スキル的には7か月しかいませんでしたけど、大きな学びをもらったと思います。 古市:で、リストラされて、退職金を無駄遣いしないためにも事業を、となった。そこで「カフェ」にしたのはなぜですか。 中村:会社を辞めて転職が決まってから、暇で、何か変なことを考えようって話をしていて、村上のダンスコミュニティと僕のデザインコミュニティ、お互いの人を混ぜてみない? と。ダンスや音楽やっている人はフライヤーのデザインができる友だちが意外といない、デザイン系は実際の仕事がなかなかない、って事情もあってマッチングできたら面白いと思った。 最初はカフェでイベントを企画していたんですが、営業方針と合わないとか言われたりして、なかなかいい場所が見つからない。そうこうしているうちに、我々は新しい会社に入ってうやむやになっちゃった。忘れた頃に村上から「カフェをやっちゃわない?」と誘ってきた。 古市:自分たちで場所を持とう、ということですね。 中村:そうです。 古市:でもカフェを始めるとしても、当時、中村さんも村上さんもそれぞれ働いていたんですよね? 村上:4人で始めたんですが、他の2人は専業で、僕と中村は副業規定にひっかからないように株だけ持ってお給料はもらわない、という形でスタートしました。それが2011年2月。だから、2009年にコスモスイニシアをやめて2年間、サラリーマンとして忙しく働いていました。 古市:当時のお仕事の内容は? 「場を作る」思いで始まった 村上:不動産会社向けITシステムの企画・マーケティング・営業などです。 古市:でも、ずっと働こうとは思っていなかった。 村上:コスモスイニシアも3年で辞めると言って入ったくらいですから、そうですね。 古市:ちょうど3年経って、その時が来た、という感じでしょうか。 お金はそれぞれどれくらい持ち寄ったんですか。先ほど、退職金120万円を元手に、っておっしゃっていましたが。 村上:僕が最初に100万円、その次に3人で100万円を割ってもらって、計200万円。それと銀行から200万円借りました。 古市:融資は簡単でした? 村上:まだ僕がサラリーマンだったので、簡単でしたよ。 古市:カフェを始めてどうでしたか。 村上:それが、始めたのが2011年の2月で。 古市:ああ。 村上:翌月にあの「3月11日」です。飲食店は閑古鳥。上場企業に入ってすぐリストラされ、カフェを始めたら震災が起きて、「安定」なんてないな、未来なんてわからないな、と本当に思った。 でも、友だちが「あいつら助けようぜ」って無理やり来てくれて、わざわざパーティを開いてくれて、なんとか持ちこたえて今に至ります。そうしたイベントの集まりの中でつながりができていって、自分たちが意図しないところで起こる化学反応が面白いな、と思いました。それがこのco-baの原風景になっています(ツクルバの事業展開やco-baなどについては前編参照)。 古市:カフェは今も営業しているんですか。 村上:ええ、池袋でちゃんと営業しています。ただ、僕らは「場を作りたい」が第一義で、他の2人は「飲食がやりたい」が第一義って違いがあったから、ツクルバはあくまでも空間プロデュースが主軸です。 中村:僕ら世代は、R不動産やブルースタジオといった先輩方の試みを見て育ってきた。僕らの世代は何ができるんだろう? と。それが、建築、不動産のスキルを活かして場を作っていく、ということですね。 古市:なるほど。これからどんな夢を持っていますか。 中村:遠くにボールを投げるなら、森ビルになりたい。 古市:森ビルになりたい! 我らが住む、働く場所を、我らが作る 中村:都内が適切かどうかはわかりませんが、森ビル的なこと、をやりたい。僕ら世代が住んでもいいかな、働いてもいいかな、と思うような、それが東京の郊外になるのか、今はちょっとわかりませんが、そうした場所を見つけて開発したい。 古市:へえ。面白い。それと、以前のインタビューを読んだら、地方にも目を配っていきたい、といったお話をされていましたが。 中村:地方も今、やっています。地方版ツクルバ。co-baのフランチャイズです。現地にオーナーさんがいて、この場所でやってみたい、と依頼を受けたら、立ち上げのサポートやデザインなどを請け負っています。地方もその土地で、僕らのようなマインドを持っている人たちがいろいろやっていってくれたらいいな、と思う。 僕たち自身は先ほど言ったように、生まれも育ちも東京圏ですから、東京圏にはリアリティがある。だけど、地方に行くとよそ者です。よそ者がその土地の人より熱意やモチベーションを持てるとは思えないから、僕らが「森ビル的なこと」をするなら、やはり東京圏でしょうね。 村上:「森ビル的なこと」というのはメタファーで、別に六本木ヒルズのような象徴的なものを作りたい、って意味ではないですよ。 ただ、あれは本当に森稔さんという方の強い意志の結晶で、旧財閥でもないのに、あんなことを一代で成し遂げたって本当にすごいと思う。職住接近で美術館も有する都市を作るなんて。僕らも思想を持った街を作りたい。 中村:行政サービスに自分たちの活動が乗っからないということではなく、我々が良いと思ったものを最大限アウトプットできるような活動をしていきたい。そういう意味で、六本木ヒルズは僕たちのやりたいことを実現しているサンプルの最たるもの。 古市:自分たちがお金持ちになりたい、ヒルズに住みたい、というのとも違いますよね。 中村:入ってくるお金を自分たちが良いと思うものに対して再投資したい、という感じです。 古市:社会貢献とも違いますか? 子孫を残すように、意思を残したい 村上:中村と話しているのは、僕らがやりたいことって究極の生理的欲求なのかも、ということ。子孫を残したい、ってのと近い気がします。僕らが死んでも、僕らの意志を持った会社や物を残したいというのは、究極の自己満足かもしれないと思うんです。 もちろん、いいことがしたいと思っていますよ。正義感だってあります。だけど、正直にもっとドロッとした部分を見つめると、そういうことじゃないかな、と。 中村:僕も建築に燃えたのは、たぶん、そこです。たとえば、京都なんかに行くと、自分の人生のスパンを遥かに超えた数百年、数千年、といった時間を感じるじゃないですか。そうした大いなるバトンの中に僕らのわずか80年の人生がある。それでも、だからこそ、次の世代に何かを作ってパスするところまではやりたいんです。 古市:なるほどねえ。面白いなあ。今日は同世代といろいろお話しできて良かったです。森ビル的なこと、が実現するといいですね。期待しています。 村上:こちらこそ、楽しかったです。 古市:ありがとうございました。 中村:こちらこそ、ありがとうございました。 (中沢明子:ライター/出版ディレクター、本連載取材協力・構成) あとがき シェアオフィスが世界的に流行している。マイクロ起業や自営業者への注目が集まる中で、彼らの協業の場として注目を浴びているのだ。こうしたシェアオフィスには、起業家になりたいだけの、気分だけは起業家の人がたくさんいたり、もしくはネットワークビジネスの温床になっているんじゃないかと疑問を持っていた。 しかし実際に渋谷のツクルバを訪れて感じたのは、雰囲気のいいカフェのような場だなあということ。開放的な空間で、いかがわしいことが起こりそうには思えない。事実、村上さんと中村さんは、もともとカフェ運営から現在のビジネスを始めたらしい。 村上さんと中村さんの出会い方や、仕事への発展のさせ方も、シェアオフィス的だ。互いの得意なところを掛け合わせて、それを一つの仕事にしていく。そして自分たちの居場所を作ってしまった。この仲間を増やしていく感じ、『ONE PIECE』にも通じる。ツクルバには憧れが詰まっている。 イマドキの社会学者、イマドキの起業家に会いにいく かねてから「起業家」という存在に興味を持っている。よく世の中では起業家というと、お金にがめつくて、野心にあふれて、独立心の強い人だなんてイメージが持たれたりする。一方では最近、社会起業家だとかチェンジーメーカーも注目を集めている。彼らの人柄にも興味はあるけれど、できるだけ起業家と社会の関係を明らかにするような話を聞いてみたい。
http://diamond.jp/articles/-/62412 アフリカで25万人の生活を変えた日本人起業家からの手紙 【第4回】 2014年12月1日 佐藤芳之 「石の上にも三年」を信じる必要はない 佐藤芳之(さとう・よしゆき) ケニア・ナッツ・カンパニー創業者、オーガニック・ソリューションズ代表取締役社長。1939年生まれ。宮城県志津川町(現・南三陸町)で幼少期をすごす。1963年、東京外国語大学インド・パキスタン語学科を卒業後、アフリカ独立運動の父、クワメ・エンクルマに憧れて日本人初の留学生としてガーナ大学で学び、修了後はケニア・東レ・ミルズに現地職員として入社。31歳で退職し妻子を連れて日本に一時帰国。「やっぱり、アフリカで何かやりたい」と決意し、32歳で単身ケニアに戻り、鉛筆工場、製材工場、ビニールシート工場など、小規模なビジネスを次々と立ち上げ、うち一つを最終的にケニア・ナッツ・カンパニーとして世界5大マカダミアナッツ・カンパニーに成長させる。2008年に同社をタダ同然でケニア人パートナーに譲渡したのちは、微生物を活用した公衆衛生・肥料事業をケニア、ルワンダで展開。 ?アフリカ諸国の独立に湧いていた1960年代、佐藤芳之さんは日本人初の留学生としてガーナに渡りました。そして、「アフリカに仕事をつくりたい」と35歳でケニアで立ち上げた「ケニア・ナッツ・カンパニー」を世界5大マカダミアナッツ・カンパニーに育て上げました。 ?最終的にケニア・ナッツは社員数4000人、契約農家5万軒、農場の敷地面積東京ドーム780個分まで拡大し、佐藤さんは25万人の生活に関わることになりました。それまで現金収入のなかった人たちがきちんと収入を得て、家を建てたり、子どもを学校に通わせたりできるようになり、25万人の生活が大きく変わりました。現在75歳になった佐藤さんは、ケニア・ナッツの株をタダ同然でケニア人パートナーに譲渡したのち、舞台をケニアの近隣国ルワンダに移して新たなビジネスに挑戦しています。 ?11月20日から始まった全5回の連載では、11月20日に著書『歩き続ければ、大丈夫。?アフリカで25万人の生活を変えた日本人起業家からの手紙』を刊行された佐藤芳之さんに、夢を叶えるための大切なことを伺っていきます。「何かやりたいけれど、何がやりたいのかわからない」「最初の一歩がなかなか踏み出せない」「思い切って始めたけれど、何をやってもうまくいかない」自分の夢と格闘しているすべての人に贈るメッセージです。 最初から本気になれる人はなかなかいない ?みなさんは、毎日の仕事を本気でやっていますか。 ?20代の人であれば、ちょうど新卒で就職した最初の会社で働いているところでしょうか。30代の人であれば、2社目、3社目という人もいるでしょう。なかには、美容師やデザイナーといった専門職に就いている人も、就職はせずに家業を継いだり、会社員を辞めて自営業をしている人もいるかもしれません。 ?立場はさまざまでしょうが、今のみなさんは「本気」ですか。 ?怒られそうなので、あまり大きな声ではいえませんが、最初から本気になれる人はなかなかいません。みなさんのまわりを見まわしてみても、何となくつまらなさそうに仕事をしている人、どこか上の空という顔をしている人が結構いるはずです。要するに、まだ本気を出していない人です。 ?ですが、誰にでも本気になる瞬間は訪れます。 ?何が人を本気にさせるのだと思いますか。 ?それは、「オーナーシップ」です。 ?英語の「ownership」を日本語にすれば、「自分事」となるでしょうか。今、自分がやっていることを「他人事」だと感じていると、人は本気になりません。仕事であれば、どうすればサボれるか、どうすれば会社の備品やおカネを盗めるかということしか考えなくなります。当然、必要なスキルも身につかない。自分の意識のなかに「オーナーシップ」のないまま仕事をしている限り、どんなに苦労しても、努力しても、何も蓄積されていかないのです。 「問題社員」だった私が「本気」になった瞬間 ?私自身も、30代前半まではまだまだ「本気を出していない人」でした。 ?織物を扱うケニアの日系企業で働いていた会社員時代は、地元のラグビー・クラブで走り回ったり、サッカー部をつくったり、運動会を企画したり、仕事以外の面は本当に楽しくすごしていたのですが、従業員としては、いつクビにされてもおかしくないような「ダメ社員」「問題社員」でした。 ?入社してすぐに配属されたのは染色の部署。 ?ところが毎回染料を量り間違えるので、ちゃんと色が出ない。じゃあ、今度は計算をやらせてみようということで経理部に回されたものの、簡単な足し算さえ間違える。そろばんも使えない。計算のやり直しをさせても、10回やらせれば10通りの結果が出る。 「佐藤くん、もういいよ」と上司から引導を渡されて、次はデザイン部に。もちろんデザインの素養なんてないのでダメで、その次は倉庫係。でも、やっぱり足し算ができないし、決められた棚に商品を置かないから使いものにならない。本当に何をやらせても不十分だったのです。 ?まだ「オーナーシップ」が身についていなかったせいで、目の前の仕事がどこか「他人事」だったのでしょう。会社運営には欠かせない「おカネ」と「物」と「伝票」の流れくらいは頭に入りましたが、それ以外はあまりモノになりませんでした。 ?ところが最初の会社を興してから一変しました。 ?ナッツ・ビジネスであれば、ナッツの種類から、栽培方法、ローストの仕方まで、仕事にまつわるありとあらゆる知識とスキルが、すさまじいスピードでどんどん頭に入り、スポンジが水を吸うように吸収されていくのです。 ?会社員時代、取引先でのプレゼンテーションの前に仕込んだ内容が、終わると同時に頭から抜けていき、何も残らなかったのが信じられないほどでした。 「オーナーシップ」は顔でわかる ?こういう話をすると、みなさんのなかには「起業しなければ、オーナーシップは持てないのか」とガッカリする人もいるかもしれません。 ?ですが、「オーナーシップ」とは、その人の姿勢の問題であって、立場によって決まるものではないのです。私の場合、たまたま「起業」がオーナーシップを持つきっかけになったというだけの話。 ?逆にいえば、経営者であっても、単に会社のオーナーであるだけで「オーナーシップ」のない人はいますし、従業員であっても、しっかりと「オーナーシップ」を持ってプロの仕事をやり抜く人もいます。 ?私は経営者として、とにかくビジネスに関わる人みんなに、毎日、明るい顔で「オーナーシップ」を持って仕事をしてもらえるよう工夫してきました。 ?たとえば、ナッツ・ビジネスであれば、生産農家の人にナッツの木のオーナーになってもらいます。品種改良してよい実をつける苗を1株200円くらいで購入してもらい、自分の畑に植えるしくみにしたのです。ちゃんと畑を耕して肥料をやり、大きくておいしい実がたくさんつけば、それを売った代金が全額農家の人に入ります。 ?このしくみによって、契約農家の人にとってナッツに関わることすべてが「自分事」になり、いつでも一生懸命仕事をしてくれるようになりました。こっちから細かいことをとやかくいわなくても、「オーナーシップ」を身につけてもらうだけで、自分で頭を働かせて創意工夫するようになる。 ?このスタイルが、ケニアのたくさんのナッツ農家に受け入れられて、ナッツ・ビジネスはみるみる拡大していきました。 ?その人が仕事に対して「オーナーシップ」を持っているかどうかは、「顔」でわかります。これはとても単純で、楽しそうな顔をして仕事に取り組んでいる人には、「オーナーシップ」があるのです。そして、つまらなさそうに、苦痛そうに仕事をしている人には「オーナーシップ」がありません。「オーナーシップ」とは、本来楽しいものなのです。 ?次回は最終回です。12月3日の掲載を予定しています。
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