01. 2014年11月18日 06:56:35
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「河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学」 「傍若無人はどっち?」 “野蛮化するオジサン”と“幼稚化する部下” 成熟できない若者を量産する魔のスパイラル 2014年11月18日(火) 河合 薫 「お金を投げおく中高年」――と題した、ある女性のホ・ン・ネが物議を醸している。 事の発端は、牛丼屋で働く40代の女性が、朝日新聞の「職場のホ・ン・ネ」に寄せた以下の記事(朝日新聞11月14日付)。 「若い人は食事を終えた後に『ごちそうさまでした』と言って料金を払ってくれるけれども、レジで言葉もなく、投げるようにお金を置くのは中高年の男性ばかりです。『お金を払って食べてやっている』という感覚なのかもしれないが、そんな親に育てられた子供があいさつしない大人に育つのでしょう。嘆くべきは常識のない若者ではなく、お手本にならない大人たちではないでしょうか」 で、ネットでは 「そのとおり! 中高年のおじさんって本当にタチ悪い」 「何であの年代って横柄なんだろ」 「店でキレて騒いでるのは、おっさんおばさんばかりだよ」 という賛成派と、 「少子高齢化社会だから数の多い中高年が目立っているだけ」 「若者はマナーや礼儀を知らないばかりか狂暴化している」 「サッカーやハロウィンのバカ騒ぎぶりなんて、マナーもへったくれもあったもんじゃない」 と否定派が入り乱れ、バトルを繰り広げた。 そもそもこの投稿は7日付の同欄で、大手企業の社員寮で清掃をしている60代の女性が、「150人程いる20代の独身男性のうち約半数がろくにあいさつもしない」と嘆いた投稿への反論だった。 「嘆くべきは常識のない若者ではなく、お手本にならない大人たちではないでしょうか」――。40代の女性は、そう疑問を投げかけたのである。 確かに、電車などに乗っていると、高齢者に席を率先して譲るのは若い人だったり、駅の階段でベビーカーを運ぶのを茶髪の若者が手伝っている光景に出くわすなど、「若い人のほうが優しい」と感じることは多い。 マンション内ですれ違ったときに、「おはようございます」と挨拶しても、無視して通り過ぎるのは大抵、40代以上の中高年だ。 だがその一方で、職場では多くの中間管理職の方たちが、「ウチの部下の信じられない言動」に頭を抱えているのも、また事実。 「ウチの部下なんて、『ここちょっとわからないんですけど』って、自分のデスクに上司を呼びつける。普通、わからないことがあったら、自分で上司のデスクに聞きにいくでしょ?」 「ウチの部下なんて、部長の送別会があったときに、『僕、行きたくないので行かないでいいですか?』って聞いてきた。こんなストレートなこと、普通言えないよね」 「ウチの部下なんて、大切な会議でメモとってないから、『メモをちゃんと取っておかないと、わからなくなるぞ』って言ったら、パチリって。なんとスマホで写メとって『はい。これで大丈夫です!』って」 「ウチは写メ禁止にしたよ。そうしたら、『別にいいじゃないすか!』って逆ギレされた」 「ウチの部下なんて、お客さんとちょっとトラぶったあとで、『もう、疲れちゃったんで帰ります』って帰っていったぞ。もうわけがわからない」 ……といった具合だ。 中高年批判、若者批判は、どっちも根っこは一緒 ただ、部下たちのこういった言動は、眉をひそめたくなるオジサンの言動は異なり、どれもこれも笑えるものばかり。日々頭を抱えている上司のみなさんには申し訳ないけど、だってまるでコントだし、上司が面食らう顔が目に浮かぶし……。「ウケる〜(ウチの部下風)」って感じなのだ。 もちろんどの年代であれ、いろんな人たちがいるので一概に「中高年はダメ」「若い人たちはダメ」と単純に白黒つけられる問題じゃない。「中高年の公共の場でのマナーと、若者の仕事の場での言動は全く別」と、苦言を呈す人もいるかもしれない。 でもね〜、どちらも根っこは一緒だと思うのです。うん。一緒。つまり、どこにも明文化されてはいないけど、他者との間にある暗黙のルールというか、倫理意識の低下なんじゃないか、と。「ちょっとひどくない?」と他者を不愉快にさせたり、「マジ?」と驚愕させる言動を、ごくごく普通に、何のためらいもなくする人たちが、あっちこっちに存在している。 ニッポン人の“野蛮化と幼稚化”とでもいうのだろうか。 そこで、今回は「野蛮化するオジサンと幼稚化する若者」について、あれこれ考えてみようと思う。 まずは、今の日本社会を予言している興味深い調査から紹介する。 「日本人の国民性調査」――。これは1953年以来、5年ごとに継続実施されている調査で、先月、2013年に実施した結果が公表され、新聞各紙では次のように報じられていた。 「親切」や「礼儀正しい」を日本人の長所として選ぶ人が、08年の前回調査から約20ポイント増え、70%を超えた。 「生活水準」について、「非常に良い」「やや良い」とした人の割合が61%となり、08年から12ポイント増えた。 今後の日本人の暮らしについて、「貧しくなる」(40%)が08年より17ポイント減った一方、「豊かになる」(23%)が12ポイント増加した。 「生まれ変わって、再び日本人になりたい」と考えている人は83%で、5年前の前回調査から6ポイント増加した。 「努力しても報われない」と考えている人は前回調査から9ポイント増加し、26%になった。 調査を実施している統計数理研究所が、前回との比較を報じているのでメディアではこのような取り上げ方になってしまうのだが、前述したとおりこれは1953年以来、ずっと行われている調査。日常的な場面における普通の日本人の態度や心情等について調査し(インタビュー調査)、日本人のものの見方や考え方の特徴と変遷を定量的に明らかにすることが目的であり、この調査最大の“ウリ”。要するに、長期的にデータを読み取って、はじめてこの調査が意味をなす。 で、いくつもの調査項目のうち、「暮らし方」と「大切なもの」に関する回答を見ると、1970年代頃から日本人の価値観が変わり始めた様子を伺い知ることができるのである。 調査が始まった1950年代。多くの人たちが「清く正しく暮らす」ことが大切だと考え、好ましい生き方のトップだった。だが、年々徐々に順位を下げ、1970年代に入ると「自分の趣味にあった暮らし」、「のんきに暮らす」が上位になった。 また、「一番大切なものは?」との問いには、調査当初、「生命・健康」がトップで、「愛情・精神」が2位。ところが、1970年以降は、「家族」と回答する人が急増し、トップになった。 特筆すべきは、これらの変化がどちらも1973年(昭和48年)までに起き、以後30 年間はほとんど動きがない点である。 自分と自分の周りだけよければいい? 清く・正しくよりも、自分の趣味やのんびり暮らすことが圧倒的に選好されるようになったことは、道徳や社会規範、倫理観が弱まり、自分のまわりの世界だけとの調和を保っていくことができればよいという考え方が、定着していったと解釈できる。 戦後は、誰もが生きることに必死で、生き残るには他者との満ち足りた関係が必要であり、他者との間に暗黙のルールというか、倫理というか、そういうモノが存在した。 ところが、だんだんと生活が豊かになり便利なものがあふれ、他者の力を借りなくとも生活できる自由が手に入った。倫理感なんていうと、えらく難しくなってしまうのだが、他者と協働のルールに従わなくても、生きていられる世の中になったのだ。 その結果、自分勝手な振る舞いを自立と勘違いする人や、「自分らしく生きて何が悪い?」という考え方を受け入れる社会が形成されていった。「自分らしさ」至上主義の登場である。 自分と、自分の大切な家族、自分の大切な友人……。自分と自分の半径3メートルの世界さえよければ、それでいい。この意識の変化こそが、昨今の“野蛮なオジサン”と“幼稚な若者”を量産している。そう思えてならないのである。 「……らしく」振る舞うことで、人は成長、成熟する そもそも人は、「個」としての自己を生かすことと、「他者」との関係性の中で自己を生かすことを統合的に探索するプロセスを経ることで、成熟する。 他者との関係性の中で自己を生かすとは、社会的役割を“らしく”演じること。「演じる=悪」というイメージを持つ人がいるが、人間が健康的に社会の一員として生きるには、演じざるを得ない。 新人らしく、学生らしく、上司らしく、部下らしく、先生らしく、リーダーらしく、父親らしく、母親らしく、年長者らしく……。それぞれの役割を“らしく”振る舞うためのスキルや能力を演じながら高めていくことで、それまで自分の内面になかった感情や考え方、道徳的価値観などが生まれてくる。それが、成長であり、成熟なのだ。 一方、「個」としての自己を生かすとは、自分らしさを磨くこと。ただ、どんなに自己を向上させても、「やってみなよ!」とチャンスをくれる人や、「一緒にやろう」と力を貸してくれる人がいないと、能力は発揮できない。「自分はこんなに力があるんです!」と豪語したところで、犬の遠吠え。自己だけを優先させると、まるで子どものように自己中心的な感情だけの幼稚な人間に成り下がる。 要するに、成熟した人間とは、自己と他者を分離するのではなく、逆につながりを強化していくなかで、自立した一人の人間として真の自分らしさを発達させることなのである。 上司を呼びつける 逆ギレする ルールを守らない 怒られると帰る 中間管理職の方たちを驚かせる“ウチの部下”たちの言動は、自己を優先した幼稚なもの。上司との関係性は自分には関係ない、と切り離した。 野蛮なオジサンたちも同じだ。お店の店員など、関係ない。「自分はちゃんとお金を払っているぞ。何が悪い?」。「お店の人」は人ではなく、モノでしかない。 野蛮化したオジサンも、幼稚な部下も、成熟した人間になりきれていないのである。 「グループ1984年」の警鐘 「グループ1984年」――。一昨年、話題になったので、この保守派研究者の匿名グループ(一人の研究者という説もある)を記憶している方も多いかもしれない。 彼らは1974年から3年間にわたって、日本の未来を案じ、警鐘を鳴らす、いくつもの論文を発表した。1970年代。前述した、日本人の意識に大きな変化が生じたのと、同じ時代だ。 論文では一貫して、「過去の歴史を振り返ると、あらゆる文明が外からの攻撃ではなく、内部からの社会的崩壊によって破滅する」という視点に立ち、とりわけ、古代ローマの滅亡の過程は、1970年代当時の日本の姿とダブるとした。人間の勝手さや弱さが、社会環境でどう変わるかを、辛らつに記したこれらの論文は、私自身、大衆心理や行動を考えるときの教科書とさせていただいている。 「思考力、判断力の全般的衰弱と幼稚化は、便利さの代償として生じている。現代人はこの便利な技術世界の中にあって、文字通り子どものように振舞っている」 この一節は、“ポン”とスイッチを押すだけで、パンが焼け、洗濯ができ、部屋が涼しくなり、タバコやジュースが買える、便利なモノの氾濫を嘆いたもの。 彼らは、こういった技術革新と、当時の日本に広まりつつあった悪平等主義、さらにはマスコミの発達による情報の氾濫が、「伝統的な様式意識を衰退させ、思考力・判断力を欠いた幼稚化した人間を量産する」と指摘したのだ。 その上で次のように説く。 「生活環境が温室化すればするほど、教育は人為的にでもきびしい挑戦の場を子供たちに提供すべきなのに、教育は過保護と甘えの中に低迷している。その結果、自制心、克己心、忍耐力、持続力のない青少年が大量生産され、責任感などを欠いた過保護に甘えた欠陥青少年が大量に生産されることになった」と。 ローマ時代から“野蛮化した上司”がいた これで終わってしまうと、ただただ日本の未来を嘆くだけの論文になってしまうのだが、「グループ1984年」は古代ローマの滅亡の過程を丁寧に探り、克服するための糸口を見いだしている。 たとえば、ローマ史上に残る暴君の一人であり、歴史家エドワード・ギボンから「人類共通の敵」とまで痛罵された、ローマ帝国の皇帝カラカラについて書かれたくだりは、示唆に富んでいて実におもしろい。 「カラカラの態度は、傲慢でもったいぶっていた。ところが兵士と接するときには、その身分から当然保たなければならない威厳まで忘れてしまい、兵士たちに無遠慮になれなれしくされることを喜び、大切な軍の統率者の任務をないがしろにして、一兵卒の服装や態度をまねた。そうすることが、部下の人気を得る最も容易な、かつ安価な方法だったのである」 なんとも……(苦笑)。 すでにローマ時代に、傲慢で、野蛮化した上司と、「マジすか?」とため口で返すなれなれしい、“ウチの部下”が存在したのだ。しかも、野蛮化した上司は “ウチの部下”のご機嫌をとるような行動をとっていた。 「うわぁ〜。まるでウチの○○部長じゃん! ウケる〜」と叫んでしまった人は少なくないに違いない。 「年上の世代は、いたずらに年下の世代にこびへつらってはならない。若い世代は、古い世代とのきびしいたたかいと切磋琢磨のなかにはじめてたくましく成長していく。やたらと物わかりよくなり過ぎ、若者にその厚い胸を貸して鍛えてやることを忘れるとき、若者はひよわな精神的なもやしっ子になるほかない」 グループ1984年は歴史の教訓から、このように警告したのだ。 倫理観の低下した子どもは野蛮化し、野蛮化したオトナが幼稚な言動を取り、ますます成熟できない若者を量産する――。なんだかややこしいのだけど、“野蛮化と幼稚化の魔のスパイラル”が存在する。 「おい!日本人。こんなおかしなことになってるんだぞ。このままだとニッポンは沈没するぞ!」――。そう彼らは言いたかったのだと思う。 ◇ ◇ ◇ と、こんな原稿を書きながら東京駅に到着。ちょっと一服していこうかとカフェに入ると、「マジ!」と唖然とする出来事に遭遇した。 ほぼ満席の室内で、唯一空いていた席に座ろうとしたら、コーヒーをもって立ちすくむ初老の女性に気がついた。なので、サッと立ちあがり、その女性に席を……と思った瞬間。 “ドカ”っと、その席に真っ黒いカバンが置かれ、「部長、こちらへどうぞ!」と、40代くらいの男性が手招きをした。 …………。 彼にとって、大事なのは自分と自分の上司。他者との関係性は関係ない。“ウチの部下”たちが成熟できないのは、幼稚な上司しか見たことがなく、成熟したオトナに出会ったことがなかったから。 「若者にその厚い胸を貸して鍛えてやる」には、オトナたちがまずは「自己と他者を分離するのではなく、逆につながりを強化していくなかで、自立した一人の人間として真の自分らしさを発達させる」ことを探索することが、先なのかもしれません。 このコラムについて 河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学 上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20141114/273839/?ST=print
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